15.帰還

 本格的に暗くなるまで、エリザは馬を走らせ続けた。

 真っ暗になると馬を止め、少しだけ休憩しようと松明をつける。


「……疲れた……」


 言葉とともに息を吐き出すと、さらに体が重くなったように感じられた。

 思えば、昨日からまともに寝ていないのだ。今なら転がった瞬間に眠れる気さえする。

 エリザは足元の土をかき集めて松明をさすと、もう一頭の馬の方へと近づいた。


「……ジアード、さま……」


 そこにはジアードが眠っていて、そっと顔を覗き込む。


「目、覚まさないかな……」


 ころっと涙が転がり落ちた。

 首に触れると死後硬直が始まっているのか、硬さを感じて涙がさらにあふれ出てくる。

 エリザは血の気のないジアードの頬に、そっと唇を寄せた。しかしその直前で思いとどまる。


『私も……カーラを、愛していた……と……伝え……』


 目の前で静かに眠るの故人の、最期の頼みが耳で鳴った。なんの役にも立たないと思っていた自分を、ジアードは最後に頼ってくれたのだ。


 すまないって言葉は……私を王都に帰らせてしまうことに対してだったのかな。


 死ぬ間際の会話を脳内で反芻し、エリザはそう思った。

 謝ることなどひとつもないというのに。ジアードが自分の気持ちを優先してわがままをいってくれたこと……それがなにより嬉しかったのだから。

 ジアードのためならば、ラゲンツに行けなくなってもなんの問題もないのだから。


「ジアード様……戻りましょう。カーラ様のところに……」


 エリザは松明を拾い上げると、二頭の馬を引いて先頭を歩いた。

 馬を休ませてあげたいが、ジアードを背負わせたままだと休まらないだろう。かといって一度おろしてしまえば、死後硬直も始まっている状態で再び馬に乗せるのは、一人では困難だ。

 少しでも早くジアードを王都に帰らせてあげたい気持ちと相まり、エリザは夜道の先頭を照らしながら空が白んでくるまで歩き続けた。

 松明が必要ない程度まで明るくなると騎乗し、馬を走らせ続ける。

 すると昼頃になってようやく王都が見えてきた。

 門番に状況を伝えると、第一軍団長のバルナバと第四軍団長のカーラが飛んでやってきてくれる。


「そうか……一騎打ちを選択したか……」


 事情を全て説明すると、バルナバの隣でカーラが何度もごくんとなにかを飲みくだし、大きく空気を吸って息を整えようとしていた。


 ジアードの遺体は、バルナバと周りの騎士たちで下ろして運んでくれた。

 慣れ親しんだ場所がいいだろうと、ジアードの家のベッドに横たえる。死後硬直がひどく、馬に乗せたままの格好のジアードを、カーラは信じられない様子でぼうっと見ていた。


「このままでは、棺にも入れられんの……硬直がとけてから、埋葬してやろう……」


 バルナバの言葉に頷いたその時、馬を任せていた騎士が部屋に入ってきた。


「バルナバ様。ジアード様の乗っていた馬の鞍の下から、こんなものが……」


 小さな紙切れを受け取ったバルナバが、ゆっくりと声に出して読んでくれる。


「ジアの希望に添いたい。一週間は引き延ばす。それ以上は保証できない」


 読み終えた後に顔を上げたバルナバと、エリザは目が合った。この、手紙の主は──


「……セノフォンテ様だ」

「ジアードが勝った時には一度引く……という取り決めを、勝ったセノフォンテは融通する気かの……」


 バルナバはそう呟き、視線をジアードへと移した。

 今すぐにラゲンツ軍に攻め込まれることがなくなったとわかり、エリザはほっと息を吐き出す。硬直がとけるまで待って埋葬する時間は、十分にありそうだ。


「わしは陛下にこのことをお知らせしてくる。お主らは、少しジアードの傍にいてやるとええ」


 そういって出て行くと、部屋にはエリザとカーラだけが残された。それに、ジアード。

 カーラはぼうっとジアードを見つめていたが、しばらくしてエリザを見るとかすかに微笑んだ。


「ジアードの髪を、きれいにしてあげましょうか。服は弛緩するまで着せ替えられないけれど、髪なら……」

「そうですね。私、桶と水を用意してきます」


 ジアードの髪は彼自身の血と土が絡まってベトついていて、エリザも気になっていたのだ。

 急いで準備をすると、二人でジアードの頭を少しベッドからはみ出させた。その下でエリザが桶を抱え、カーラはゆっくりとジアードの髪を濡らし手櫛を通す。


「ジアードの髪は、黒くてきれいなのよね」

「はい。最近は少し白髪が出てきたのを気にされていましたが」

「ふふ、そうだったのね。それも素敵なのに」


 カーラが笑ったので、エリザつられてクスリと息を出す。

 丁寧に丁寧に、何度も水を変えては髪の汚れをとり、仕上げに髪を優しく拭いてあげている。

 エリザはその間に顔や手、肌の見える部分の血もタオルで拭き取りると、だいぶきれいになった。


「少しはいつものジアードに戻ったかしら」

「きっと、喜んでいらっしゃると思います」

「服も替えてあげたいわね」

「私たちに着替えさせられるのはお嫌かもしれませんよ。硬直が終わってから、だれか男の人にお願いしましょう」


 そう提案はしたが、やはりカーラは納得できなかったようだ。上の服をハサミで切り取って脱がせると血をきれいに拭き取り、そのあとは大きな傷口に包帯を巻いて隠した。

 包帯を巻く際にはジアードを持ちあげなければならなかったので、かなりの重労働だ。女二人でゼーハーいいながらも、なんとかやりとげた。


「手伝ってくれてありがとう、エリザ」

「いえ、私もやりたかったことなので……」

「あなたも着替えてお風呂に入っていらっしゃい。疲れたでしょう」


 本当はジアードの傍をまだ離れたくはない。けれども、二日間まともに寝ていないのでくたくただ。

 エリザは失礼しますとジアードの家を出ると宿舎に戻った。けれど、もうだれもいない。風呂も自分で沸かさなければならなかったが、そんな元気はなかった。

 服を脱いで体を念入りに拭いてから着替えると、ベッドの上に寝転んだ瞬間、なにも考える暇なしに記憶が途切れた。


 ふと気づくと、空が白み始めている。どうやらたっぷり十四時間は寝ていたらしい。

 我ながら図太い神経をしているなと思った瞬間、急激にお腹が空いたのを感じた。そういえば、道中に干し肉を食べながら歩いたくらいで、まともに食事もとっていなかった。


「ジアード様がいなくなっても、お腹は減るんだなぁ……」


 当たり前のことを呟き、息を吸い込んでは吐き出す。ここにはなにもないし、ジアードの家にはいくらか食材があったはずだと彼の家に向かった。

 先にジアードの顔を見ようと部屋の扉を開けると、ベッドの隣にはカーラが寝入っている。ジアードの硬直したままの手が、カーラを包むように背中にまわされていて、エリザはなぜだか急に込み上げてきてしまった。

 朝日が徐々に差し込み、二人を照らす光はとても優しくて。

 ジアードがそこでカーラを守っているようで、慰めているようで。

 そして、愛をささやいているようで。

 ぼろぼろと勝手に涙がこぼれ落ちる。


「ふ、うう、う……っ」

「ん……エリザ……?」


 押さえた口から嗚咽が漏れて、カーラの目を覚まさせてしまった。

 カーラは朝からいきなり号泣しているエリザを見て、少し面食らったようだ。


「どうしたの、エリザ……大丈夫?」


 カーラは昨晩、泣いたのだろうか。人前では涙を見せなかった彼女は……泣けたのだろうか。


「カーラ様……私、お伝えしなければいけないことが……」


 手の甲で涙を何度も拭っていると、エリザに向かってカーラが歩いてくる。


「なぁに?」


 優しい問いかけに、エリザはしくしくと泣く胸を押さえながらカーラを見上げた。


「申し訳ありません、カーラ様……私、カーラ様のお気持ちを、ジアード様に伝えてしまいました」


 それは、約束だった。カーラが死んだあとにジアードに知らせるという、告白の言葉。それを、カーラが生きているうちに伝えてしまっていたことを謝罪した。すると彼女は驚いたように少し目を見開いた後、ゆっくりと眉を下げた。


「そう……いいのよ。それで、ジアードはなんて……?」

「なにかお伝えすることはないかと伺ったのですが、そのときは自分で伝えるからいい、と」

「そのときは?」


 こくりとうなずいて見せると、カーラは心臓の音をはやめたかのようににじり寄ってくる。それに応えるため、エリザはまっすぐに顔を上げた。


「ジアード様からカーラ様へ、伝言があります。今際の際にジアード様から託された言葉です」


 カーラの喉が上下する。彼女は右の拳を左手で包み、なにかを願うようにエリザを見つめている。

 エリザはそんなカーラに、少し微笑んでみせた。


「『私もカーラを愛していた』……そう、伝えてくれと」


 ジアードの最期の言葉を伝えた瞬間、カーラの瞳からは堰を切ったようにぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 昨日は人前では泣かなかったカーラが。

 愛する人に愛されていたことへの喜びだろうか。相思相愛だった人がすでに亡くなっていることへの悲しみだろうか。


「ふ、あ……ああ……っ! ジアード……ジアードぉ……ああああっ」


 口元を押さえて崩れ落ちるカーラを、エリザは抱きしめた。

 不敬だとかそんなことはもうどうでもいい。ただただ、一人で泣くのは悲しすぎると……エリザはカーラを温めながら、自身も涙を流していた。

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