第4話
驚くべきことに、小太郎が日曜日の朝食にありつけることができた。前の日と同じく、コッペパンがないので空腹のまま過ごさなければならないと覚悟していたのだが、早朝にやってきた天使は意外な人物だった。
「小太郎、洗濯物あるだろう。洗うからもってきなさい」
物置の外でボソボソと言っているのは、藤原家の男主人である藤原敦夫である。彼は小太郎には無関心で滅多に話しかけたりないのだが、珍しくも今朝は、わざわざ外へと出てきた。
「まだ寝てるのか」
小太郎の衣服は汚いことが当たり前であったが、たまには洗濯する必要がある。ボロジャージは上下一着しかないが、学校のない日の朝、天気と藤原夫人の機嫌が良ければ洗ってもらえるのだ。
小太郎はすぐに物置の引き戸を開けて、彼の前に立った。
「あ~、のう、」
女主人に怒られたり小言を言われるのは日常茶飯事であるが、敦夫に話しかけられるのは稀であった。なんと応対したよいのかわからず、少年はモジモジとしていた。
「母さんは今日いないんだ。婆さんがダメっぽくて、あっちの家に帰っているからな」
長らく入院していた母親が危篤となり、藤原夫人は急遽実家へと帰っていた。
「はへ~、えへへ~」
祖母の危篤ときいてヘラヘラと笑みを浮かべるタイミングではないのだが、大人のご機嫌を損ねないのが小太郎の習性となっている。とにかく、意味もなく笑う。
敦夫はとくに怒るわけでもなく、かといって親しい態度を見せることもなく、どこか遠くを見ながらさりげなく言った。
「小太郎、朝めしはどうするんだ。どうして取りに来ない」
小太郎に朝食を食べさせていないことを、敦夫は知らなかった。いや、わざわざ物置に隔離しているくらいなので 自分の妻がネグレクトをしているとなんとなくわかってはいるが、あえて見て見ぬふりをしていた。養子のすべての面倒は夫人が管理しているので、ヘタに意見すると夫婦仲が面倒なことになるからだ。小太郎が毎日夕食を受け取りに来るのは知っていたので、朝食を含めて、食い物はそこそこ与えていると思っていた。
「ん~、パ~ン、ないの~、へへ」
コッペパンの蓄えがないことが、とても恥ずかしく感じていた。小太郎は下を向いて、ボソボソと言う。
「ああ、パンか」
小太郎のあやふやな返答から、藤原夫人は彼への朝食としてパンを与えていると、敦夫は考えた。
「食パンならあるから、勝手口に取りにくるんだ」
「え~、ああ~、ん~」
「ああ、その時に洗濯物を持ってくるんだぞ」
そう言うと、敦夫は本宅へと戻った。
ひどく黄ばんだパンツとシャツを持って、小太郎はいつもの勝手口に行った。今日は外出するつもりなので、ジャージは出さなかった。
敦夫は食パンの束を持ってきて、食卓に置いた。ジャムの瓶をひねり、中にスプーンを突っ込んだ。朝食がもらえるなど思ってもいなかったので、勝手口の外に突っ立っている少年の心はどぎまぎしていた。
「イチゴジャムしかなかったけど、おまえはなんでも食うからいいだろう」
敦夫が差し出したのは、イチゴジャムを塗ったジャムサンドだ。上下二枚の食パンは厚切りタイプであり、しかも手加減なしに盛られたジャムは相当な量となり、ズシリとした重量感があった。
「あ~、そ~の~、ありがと~」
洗濯ものをあずけ物置に帰った小太郎は、なぜかジャムサンドを食べようとせずに寝床の上に置いた。そして右から左から上からと、視点を変えながら忙しく見つめた。
「きゃっ、じゅびっ、しゅっしゅー」
突如、意味不明な奇声をあげ、解読不能なジェスチャーをし始めた。ほとんど身動きできない狭小な空間で、少年は一人小躍りする。まるで原始人が、斃した獲物を前にウホウホやっているかのようだった。
「どうし~よ~、っかな~」
小太郎の一人歓喜は続いていた。ジャムサンドを神のごとく崇め、教祖様のように敬ったあげく、結局は朝食としなかった。極上の楽しみは昼食へと持ち越された。
尊きジャムサンドに後ろ髪を引かれつつ、小太郎は物置を出て、さらに藤原家の敷地を後にした。今日は休日であるので学校へ行く必要はないのだが 自販機でのつり銭探しという仕事がある。月曜日の遠足のおやつを買うために頑張らなければならない。百円玉でも五十円玉でも、最悪十円玉一枚でも欲しいと考えていた。十円あれば、駄菓子屋で麩菓子やガムが買えるのだ。
家近くの自販機を片っ端から物色していると、のどが渇いてきた。小太郎は飲料水を補給する公園へと歩を進めた。残念なことに小銭の収穫はまったくなかったので、ややがっかりしながら園内へと足を踏み入れる。水筒を持参していたので水を入れようと、水飲み場へやってきた。赤い容器を満タンにして、お昼になったら物置の家に戻り、ジャムたっぷりの食パンを頬張るのだと、蛇口をひねる手に気合が入っていた。
「ん~」
水筒口に蛇口を突っ込んで水を入れていると、背後からの視線を感じた。小太郎が振り向くと、そこに小さな女の子が立っていた。幼稚園児くらいの年だろうか。乾いた垢が顔にへばり付き、ゴアゴアによじれたフケだらけの髪の毛が汚らしかった。着ているのはランニングシャツ一枚だけで、それもたいがいに薄汚かった。しかも丈が短くて下半身が露出気味である。シロウトが描いた落書きみたいな女性器が、チラチラと見えていた。
「きゃきゃきゃ、あきゃー、あひゃー」
なにがうれしいのか、小太郎を見て騒ぎ出した。笑いながら飛んだり跳ねたり、あるいは回転花火のように、その場を回っていた。
小太郎は、乞食のような女児がチラチラと見せる女性器が気になっていた。しかし男子といえども、彼はまだ小学三年生である。性的に興奮というものからは程遠い欲望であったが、そういうものが気になり始める年頃ではあった。
「うわ~」
女の子がいきなり抱きついてきた。キャッキャと喜びながら、瑪瑙色の鼻汁を顔ごとなすり付ける。汚いことには慣れっこの小太郎も、他人の汚物は好きになれなかった。汗っぽい体をやんわりと押して引き剥がそうとするが、女児はハエ取り紙のごとく粘着して離れない。どういうわけか、すっかり懐いてしまったようだ。
小太郎は友だちや知り合いや子分を、あえてほしいとは思わなかった。煩わしいだけだし、一人でいるほうが気楽だった。だから親しくなる前に、その場から退散しようとした。
「つ~いて~、こなくて~、いいか~ら~」
女児は、相変わらずニコニコ笑いながら小太郎のあとを付いてくる。近くに保護者らしき人影は見当たらない。その極めて簡素な格好と不潔具合から、家庭環境は推して知るべしで、おそらくロクに構われることなく放置されているのだろう。小太郎と似た状況であるが、幼い女の子である分だけ悲惨であった。
「い~いから~、あっち~いけよ~」
いくら追い払おうとしても、幼女はついてきた。てくてくと、いまにも転びそうな拙い歩き方が、少年を過剰に心配させる。放っておけずに、たびたび手を貸してやるのだが、そうするとますます懐いてしまう。
無理に追っ払うことを諦めた小太郎は、その女の子を無視して自販機での小銭探しを続けた。かまわないでいると、そのうち飽きて帰るだろうとの目論見だ。
「きゃっきゃ」
だがしかし、女児は面白がって少年の真似をする。自販機のつり銭口に手を突っ込んだり、地面にしゃがみこんで、裸の下半身をチラチラ見せながら筐体底面の隙間をまさぐっている。その情けない姿をみた小太郎は、自分がやっていることの卑しさを存分に思い知らされてしまった。
自販機での小銭探しを止めて、物置の家へと帰ることにした。昼にはまだまだ時間があるが、早めに帰って、とっておきのジャムサンドを食べようという魂胆である。
「あのね~、ついて~くるなあ」
シッシと追っ払っても、女児は相変わらずくっ付いてくる。なんだかんだ歩いているうちに、とうとう物置まで来てしまった。
ここで小太郎は、どうしようかと悩んでしまう。誰かを敷地内に連れてきたのを藤原夫人に見つかったら怒られてしまうのだが、今日は留守なのでその心配はない。だが、いつ女主人が帰ってくるともしれないし、長女の敦子に見つかれば告げ口されてしまうだろう。力ずくで追い払うしかないが、乱暴なことは少年の性格にも体格にも合わなかった。
どうしたものかウダウダ悩んでいると、具合の悪いことに雨が降ってきた。パラパラと時雨にもとどかない勢いであったが、人を濡らして不快にさせるほどの量は確保していた。
小太郎が物置の中に入った。力を込めて扉を閉めるが、女の子がかろうじて通過できるほどには開けている。積極的に招き入れることはしなかったが、かといって締め出すわけでもなかった。どうするかは、なりゆきと女の子しだいだ。
開いた隙間の向こうで、女児の小さな顔が揺れていた。なにか言葉らしき声を発しているが、なんと言っているのか小太郎にはわからなかった。三十秒ほどの時が過ぎる。女の子は入ってこない。耳を澄ますと、あの鬱陶しくも可愛らしい気配がなくなっていた。雨が余程強くなって、天井の波板を叩いている。
おそらく、あの子は帰ったのだろう。雨に当てられて泣きながら歩いているかもしれない。なんだか悪いことをしたような気持になって、少年の心は重くなった。後味の悪さが、ほろ苦い刺激となって口の中にわだかまっていた。
雨が入ってくるので、引き戸をしっかりと閉めようとした。だが中途半端に開けっぱなしにしていたので、レールが引っ掛かってしまっている。力を込めて押しても閉まらない。しかたなくいったん開け広げてから、勢いをつけて閉めることにした。その扉は、そういう癖があった。
「あひゃ」
だけど扉に手をかけたとたん、小太郎は、びっくりして悲鳴をあげてしまった。
「きゃっきゃ」と笑い声がした。なんと、あの幼女が隙間に顔を突っ込んできたではないか。
雨で濡れた髪の毛が、小さな額にべっとりと貼り付いている。まるで、岩場に打ち上げられたワカメのようであった。
「ああ~」
小太郎がうろたえているうちに、女の子は隙間に頭を突っ込み、さらに体をねじり入れてきた。しかし尻のあたりでつっかえてしまい、ぎゃあぎゃあと喚いている。少年が引き戸を少し緩めると、外側から尻を蹴飛ばされたごとく、勢いよく中へと入ってきた。
女児は相変わらずキャッキャと笑っていた。一枚だけの薄汚い肌着が雨で濡れて、ぴったりと肌に粘着していた。そのままでは風邪をひいてしまいそうである。
小太郎は気を利かせて拭いてやることにした。女の子の肌着と同程度に薄汚れた手ぬぐいで、頭のてっぺんから順に濡れている箇所をぬぐい、そして下半身まできたときに、ハッとしてためらった。
「あ~、えっと~」
そこは、通過儀礼を経ていない男が触れてはいけない領域である。もちろん、気弱でヘタレな小太郎は、なにかをしでかそうとはしない。ただチラチラと、わざとらしく目を上下させるだけだ。
未熟な性を見透かしたのか、女児は「みるかみるか」と言いながら、肌着の裾をたくし上げて、さも自慢げに秘部を見せつけた。
小太郎は、サッと立ち上がった。手ぬぐいを女の子の頭にかぶせて、明後日のほうを見る。顔は恥ずかしさで赤くなっていた。十秒ほどのインターバルがあった。
「あれなあ、あれなあ、なんぞー」
女児が気にしているのは、寝床に置かれたジャムサンドだ。
「あんな、はらへったなあ。うちなあ、へったなあ」
そう言って、たっぷりのイチゴジャムがはみ出した食パンを食い入るように見つめていた。
「んん~、一口だよ~。一口だったら~、いい~」
スケベ心を見透かされた後ろめたさから、小太郎は、この女の子にちょっとだけ齧らせてやることにした。ジャムサンドが壊れないようにそっとつかむと、小さな手に持たせた。
すると乞食女児は、もの勢いで食べ始めた。それはもう飢え切った肉食獣のように、顔中を真っ赤なジャムで汚しながら貪り食うのだ。
「ケッホケホ」
当然のことながら、小さな食道と気管はその猛攻に耐えられない。むせてしまい、青っ洟を垂らしながら咳き込んだ。
「ほ~ら、んん~、水、み~ず」
慌てた小太郎が、水、水と叫んで水筒の水を飲ませた。女児は差し出されたカップではなく、少年の手をがっちりと掴んでゴクゴクと飲み干す。プハーと酒場のオヤジみたいな吐息をしたあと、残りのジャムサンドを瞬く間に食べ尽くしてしまった。口の周りと手がジャムでべとべとであり、また手ぬぐいで拭いてやらなければならなかった。
満腹になったのか、女の子は素晴らしい笑みを浮かべた。その笑顔はプライスレスであり、せっかくの昼食を食べられてしまったことを、小太郎はそれほどガッカリとはしていなかった。
二人はしばし物置に滞在したあと、外に出た。
小太郎は女児を公園まで連れていくことにした。手を引いて歩いたのだが、そういえば誰かと手を繋ぐなんてことは初めてだと、いまさらながらに思った。相手はオモチャみたいに華奢な手であったが、確固とした熱量を受け取ることができた。嘲りも邪心もない無邪気な温かさが伝わり、少年の気持ちはほんわかと火照った。雨は、すでにやんでいた。
公園に着くと、ブランコのそばに大人の女が立っていた。腕を組んで二人のほうをじっと見ている。瘠せた体つきで、キツネのような顔をしていた。遠めに見ても神経質そうなのがわかる。女児は一瞬硬直した後、重い足取りでその女の元へと行った。
「どこに行ってたっ、このバカが」
バシっと頭をぶっ叩かれて、小さな体が大きくよろめく。なんとか堪えてはいるが、幼顔の筋肉は崩壊寸前だった。女は小言をぶつけ始めた。いっさいの温かみを排除した刺々しい言葉だ。どうにも辛抱しきれず、女児はうつむきながら泣き始めた。母親は口撃を止めることなく、そのまま娘を引っぱっていった。
親子が公園から出ていくのを確認してから、小太郎は物置の家へと帰った。そういえばジャムサンドがあったのだと喜んだが、いや、それは女の子が食べ尽くしてしまったのだと思い出した。どうにも腹が減っていたが、そのまま寝床にごろりと横になって、晩飯の号令を待つことにした。
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