第36話 こんなとこ、絶対に入りたくないよー……
セヴェリは上機嫌で小劇場タントールを出た。満面の笑みでここを出たのは、恐らくセヴェリ一人だろう。
普通はホウッと儚く散っていきそうな甘い吐息で、今観た演劇に想いを馳せるものだ。今のセヴェリには、ようやく気兼ねなく笑えるという開放感しか感じられない。
「いや、面白かったですね。やはりリカルドの演技は最高です。そうは思いませんか?」
「はぁ、まぁ……あんな表情ができる人だとは、思ってもみませんでした」
「でしょう?」
「奥様も、とても綺麗な方ですね。なんていうか、清純派って感じの」
「ええ。演技でなくてもそんな感じの方ですよ」
リカルドの妻のルティアは、確かサビーナよりひとつ年上と聞いたが、もっと幼く見えた。老けて見えるリカルドと並ぶと、年の差は二十以上あるように見える。
「ところでサビーナ、さっきの劇のラストは、どうなったのですか?」
そう問うセヴェリに、サビーナは横目で答える。
「……知りません」
「え? 見ていなかったのですか?」
「セヴェリ様がずっと笑ってらっしゃるから、集中できなかったんですっ」
「ああ……それはすみません。明日、リカルドにでも聞いておきましょう」
サビーナが口を尖らすと、セヴェリは少し困った表情を見せて笑った。
そして彼はポケットから懐中時計を手に取ると、細やかで美しいハンターケースを開けて時間を確認している。その時、アデラオレンジの種が入った小瓶に当たったようで、カカカと微妙な音を立てていた。
「七時半ですね。どこかに食べに入りましょうか」
セヴェリがそう言った時、周りにいた婦人たちがこちらを見て「セヴェリ様だわ」と話しているのが耳に入ってきた。サビーナはハッとして声を上げる。
「セ、セヴェリ様」
「どうしました? サビーナ」
振り返ったセヴェリに、サビーナは目を合わせることができずに小声で伝える。
「あの、私と二人で食事というのは、良くないのでは……」
「なぜです?」
「セヴェリ様の婚姻の日が決まったというのに、他の女と食事に行ったなどという噂を立てられては、セヴェリ様のお立場が……」
「 大丈夫ですよ、あなたは騎士の格好をしていますし、私は護衛騎士と何度も一緒に食事をしています。誰も気になど止めませんよ」
「そういうものでしょうか……」
「気になるなら、次回からは変装でもして出掛けますか。とりあえず、今日はこのままで構わないでしょう」
あまり納得はいかなかったが、セヴェリがそう言うなら仕方がない。
そうして連れていかれた先は、とんでもない高級料理店だった。どどーんと立ちはだかる魔物さながら、サビーナは天までも見上げる思いだ。
「行きましょう」
「え、ちょ、無理ですっ!!」
サビーナは思わずグワシとセヴェリの腕を掴んだ。こんな高級料理店などとんでもない。たかだか十六歳の小娘が利用できる店ではないことは、一目で分かる。
「食事をするだけですよ?」
「私みたいな子どもが利用するところじゃないですーっ」
「そうですか? 私は幼い頃から利用していますが」
高位貴族と一般家庭を一緒にしないでもらいたい。こんなところだと食事のマナーもうるさそうだ。仕損なって恥を掻くのが自分だけならいいが、セヴェリも同じ目で見られてしまうだろう。彼の品位を地に落とすような真似だけはしたくない。
「あの、私はここで待っていますので、ごゆっくり飲食なさってください」
こういうところならセキュリティーもしっかりしているだろうから、一緒に中に入る必要はないはずだ。そう思って提案したのだが、冬の突風のような大きな息を吐かれてしまった。
「サビーナ。あなたはなんのために私についてきたのか忘れたのですか? 私という人物を、デニスに負けないくらいに知るためでしょう?」
「う……その通りです」
「それでもここには入りたくないと?」
「す、すみません……」
情けない理由で断ってしまい、サビーナは身をすくめる。
きっとシェスカルやリカルドならマナーなど完璧で、入るのをためらったりはしなかっただろう。キアリカとサイラスも、適度な教養は身につけていそうだ。リックバルドとデニスは物怖じしない上、多少のマナー違反があったところで気にするような性格ではない。
しかしサビーナのような平凡小娘に、こんな高級料理店は分不相応過ぎるというものだ。
こんなとこ、絶対に入りたくないよー……
サビーナは冬眠するヤマネのように縮こまって、目だけをセヴェリに向けた。その視線を受けて、セヴェリはやれやれというように嘆息している。
「……仕方ないですね。では、サビーナでも気兼ねせず入れるお店に行きましょうか」
「あの……本当に申し訳なく……」
「私の知り合いのお店でも構いませんか? 彼女が独立してから数度しか行ったことがなかったので、たまには様子を見てきましょう」
セヴェリは、サビーナの謝罪の言葉を遮るようにそう言った。
「彼女?」
「マーサという、元はオーケルフェルトの厨房を取り仕切っていた女性ですよ。屋敷の厨房だと一人一人に寄り添えないからと、七年前に独立しましてね。久しぶりに彼女の料理が食べたくなったのですが、そこでもよろしいですか?」
もちろんサビーナに断る理由などなく、了承する。一人一人寄り添えるお店とあらば、そんなに大仰なところではないはずだ。
先を行くセヴェリについていくと、なんだか見覚えのある路地に入っていく。
あれ? もしや? と思うと、案の定だった。小さなお店の入り口には、『ラティエ』という看板が掲げられていた。
そう、デニスと初めて食事に来た時に利用したお店だ。あの後も二度ほど利用していた。もちろん、デニスと一緒に。
「ここですよ」
そう言ってセヴェリはなんの躊躇もなく中へと入っていく。
サビーナもここなら入りやすいのだが、なんとなく嫌な予感がして恐る恐る足を踏み入れた。
「おや! セヴェリ坊っちゃまじゃないですか!」
おばちゃんこと、マーサが声を上げた。彼女は手に持っていた料理を下ろすと、目がなくなるほどの笑顔をセヴェリに向けている。
「久しぶりですね、マーサ」
「まぁまぁ坊っちゃま! 大きくなって、あたしは感激しましたよ!」
「前回来た時から変わっていませんよ」
「いいえいいえ、オーラが大きくおなりで! あたしにはわかるんです!」
「オーラ、ですか」
よくわからないものを指摘され、セヴェリは少し苦笑いしている。
「さぁさ坊っちゃま、お好きな席へどうぞ! おや、今日はサビーナは坊っちゃまと一緒だったのかい」
マーサの言葉に、セヴェリがこちらに振り返る。サビーナはドキッとして鈍い笑顔を向けた。
「おや、サビーナはこの店に来たことがあったんですね」
「ええ、まぁ……」
サビーナは、少し目を逸らしながら答えた。デニスと来たとは言いづらいし、言いたくない。もしかしたら気付かれているかもしれなかったが。
マーサはその気配を察したようで、セヴェリにはなにも言わないでいてくれていた。
そしてセヴェリが席に着くべく、店内の奥を見たその時。
「ああ、デニスも来てたんですか」
デニスという名前に反応して、体が勝手に硬化する。セヴェリの後ろから覗くように見てみると、確かに一番奥の席に、デニスが一人で不機嫌そうにこちらを見ていた。
サビーナはヒイイと叫びたいのを我慢して、セヴェリの背中に隠れようと無駄な努力をする。そんなサビーナの気持ちを知ってか知らずか……いや、おそらくセヴェリはわかっていながら、デニスの元へと足を進め始めた。
この人は基本、人をからかうのが好きなのだ。きっと今も悪いクスクス笑みを浮かべているに違いない。
「不貞腐れてますね。なにかあったんですか?」
そうすっとぼけるように言いながらデニスの隣に座るセヴェリ。本当に勘弁してほしいと思いながらも、仕方なくセヴェリの隣にそっと座る。
デニスはリックバルドに言われたことを、どう受け止めてしまっているだろうか。
しかしセヴェリの前では言い訳のしようもなかった。セヴェリには迷惑だという方向で話を進めてしまっているのだから。
デニスはやはり不機嫌にセヴェリを見ている。
「……なんでサビーナと一緒にいるんすか」
「おや、私がサビーナと一緒にいてはいけませんか?」
「別に」
デニスはプイとそっぽを向いて、酒を煽る。サビーナはなにも言えずにハラハラしながら見守るしかなかった。セヴェリがおかしなことを言わないよう、心の中で祈りながら。
「デニスは女性にモテるというのに、一人で食事ですか? 寂しいですねぇ」
相変わらずのクスクス笑い。デニスは主であるセヴェリに目だけ向けて、思いっきり睨みつけている。
サビーナの額から、嫌な汗が流れた。フォークを持った小さな悪魔が、サビーナの胃の中で暴れている気がする。
もうそれ以上なにも発言しないでくれと真剣に願ったが、そんな願いがこのセヴェリ相手に叶うわけもない。
「ああそれとも、どなたかに振られて一人で食べに来たのですか? それだけ顔が良くても振られることなどあるんですね」
セヴェリの言葉が終わると同時に、海の潮が引いていくかのようにデニスの顔色がサァッと変わっていった。
「ありますよ。どうせ俺は顔だけの、詐欺女に騙される男ですから。おばちゃん、お勘定!」
湿度が百パーセントを超えているのかと思うほどのイライラした様子で彼は支払いを済ませると、「失礼します」と後ろを通って出て行った。サビーナになど、一瞥もくれずに。
彼が出て行くのを首だけで見送ると、セヴェリが困ったように……しかし口だけはわずかに微笑んで言った。
「少し、しくじりましたね。本気で怒らせるつもりはなかったんですが」
だから言ったのに、とサビーナは心の中で思う。実際には口に出していなかったのだが。
しかし。
どうせ俺は顔だけの、詐欺女に騙される男ですから。
その言葉を反芻し、サビーナは唇を噛み締めた。
デニスには、サビーナもそんな女に見えてしまっていたということだろうか。
小さな悪魔は胃だけでなく、サビーナの胸もグサグサとフォークで刺しているのかもしれない。
それがあまりに苦しくて、美味しいはずのマーサの料理の味を、なにも感じることができなかった。
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