グラウンド。スパイクからは夏の音。
「つーばーさーちゃん、センパイと一緒に全助走対決しなーい?」
全助走。公式戦で跳ぶ時の助走距離を指すけれど、私は半分より短めの短助走で跳ぶ方がすき。長いんだもん。
でも、全助走対決は嫌いになれない。学校のちっちゃな砂場が大きく見える。大会みたいに全力で先輩と競えるのだから。練習だから、って私も先輩も手を抜けない。
「もちろんです!……今日は何本ですか?」
にしし、と八重歯を覗かせて向井先輩は笑う。嫌な予感しかしない。
「決まってるじゃん」と言いながら握っていた右手をばっと開く。
「……5本勝負ですか」
「そだよ? グラウンドでの練習は今日が最後だからね」
「えー、後半疲れるじゃないですか」
「えー、とは何だ!? 先輩に向かってその口のききようは! 一年生がマネしちゃうでしょ」
「去年から先輩と私しか女子の幅いないじゃないですか……見てるのイッセーくらいですよ。私に後輩いませんよ」
あきれ口調で適当にあしらってみる。
こんなやり取りもきっと今日までなんだ。
隣りで土をならす同級生、加賀一成は「相変わらず仲良いなー」なんてのんきに笑っている。人の気も知らないで!
むぅ、と頬を
私はゆっくりと踏切板の横に立つと、向井さんは左足をマーカーに合わせて準備を終えていた。
「ツバサちゃああん! 問題出すの忘れてたあ!!」
イッセーと顔を合わせて同時に吹き出す。
「今日はなんですかー!?」
「心理テスト! 水曜日って聞いて思い浮かぶの誰!!」
「考えます!!」
イッセー、今日がグラウンド練ラストだよ?
それなのに。いつもと変わらないんだよ、この先輩は。
向井さんの問題もこれまでかも。
鼻の奥がツンとした。
視線が交わる。真っ直ぐに挙げた右手を審判の旗に見立てて振り下ろす。
「いきます」
快晴の夏空の下、声が響く。歩くような速さから砂場に向かって加速する。短距離選手とは違うリズミカルな走り。スピードに乗って広くなった
カンッ、高い音。飛んだ。
短い髪が揺れる。胸を反り、両足は前に放り出す。かかとから砂の中を滑るように着地。
「今日も向井さんはきれいですね」
砂場の少女はぺたりとお尻をついたまま
「ツバサちゃんの師匠だからね」
よいしょと立ち上がり、トンボの先で着地点を記録する。
「引退するまで先輩は負けられないんだよ」
顔は笑っていながら声だけは泣きそうだった。
「向井さんの引退前に全助走対決勝ちます」
「今日入れてあと10本くらいだヨ」
見えない先輩を追うだけの一年は寂しいので、の言葉は胸の内に閉まった。
「次は私の番ですね」
土の感触を確かめながら24.5メートルを指すオレンジ色のマーカーまで歩いた。メジャーの終着点で向井さんが右手を挙げていた。呼応する様に右手を挙げ、上体をやや反らす。
「いきます」
サクリ、サクリとスパイクのピンが乾いたグラウンドに刺さる。
どれだけ走れば向井さんに追いつける?
何回跳べば向井さん、あなたの記録をこせる?
考えてたって答えは出ないんだ。今日も私は真っ直ぐに前を向いて走るだけ。ピッチを上げて加速して。ほぼトップスピードで風に乗る。
イマ、ここ。
カンッ!!
右足。白い板を思い切り踏み込む。
足の裏がビリビリする。ふわりと身体が空に浮かぶ。
青い。
あの春の日よりもずっと。
空が高い。
ザッと足に砂がかかって地上に引き戻される。
もっと速く走れれば。高く跳ぶことができたなら。
視線を足元に向けると、自分の着地点より先に歪に線が引かれていた。
「向井さん、遠いですね」
「引退するまでは、だよ」
眩しい。届きそうで届かない。
手を伸ばせば触れることができるだろうか。見上げたあなたの顔は逆光だ。背景の青が鮮烈だった。
立ち上がって一足分短い記録に線を引く。
「よんめーとる、跳んでない…かな? 90前後」
もっと跳べた気分だったんだけど。うん、まだ一本目。
「踏切位置はどうでしたか」
「ばっちり。ど真ん中だったし、リズムよかったけどラスト一歩もうちょっと縮められたらいいかも」
淡々と要点を伝えてくれる。どこが良くて、改善するにはどうするか。普段はあんなだけど走幅跳にはびっくりするほど真剣。そんな姿も私の憧れ。
「イッセーくん的にどうだった?」
「俺っすか? いつもより高かったなーって思いました」
「よく見てんじゃん。ナイス」
「ありがとうございます!」
イッセーにしっぽと耳が見える。向井さん大好きか。
「跳んでおいで」
「はい!!」
るんるんで助走位置に向かう背中を見送る。きっと今日はよく跳ぶだろう。
「ツバサちゃん、答えは出たかい?」
最近はなぞなぞブームだったのに。
最後だからって特別な問題を用意してくれたのかしら。
「いいえ。まだです」
目を細めて助走レーンを見る。
私より丁度10センチ高い少年が走り出す。
スパイクの足跡が増えていく。グラウンドに足音が響く。短距離選手より早く100パーセントが出てしまうんだ、っていつだったか教えてくれたっけ。
カンッ。
踏切板を蹴って、胸を反らして四肢を投げる。
高さも飛距離も一番はイッセーだ。
それでも、彼が跳ぶ瞬間も
「向井さん」
あなたを重ねて見てしまう。
揺れる髪、しなやかに反る身体、キラリと輝く瞳。
水曜日。思い浮かぶ人だぁれ?
いつもより少しだけ部活を長くできる水曜日。
少しだけ早く向井さんに会える水曜日。
なぞなぞを一問だけ多く解ける水曜日。
「向井さんは水曜日」
「え?」
「心理テストです。水曜日は向井さん」
「あ、俺も! 俺も向井さん!!」
パンパンと砂を払ってイッセーは立ち上がって言った。
「……二人とも私でいいの?」
じわじわと赤面して、両手で顔を覆った。
「……こうなりたいとおもってる、あこがれのひとぉ」
砂場の隅にしゃがみこんで小さくなっている向井さんは、消えそうな声で「ありがとぉ」と言った。
私とイッセーはやっぱり顔を見合わせて吹き出した。
「……イッセーくん、次、爪先若干ファウルするかも。助走合わせようとしなくていからそのまま走って。あと、空中姿勢めっちゃきれいになって、いい反り跳びできてた……」
いつもより声がちっちゃくて、早口で、それでも丁寧で。
私でいいの? と不安がっているあなたがいいんです。
憧れてしまったのはあの日からずっと向井さんだから。
「イッセー、空、青く見えた?」
「今日はまだ。きっともっと高く飛べるはずなんだ」
グラウンドの端っこ。小さな砂場で残り4本。ジリジリと真上に向かう太陽は、残りの時間を急かしているようだ。
お願い。まだ昇りきらないで。終わりたくないの。
夏季休暇中は暑くなる前の午前中が活動時間だ。今ばかりは熱中症対策に躍起になってる大人が憎い。そんな大人の事情いらないの。私たちは今しかないのに。
「向井さん、私もなぞなぞ出しますね」
「めずらしー」
まだ耳がほんのり赤い向井さんは、しゃがんだまま上目遣いでこちらを覗いていた。
「毎日見ているのに、一生かかっても手で触れないもの、なぁーんだ」
それはきっとあなたみたいな。
私が手を伸ばして触れたくて仕方ない、そんなもの。
「部活終わるまでに答えてくださいね」
短い髪をふるふると揺らし、しゃがんだ姿勢がゆっくりと立ち上がる。砂場の向こう側に悩む先輩の背中を見送って、私は真っ直ぐに手を空に伸ばした。
ああ、やっぱり眩しい。視界が全部青になりそう。指先からジンジンと熱で火照って、汗が滲んでいく。もういっそのこと私を溶かしてくれたらいいのに。
ギュッと目を瞑り、ゆっくりと開く。
向井さんは助走位置について右手を挙げていた。私も伸ばしたままの右腕を下ろす。
「いきます」
凛とした声。風に乗ってグラウンドに響く。
スパイクの足音は軽やかな夏の音。白い踏切板を蹴って、舞い上がる。
手を伸ばせば背中に触れることができるだろう。そうじゃないんだ。そんな簡単なことじゃない。
「……おれ、答えわかったわ」
イッセーは目を細めて短距離を走る同級生たちを見ていた。
後輩にスタートを出してもらって3人で100メートルの加速走。何本目なのかは分からない。白線上を転がるようにゴールして、遠目でもわかるくらい笑いあっている。
「すっげぇ眩しいよな」
イッセーは目線をずらして真上を仰いだ。
「青い」
きっとそれは彼も手を伸ばしたもの。
毎日見ているのに、触れられず、ずっと遠いもの。
憧れに似た、何か。
あの「空」に向かって私たちは助走をする。
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