第35話 悪いお顔ですね、セヴェリ様……
外に出ると、夕暮れ時は過ぎ去っていた。日が落ちるのが早くなっている。
少し肌寒く感じたが、我慢できないほどではない。風もなく、雲もない、いい夜だった。
街の中はまだまだ明かりが煌々としていて、レストランはたくさんの人で賑わっている。
「お腹が空きましたか?」
レストランの方を見ていたせいか、そう問われた。
「いえ。私は大丈夫です。セヴェリ様は?」
「今日はイール卿との会食が長引いて、まだお腹は空いていないですね。食事は用が済んだ後でもよろしいですか?」
「え? は、はい、もちろんです」
サビーナは驚きながらも返事をした。どうやらセヴェリは、晩御飯を一緒に食べるつもりらしい。
リックバルドの話によると、セヴェリは騎士と共に食事をとることもあると言っていたが、サビーナはセヴェリと二人で食事など初めてだ。少し楽しみである。
「まずはそこに入りましょう」
セヴェリが指さした場所は、小劇場だった。看板には『タントール』と書かれていて、初めて聞く言葉に首を傾かせる。
「タントールとは劇団の名前ですよ。タントール専用の小劇場ということです。中に入りましょう」
中に入るとすぐにチケット売り場があり、そこでセヴェリが二枚買い求めている。そして売り場の奥の扉を開けると、観客席と舞台があった。入り口こそ小さかったが、中は意外と広い。席も半分くらいは既に埋まっていて、サビーナたちの後からも続々と入ってきているようだ。
実はサビーナは、観劇は初めてである。劇場独特の雰囲気にわくわくする。
「前から三列目の席ですよ。一列目の方が、リカルドの表情がよく分かって面白いんですが。私がいることがバレると、彼はいい顔をしませんのでね」
セヴェリは嬉しそうにニコニコとしている。リカルドをからかうネタができるのが、そんなに嬉しいのだろうか。
二人は三列目の少し左寄りに席を取り、椅子に腰掛けた。上演まではもう少し時間があるようだ。
「セヴェリ様はここへよく来られるのですか?」
「そうですね。よく、というほどではありませんが、無表情のリカルドを見飽きた時に来ます。今作は彼が主演だそうで、ぜひ見てみたいと思っていたのですよ」
「へぇ……リカルドさんが、主演……」
「惚れてはいけませんよ? 彼には奥方がおりますから」
クスクスと笑うセヴェリ。まったく笑えない冗談に、サビーナは苦笑いするばかりだ。
しかし、とサビーナは周りを見回した。
先ほどよりも多くの客が入り、さわさわという人の囁くような話し声が、徐々に大きくなりつつある。大盛況、とまではいかずとも、かなりの集客率だろう。
「凄いですね。アマチュアに専用の小劇場があるとは思ってなかったです。結構人気があるんですか?」
「アマチュアですが、セミプロと言い換えてもいいかもしれませんね。チケットもそれなりの値段はしますし、劇団の皆さんは本業が別にあるというだけで、かなりの本格派ですよ。公演は夜だけなので、そのレア感がこれだけの客を呼ぶんでしょうね」
セヴェリはそう言いながら、手元のパンフレットをサビーナに渡してくれた。
見てみると、主演男優の欄には確かにリカルドの名前が書いてある。そしてその相手役の名前には、ルティアという名前があった。もちろん、サビーナは初めて見る名前だ。
セヴェリは横から覗き込むと、サビーナの手元のパンフレットを指差し、実に面白そうに言った。
「ルティアがリカルドの奥方ですよ。どんなラブシーンを演じてくれるのか、楽しみですね」
クスクス笑う顔はいつもよりほんの少し意地悪だ。セヴェリは明日、妻とラブシーンを演じたリカルドをからかうつもりに違いない。さすがに少しリカルドに同情する。
「ああ、ようやく始まりますね」
場内を照らしていたランプの光が、スタッフによって徐々に消されていく。
そしてかなり薄暗くなった時点で幕が開いた。ポツポツと降り始めの雨のように打ち鳴らされていた手の拍子が、徐々に大きくなって全ての幕が開く。
明るい舞台の上に、リカルドが一人立っていた。彼は開幕の拍手が終わると同時に動き始める。普段からは考えられない、星でも抱えられそうなくらいの、とても大仰な仕草で。
「私はこの地を統べる王。富と名声。肥沃な大地。跪く人民たち。すべてが私の思う通りだ。しかし、足りない。まだなにかが……この虚空なる胸の内、誰かわかってくれる者はおらぬのか!」
一度リカルドの台詞が切れた時点で、サビーナは隣のセヴェリを見上げた。
信じられないものを見てしまった。一瞬でクルクルと変わる表情はなんなのか。あの能面顔はどこに置き忘れてきたのかと突っ込みたくなる。
セヴェリもこちらを見て、『面白いでしょう』というように、口も目もニマッと弧を描いていた。
悪いお顔ですね、セヴェリ様……
サビーナはその顔を見てハハと声なく笑い、また舞台に目を戻した。
劇の内容は古典的なもので、すべてを手に入れた若き王の孤独を描いた作品だ。
王は一人の町娘と出会い、彼女を蔑視しながらも、いつしかその優しさや健気さに吸い寄せられるかのように愛するようになる。王は周りの反対を押しのけて、その娘を妻とする。
「私の妻となる者は、お前しか考えられないのだ」
「しかし、宰相様がなんとおっしゃるか……」
「宰相など怖くはない。ただ、お前が私の手の中からいなくなることが……怖い」
「陛下……わたくしも、同じ気持ちです」
王と娘は……もといリカルドとルティアは互いに顔を寄せ合い、熱い口付けを交わした。それは一度だけでは終わらずに二度も三度も繰り返され、客席からピュウゥゥウッと指笛を鳴らす者さえ出てきた。
サビーナはと言えば、目のやり場に困って俯き、目だけをキョロキョロと忙しなく動かす。
ふとセヴェリを見上げると、いつものクスクス笑顔で二人のラブシーンをジッと見つめていた。明日彼がリカルドをからかう時には、一緒にいたいなと思ってしまう。
二人のラブシーンがようやく終わると、物語は劇的に進んでいく。王が宰相に裏切られ、斬られそうになったところを、妻が庇ったのだ。妻は息も絶え絶えになり、王に抱き締められる。
「嗚呼っ! どうして私などを庇ったのだ! お前がいなければ、生きていても無意味だというのに!」
「そんなことを仰らないで……あなたは、この国にとって必要な人……あなたのために死ねるのならば、わたくしは……」
「死ぬなどと言うなっ!! 必ず、必ず、私がお前を生かして……っ」
サビーナの瞳から、ポロリポロリと涙が流れ落ちる。客席からはズズッっと鼻をすする音が上げられ、ハンカチを取り出す者が続出だ。
隣を見ると、セヴェリは舞台から目を逸らすように俯き、肩を震わせている。泣いているのだと気付いて、サビーナは素早く己のハンカチを差し出した。
「セヴェリ様、これをお使いください」
小声で言いながら渡そうとすると、それを拒否するように手のひらで押し返して来る。
「ック、今は……っぶ、話し掛けないで……ック!」
ぎょっとして見ると、なんとセヴェリは笑いを噛み殺していた。
一体この悲しみにくれるシーンのどこに、笑いのツボが潜んでいたというのか。さすがにこの場面で笑い声を上げられないとわかっているようで、セヴェリは可哀想なほどに肩を震わせて我慢している。
少しは楽になるかと思って、サビーナは彼の背中を何度も撫でてあげた。結局セヴェリは最後まで笑い通しだったのだが。
そんなこんなで、サビーナの人生初の観劇は幕を閉じたのだった。
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