競技場。跳んで身体を青に染めて。
「試技順5番、3106戸田さん」
「はい」
アップを止め、Tシャツを脱ぎ、紺色のユニフォーム姿になる。胸に書かれた
──今日こそ勝つ。
待機テントの外は風が無く、日陰から出れば直射日光がチカチカと眩しい。後ろに控える山から聞こえるうるさかったはずの蝉の声も、トラックを走る3000メートル走の声援も何処か遠くに聞こえた。27.5メートル先の景色は
日焼け止めと制汗剤が混じった匂い。前髪を貼り付ける汗ですら今は心地よい。
うん、今日は跳べる。絶対に。
「いきます」
走り出して勢いのままに跳んだ。
踏切の瞬間、空中姿勢。コマ送りの世界に飛び込んだように0コンマ数秒がよく見えた。
高く、軽やかに。
着地をしても、身体を包む残った空への浮遊感。
「4メートル25」
記録係の声でハッとする。自己ベストだ。
ふわふわとした感覚で砂場を後にすると肩を叩かれた。
「自己新おめでと!」
「向井さん! テントに戻って無かったんですか!?」
「折角だから砂場の脇でツバサちゃん見てた」
「ありがとうございます。記録どうでした?」
ニコッと笑ってブイサイン。
「28」
「……あと3センチ」
届きそうで届かない。この距離がやっぱりもどかしい。
「まだ5本あるよ! 頑張るんだ!」
「5本ってふたりで決勝行く予定ですか……」
「ちっちゃい大会だから4メートル行ったら決勝は確実だヨ」
「そーですねー」
2本目は二人とも自己ベストを更新出来ず、4メートル15と09。
昨日と違って記録は良く更新していかないのだろうか。いつも通り向井さんはアドバイスをしてくれるけど、約20センチ記録が短くなる理由だとも思えなかった。
助走のスピードは? 腕の伸びは? 振り上げた足、背中の反らせ具合は? ぐるぐると考えるけども改善点が見つかりそうで見つからない。
カンッ、と足の裏に音が響いて。
さっき空は、何色だった?
「向井さん、自己ベのプレッシャー的な感じですかね」
ふるふると首を横に振られる。
「肩の力抜こう。ほら、あなたはツバサちゃん!」
バシッと背中を叩かれる。
答えになっていない。それでもあなたがそう言うなら。
「そうですね。私はツバサちゃん、ですもんね」
ジンジンとする背中。真っ直ぐに伸びた気がする。
後悔する時間より、自分の跳躍に自信を持って。大丈夫。きっと次に見上げる空は青いんだ。
「ちょっと飛んでくるからよく見ていて」
3本目の試技。テントの中から見えた後ろ姿。
いつものようにゆっくりとリズムに乗って、加速が始まる。競技場の地面、赤いタータンのゴムを蹴って、ラスト一歩は短く。真っ白な踏切板からはカラッとした高い音が響いた。
──
そんな言葉が相応しい。
緩く弓なりに身体が反って、着地までの時間で静止画を見た。悔しいが二年間隣で見てきた中で一番きれいな反り跳びだった。
砂場の横の記録板の文字が書き変わる。
先頭の表示は4メートル32センチになった。
ああ! 負けていられない!!
気合いを入れ直すように胸を叩く。
「いきます!!」
もっと高く、遠くに。近付いたら近付いた分だけあなたは離れてしまうから。私が跳んでいるのはまだ「空」で、もっと遠くに行かなきゃ追いつけないんだ。手を伸ばして早く私も「飛びたい」の。
カンッ!!
この音はきっと地上から離陸した音。
「ツバサちゃん、今日の調子いいね」
「向井さんに勝つまでは下手な記録出せないので」
「5センチ差は向井サンも焦るよ?」
「私が優勝で向井さんが準優勝の未来にしますね」
「決勝で5メートル跳ばないとツバサちゃんには無理かなー?」
「32より跳んだことない人が5メートルとか言っちゃダメですよ。県大会とかのレベルの記録じゃないですか……」
「世界記録出すから……」
「オリンピックの幅、今頃じゃないですか? 中継入ってるのに飛び入り参加しちゃうとか良いと思いまーす」
「うぐっ、でもでも! 日本の! しかも新潟県の田舎の競技場で10メートルとか跳んだらカッコイイでしょ?」
がんばれば本当に出来そう、みたいな熱量で話すからこの人には一緒敵わないと思ってしまう。
できっこないを知らないような。そんな所が大好きだけど、これはこっそり胸に閉まっておく。
「大ぼら吹きの向井さんは跳んでる時以外はかっこ悪いですよね」
「え、地味に傷ついた」
わざとジト目で言えば小学生並にしょげる。
「ごめんなさーい」
ふたりで顔を見合せて笑い合う。
こんな和やかな時間があってもいいでしょ。
最後の全助走対決。最後の大会。先輩の引退試合。現実なんて見たくないから笑ってたいんだ。
決勝に残っていなければ3本目の試技で終わり。夏も終わってしまう。記録板に自分のナンバーは書かれてるけど、呼ばれるまでは確定じゃない。
選手名簿を持った男性の年配係員が決勝の選手と試技順の発表を始めた。
「試技順3番2710向井さん、試技順5番3106戸田さん、試技順7番………。以上8名は準備を始めて下さい。残りの皆さんはお疲れ様でした」
良かった。ほんとに4メートル跳べたら決勝行けた……
隣に座る向井さんはニッコリ笑って「全助走対決は残り3本だよ」とタイムリミットを告げる。胸が苦しいのはきっと暑さのせいだけじゃない。
「一番だからさ、行ってくるね」
名前を呼ばれて向井さんは助走位置についた。
「いきます」
跳ねるような向井さんの助走。
全ての体重を右脚に込めて踏切。
高く、高く
──かっこいい。
──向井さんに追いつきたい。
──あの人のように跳びたい。
「いきます!!」
空に吠える。
あなたに勝ちたい。
もっと速く、もっと高く、もっと遠くに!
向井さん、先輩、あなたはあの日から。今日もずっと私の目標だから!
カンッ──
「ねぇ、てのひら出して」
「え、何でですか……」
じわじわと気温が上がり、蝉の声が一際大きく聞こえる。そんな中私たちは6本目の試技をむかえようとしてた。
「いいから早く! 8人しか居ないんだから順番回ってきちゃうでしょ」
しぶしぶ右てのひらを出すと、向井さんはキュポンと油性マジックのキャップを開けた。
「何するんですか、?」
「いーから! オマジナイだよ」
ペン先が触れたところがこそばゆい。
てのひらいっぱいに書かれたオマジナイ。
『空』
──毎日見ているのに、一生かかっても手で触れないもの、なぁーんだ。
「……ここで答えるとかさぁ、向井さん、花丸あげますよ。大正解過ぎます。満点です」
ふふふ、と向井さんは笑っているだけだ。この人にはやっぱり
「全助走対決、最終勝負。がんばれそうデショ」
「とっても」
「私にもオマジナイ書いて」と手渡されたマジック。同じ文字を自分の右手のモノみたいに大きく、てのひらいっぱいに書いた。
向井さんは『空』の文字をまじまじと見て満足気に笑った。
「今なら届くよ。今日は手で触れることができる」
私の手から握っていたマジックを抜き取り、てのひらを広げ、お互いの『空』を重ねた。
「ね? 私たち飛べるんだよ」
いってきます、と言った彼女の背中がそのまま大きく飛び立った。
おそろいの右手のひらのオマジナイ。
日向に出て真っ直ぐ手を伸ばして、そのまま空を見上げる。
眩しくて、キラキラで、いつもよりずっと高くて、そしてどうしようもないほど近い。
大きく深呼吸。胸の路風の文字をもう一度右手で叩いてギュッと目を瞑る。上体を腰からやや後方に倒して手を伸ばして、ゆっくりと目を開ける。
青い。
きっと今なら。
「いきます!!」
『空』の向こうへも飛べるはず。
身体が青の一部になる。
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