第6話

 月曜日の朝がやってきた。

 小太郎は物置の引き戸の前に立ち、すがすがしく晴れ渡った空を見上げることもせず、じっと本宅の勝手口を見ていた。昨夜の下痢と腹痛による疲労が残っており、多少の寝不足が、痩せっぽちの体にずっしりとくっ付いていた。いつも元気のない少年であったが、今朝はとくにやつれた様子だった。 

 小太郎は不安に苛まわれていた。今日は遠足の日である。天気は快晴で中止になることはないだろう。だとすると、給食がないので昼めしの用意をしておかなければならない。藤原夫人がお弁当を作ってくれるとの確約をすでに得ていたのだが、その本人が実家に留まったまま、どうやら戻っていないようなのだ。だから、藤原家で小太郎のお弁当が用意されている可能性はかなり低かった。

 遠足の日は、級友たちは気合の入ったお弁当を持ってくる。みじめさには慣れている小太郎だが、いろいろな種類の、色とりどりの美味しそうなお弁当を、すぐ間近で見せつけられるのはとてもつらいことだ。とにかく、おにぎり一つでもいいから欲しいと切実に願っていた。

「いってきまーす」

 中学の制服を着た敦子が玄関から出てきた。弟とは正反対に元気溌剌であり、額の上に手をかざして、眩しそうに天を見上げてから走り出した。遠い場所に中学校がある彼女の登校は、たいていの場合、全力疾走であった。

 小太郎も出発しなければならない時間であるが、ぎりぎりまで藤原夫人を待つ作戦だ。なにかと厳しく冷徹であるが、約束は守る女である。姿は見えないが、ひょっとすると、小太郎の弁当を誰かに頼んでいるのかもしれない。かすかな希望であるが、それにすがるしかなかった。

 しかし、藤原家の形式上の主人である敦夫が玄関から出てきて、さらにドアに鍵をかけるに至って、その希望はきわめてはかないものとなった。表情から血の気のなくなった小太郎は、ガチャガチャやっている男のもとへフラフラと近づいていった。

「なんだ小太郎、おまえまだ学校に行かないのか」

 小太郎が朝食を食ってないことなど気にするそぶりもなく、敦夫は言い放った。

「あ~、んん~、ああ~」

 今日だけは絶対にお弁当が欲しい。藤原夫人がいなくても、諦めるわけにはいかないのだ。

「なんだ、なにか用があるのか。今日は母さんがいないからわからんぞ」

 目を泳がせてモジモジしている少年を、敦夫はうるさそうに見ていた。

「きょう~ね~、あんね~、えん~そ~く~、なの~」

 小太郎はいきなり核心をついてきた。なにかと感度が鈍い男に、豪速の直球を投げつけた。

「ああ、今日は晴れだから、遠足にはもってこいだな。みやげはいらんぞ。楽しんでこい」

 だが、鈍感男は少年の微妙な態度から、その必死な心情を汲み取ることができない。常日頃からたいして気にもしていないので、なおさらであった。

「んん~、でも~」

「なんだ、小太郎。言いたいことがあるならいえよ。こっちは忙しいんだ。もう、遅れちゃうよ」

「お~、ベンと~。ないのね~、へへ~」

 ひどく生意気なことを言ってしまったと、小太郎の胸は不安でいっぱいだ。食事のことに関しては、藤原夫人に恩着せがましく散々に言われている。献立の内容や量に対して不平を言おうものなら、烈火のごとく激怒され、これより先の供給を絶つとの恫喝を受けていた。

 過去に一度、あまりにもおかずの量が少ないので、それでも懇願するように意見したことがあった。すると約二時間にわたって、容赦のない説教を受けた。勝手口の前に、フクロウが鳴き始めるまで立たされながらの罵倒であった。小さな小便袋の中が凍りつくほどのストレスであり、以後、どんな食事内容だろうが、絶対に不平を言わぬと心に決めていた。

 敦夫は、しばし黙っていた。息子らしき子供が言わんとしていることをようやく理解し、どうしようかと考えているようだ。

「ん~、ん~」

 小太郎は、もう泣きそうである。藤原夫人がお弁当を作ってくれると言ったので、すっかりとその気になって安心していた。それが、まさかの直前キャンセルである。意気消沈というレベルを越えて、気持ちは底なしの沼へと沈み込んでいた。

「なんだ、弁当がいるのか。それはまいったなあ、母さんはまだ帰らないし。困ったなあ。早く言えよなあ」

 出勤の時間が迫っている。いまから台所でなにか作ってやる余裕などないし、そもそも、この男に弁当を作ることなどできない。

「ん、ん、うえ~」

 小太郎は、とうとう泣き出してしまった。顔を伏せて真下を向き、ひっくひくと肩を震わせている。直立したままほとんど声を出さず、涙もちょっぴりだ。日頃から省エネに徹している彼らしい泣き方だった。

「あ、そうだ。きのう、中華まんじゅうもらったんだ。あれは、いいんじゃなか」

 そこになにかが浮かんでいるというように、敦夫は右上の空間を見ながら言った。そしてポンと軽く手を叩くと、踵を返して家の中へ戻った。小太郎はしくしくと泣きながらも、中華まんじゅうという言葉に目ざとく反応していた。

 中華まんじゅうとは、あんこをパンケーキの生地で三日月形に包み込んだお菓子である。その名前に中華を冠しているが、肉や野菜が入っている中華まんとは全くの別物だ。中華料理の要素はほとんどなくて、むしろ純然たる和菓子であり、味も触感もドラ焼きに近しい。

 小太郎はスーパーのパンコーナーでそれを見たことがある。買うことはできないので、もちろん食べたことはない。ただし、過去にドラ焼きを食べて、その甘さに感激した経験があった。ドラ焼きの親戚のようなあの三日月形のまんじゅうも、頬っぺたの肉が千切れるくらい甘いのだろうと想像した。ひょっとしたら、今日もらえるのかもしれない。そんな期待が、心の時雨を吹き飛ばそうとしていた。

「昨日、隣の佐竹さんが葬式で余ったからって、ひと箱くれたんだよ。おまえの体にこのでっかいの二つは多すぎるかもしれないけれど、まあ、食いきれなかったら誰かにやれや」

 そんな心配は不要だと、少年は言いたかった。食べきれないとは思わないし、かりに食べきれなかった分は、家に戻ってからのお楽しみにすればいい。夕食にデザートがつくなんて、夢か幻のたぐいだ。

「わあ~、わ~、んんんん~」

 無邪気に喜ぶ小太郎に手渡された中華まんじゅうは、贈答用なので白くきれいな紙箱に入っていた。葬式の熨斗紙が貼り付けられたそれは、見た目以上にずっしりと重い。

 小太郎は、いったん地面に置いてから蓋を開けた。たしかに、大きな三日月のまんじゅうが二つ、キレイに並んでいる。大きくて肉厚なそれらは、ドラ焼きよりも食欲に訴えかける力が強かった。

「それでいいだろう。父さんはもう時間だから行くからな」

「うん、うんうんうん。んん~、ありがと~。ありがと~ね~」

 正式なお弁当とは言い難いが、かえってご馳走になったと小太郎は喜んだ。藤原夫人がいたとしても、作ってくれるのは、せいぜいがおにぎり一つでしかないからだ。

 先日拾ったカバンに中華まんじゅうと水筒を入れて、急いで学校に向かった。今日は遠足ということで、登校時間が若干遅くなっている。それでも遅刻しては一大事なので、かなりの早歩きで、それも途中からは走ってしまうことになった。

 三年三組の教室内は、遠足当日の期待と喜びで火照っていた。おさまりきれぬ高揚感が、うわついた態度となって全体の和を乱していた。担任が静かにするように諭すが、だいたいにおいて聞いちゃいない。サクリファイスはいつも前線に座る男子たちで、ゲンコツを各自一発ずつもらって、クラスは一体感をともなった秩序を取り戻すことになる。

 疾走の甲斐あって、小太郎は遅刻せずに済んだが、ギリギリであった。途中の公園で水筒を満たそうとしたがなぜか水が出ず、慌てて隣の公園に行ったために時間を費やしてしまった。学校の水飲み場で入れればいいだけなのだが、できるだけ学校以外で調達するのが彼の流儀であった。

「よーし、じゃあ、おやつ検査をするぞ。持ってきたやつを机の上に全部出せ」

 遠足出発前の恒例行事、おやつ限度額検査が担任によって宣言された。

「いいか、金額オーバーはダメだぞ。それ以上は先生が食うからな」

 大半の児童がしぶしぶと、一部の男子がオドオドしながら机の上におやつをばらけた。そろばん片手に学級委員たちが各机を訪れ、税務署員のごとくキッチリと計量を始める。教師の事前指導は厳しいものだったが、それでも違反するものが何名かいた。超過分を即座に没収され、悔し涙に木枯らしが吹いていた。

「小太郎、おやつ出せよ」

 学級委員にそう言われても、小太郎にはおやつがなかった。なにもないということを知られるのは存外に恥ずかしかったので、その旨を少しばかりオブラートに包んで答えた。

「ああ~、んん~、今日はね、もってきてないんだ~、へへ」

 検査係は、おそらくそうであろうと思っていたが、虚偽の申告や見逃しがあってはならない。職務を完璧に全うしていたいと考えていた。

「だからさあ、カバンの中のもの出せよ」

 冷たく言い放つクラスメートに おやつを持っていないことを確信している小太郎は、あるいは最近拾ったカバンと水筒を少しばかり自慢に思っている少年は、無警戒にカバンを見せてしまった。

「その白いハコって、なに」

 学級委員は、カバンの底に沈んでいる怪しげなモノを目ざとく見つけた。持ち主の気持ちなど構うことなく手を突っ込み、熨斗紙付きの白い紙箱を取り出した。けっこう重くて、なんだか甘い匂いもする。これは大物の予感がすると彼の心がざわつき、隠された薬物を発見した探知犬のように、吠えだしたい衝動に駆られていた。

「ああ~、だめ~」

 おやつではないものを取り出されてしまい、小太郎は狼狽した。学級委員は躊躇することなく蓋を持ち上げて、小太郎の宝物を白日のもとに晒した。

「ああーっ、これ、中華まんじゅうだあ」

 大きな声で叫んだ。ざわついていたクラスが一瞬で静まり返った。すべての視線が小太郎の席に集中する。空気が固すぎて、誰も動こうとしない。すぐに担任の若い教師がやってきて、中華まんじゅうが入っている紙箱を手にした。

「ああ~、え~え~と、それね~」お弁当と言ったが、小太郎のその声は、担任のやや怒気を含んだ言葉に蹴飛ばされてしまった。

「誰が中華まんじゅうを持ってきていいって言った。ああーんっ」

「・・・」

 怒られていることを察した小太郎は、途端に黙った。どうやら、中華まんじゅうはおやつの範疇としては大物すぎたのだ。

「いいか、おまえら。おやつは270円までだぞ。藤原が持ってきたのは500円以上するもんだからな。こういうことしたら、ビンタじゃすまんからな」

 本気の叱咤であった。さいわい、小太郎がビンタをされることはなかったが、中華まんじゅうは箱ごと取り上げられてしまった。

「あいつ、なんでそんなもんもってんの」

「あれ、死んだ人が食べるんだよ」

「おれ、食いてえ」

 葬式の熨斗紙が付いた中華まんじゅうの箱を見て、クラスメートから様々な意見が出されていた。没収された当の本人はというと、もちろん涙目である。過去の事例と照らし合わせると、そのドラ焼きに似た美味しいまんじゅうが、小太郎のもとへと返ってくる可能性は皆無といえた。

「ああ、そ~れ~、おべんとう~、おべんとう~だよ~」

 だが、簡単に諦めるわけにはいかなかない。

 箱を持って背を向ける担任教師に向かって、それがおやつという副次的な食料品ではなく、しごく真っ当な主食であることをアピールした。か細く力ない言葉を、えいっ、とばかりにぶつけた。表情はいつものごとくだが、いたって真剣である。

「よーし。バスが来てるから出発するぞ。廊下に出て一列に並べー」

 小太郎の言論は呆気なく無視されてしまった。さらにクラスの誰もが、彼が言っていることに耳を傾けようとはしなかった。かえって、小太郎のくせして豪華なおやつを持ってきたと妬んだり、せっかく楽しい遠足なのに先生を怒らせたと憤慨していた。ただし、本人は級友たちが投げつけてくる微妙な悪意に気付いていない。そんなことよりも、百倍も千倍も気にすべきことがあったからだ。

「はあ、へ~。水~だ~け~だ~」

 たくさんのあんこが入った甘々でボリュームたっぷりな昼食予定が、水だけのお弁当になってしまった。その落胆は計り知れない。

「み~ず~だ~け~だ~」

しょぼくれた足取りで廊下に出た小太郎は、呆然と列の最後に並び自虐的に口ずさむ。前にいる女の子が具合悪そうな顔をしていた。


 校門の前に停車しているバスは、クラスごとに一台があてがわれる。三組は三台目のバスで、他と比べて違うところがまったくない車体だが、フロントガラス左隅に三年三組と記されているので、間違って他の組のバスへ乗り込んでしまうようなことはない。

「席順はテキトーでいいぞ」

 座る席について、担任は児童たちに好きにさせた。出席番号や成績順といった、いかにも教育機関的なことはしなかった。こだわらないのは、そうすると席を確認するのが面倒だからだ。

 男子も女子も担任も乗り込み、バスの中は満杯となった。この当時の小学生は一クラスあたりの児童数が多く、バスの座席は不足気味となるのが常だった。

 小太郎は正規の椅子に座れなかった。やはり設置されている座席よりも、児童数のほうが多かったのだ。

 だが心配することはなかった。あふれた者を救うために、バスには補助席という仕掛けがあった。折り畳み式の小さめな座席を展開して多人数を座れるようにするのである。ただし通路をふさぐので車内は通行不可となるのだが、子供たちは、その窮屈さも魅力であると感じていた。

 先頭より三列目から補助席が始まっているのだが、小太郎はそこに指定された。彼から後ろも補助席が倒されており、通路は完全にふさがれてしまった。陸続きとなった座席同士は、お互いの友好をさらに推し進めることになる。

 遠足という魔法が、クラスの繋がりを緩やかに連結していた。駄菓子を交換したり、水筒にジュースが入っている者は皆に飲まれたりした。ガサガサした騒音に溢れ、楽しげな声が飛び交っていた。

 担任教師は前から二番目の席に座っている。もちろん、二名掛けの椅子を独り占めだ。きわめてだらしのないスタイルで、まるで軟体生物が乗っかっているようだった。

「は~い、〇〇小学校三年三組のみなさん、おはよ~ございま~す」

 児童相手に黄色い声を浴びせたのは、このバスのガイドである。少しばかり小太りだが、なかなかに可愛らしい顔立ちだった。とくに担任教師の本能をくすぐったのは、よく張ったバストやムチムチとした太ももだった。粘着力のある視線で舐めるように見ていた。

 おはようございます、と律儀に返した児童は女子の一部で、大半が騒いでおり彼女のことなど注目していなかった。それでもバスガイドは笑顔を見せながら話し続ける。いつものことといえば、いつものことであるからだ。

「こらあ、おまえたち、静かにしろっ。バスガイドさんが話してんだ。騒いだやつは後でゲンコツだからな」野太い叱咤で担任教師が注意した。

 ネガティブなことに対しては、しっかりと有言実行する男である。騒いでいた子供たちの声が瞬時に落下し、車内はエンジンの騒音だけとなった。

「ええ~、っと。それではね」

 風通しが良くなり、しゃべりやすくなったことに戸惑いながらも、バスガイドは職務をまっとうするために口を動かし続けた。その彼女に向かって、担任教師が恩着せがましく親指をあげる。さも静かにさせたのは自分の力だとアピールすると、プロのガイドは一瞬苦笑したのち、小さく頷いた。

 小太郎の右隣は女子二人で、左隣も同じく女子二人だった。彼は五つ並んだ座席の中央に位置し、補助席という狭小な場所に押し込まれながらも、両手にダブルでツインの華を咲かせていた。

 バスが走り出してまもなく、両隣や後ろから美味しそうな匂いが漂ってきた。クラスメートたちが、持ってきたおやつを食べ始めているのだ。

 シビアな金額設定のため、駄菓子のスナック類が多かった。香ばしさとともに、パリパリボリボリと小気味よい音がする。塩気やカレーの香辛料が小太郎のリンパ節をチクチクと刺激した。自分では食べていないのだが、場の雰囲気が錯覚を与え、なんとなくお菓子を食べている気になっていた。

「それではお姉さんが唄いますね」

 歌には多少の自信があるのだろう。ぽっちゃりな女はマイクを唇にくっ付けて、それでもやや照れくさそうに唄い始めた。その当時流行っていた曲であり、大人のみならず子供までもが知っていた。

 物置の家に住んでいる小太郎は、テレビをほとんど視ない稀な小学生である。したがって、流行りの歌謡曲やアニメの主題歌も知らない。そもそも音楽の授業以外で歌など聴くことがないので、誰かの歌を直に聴くのは好奇心を刺激された。

 バスガイドの歌唱はかなり上手くて、しかもマイクの音量もあり耳によく響いた。楽しみが極端に少ない小太郎は、まるで本物の歌手の歌声を聴いているような感覚になっていた。バスガイドのアカペラでしかないのだが、それがコンサートのように華やかに見えたのだ。 

 彼女の歌に合わせて、小太郎もリズムをとった。歌詞と曲はまったくわからないので、テンポが遅れて音程も恥ずかしいくらいズレていたが、とにかくフンフンと鼻で奏でた。

 まず、左隣に座っている女の子が気持ち悪いと感じた。補助席に座る陽気そうな男子を、怪訝な目で見つつ体を離した。間違っても触れてしまわないようにと気をつける。

「はい、ええ~、お姉さんね、がんばって唄っちゃいました。ご清聴、ありがとうございます」

 一曲終わって、歌い手はホッとしたような表情だ。拍手はまばらだった。数少ない喝采のほとんどは、補助席の少年と担任教師であった。

 もう一曲聴きたいと思い、小太郎は背筋を伸ばして、やや前のめりになった。だが、バスガイドは次を唄わずに休憩を宣言した。マイクをおいて、もっとも前方の席に腰を掛ける。すかさず担任教師が缶コーラを手渡した。目ざとい男の申し出を、初めのうちは手を振って遠慮していたが、女は最終的にその細長くて赤い缶を受け取った。リングプルを指にかけプシュっと小気味よい音をたてると、すかさず飲みだした。一曲唄って、じつはノドが渇いていたのだ。

「あ」

 その様子を見ていた小太郎は、少なからずの衝撃を受けた。

「どうですか、お一つ」と言って担任教師がバスガイドに差し出したのは、なんと中華まんじゅうの紙箱ではないか。キョトンとしている女に軽く目配せすると、強奪教師は自ら一つを取ってガブリと頬張った。

「甘くて美味いですよ。固くなる前にどうぞ」

 ほらほらと強引に食わせようとする。もともと甘いものが大好きなバスガイドは、やや遠慮しながらも、それではお一つと、あと一つしか残っていない中華まんじゅうを手にした。

「ああ~、あ~あ~、んんんー」

 小太郎から嗚咽が漏れた。存外に大きな声だったので、両隣の椅子に座っている女子がなにごとかと彼を見た。

「ん~、美味しい」

 女の口元から甘さが漏れ出た。もぐもぐと口を動かしながら、とびきりの笑顔を見せて、さらにもうひと口を食べた。

「んぐんぐ」

 自分のモノだったはずの中華まんじゅうを目の前で食われて、小太郎はいてもたってもいられなかった。バスガイドが、激甘いそれを咀嚼しているうちに味わうのだと焦った。

 鬼のような眼力で女の顔を見つめ、その口の動きと己を同期させる。彼の口の中が甘味で満たされることはけしてないのだが、イマジネーションを極限まで膨らませると、非現実的な刺激が脳内を麻薬的な汁で満たすのだ。

「うんぐ、んぐ、んぐ、ごっくん」

 充分に噛みしめた後、腹の底に落とした。女は満足した表情でコーラを飲んで流し込み、険しい顔の少年は公園の水をゴクゴクと飲んだ。その様子があまりにも鬼気迫っていたので、左隣の女子は窓側に座る友人に座席を取りかえてくれるようにと頼んでいた。

 バスガイドが三度、中華まんじゅうにかぶりついた。  

「んぐ、はむはむ、んぐ、んぐ、うぐ」

 遅れてはならぬと、小太郎は口の動きをタイトにシンクロさせる。

 いま彼は、あんこがぎっしりと詰まった最も太い箇所を口の中に入れていた。思ったよりもあんこの層が厚く、一生懸命もぐもぐしないと咽につかえてしまう。すでに甘さは限界値を越えて、舌に貼り付いた味覚が咽の粘膜をねっとりと刺激しながら消化器官へと滴り落ちてゆく。至福の時はそう長くない。たとえ幻想であっても、手を抜いてはいられないのだ。

「みず~、水」とつぶやきながら、小太郎は急いで水を飲んだ。クワッと見開いた眼でしっかりと前を見据えながらゴクゴクと大量の水を飲む様は、近隣の住民に脅威を抱かせた。席をかえてもらえなかった左隣の女子は、体を窓側に寄せて、できるだけ危険物から遠ざかろうとしていた。いっぽう右隣の女の子は、捨てられた濡れ犬を見るような目つきだった。

「ハフハフ、ぐびぐび。もぐもぐ、ごくり」

 小太郎の架空な食事は続いていた。笑みを浮かべて中華まんじゅうを頬張るバスガイドの動きと、見事なまでに連動している。ほどなくして、彼女は最後の一片を食べ終わった。「ごちそうさまでした、うふ」と担任教師に礼を言うと、「はあ~~~あ~~、んん~」と、深いため息をついたのは小太郎だった。

 右隣の女子は、じつは鋭い洞察力と、なかなかの優しさの持ち主であった。壊れた腹話術人形のような一人芝居の小太郎が、なぜそのような行動をしているのかを知っていた。せっかく持ってきた渾身の中華まんじゅうを惜しんでいるのを、ちゃんと理解していたのだ。

「藤原、これあげる」

 そう言って差し出したのは、駄菓子の定番{よっちゃんイカ}であった。

「え~、あ~、」

 突然の、予期せぬ申し出に小太郎は狼狽する。いままで同級生になにかをもらうということがなかったからだ。しかも、相手は女子である。ふつうの男の子ならあらぬ勘違いをしてしまいそうだが、小太郎の場合、違う意味での戸惑いとなる。

「ああ~、え、んん~」

 見捨てられ続け、ネグレクトに浸りきった人生を歩んできた。不幸に慣れきった体は、優しさを示されても素直に反応することができない。かえって、これはなにがしかのワナであり、自分をイジメるための演出の一部ではないかと、ありもせぬ心配をしてしまうのだ。

「いらないの」

 心優しき女子は、よっちゃんイカを空になびかせて、早く受け取ってくれと催促する。それでも小太郎の手は出ない。あ~、う~と、か細く唸るだけだ。そうやってもたもたしていると、コソ泥の侵入を許してしまった。 

「やったー、よっちゃんイカ、もうらったっと」

 後ろの席にいた男子が、女子の手からよっちゃんイカを取り上げてしまった。

「康平、かえしてよ。あんたにあげたんじゃないよ」

「よっちゃん、よっちゃん、イカイカ~」

 康平という男子は、奪い取ったよっちゃんイカを誇らしげに掲げると、包装紙を破ってあっという間に食べてしまった。

「なにすんのー。かえせー、かえせー」

 よっちゃんイカの女子は憤慨して、座席に立ちあがると後ろを向き、へらへらとイカを食っている男子に猛然と掴みかかった。

「うぎゃあ、いってえ、離せよ、ブス。はなせって」

 この学年の女子の成長は、男の子よりも早いことがある。お調子者にありがちだが、康平はクラスでも小さな体格であり、サルという有り難くないあだ名で呼ばれることもあった。だから、その体格差で押さえつけられてしまった。

 小太郎はオロオロしていたが、自分が原因で争いになっていることを申し訳なく思っていた。特に、よっちゃんイカをくれようとした右隣の女子には恩義を感じており、康平と取っ組み合いとなっている彼女を応援したかった。

「あの~、そ~の~、へへ~」

 ヘラヘラしながら後ろを振り返るが、予想外に激しい取っ組み合いになっているので、なんともできなかった。

「おまえーっ、小太郎が好きなんだろう。ブスが小太郎すきだってさー」

 サルと呼ばれる康平は、クラスの女子が最も嫌がる言葉を二連発で叫んだ。彼の髪の毛を掴んで頭部をぐるぐる回している女子は、そのセリフにひるんでしまった。

「小太郎なんか好きじゃないって。なんでー、あたしがー、小太郎を好きになるのさっ。やだもー」

 女子は甲高くそう叫んだあと、自分の席に戻った。そのまま顔を伏せて黙っている。サルもやり過ぎたと思ったのか、自席でぶつぶつ言って、やがて無口になってしまった。周囲の空気も、やや微妙な静寂さである。

「あ~の~ね~」

 落ち込んでいる女子を慰めなければと、小太郎には珍しく漢を見せようとしていた。少なくとも彼女は、自分に好意を持っているはずだと判断しての行動であった。

「ぼく~ね~、」

「うっさい、あっちいってよ。もうやだあ、ああーっ」

 女子が泣きだしてしまった。ブスと罵られたことよりも、小太郎と仲良しと思われていることにショックを受けていた。

 小太郎は即座に黙った。そして体を固くして、それ以上の攻撃から身を守ろうとする。自分を嫌って同級生が泣いてしまった。忘れかけていた己のポジションをイヤというほど思い知らされて、安易な勘違いは許されないことだと猛省する。

「なんで、石川が泣いてるんだ。だれだ、泣かせたのは」

 騒ぎを嗅ぎつけた担任教師がやってきた。顔を伏せて泣いている女子を一目見て、誰が主犯かを確信したようだ。

「藤原、おまえが泣かせたのか。なにやってんだっ」

 担任教師は、軽いゲンコツをワルガキの頭頂部にお見舞いしてやろうとした。好みのバスガイドと仲良くなり、彼女の前で教師らしい指導をして格好つけようとする魂胆もあった。小太郎の頭上で、大人の大きな拳に、はあーっと息が吹きかけられた。

「あっと」

 このタイミングで、信号待ちしていたバスが動き出した。思わぬ急発進となってしまい、担任教師はよろけてしまう。手加減して拳を振り下ろしたつもりが、余計な加速度をともなっての打撃となった。

 ゴツンと、頭頂部に衝撃が響いた。小太郎は体罰を受けたことは何度もあったが、今日のそれは人生で最も破壊力のあるゲンコツであり、あまりの痛さに頭を手で押さえて縮こまった。しばし声を出せず、じっとしていた。

「とにかく、バスの中では静かにしてろよ」口端にあんこをこびりつかせた男がそう言った。

 昼食を理不尽に強奪された挙句に女子に嫌われ、さらに頭部を涙の出るほどぶたれてしまった。遠足という楽しい日に厄日のような最悪が連発する。小さな瞳に溜まった水滴を袖口で雑にぬぐうと、小太郎は水筒の水をひたすら飲み続けた。

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