28.二人
悪夢を見ただけだと思いたかった。
しかしエリザが目を覚ますと、そこには誰の姿もない。
ずっとここから出られなかったはずのベルタナがいない、その意味。
「逃げ、なきゃ……」
それしか助かる方法はない。
もうベルタナはいないのだ。彼女を置いて逃げる罪悪感はない。
ヨーランが殺されようと、それによりイナーが悲しもうと、もう知ったことではなかった。
狙うなら、ファルムが仕事に出ている間のお昼の時間……
昼食を運んできたときを狙って出ていく!
扉は二重扉でややこしい仕掛けになっているようだし、簡単に出られるとは思わない。
それでもイナーを殺すつもりで脅せば、扉を開けてくれるはずだ。
片腕でどこまでやれるか不安だが、上手くいくと信じるしかない。
そう決意して立ち上がろうとした瞬間、それは絶望に変わった。
クンッと足が引っかかり、じゃらりと金属音がする。
足枷……!!
重い鉄球のついた足枷が、エリザに繋がれている。部屋の中はかろうじて動くことはできるが、これで階段を上がるのはかなりきついだろう。
仮に逃げられたとしても、外でこんなのをつけてうろうろしていたら、すぐに見つかってしまう。
うそ……っ
最初の二週間のうちに、さっさと決断して行動しなかったことを後悔しても遅い。
エリザにできることは、なにもなくなってしまった。
毎日、夜が来るたびにエリザは震えた。
いつナタを持って降りてくるかわからない恐怖に。
微笑むファルムが手ぶらでやってきて、ただ切断面を愛でられるだけの日を感謝してしまうほどに。
ロベルトは、必ず助けるといっていた。
シルヴィオは、待っていろと、耐えろといった。
一体、いつまで……?
いつまで耐えるの?
左手がなくなるまで?
両足が消えるまで?
四肢がなくなって、あいつに犯されるまで……!?
助けがくる、かもしれない、という僅かな希望が。
感情を殺しきれずに苦しむ結果となる。
どうして……
どうしてあの時に殺してくれなかったの、ロベルト……シルヴィオ……っ
絶望の中には希望があるのだと思っていた。
違う。
希望があるからこそ、絶望が強く、色濃くなる。
苦しみが増すのに、希望のせいで自死もできない。
エリザは絶望の夜を何度も繰り返した。
その日は日曜だったのか、それともファルムが仕事を休んだだけなのか。
日の当たる時間に、ファルムが扉を開けて降りてきた。
……その手に、ナタを持って。
飛び下がろうとしても足枷のせいで動けず、体が自分じゃないくらいに勝手に震え始める。
「さぁて、私のかわいいだるまちゃん。もう君しかいなくなっちゃったからねぇ、私も決心をつけるのに、時間がかかってしまったよ」
肌が粟立ち、目の前が真っ白になったあと、真っ黒に染まる。
「いや……いやぁ……許して、くださ……お、ねが……」
「大丈夫だよ、だるまちゃんは騎士だったんだよね? 痛みには強いんだろう? ショック死なんかしないよ、きっと」
嬉しそうに近づいてくるファルムに対して、エリザはひっくひっくと喉を痙攣させるだけだ。
手も足も、恐怖で動かない。なにも抵抗できない。
ファルムが目の前でナタをギラつかせても、奪って反撃するという選択肢は出てこなかった。
「ああ、両腕をなくしただるまちゃんはきっとかわいいよ……ああ、動かないでね、手元が狂っちゃうから」
「ひ……」
振り上げられるナタ。
エリザが思わず目をぎゅっと閉じた、その時。
ドンドンドンッ
激しく扉の鳴る音がした。
ファルムの手がピタッと止まり、興が削がれたとばかりに扉を睨んでいる。
ばっくんばっくんと身体中に響くエリザの心臓の音。全身は一瞬で汗だくになっていた。
「くそ、いい時に誰だ!」
イライラした様子のファルムがナタを持ったまま扉へ向かうと、そこからイナーが入ってくる。
「あなた、騎士の方が、あなたに話があると……」
「なんだと?」
騎士という言葉に耳をピクリと動かした瞬間、どやどやと黒服の男たちが地下室に雪崩れ込んできた。
「なんだ、貴様らは! 勝手に人の家に上がり込みおって!」
「ファルム・アーガン氏。あなたに逮捕状が出ています。あなたの勤める会社の金を、横領した罪でね」
そういって逮捕状を突きつける男の顔を、エリザはよく知っていた。が、すぐには信じられなかった。
ロベルトが、この地下室に入ってきているなんて。
「観念しろ。連行する」
ロベルトがそういうと、隣にいた銀髪の男がファルムの持っていたナタを剣で薙ぎ払った。シルヴィオだ。
がらんと音がして手から離れたナタを見て、ファルムは状況を理解したのか、がっくりとうなだれて大人しく縄をかけられていた。
思えば、高給取りではなさそうだったファルムが、奴隷を景気良く何人も買っていたのだ。しかもその奴隷を三食付きで養っていたという状況がおかしいことに、エリザは今さらながら気づいた。
ロベルトとシルヴィオは、正攻法で助けに来てくれたのだ。
「シ、ル……」
唇がぶるぶると震えて、うまく言葉にならない。
シルヴィオは後ろにいた騎士にファルムの身柄を任せると、懐から百万ジェイアと思われるお金の束を二つ取り出す。
そしてそれを、夫が逮捕されて狼狽えているイナーに見せた。
「そこにいる奴隷を買い取りたい。この金額で了承してくれないか」
確か、エリザは二百二十五万ジェイアで買われたはずだ。それを、イナーが知っているのか知らないのか、降って湧いた大金に、こくこくと首を上下に動かしている。
「取引成立だ。彼女は俺たちがもらっていく」
そういうと、シルヴィオとロベルトがエリザに向かって歩いてきた。
これは、夢だろうか。
あまりに酷い現実に、脳が甘い夢を見せてくれているだけなのだろうか。
二人は思いっきり泣きたいような、それでいて思いっきり笑いたいような、とても複雑な顔をしていて。
ああ、これは現実なのだとわかると、途端に涙が込み上げてくる。
来てくれた。
二人が、助けにきてくれたのだ。
「ロ、べ……、シル……うっ」
エリザが名前を呼ぼうとすると、二人は。
「わりぃ、遅くなった」
「無事で……よかった」
優しく、声をかけてくれて。
「うあ、あ、あ、ああああああああぁぁああああああ!!」
助けに来てくれた喜びと、幸せと、生きられた安堵感と。
二つの希望がエリザを溶かし、暖かな光を与えてくれる。
「エリザ……」
「エリザ!」
ロベルトとシルヴィオが、エリザを包んでくれた。
いつかも、こんなふうに二人の間で泣いたことを思い出す。
来てくれた、来てくれた、来てくれた──!!
二人は、いつもエリザを気にかけてくれた。なにがあっても見捨てたりはしなかった。
軍に入ったころからずっと。そして、今回も。
エリザは恐怖から免れた安堵感から、二人に抱かれるようにして存分に涙を流し切った。
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