30.フラッシュバック

 そうして新しい生活を始めたエリザだったが、しばらくの間はフラッシュバックに苦しんだ。

 エリザが奴隷として飼われていた一ヶ月。

 あの時の絶望が全身を駆け巡った瞬間、いつも二人にあたってしまう。


「どうしてあの時、私を殺してくれなかったの!?」


「私の腕を切り落とした時、そのまま捨て置いてくれればこんなことにはならなかったのに!!」


「この奴隷印がある限り、私は一生奴隷としてしか生きられない!!」


「ジアード様のところへ行きたい……っ」


 エリザがあたり散らすたびに、シルヴィオはいつもつらそうな顔で『すまない』と謝る。

 そしてロベルトは、いつも『生きていてほしかったから』『生きてくれ』と頼む。


 ふと正気に戻ると、とても後悔するというのに、叫びだすと止まらなくなるのだ。

 救い出してくれたのは二人で、恩のある相手だというのに、罵倒してしまう自分に自己嫌悪する。

 けれど、あの時の地獄が蘇るたびに、死んでしまいたい衝動に駆られた。


 つらかったのは自分ひとりだけではないとわかっていても、あの男の笑みが脳裏によぎるたび、絶望感が全身を駆け巡る。


 ああ……もう私は、ダメかもしれない……


 せっかく助かったというのに、二人を傷つける言葉ばかりが出てきてしまう。

 左手の奴隷印がある限り、まともな仕事などありつけず、ロベルトとシルヴィオの世話になっているだけだ。

 ある意味、今の状況は飼われているといえなくはないのかもしれない。そう思うと、エリザの心は途端に納得してしまった。


 そういえば、私は二人の奴隷だったんだ……

 ロベルトとシルヴィオに、お金で買われていたんだ。


 イナーに渡していた二百万ジェイアという大金。

 エリザが囚われていた一ヶ月の間にファルムの悪事を洗い出し、拾い仕事をしながら寝る間も惜しんで働いて、二人が貯めたお金。

 〝飼い主〟が、ファルムからロベルトとシルヴィオに移った。それだけのこと。


 私は、一生二人の奴隷なんだ……!!


 もう、対等の立場などではなかった。

 ロベルトは一等国民、シルヴィオは三等国民、そしてエリザは……奴隷。

 たった一ヶ月の出来事だったというのに、エリザには奴隷根性が染みついてしまっていたのか。

 二人の所有物なんだと自分で認識してしまった瞬間から、エリザは恐怖し始めた。

 夕食の準備をし終えた共有スペースのテーブルに突っ伏し、二人の奴隷だという意味を考えると止まらない。


「ただいま……どうした、エリザ」


 夕方、仕事から帰ってきたシルヴィオがエリザの様子をおかしく思ったのか、腰の剣を外すなり近づいてきた。

 並べられた夕食は、凝ったものは作れず簡素なものだ。慣れればもっと作れるようになるのかもしれないが、左手だけで食事の用意をするのは時間も掛かるし、二人の役に立っているようには思えない。


「エリザ?」


 顔を起こすと、心配そうにのぞいてくる整った顔が目の端に入った。


「せめて、右手があれば……」


 そう呟くと、シルヴィオが眉を下げる。


「……すまない」

「違うの、ごめん……」


 罪悪感を感じているシルヴィオに対し、エリザも罪悪感で満たされていく。


「私、どうすればいいの……二人の奴隷として、なにができる?」


 このままでは、捨てられてしまう。

 なにも役に立てず、二人には嫌な言葉ばかりを突きつけてしまう、傷つけてしまう。


 二人はいつか、いい人を見つけて結婚するだろう。

 そのときにお荷物であるエリザなど、いらなくなるに違いない。ここを追い出されたら、ファルムの時以上の苦しみが待っているかもしれない。


「俺たちはエリザを奴隷としてなんか……」

「お願い、捨てないで……なんでもする、から!」

「エリザ!」

「いやあ! もうあんな思いは……殺して、殺してぇぇえ!!」


 ファルムの笑い顔が頭の中を支配し、エリザは発狂した。

 ガンガンと痛む頭を左手で押さえ、全てを拒絶するようにぶんぶんと首を振る。目からは勝手に涙がボロボロとこぼれ、視界が真っ黒に閉ざされた。


「捨てない……捨てない。心配しなくていい」


 暴れるエリザの体を、シルヴィオに体ごと押さえつけられる。

 捨てない……その言葉を信用していいのだろうか。ぎゅっと抱きしめられると、ほんの少しの正気が戻ってくる。


「捨てるよ……きっと、捨てる……役立たずの奴隷なんて、シルヴィオが誰かと結婚した時には、邪魔にしかならないから……」

「じゃあ、俺と結婚すればいい」


 予想外の言葉を当然のように言われて、エリザの暴れる体は収束を見せた。

 大人しくなったエリザを、シルヴィオはゆっくり解放してくれる。


「……え?」


 今聞こえたのは、現実だろうか。それともエリザの妄想が生み出した幻聴だろうか。


「結婚しよう、エリザ」


 シルヴィオの口から、同じ言葉が繰り返された。

 嬉しいだとか、そんな感情はない。あるのはただ疑問だけ。


「……どうして、いきなり」

「捨てない。この言葉を信じてほしいからだ」


 結婚をしたところで、捨てるなら離婚すればいいだけの話ではある。ただ、それくらいの覚悟があるのだろうということは、エリザにも感じられた。


「なんで、そこまで……」


 やはり疑問が浮かぶエリザに、シルヴィオの視線はゆっくりと消えた右手の行方を辿っている。


「悪かった。俺の、責任だ」


 何度も伝わってきた、シルヴィオの罪悪感。

 それがいつのまにか、エリザの面倒をみなければならないという、責任感に変わってしまったというのだろうか。

 エリザは胸の痛みを抱きながら、真剣なシルヴィオを見上げた。


「結婚しよう。それですべてが解決する」


 シルヴィオと結婚する。それですべてが解決する。

 ──本当だろうか?

 胸に異物があるように、どうにもすっきりしない思いがエリザの顔を曇らせた。


「絶対に最後まで、面倒をみる。約束する」

「シルヴィオ……」


 大真面目なシルヴィオの顔を見ると、胸の痛みが徐々に増してくる。

 シルヴィオが結婚しようといい出したのは、エリザの腕を切り落とした罪悪感から……そして、そのせいで酷い目に遭い、まっとうに生きられなくなってしまったエリザへの贖罪なのだ。

 それに気づいたエリザは、シルヴィオから目を逸らせた。

 捨てられたくはない。だからといって、責任感だけで結婚させてしまうなど、エリザの望むことではなかった。

 そもそも、シルヴィオには好きな人がいたはずだ。シルヴィオに好きな人を諦めさせてまで、こんなことをいわせてしまった己の軽率な言動にあきれ、そして胸をぎゅっと掴んだ。


「それは、だめだよ……シルヴィオ」

「俺はもう、覚悟を決めてる。心配する必要はない」


 違う、とエリザは首を振った。確かにシルヴィオと結婚すれば、安心は得られるだろう。

 この真面目で責任感の強い男は、言葉通り最後までエリザの面倒をみてくれるに違いない。

 けれど、それでいいのだろうか。

 シルヴィオの責任感に甘えて、おんぶに抱っこ状態で生きる……それは、到底幸せとはいえないとエリザは思った。

 捨てられて一人で奴隷として生きていくよりかはよほど幸せだろう。それは間違いない。

 けれどそんなエリザのわがままを、シルヴィオの犠牲の上に成り立たせていいのかという自問には、ノーだった。

 確かにエリザの腕を切ったのはシルヴィオで、恨みがまったくないかといえばそうではない。腕を斬るくらいなら死なせてほしかったし、生かそうとするくらいなら腕を斬らないでほしかった。

 だけど、ファルムから助けてくれたのもシルヴィオたちで、心底恨んでいるわけではない。

 騎士になったときからの仲間で、よき友人なのだ。

 犠牲になどなってほしくない。幸せになってほしいと願っている。だからこそ責任感なんかで一緒になってしまえば、エリザのほうが罪悪感に駆られてしまうことになる……それが、いやだ。


「気持ちは、嬉しいよ……シルヴィオ。そこまで私のことを考えてくれて、本当にありがとう……でも」


 最後の逆接で、シルヴィオはエリザがなにをいうか、気づいたようだ。

 まるで気持ちを隠すように、シルヴィオは冷淡な顔を保っている。


「結婚は、しない」


 シルヴィオのために。

 シルヴィオには、幸せになってほしいから。

 捨てないでといいながら、相手の幸せを望むなんて矛盾しているとわかっている。でもどちらもエリザの本当の気持ちだった。

 シルヴィオは、エリザに断られてほっとしているのか、残念に思っているのか、その表情では読みとれない。おそらくは、前者だろう。

 責任を取らされなくてすむと、安堵しているはずなのだから。

 シルヴィオは、たっぷり十秒は口を噤んだあとで、「わかった」と呟いていた。

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