第5話
日曜日の朝めし兼昼めしにありつけたと思ったら、不意にくっ付いてきた女児にすべてを食べられてしまった。小太郎はそのことをさほど気にしていなかったが、腹の虫のほうは大いに不満であった。グーグーと、のべつまくなしに猛抗議をしている。
だがいくら訴えても、主人である少年には腹に食い物を落とし込む手段を持っていない。紛らわす唯一の手段は、夕食の号令がかけられるまで極力エネルギーを使わずにいることで、それはすなわち寝ているしかない。
「あ~」
どうしたことか、いつもの時間になってもお声が掛からなかった。陽が暮れかかっても勝手口は開かず、藤原夫人の気配もまったく感じられなかった 小太郎の体内腹時計はきわめて精緻であるので、晩めしの時間に錯誤はないはずである。
「なして~」
どうして晩めしが出されないのか、小太郎は不思議で仕方がない。物置の引き戸を数センチ開け、小さな瞳を極限まで見開いて本宅の様子を見ていた。
そうしているうちに陽がどっぷりとくれて、周囲は真っ黒となった。小太郎の腹の虫は怒りを通りこして呆れてしまい、いまは沈黙している。その様子をせせら笑うように、夜の虫たちが歌い始めた。
待ちぼうけを喰らっているうちに、時刻は午後9時を過ぎてしまった。いつもならそろそろ眠気が差す頃合いなのだが、どうにも腹が減って落ち着かない。まだかまだかと、小太郎は諦めることなくひたすら待っている。暗闇の隅にある物置から、血走った目がギョロッギョロッと動いていた。その光景は、ある種のホラーであった。
いつもの勝手口ではなくて、本宅の玄関がざわつき始めた。誰かが出てくる予感がしている。今日は玄関から出てくるようだ、ひょっとするとご馳走なのかもしれないと、一瞬ではあるが、少年の心がときめいた。すぐにでも出ていかなければと、引き戸にかけた手に力が入った。
「ああ、っもう、めんどくせえ」
だが玄関灯に照らされているのは、少年が想定していた人物ではなかった。
「コタロー、コタロー、ちょっと出てきなさいよ」
その甲高い声は藤原夫人ではなく、娘の敦子だった。小太郎が最も苦手とする人物であり、天敵とさえ思っている。
彼女はジャージのポケットに手を突っ込んだまま、物置の前までやってきて、足の先で引き戸を何度も小突いている。もちろん、安全のため小太郎は出入り口からできるだけ離れていた。
「あんたさあ、メシ食ってないんじゃないの。今日、お母さんいないしさあ」
藤原夫人は実家に帰ったまま戻っていなかった。敦子は小太郎が食事をしていないことに気付いて、わざわざ様子を見にきたのだ。
普段はイジメに近いことを強いているのだが、敦子本人にその自覚はなく、スキンシップか軽めのトレーニングぐらいにしか思っていなかった。いちおう、弟である。
「・・・」
小太郎は警戒していた。これは巧妙に仕掛けられたワナであり、晩めしの話につられて迂闊に出ていくと、きっと大仰なプロレス技をかけられてキリキリ舞いな目にあってしまうと、世事に長けた大人のように分析していた。
「コタロー、なにしてんのさ、呼んでるっしょや。早く出てこいよ。蚊に刺されちゃうべさ」
この季節、物置の周囲には、けっこうな数の蚊が飛び交っている。新鮮な血を求めて、プ~ンと景気の良い羽音を響かせているのだ。小太郎は四六時中刺されているのでたいして気にもしていないのだが、勝気なわりに神経質な長女は、害虫のたぐいが大嫌いだった。
「あー、なんかイライラしてきたわ。早く出てこいって。チンポぶっこ抜くぞ」
さすがに、これ以上の籠城は危険であると判断した。
「えへ~へえ、えへへ~」ヘラヘラしながら、できるだけゆっくりと姿を見せた。
「なしてすぐに出てこなかったのさ。寝てたのか」
「ああ~、うん~」とあいまいな返事をする。
「コタロー、めしどうした。食ってねえだろう」
「あ~、そ~のう、うん~、へへ~」
責め口調で言われているためか、晩めしを食べていないことに後ろめたさ感じていた。暗闇の中でじっと見つめる敦子の視線が痛くて、下を向いたまま顔をあげられなかった。
本宅の玄関から誰かが出てきて、フラフラとした千鳥足で歩いてきた。敦夫である。雑にたたまれた洗濯物を持っていた。
「お父さん。コタローがさあ、やっぱりめし食ってないってさ」
娘は父親に、弟の窮状を報告した。ただし、さほど力を込めてはいなく、どちらかというと投げやりな態度だった。
「なんだよー、そうなのかあ。しゃあねえな、ったくよー、うっぷ」
日曜日ということもあり、敦夫は夕方からずっと日本酒を飲んでいた。かなり酔っており、直ちにその場でぶっ倒れても不思議でないレベルだ。
「ったく、子供の世話は女房の仕事だろうが」
普段は藤原夫人にまったく頭が上がらない夫だから、酒の勢いで愚痴をこぼすのだ。闇の中で妻への不平をぐちぐちと言っているが、娘の敦子はもとより小太郎でさえ聴いていない。
「さすがに、なんか食わせないとマズいっしょ」
じつはこの父娘、母親が留守にしている間隙をついて出前寿司をとって食べていた。特上生寿司に、サバのバッテラまで付けていた。
「食わせるっつってもなあ、なあんもないぞ」
冷蔵庫の中に材料はあるのだが、料理がからっきしダメな夫と娘は作る気がなかった。こんな遅い時間に、面倒くさいことしたくないオーラが漏れ出ている。
小太郎はオロオロしながら、上目使いに二人を見る。自分が怒られているような雰囲気はイヤだったが、この会話の流れから、なにがしかの食い物にありつけるのではないかと、若干の期待を抱いていた。
「そうだ、ラーメンあるっしょ。インスタントの二つ入ったやつ」
一つの袋にラーメンが二つ入った、お得なインスタントラーメンがあった。手ごろな値段でたくさん食べられるので、当時は人気商品だった。どこの家庭でも、いくつかは常備されているのが普通である。
「おーし。うっい~、そんだらなあ、父さんが作ってきてやるからな。小太郎、ちょっと待ってろよ~」
洗濯ものを小太郎に渡し、いまにも転びそうな足取りで、敦夫は家の中に戻ってしまった。
「よかったじゃないの、コタロー。あたしが気づいてあげたから、あんたはメシを食えるんだよ。あたしのおかげだね」
「あ~、ん~、へへ~、ありがと」
さも恩着せがましく言う敦子に、小太郎は愛想笑いをする。長女は満足して本宅へと帰った。
「ら~めん~、ん~、へへ~ん」
インスタントといえども、ラーメンを嫌いな子供はそうそういない。給食のソフト麺に生ぬるい汁をぶっかけたものでも大人気であった。もちろん、小太郎の好物でもある。
「ら~めんまあ~」
小太郎は胸をときめかせて待っていた。ただし、藤原家の主人は多分に酔っているので、作業は遅れがちとなる。三十分待ってもやってこなかった。これが藤原夫人であれば、手際よく調理して、すぐに「メシ」と叫ぶだろう。冷徹で薄情な女であったが、そうと決めれば行動が早かった。
勝手口のドアが開いて、やっと敦夫がでてきた。時刻はもうすぐ10時である。
「小太郎、ほ~ら、でけたぞ~」
アルミの鍋を片手で持った出前係りが、ようやく小太郎のもとへやってきた。相変わらず日本酒臭い息をハアハアと吐きだして、危なっかしい足取りである。
敦夫が勝手口に姿を見せた段階で、小太郎は物置の前に立った。本当は勝手口まで受け取りに行きたかったのだが、いつものアルミボウルを持っていくのかどうかわからず、結局待つことにした。
「なまらうめえからな、ぜったいだっ」
出前係りは、口端から唾を飛ばしながら鍋を手渡した。汁が規定量以上のラーメン鍋は存外に重く、栄養失調気味な小学三年生男子は両手で受け取った。敦夫は、鬼のいぬ間に良いことしたという感情を肴にして、まだ飲もうと思っていた。
「おまえの好きな味噌味だぞ。いま、カラシ入れてやるからな」
藤原家でのカラシは一味唐辛子のことである。ちなみに、小太郎が誰かに味噌ラーメンが好きであると告白したことは一度もないし、そもそも味噌味のラーメンを食ったことがなかった。学校給食のラーメンは、いつも微妙なしょうゆ味である。
「ほら、いっぱい入れてやっからなあ。ほらほら」
酔いの海で泳いでいる敦夫の勢いは粗雑であった。一味唐辛子を二度三度、五度六度と力を込めて振り続けた。じつは穴の開いた内側の蓋を外側のキャップだと思い、外してしまっている。第一振りで小ビンにあった激辛の粉末はすべて鍋の中に突入してしまっていたのだが、酔っ払った敦夫はもちろんのこと、闇夜のなか鍋を必死で持っている小太郎も気づいていなかった。
「小太郎、もりもり食って大きくなるんだぞ」
最後にそう言うと、敦夫はふらつきながらも意気揚々と戻った。小太郎は汁がいっぱいの、さらに一味唐辛子が致死量一歩手前のラーメン鍋を、こぼさぬように物置の中へと運ぶのだった。
電球が点いているので、ラーメンの異様な赤さを十二分に確認できているのだが、食い気に猛った少年の警戒心は薄かった。味噌ラーメンを食べるのは初めてなので、このような色をしているのだろう、くらいにしか思っていなかった。
「いた~だ~きま~す」
たった一人でのアイサツを終えると、小太郎は小学生とは思えぬバキューム力で吸い込み始めた。だが、
「か、から~~~~~い~」と雄叫びをあげると、けっほげほ、ぐええ、げっほ、ゲホホ、と激しく咳き込んだ。
痛覚を刺激するカプサイシンにやられ、さらに辛み成分たっぷりの汁が気管に詰まり、小太郎は壊れた操り人形のように爆ぜまわる。小ビンといえども、香辛料の威力は絶大であった。
「けっほ、けっほ、から~あ~い、ああ~、うま。ずるずる~、げぼっ、けっほ、から~、うま~。ら~めん、うんま~」
だがいくら激辛といえども、鍋の中身はラーメンなのである。しかも小太郎はどうしようもなく空腹だ。口の中が灼熱となっても、呼吸器官が悲鳴をあげようとも、食べずにはいられない。
「み~ず、みず~」
水筒の水が助けになった。小太郎は味噌ラーメンを初めて口にしたが、これほどまでに厳しい味であったかと、ある種の感慨にふけりながらも食うのを止めなかった。
物置という小さな空間に悲鳴と感嘆と歓喜が入り混じり、味噌臭い蒸気とともにわだかまっている。虫の鳴き声は、しばしの間止まっていた。
時が少しばかり経過した。唇を熟成しすぎたタラコのように腫らして、小太郎はラーメンをすすり尽くした。麺のみならず、血の池のような真っ赤な汁もすべて飲み干してしまった。鍋の底に溜まっていた唐辛子の粒も、人差し指でこそぎ取って食べた。
「ぷへ~」
酔っ払った中年男みたいに、だらしない吐息を吐いた。ラーメンをたらふく食ったせいで、心の大部分が満たされていた。ゴロンと寝床に横になると、熱のこもった寝息を吐き出しながら寝てしまう。安眠の時が訪れたが、数時間後には苦悶の扉が開くことになった。
草木も眠りこける丑三つ時、夜道を川原に向かって歩く小さな人影があった。それは体をくの字に折り曲げて、さらにお尻を手で押さえながらヨタヨタとしていた。
「ん~、げ~り~」
小太郎である。あまりにも唐辛子過多なラーメンを夜遅くになって食べたため、お腹を壊してしまったのだ。下腹がゴロゴロとうるさく、さらに痛みもあって寝てられない。下痢の予感があった。
決壊の危機が迫り、小太郎は小走りになって河原へと急いだ。いつもの公園の便所を使わないのは、夜は真っ暗で便槽に落ちてしまう危険があるからだ。
「おひゃ、ひぇあ~、いた、いたたたた~、んんぐ~」
川原に着くなり、小太郎は即座に下痢をたれ始めた。お腹の痛さもさることながら、唐辛子の大量摂取により肛門の毛細血管が熱く沸騰していた。踏ん張るたびに、ズシ~ンとした痛みが背骨を駆け上がってくる。
「ん~、ん~、ん~」
ぶりぶりぶりと吐き出された下痢の量はたいしたことなかったが、問題はあと始末である。腫れあがった尻の穴を拭くのは、相当な困難が予想されるからだ。
ナナフシのように細い手が、学校からくすねてきた便所紙を極限までもみほぐして、腫れあがったその部分へ、そっとあてた。
「くうううう」
真夜中、川原の片隅で小さな動物が唸っている。真っ黒なせせらぎを耳に入れながら、小太郎は尻の痛みと明日の遠足について考えていた。下痢をするとどうしてこんなにお尻の穴が痛いのか、そして遠足弁当はどんなものになるのかと、額に脂汗をにじませながら思うのだ。
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