第3話

「来週の遠足のプリント配るぞ。おやつの金額間違えるなよ。多いやつは先生が食うからな」

 帰りのホームルームで、三年三組の担任はそう言って、ガリ版刷りの手製プリントを配った。彼は教育不熱心であったが、他人の不利益になり自分が得することにかんしては有言実行であった。超過分のお菓子を取り上げて、そのまま自らの腹の底に流し込む芸当は、過去に何度もやっていた。

「二百三十円って、すくない」

「これ、ポッキーとチョコかったら、なんにも買えないよ」

「おれ、十円ガム二十三個買う」

「ガムおとこ、キッーーク」

 児童たちは、おやつの購入限度額には不満なようである。多くの女子が顔をしかめ、隣や前後の席の子と嫌味を言い合い、男子は大げさに騒いで学校当局の押し付けに有言の抗議をするが、決まったことを覆すには至らなかった。

 遠足というのは誰もが楽しみにしている学校行事であるが、できれば棄権したいと思っている児童も若干名存在する。理由は様々であるが、だいたいがパターン化しており、乗り物に酔ったり、集団行動が苦手だったり、貧困家庭で親がお弁当その他の用意を熱心にしてくれない、などである。

 小太郎は、来週に遠足があるのをすっかり忘れていた。今日は大事なコーラ瓶やパンが入ったカバンを捨てられ、クラスの皆からは汚物扱いされ、余りもののパンを手に入れられなくて散々だったのに、さらに週明けの遠足のことも悩まなければならず、暗澹とした気持ちになってしまった。

 遠足先では給食がない。お弁当を作ってもらわなければならないのだが、それを藤原夫人に説明するのは骨が折れる作業だ。遠足にきてお弁当がないというのは、いかにみじめさに慣れている小太郎でも、耐え難い不条理であり羞恥となる。

 前回は、嫌味と罵声を身が縮むほど浴びせかけられて、ようやく小さなおにぎりを拵えてもらった。ゴマ塩も中身に具材もない白飯をテキトーに握っただけだったが、あるだけマシであり、かろうじて人間の尊厳を保つことができた。

 あの時は作ってもらえたが、今回もそうであるとは限らない。交渉には相当な困難が予想されると、小さな心の空間にどんよりとした雲が垂れこめていた。どれだけの小言を受け続けなければならないか、その難儀を想像するだけで、小太郎は思わず目をつむってしまう。

 放課後となった。カバンがない小太郎は教科書類を机の中に入れて、手ぶらで下校する。いつもなら図書室でだらだらと時を潰していくのだが、今日はやらなければならないことがあるので、急ぎ足で校門を出た。

 空き瓶を求めて、小学校の近くの空き地や小川の傍、ゴミ置き場などさ迷っていた。この当時、コーラの瓶は10円~30円の値がついていて、たとえ道端に捨てられていたとしても、誰かが拾って店で換金してしまうのが常だ。何本か集めれば駄菓子が買えるので、とくに子供にはいい小遣いになる。

 現代のポイ捨てされたペットボトルのように、そうそう数はないし、思ったよりも見つけにくいのだ。ただし、泥に埋まっていたりして著しく汚いものは、回収されずに放置され続けている。小太郎の狙いはそれであった。

 必要のないときは目につくのに、いざ探そうとするとないものだ。小太郎はあっちこっち動き回ったが、割れたりヒビの入った瓶はあったが、水入れとして使えそうなのはなかなか見つけられなかった。

「あ、これはいい~」

 諦めかけていると、スーパーのゴミ置き場で赤い水筒を見つけた。アニメの絵がプリントされたプラスチック製の小さく安物の水筒で、幼稚園児、とくに女児がよく使っているものだ。傷だらけで汚れていたが、穴はないようである。小太郎は、ためしに蓋をとってニオイを嗅いでみた。多少埃っぽいが洗えば使えると判断し、持ち帰ることにした。

 公園の水道で容器を洗う。中なら干からびた数匹のワラジムシの死骸が出てきたが、小太郎は気にかけない。そのまま水を満タンにしてキャップを閉めた。少しばかり緩くなっており揺らすと漏れ出てきてしまうが、少年にとっては些細なことだ。

コーラの空き瓶より軽くて、外キャップがコップ代わりにもなる。案外いい拾いものだったと、にやりとした。肩ヒモ付きなので、たすき掛けして意気揚々と歩き出す。まるで新品を買ってもらったかのように、表情は朗らかだ。水が確保できて安堵したのか、足取り軽く家路についた。


「メシ」

 藤原夫人が勝手口から叫んでいる。この号令は、たいていは一回しか響かないので、小太郎は聞き逃さないようにダンボの耳となっている。そして物置から飛び出すと、唯一の食器であるアルミのボウルをもって馳せ参じるのだ。

「今日はカレーだからね」

 珍しく、藤原夫人がカレーライスであると言った。いつもは何を出すのか言及することなく、ただ粗雑に盛られるのだが、今晩は恩着せがましく接した。カレーライスを嫌いな子供はいない。小太郎もそうであると確信しているからこその宣言であった。

 アルミボウルに冷や飯が盛られ、さらにカレーのルーがかけられた。ただし、そのカレーは前の日に藤原家で食された余りであり、しかも鍋の底に焦げ付いているのを、お玉でゴリゴリと削り取ったものだ。焦げたエキスが固まったもので、かなり粘性がきつくなっており、もはや固形物である。

 もちろん、肉も野菜もない。溶かされたはずのカレーのルーが、再びカレーのルーに戻ったような状態になって、冷や飯の山頂を覆っていた。

「こ~れ~、プリント~」

 カレーライスを足元に置いて、小太郎は尻のポケットからプリントを取り出して、やや遠慮がちに差し出した。

「なんだいこれは」

 藤原夫人が皺だらけになっているそれをひったくって広げ、さも汚いものを見るような目つきで眺めた。

「えんそく~」と、少年のか細い声がひらひらと舞う。

「だからなんだい」

 女主人の声は容赦ない。お弁当のことを言い出さなければならないのだが、以前さんざんに嫌味を言われたことがあったので、小太郎は臆していた。

「きゅう~しょく、ないの~」

 弁当を作ってくれとは言えずに、遠回しに給食が出ないことを知ってもらおうとした。

「なんだい、まさか弁当作れっていうのかい」

 小太郎の目論見は、とりあえずは成功したが、ここからが正念場であった。

「ああ、うん」

 顔を上げることができず、下を向いたままそう答えた。足元に置いてあるカレーライスのボウルを、うつろな目で見つめる。

「おまえ、いっつも食ってるパンがあるじゃないか。それもってけよ」

 ネグレクトを強いているくせに、藤原夫人は少年の生活パターンについてよく知っていた。

「ああ~、それ~、もう~ないの~」

 コッペパンのストックはすでにない。明日明後日は土日となるので、新たに給食の余りを得る機会もないのだ。

「チっ」と大きな舌打ちが響く。藤原夫人は、プリントを穴のあくほど見つめてなにも言わない。小太郎は、ますます下を見なければならなかった。

「ああ~、う~、んん」

 少年は、その沈黙に耐えることができなくなった。言葉にならない声を発しながら、足元にあるボウルを持った。遠足弁当の件は諦めてしまう。そのまま勝手口に背を向けて、とぼとぼと物置小屋へ歩き始めた。

「朝、取りに来るんだよ」

 きつい声色だったが、女主人は確かにそう言った。小さな体が振り返ると、彼女の姿はすでに家の中へと消えていた。

「ふ~あ~」  

 喜びのあまり小躍りした小太郎は、危うくカレーライスのボウルを落としてしまいそうになる。「ふふふ」と一人悦になってほくそ笑みながら、物置の家へと急いだ。そして濃い味のカレーライスにがっつき、拾った水筒の水をグビグビと飲んだ。

おやつを買うお金はもらえないが、弁当の手配にめどがついたことは大きな収穫となった。絶大なる安心感が、焦げだらけのカレーライスを天上のご馳走へと変えていた。


 土曜日曜は、朝食のパンがなければ一日一食の生活となる。土曜日は午前中だけ授業があるので、学校には行かなければならない。そして給食は出ないので、小太郎の数少ない楽しみは没収され、さらに空腹に苛まわれることになる。

 登校時、小太郎は自動販売機のつり銭口や筐体の下をまさぐる。百円でも見つけることができれば店で昼食のパンが買えるし、もし二百円三百円と予想外の硬貨を得ることができれば、遠足のおやつを買うことができる。

 今朝はコッペパンがないので朝食抜きだ。朝寝坊で、あるいは食うのが面倒で朝飯を抜くという子供は多いが、小太郎の場合は食べたくても食べるものがないという切羽詰まった事情であった。グーグーと腹を鳴らしながら、泣きそうな顔で自販機から自販機へと渡り歩いていた。

 残念ながら、早朝からの小銭探しはまったく成果があがらなかった。少額とはいえ、お金である。そうそう都合よく落ちていたり忘れられてはいないのだ。

「ああ、これ~、いいのかな~」

 しかし、思わぬところに幸運が落ちていた。現金を手に入れることはできなかった小太郎であったが、ビーボの自販機裏にカバンが捨てられているのを発見した。黒いビニール革がテカテカと光ったいかにも安物だが、破れや穴はなかった。この当時はマジソンバックが流行っていたので、その劣化コピー商品である。土や草で少しばかり汚れていたが、不衛生とは顔馴染みの少年には不都合とはならなかった。

「うんちとか、ないよね」

 しかしながらカバンに人や動物の糞が付いているのは、いかな小太郎でもさすがに見過ごせない。それが故に、前のカバンを中身ごと捨てられてしまい、さらにクラス中の嘲笑と軽蔑の的になってしまった。だから、とくに底のほうを入念にクンクンする。

「うん、だいじょう~び」

 汚れてはいたが、糞のたぐいは付着していなかった。ビニールの安っぽい化学臭が若干と、あとはキノコのような埃のニオイだけだった。

「えんそく~、ふふふ」

 小太郎は、そのカバンを遠足に持っていくことを想像した。先日拾った赤い水筒とお弁当が一つのカバンに収まり、いかにも遠足であるとの匂いが満ち満ちる。目的地についてチャックを開けるとき、その浮ついた芳香が興奮と感動を呼び起こすのだ。あとはお菓子類があれば完璧なのだが、多くは望まなかった。

 土曜日の授業が昼前に終わった。帰りのホームルームの後、蜘蛛の子を方々に投げつけたように児童たちが家路につき、午後はめいめいの過ごし方に勤しむ。

 だが小太郎にとって、土日の空き時間は鬼門の方角であり、できれば通過したくはないと思っていた。なぜなら、家に帰るまでの余暇が長くて時間をつぶすのに苦労するのと、そしてこれが最も大きな理由なのだが、給食の供給がないので、空腹のまま夜まで我慢しなければならないからだ。コッペパンのストックがあったとしても、それらは朝食用なので、どのみち昼食抜きとなる。次の日の日曜日は朝から暇なので、もっと辛くなる。週末は、ひもじさとの戦いなのだ。

 これは秘密というわけではないのだが、小太郎には、そんな憂鬱な時を有意義に過ごす場所があった。

 家の近所にあるスーパーである。週末、そこの惣菜コーナーには試食台が置かれのだが、見るからに貧相な少年を可哀そうにおもい、試食品を分けてくれるおばさんがいるのだ。

 毎回いるわけではないし、忙しいときなどは相手にしてもらえなかったりするが、餃子だったりウインナーだったりをくれたりする。あくまでも試食の範囲内であるが、多分に温情が加算されるので小太郎には喜びとなった。しかも、それらは小学生の華奢な体には相当量のカロリー補充となり、また藤原家では滅多に味わえないご馳走でもあった。

 だが、今日の惣菜売り場の隅に設置された机にいたのは、小太郎の知らないおばさんであった。踏み潰されたカエルのような顔をした、いつもの売り子は出勤していないようだ。

「ああ~、う、う~」

 あやしげな少年が、か細く唸りながら試食コーナーの前をうろついている。いかにも貧困で金など持ってなさそうな風体の子供を、本日の試食担当者はイヤそうな表情でチラチラと見ていた。可哀そうだからといって、こういう手合いの子供に食べ物を与えると、図にのってしつこく付きまとうようになる。甘やかしてはダメ、絶対に試食させはしない、という鉄のポリシーの持ち主だった。

「どうせ買わないんでしょ。だったら帰りなさい。ほら、あっち行きなさいって」

 シッシと手を振って、瘠せっぽっちの小動物を遠ざけようとする。これ以上ここで粘ってもカエル顔のおばさんは現れないと悟った小太郎は、シュウマイの香ばしい蒸気に尻を叩かれながら退散するしかなかった。


「メシ」

 約一日ぶりの号令が待ち遠しかった。唯一の食器であるアルミボウルを手にした小太郎は、物置から鉄砲玉のようにとび出した。

「そんなに急ぐんじゃないよ、危ないじゃないか」

自分の元へと駆けつけてくる少年の勢いが凄くて、藤原夫人は少しばかり面食らってしまった。

 今日の晩飯は豚汁飯である。豚汁のほかにご飯があるのではない。いつもの冷や飯に豚汁をぶっかけたもので、巷では猫めしとか犬めしとか呼ばれている盛り方であった。

「残すんじゃないよ」

 給食のない日は飯の量が多くなっている。とくに今日は冷や飯が余っていたので、大盛りだった。法律上の保護者は、我が子の健康をそれなりに気づかっているように見えた。

「うん」

 猫めしの時にかぎらず、少年に供される食事の具は必要最小限にとどめられていることが通常であるが、今晩は珍しく肉がのっていた。脂身がビラビラと目立つ大ぶりのバラ肉が二枚ほど飯の上にあった。汁には肉から溶け出した脂が浮いており、いかにも美味しそうだ。当然、小太郎の心は小躍りすることになる。

 藤原夫人は腕を組んで見下ろしていた。本日は渾身のバラ肉二枚載せである。コイツはさぞかし驚愕の表情をするのだろうと、底意地の悪さが中年女の背中をゾクゾクさせていた。

 だが、少年の目はそれほど輝いてはいない。かえって戸惑っているような、あるいは躊躇っているような様子だった。ちっちゃな瞳が右に左に斜め下へと泳いでい  

「なんだよ、不満でもあるのか」

「あ、うう、あ~の~、」

このとき小太郎は、豚汁飯の肉についてはたいへん満足していたが、それとは別に、どうしても心につっかえていることがあった。

「言いたいことがあるなら、ハッキリしろっ。飯に文句あって不貞腐れてるのかい。なに様のつもりなんだよ、キモ焼けるねえ」

 せっかく肉を載せてやったのに不機嫌な態度をしやがって、と藤原夫人は憤慨する。猛禽の目線が、少年の頭上へと容赦なく落下していた。

「あ~、ごはん~、ありが~と~、へへへ~」

 気まずくも剣呑な雰囲気を察した小太郎は、とっさに笑みを浮かべて女主人のご機嫌をとろうとする。これ以上、彼女の怒りを買うのは避けなければならない。

「ぶたぢる~、へへ~」

 この時、小太郎は遠足の日のお弁当のことを気にかけていたのだ。いちおう作ってもらえるという了解は得ているのだが、なんだか心もとない態度だったので、ここでもう一押しして、しっかりとした確約をもらって安心したいと考えていた。ただどのタイミングで話を切り出したらいいのか、逡巡していたのだ。

「結局食うのかよ」

 さも媚びたように上目をつかう少年をじっと見下ろして、藤原夫人の不機嫌はおさまってきた。一時は豚汁飯が入ったボウルを取り上げて、中身を力の限りぶちまけてやろうとの気配を出したのだが、その危機はギリギリのところで回避された。

 小太郎は意を決して、月曜日のお弁当のことを忘れないように念押ししようとした。猫めしを両手で持ち、ヘラヘラしながら一歩前に出る。

「あ~の~ね」

「うるさいねえ、おかわりならないよ」

 ちょっと甘い顔をするとすぐにつけあがる。肉を二枚もあげたのにまだねだってくるのか。ガキはこれだから始末に負えないよ。

 藤原夫人の心の声は存外に大きかった。二度ほど舌打ちしたあと、サッと家の中に入ってしまった。

「ああ~、ん」

 大事なことを言いそびれてしまい、小太郎はしばし呆然としていたが、女主人が戻ってくることはないので仕方なく物置の家へと帰った。そして、すぐに生ぬるい豚汁飯をしゃばしゃばとかきこんだ。久方ぶりの食事は涙が出るほど美味くて、夢中で食っていた。

 小学校低学年の児童が食べきるには余程の量だと思われたが、三分もかからずに完食してしまった。最後に赤い水筒の水をガブガブ飲んで軽くゲップをする表情は、とても穏やかで幸せそうであった。弁当の件を確認することはできなかったが、とりあえず満腹になったので、それ以上思い悩むことはしなかった。

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