第37話 水曜日、楽しみだな
サビーナは項垂れていた。
給湯室の一角は、きっと暗雲が立ち込めたかのように淀んでいることだろう。
いつもなら、セヴェリの毎朝のお茶を淹れた後は、騎士の鍛錬所の方に向かっている。午前の早い時間帯は来客がほとんどなく、仕事も少ないからだ。
だがこの日、サビーナは鍛錬所に行くのをためらっていた。
前日にラティエでデニスと会った時のあの顔が、忘れられなかったからである。
彼は怒っているに違いなかった。リックバルドにサビーナと食事に行くなと言われたというのに、そのサビーナはセヴェリと二人で食事に現れたのだ。デニスが怒るのも無理からぬことと言える。
しかし、デニスを傷付けた詐欺女と同列扱いされるのだけは我慢できなかった。傷つけてしまったのはサビーナも同じだとはわかっていたが、それでもサビーナの本心は迷惑だったなどとは思ってはいない。
確かにデニスの方がセヴェリに詳しく、自慢されるたびに悔しい気持ちになることは確かだが、それ以上に二人で語り合える喜びの方が大きかったのだ。それをどうにかして伝えたいとは思う。
でも……どうやって?
リックバルドのいる鍛練所では、そんな言い訳を伝えることもできない。そもそも、今さらセヴェリへの言い分を違えるわけにはいかないのだ。
セヴェリとは、今夜も一緒に出掛ける約束をしてしまっている。彼のことをデニスよりも知るという名目で、どうにか落とす算段をつけられるように。
なのに、迷惑ではなかったと撤回してしまえば、セヴェリと二人っきりで出掛けられるチャンスなどなくなってしまうだろう。謀反賛成派であるデニスに、セヴェリを惚れさせるためにあんな手段を取らざるを得なかった、とは説明できない。
でも、せめて迷惑とは思っていないと伝えたかった。きっとこれを言っても、ただの言い訳としか捉えられないだろうが。
サビーナは生温く気怠い息を、糸のように細く長く吐き出す。
デニスにどう言えばいいのだろうか。そもそも、これから二人っきりで会話をできることがあるのだろうか。考えれば考えるほど、頭が重くなる。
そんな風に眉間に皺を寄せながら俯いていると、突如入り口の方から声が上がった。
「おい、茶ァくれ」
爆破音でも聞いたように素早く振り返ると、白銅色の髪を持つ人物がそこに立っていた。驚いて目を剥いて確かめるも、その人物はまごうことなきデニスであった。
たった今、二人っきりで会話できないと思っていた人物がそこにいたのだ。喜びよりも驚きで頭が空っぽになる。
「休憩室にいっから。急いで頼むぜ」
「あ……うんっ」
返事以外はなにも言葉が出てこず、コクコクと首振り人形のように頷いた。
湯を沸かし、ティーセットを用意していると、徐々に鼓動が高まってくる。
サビーナは言われた通りに急いで準備を終えると、給湯室の隣にある休憩室に入った。この屋敷では一番小さな休憩室で、利用する者は滅多にいない。
中に入ると、そこにはやはりデニスしかいなかった。サビーナは少し気まずく、「お茶持って来ました」と蚊の鳴くほどの声で紅茶を差し出す。
デニスはそれを無言で受け取り、一口飲んだ後、刺すような視線をこちらに向けてきた。
「……納得いかねーんだよ」
まず最初に、彼は一言そう言った。一口飲んだカップを、無造作にソーサーへと追いやっている。
「俺、そんな迷惑なことしたか? 確かにほとんど毎日食事に誘ってたけどよ、それが嫌だったんならそん時断わりゃいい話じゃねーか」
「それは……」
「俺が班長だから断りにくかったか? だからって、リックバルド殿に言わせる必要はねーだろ。どうせ断られんなら、あんたの口からちゃんと直接聞きてぇよ」
デニスの言葉に、ふるふると首を小刻みに横に振る。デニスの釣り目はいつもよりキレがなく、どこか哀訴するようにサビーナを見据えていた。
どう説明すればいいのだろうか。セヴェリと二人で外出する理由を失わず、リックバルドにも文句を言われず、デニスを納得させる方法があるというなら、誰か教えてほしい。
「……俺、あんたといんの、結構楽しかったんだ」
無言のまま答えられずにいるサビーナに、デニスは独白の如く続ける。
「あんたがセヴェリ様のことを真剣に考えてくれてんのが嬉しかったし、ちょっと感動したんだぜ。真っ直ぐにセヴェリ様を生かすって言ってくれた、あの言葉がよ」
サビーナはハッとして顔を上げる。彼も同じことを考えてくれていた。
あの夜、デニスがセヴェリを守ると言った時、サビーナが感動したのと同時に。
彼もまた、心を揺るがす風が吹き抜けていたのだ。
「最初に食事に誘ったのは、同志がいるって思うと親睦を深めたくなったからだ。次はまぁ、怒鳴っちまった詫びに……だったけどよ。でもそうして何度もメシに行って話してるうちに」
デニスは唐突にそこで言葉を切り、真っ直ぐにサビーナに目を向けた。
「なんつーか……好きになりかけてたんだと思う」
彼は照れもせず、手垢一つ付いていない窓ガラスのような瞳で、サビーナにそう告白する。
最初、なにを言われたのかわからなかった。
しかしサビーナの胸は、トクトクと注がれる水のように徐々に細かく波打ち始める。
「えと……あの……」
「悪ぃ、まだハッキリとは言えねぇんだ。俺自身、この気持ちをちゃんと見極めてぇって思ってた。だからあんたを毎日メシに誘った」
「……うん」
「まだちゃんと答えを出せてねぇのに、俺をシャットアウトすんなよ。頼むから」
美形に哀願の瞳を向けられるとクラクラする。それでなくとも告白もどきをされて、血中の酸素は足りていないようだ。
動悸と酸欠で倒れそうになりながらも、サビーナは『落ち着け落ち着け』と自分に言い聞かせ、どうにか足を踏ん張った。
「おい、なんとか言ってくんねーか」
蟹のように泡を吹き出しそうなサビーナを、デニスは眉を顰めて見ている。
しかしどう答えればいいだろうか。ちゃんと告白されたわけでもないのに、付き合うとか付き合わないとかいう話を持ち出すのはおかしい。
かといって、『私も好き』だなどと言える状況にないし、そもそもサビーナにそんな感情はないのだ。
今少し鼓動が早くなってしまったが、それは生まれて初めて告白もどきをされたのが、超絶美形の男だったからに他ならない。
顔を見るたびにドキドキする男に告白をされれば、誰だってクラクラしてしまうはずだ。それは仕方の無いことのはず、だ。
「サビーナ」
「ごめんなさい!」
名前を呼ばれ、最初に出た言葉がそれだった。デニスが一瞬眉を下げたので、慌てて言いわけるように続ける。
「リックが勝手に、デニスさんにひどいこと言っちゃって、本当にごめんなさい!」
「勝手にってのはどういう意味だ? あんたは……」
「思ってません。迷惑なんて、そんなのぜんっぜん思ったことない」
と、言葉に出してからハッとする。さて、これからどう収拾つければ良いのだろうかと。考えなしで発言してしまう自分を少し恨みながらも、なんとか誤魔化すべく頭をフル回転させた。
「えーと、あの……迷惑とは思ってないんですけど、その……」
「んだよ。構わねーから言ってくれ」
「えーとえーと、その……リックがデニスさんと食事に行くこと、良く思ってないみたいで」
「リックバルド殿が、なんでだよ」
まさか、サビーナがセヴェリを惚れさせるために邪魔な存在だから、とはさすがに言えなかった。
「ああ見えてリックは過保護だから……」
「んーなの無視すりゃいいだろ? 保護者が必要な年でもねーじゃねぇか」
確かに、リックバルドがただ単に過保護でそう言ったのだったら、サビーナも無視を決め込んでデニスと食事に行っただろう。
しかし今回はそういう状況ではないのだ。デニスと食事に行くことを、これ以上誰かに知られるような状況になっては困る。
特にセヴェリに知られては、またデニスとくっつける方向に持ってかれるに違いないのだ。それだけは絶対に避けなければならない。
「でも、その……リックに逆らうって結構命懸けで。ほら、私たち兄妹って、真剣で喧嘩を始めちゃうから」
「あー、なるほどな」
そう言うと、デニスは呆れるほどあっさりと納得してくれた。どうやらこの線で丸め込めそうだ。単純で助かったが、もう少し人を疑うというこよを学んだ方がいいと思う。
「だから」
だから。
その後に続く言葉が、自分でも信じられないほどのことを、サビーナは紡いでいた。
「誰にも内緒なら、デニスさんとお食事に行けます」
そう言った瞬間、彼は驚いたように目を見開き、そして一等星のように明るく輝いた。嬉しそうに、並びの良い白い歯を見せて、無邪気な笑顔をサビーナに向けている。
デニスの姿を見て、サビーナは眩しいものを見るように目を細めた。実際にその笑顔は眩し過ぎ、そして可愛らし過ぎたのだ。
サビーナの胸の内から母性のような、それでいて無垢な天使を見る信者のような、そんな不思議な感覚が心に宿る。
「じゃ、今度は誰にもバレねーように、どっか行こうぜ」
「あ、でもそんなにしょっちゅうは……」
「ああ、そうだな。じゃあ、いつがいい?」
「来週の水曜くらいなら」
「わかった。じゃあ待ち合わせ場所は……あんたが轢かれそうになった大通りでいいか?」
なぜ轢かれそうになった通りで待ち合わせをするというのか。
そんな疑問を持ちはしたが、そこは突っ込まないでおいた。
あの大通りなら賑やかだし、危険はないだろう。飛び出すことさえしなければ、だが。
「わかりました。じゃあ、仕事が終わったらすぐに向かいますね」
「おう、俺もなるべく急ぐからよ。じゃ、戻んねーと。便所だっつって鍛錬抜けてきちまったからな」
そう言うとデニスは長い便所を終わらせて、急いで休憩室を出ていった。
サビーナはその後ろ姿を見送って、ホッと安堵の息を漏らす。
どうにかこうにか乗り切ったと言っていいだろう。
デニスとの仲は違わず、セヴェリともこのまま二人で出掛けることができる。
リックバルドには少々悪者となってもらったが、それは仕方がない。元々彼は悪役だ。
「……水曜日、楽しみだな」
誰もいなくなった部屋でポツリと呟いたサビーナの顔は、溢れんばかりの笑顔であった。
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