青

見上げた空は青かった

つばさ

　左足をマーカーに合わせる。白旗が下がったと同時に右手を挙げ、上体を腰からやや後方に倒す。目を閉じて息を吸う。

　いつもより視界がクリアだ。

「いきます」

　ふっと息を吐いてスパイクで陸上競技場の赤い地面を蹴る。いつも通り２４．５メートル先の踏切版を目指して走る。最後の三歩はリズムよく。イチ、、ニッ、サン。

　カッと白い板を蹴る時、子気味良い音が右足の裏から伝わる。膝を上げる。上半身を反らせ、腕は背中から前へ。斜め上に目線を。

　空が青い。

　一瞬、一秒にも満たない時間だが、跳んだ瞬間は空が見える。白い踏切版を蹴って、足が砂場に着くまでの間に。そんな時、走幅跳は「跳べた」が「飛べた」に思えるのだ。

　――宙（そら）を翔（か）ける。

　かかとから勢いよく着地。

　バッと白旗が振り下ろされる。

　髪が汗で額につく。首筋を伝う汗をユニフォームの胸元で拭い、空を見上げた。

　夏だ。

　先輩と跳ぶ最後の大会が始まる。

　中学女子共通走幅跳。

　自由な距離の助走から白の踏切板を片足で踏み切り、砂場に着地するまでの跳躍距離を競う陸上競技。踏切板からはみ出しての跳躍はファールとみなされ計測は行われない。

　そんな競技を知ってしまった

「ツーバーサ！」

　とある少女の物語。

「ツバサ、部活決めた？」

「まだ考えてるところ。美羽（みう）は？」

「リクジョーブ！！　高跳びやりたいの！　走ってさ、ぐって踏み切って、ぎゅんって背中反って、ぐおーっってジャンプしたいの」

　擬音だらけの幼なじみの話に相槌（あいづち）を打つ。

　パリッとした紺のプリーツスカートを揺らして話す姿は、やっぱり小学生のころと変わらない。

「お姉ちゃんやってたもんね」

「そーなのッ！　ねね、ツバサも今から見学行こうよ」

　別に私だって決めてないわけじゃないんだ。確かに美羽に比べたら明確なビジョンは持っていない。それでもまだ何となく候補は絞れているのが現状ってところで。

　第一に私は球技が苦手だ。運動神経はそこそこにいいはずなのに、だ。運動会の徒競走は一等賞。体力測定もA判定を毎年もらってる。だけどボールとはお友達になれたためしがない。現に体育の授業では高確率で顔面キャッチをしている。すごくイタい。鼻血出ちゃう。

　ふむ。そこから消去法で考えれば例の陸上部、美術部、吹奏楽部に絞られる。

　第二に私は音楽が好き。聴くこと歌うことは大好きだ。まぁ、流行りのアイドルの曲ばかりを美羽と歌っているだけの事だけど。……しかし、残念なことに私は壊滅的に楽器ともお友達になれなかった。小学校の通知表は６年間通して音楽は「がんばろう」寄りの「できる」だった。「よくできる」なんてどうやったらもらえたのかしら？ よって吹奏楽部の候補は泣く泣く消えた。

　お絵描きは昔から好き。卒業文集の扉絵を担当するくらいには得意だ。ノートのすみっこにイラストを描いて休み時間に友達に見せてたりもする。え？ 授業中に描いたやつだよ。当たり前じゃん。

　つまるところ……私、戸田つばさはバリバリの運動部代表の陸上部とガチガチの文化部代表の美術部の二択問題に直面していた。どっちに転ぶべきか……、私は数日前から胃がキリキリしていた。

　そんな心配をよそに、美羽は私の手を取ってグラウンドへ強制連行していた。錆（さ）び付いたフェンス越しに走る上級生を二人でぼんやりと眺める。

「もしツバサが陸上やるなら何やりたい？」

「うーん……」

　トラックを見る。クラウチングスタートの姿勢をとって合図を待つ小柄な先輩、列を作って一定のペースを守って走る男子部員、ハードルを並べる華奢（きゃしゃ）な女子。フィールドでは砲丸を空に放つ凛々しい男子、輪を描いて助走する長身の男子、メジャーの横で───

「いきます」

　まだ冷たい春の空気にきりっとした声が響いた。右手は空を切る様に伸ばされていた。

「跳ぶ」

　美羽が呟いた。

　スパイクが土を抉る。助走のスピードが砂場に向かって加速。カッ、２０センチの白い板、踏切板を思い切り蹴って手足を宙に投げ出す。短い髪が揺れたのは一瞬、気が付けば彼女の姿は砂場に在った。

「……美羽、私あれやりたい」

　衝動的に思った。跳びたい。自分もやってみたい。

　純粋にかっこよかったのだ。一瞬の出来事が。宙を舞う姿が。名前も知らない上級生に憧れてしまったのだ。短距離よりも、長距離より、ハードル、砲丸、高跳びなんかよりも

「幅跳びがしたい。私も陸上部入る」

「そっか」

　満面の笑みで美羽に想いを伝えたつばさは瞳を輝かせていた。

　中学一年春。戸田つばさと走幅跳の出会いだった。