第2話

 小太郎は小鳥の鳴き声とともに目が覚める。それらはおもに、スズメやスズメやスズメであって、たまにカラスの足音が混入することもある。物置の屋根は金属製の波板なので、カーカー野郎がちょこまかと歩き回ると、よく響いて目が覚めてしまう。

野生の鳥たちの朝は、いつも早すぎる。彼らの声など気にせずに眠り続ければいいのだが、小太郎の物置は隙間だらけで、防音には程遠い。

 早起きしたからといって、とくにやることはなかった。なにせ二畳ほどの空間にいるので、ベッドの上からほぼ動けない。下手に外に出てチョロついているのを藤原夫人に見つかると、しこたま怒られてしまう。死体のように茫然と横たわるしかなかった。

 登校時間近くになると、小太郎は死体のような体を起こして、ようやく身支度を始める。コーラの空き瓶に入った水をカップに注ぎ、ハの字に毛羽立った歯ブラシで口の中をゴシゴシする。ハミガキチューブも塩もないので、ただ磨くだけだ。顔は洗わない。その分の水はないし、一枚しかないタオルは雑巾みたいな臭いがするので、なるべく使わないようにしていた。

 朝食は自己責任というのが、藤原家が小太郎に押し付けているローカルルールだ。つまり、朝飯を食いたければ自分でなんとかしろとの、じつにスパルタンな教育方針である。だから朝に勝手口が開いて、藤原夫人が大声で叫ぶことはなかった。

 おもに前の日の給食で余ったコッペパンが、小太郎の朝食となる。いつも前日に余りのパンが手に入るとは限らないので、数日分をストックしている。ただし、連休や夏休み冬休みは底をついてしまうので、そういう時は、なにもない朝食となってしまうことが常だった。

 今日の朝食は、三日前のコッペパンである。当日でさえ粉っぽくて硬いのに、三日も経てばボソボソになっていた。一噛みすると、口の中に無数の粉がこぼれ落ち、乾ききった粉が過大な水分を要求してくる。とても食べづらくそして不味いが、朝食があるだけ幸せなので、小太郎は飢えた鯉のごとくパクつくのだ。

 味噌汁もスープも、タクワンすらないただのコッペパンだけの朝食が終わった。そろそろ登校するために物置から出なければならない時間だが、小太郎はそのタイミングを見計らっていた。ある人物と出くわす可能性を恐れていた。

「じゃ、いってくるわ」

 藤原家の玄関から出てきたのは、この家の長女である敦子だ。中学二年生にしては背が高く、体格も同年代の男子並みに野太かった。クラスの男子からはゴリラだとかマジンガー女だとか陰口をたたかれている。その野生を匂わす体と比例するように、性格も粗野で力強く、さらに強引だった。

 小太郎は敦子と会ってしまうのを恐れていた。彼女は、自分の家の敷地に住みついている痩せたネズミが嫌いだった。あえて接触しようとしないが、たまたま視界に入ろうものなら、イライラをビシバシと当ててくる。

 当時はプロレスがゴールデンタイムに放送されており、とても人気があった。子供たちは技の名称を言い合ってふざけたりするのだが、藤原敦子もそういうことが大好きだった。

「河津落としだ、コノヤロー!」と叫んで、小太郎の首に腕を回して後ろにひっくり返った。

「必殺のコブラツイスト」と言って、立ったまま締め技をかけた。

「ジャーマンスープレックス」は大変危険な技であり、まかり間違えば首の骨が折れてしまうのだが、彼女は躊躇しなかった。むろん、おふざけの範疇のつもりなのだ。

 雑草が繁茂した柔らかな草地の上なので、なんとか怪我をせずに済んでいるが、手加減なしに技をかけられる小学生はたまったものではない。

「ひゃあ」とか「うわあ」とか悲鳴をあげて、小便をちびっている。そういう時に、あからさまに嫌がっている表情をすると、余計に技をかけられ本気度が増してしまうので、ヘラヘラ笑いながら、できるだけ楽しんでいるふりをする。さも一緒に遊んでいるという体裁をとることが肝要なのだ。

 敦子が家を出て行って、その姿が見えなくなってから、小太郎はそろりそろりと外に出る。ランドセルは持っていない。小学校に入学したての頃は幼稚園時代に持っていたカバンを使っていたが、さすがに古くなって壊れてしまった。

 退職する用務員のおじさんが、使い古されたボストンバックを焼却炉に投げ入れたのを発見して、それを拾ってきた。子供が持つには年寄り臭くて、さらに大きすぎたが、コーラの瓶や給食の余りパンを入れるには容量が不足しなかった。ただし肩にかけるベルトはなかったので、手で持たなくてはいけない。やせっぽちでひ弱な小太郎は、いつも引きずるようにして登下校していた。

 学校に着くまでに、小太郎には日課にしている行為があった。自動販売機のつり銭口に指を突っ込み、筐体の底をのぞき込むことだ。ごくたまに、小銭があったりするからだ。小太郎は、藤原家に引き取られてから一度もお小遣いというものをもらったことがない。ノートや鉛筆は拾いもので誤魔化してはいるが、たまにはお菓子やジュースなどを口にしたくなる。それはもう、絶対的に食べたくなった。

「ビーボビーボ」

 ビーボというメーカーの自販機には相性が良かった。何度も百円玉を見つけたし、この前などは、なにげなくボタンを押したらジュースが出てきた。誰かがお金を入れたまま忘れてしまったようだ。

 生まれて初めて、ミルクセーキなる飲み物にありつけて、小太郎はその生温くて甘々な味覚に、すっかり魅了されてしまった。その異次元すぎる甘さ恋しさに、無謀にも藤原夫人におねだしりたことがあった。

「この、バカタレが。あんたにどれだけの金がかかってるんだと思ってるんだい。ふざけたこと言ったら承知しないよ。この子は、ほんとにもう、なんてゼイタクなんだ。誰の金でおまんま食ってるんだい。うちを破産させる気かい。どこまでも図々しい子だよ、キモが焼ける、ああ、キモが焼ける」

 たった百円のジュースを欲しがったために、散々に叱咤されてしまった。ミルクセーキを買ってもらえないとは思っていたが、あそこまでキツイ言葉で引っぱたかれるとは予想外だった。小太郎は胸が張り裂けそうになりながらも、頭上に落とされる罵倒をひたすら受け止めた。

 物置に戻ってから二時間ほど泣いた。そして、もし甘いものが飲みたくなったら、それは給食で手に入れるか、あるいはどこかで小銭を拾うしかないのだと悟った。

「あ、あれえ」

 つり銭口に人差し指を突っ込んで中をまさぐり、そしてその指を引っ込めようとしたのだが、なぜか取れなかった。透明なプラスチックの扉があるのだが、それが少しばかり割れていて、指の第一関節部分が挟まってしまった。

 引けども引けどもビクともしない。完全に嵌ってしまったようで、無理に引っこ抜こうとすると、その華奢な指の肉がえぐられそうになる。

「あ、バカ小太郎だ」

「うわっ、くせえ小太郎だ」

 同じクラスの男子が通りかかり、自販機の前で脱出不能になっている級友を小ばかにし始めた。

「おまえ、なにやってんだよ」

「ジュース買う金なんて、ねえのによ」

 小太郎が極貧なのは周知の事実だ。いつも汚れたジャージを着続けて、さらになんだかとっても臭い。給食で余ったコッペパンを嬉々として持ち帰るし、成績もクラス最下位だ。およそ貧乏人が兼ねそなえる負の資質を、すべて持っていた。

「おまえ、自販機どろぼーしてんのか」

「ああー、こいつ、つり銭のとこに指はさまってんじゃねえか」

「あははは、指ぬけねえでやんの。ばっかじゃん」

 級友たちがゲラゲラと笑う。小太郎はとにかく焦っているが、どうやっても抜けない。

「おい、これどうする」

「おれたちが持ってってやるよ」

 級友たちは、小太郎のただ一つのカバンを持って走っていった。中には飲み水容器のコーラ瓶と教科書が入っている。下手に振り回されて、瓶が割れてしまっては一大事だ。

「ふああわあ、ああ」

 ゆっくり落ち着いて考えれば、解決方法は単純である。一度プラスチックの扉を押し込んでから指を引っ込めると外れるのだが、小太郎は頭がよくないし感も鈍かった。とにかく奪われたカバンを取り戻したい一心で、やみくもに指を引っ張った。

「ああああ」

 その結果、右手の人差し指の第一関節に怪我を負ってしまった。骨が折れたわけではないが、突き指に似た状態となり、ぷくっと腫れあがり、よほどの痛みだった。これ以後、その部分は曲がらなくなってしまう。治療もせずに放っておいたのが悪かったが、とくに生活に支障があるわけではないので、小太郎は気にしていなかった。

「うわ、こじきがくるぞう」

「あひゃひゃ、コジキだ」

 追いかけてくる小太郎の姿を見て、級友たちは面白がって逃げていた。

 彼らは栄養状態が良いので体力がある。比べて、物置の少年は華奢でひ弱だ。はーはーとやたら息を切らすが、距離はいっこうに縮まらない。彼らは余裕で走り、後ろを向きながら飛んだり跳ねたりして、鈍足な同級生をからかっていた。

「きたねえから、こんなの、ぽいっ」

「いこうぜ」

 からかうことに飽きてしまったのか、橋の上からカバンを放り投げて行ってしまった。

「うわああ」

 か細い悲鳴をあげて、小太郎は軽く絶望した。あわわあわわ呻きながら、すぐに橋の下へと降りてゆく。幸いにも、カバンは川の中ではなくて土手に着地していた。

「あ、ああ」

 だが幸運と不幸は、つねにセットでやってくる。用務員が愛用していた皺だらけのボストンバックには、大型犬のものであろう、大きくて新鮮な糞が、べっとりと付着していた。

 ちり紙を持っていない小太郎は、しかたなくオオバコの葉っぱで拭いた。何枚も何枚も引き千切って、その汚れを拭きとってから、ようやく学校へと向かった。


 走り通したおかげで、小太郎はなんとか遅刻することなく教室に到着することができた。さっきの級友二人はすでに中にいて、なにくわぬ顔で着席している。小太郎も急ぎ自分の席に着いた。一番後ろの、もっとも窓際のやや隔離された空間である。

 ボストンバックから教科書類をゴソゴソ取り出して机の中に仕舞っていると、右隣の席にいる女子が、妙な異臭が漂っているのに気が付いた。

「なんかあ、くさくない」

 前の席にいる女子の背中を叩いて、振り向いたメガネの子にそう言った。

「べつにくさくないけど、あ、やっぱりくさい」

 なにこれなにこれ、とただならぬ異様な臭いに、生真面目なメガネ女子は落ち着かなかった。

「きりつ」

 日直当番の号令がかけられ、全員が起立した。担任の教師がやってきた。

「礼」

「ちゃくせきー」

 児童たちが一気に椅子へと落ちる。担任の教師は若干二十五歳の新米で、あまり仕事熱心な男ではなかった。基本的に子供が好きではなく、できれば必要以上に関わりたくないと思っていた。

 上下ジャージ姿の担任が、欠席者がいないかと教室全体を見回した。休んでいる子はいなかったが、窓側の後ろの席にいる女子が、落ち着かないようにキョロキョロしているのが気になった。

「笹山あ、どうした。便所でもいきたいのかあ」

 女子児童に対し、デリカシーのない言葉を平気で投げつけるのが、この男性教諭の人望がないところである。名指しされた笹山という女子は、クラスの皆が振り返って自分を見ていることに焦りを感じていた。

「ち、ちがうよ。くさいのは、わたしじゃないんだから」

 違う違うと、必死になって手を振って、自身の無実をアピールしている。

「うっわ、くっせー、うんこくせー、笹山がウンコもらしたあ」

 小太郎の前の席の男子が、その周囲に漂う悪臭に気がついた。笹山の狼狽っぷりから、即座に彼女が脱糞したと断定した。

 キャーとか、うぎゃーとか、悲鳴とも歓声ともつかぬ声が方々から上がった。誰もが笹山が糞を漏らしたと確信し、さっき彼女に背中を叩かれたメガネ女子も、ひょっとして自分の背中にそれが擦り付けられたのではないかと思い、泣きそうな顔になりながら身をよじっていた。

「わたしじゃない、わたしじゃないもん、うわああ」

 女子が泣いてしまい、教室の中が騒然となった。笹山を小ばかにした男子に、若干名の女子から避難が集中したが、彼は意地を張って臭いがあることを主張した。

 ああ~、面倒くさい、と担任は心の中でうんざりした。彼の表情には、その億劫さが少しだけ滲んでいる。もっとも前の席にいる佐藤という男子だけが、教師の不機嫌に気づいていた。

 教室の後ろに行った担任は、泣いている女子の席の横で鼻をヒクヒクさせた。確かに糞便の臭気が漂っている。彼は児童の壊れやすい気持ちを顧みることなく、いともたやすく言い放った。

「笹山、腹でも痛いのか」

 うわ~んと、女子はさらに大きな声で泣いた。この教室の権力者により、自分が糞をたれたと断定されたてしまったからだ。

 やれやれ、糞をたれた児童の世話をするとは、今日はついてないと、ため息をつく担任だった。

「先生、笹山さんはくさくないです。たぶん、ちがいます」

 メガネの真面目女子が後ろの友人をかばった。最初は笹山が漏らしたのでは疑ったが、臭いの方向が違うことに気がついたのだ。

「え、そうなのか」

 担任は泣きじゃくる笹山を立たせて、その体のニオイを隅々まで嗅いだ。とくに尻の部分は、小児性愛者のごとく入念だった。しゃがみこんで鼻をヒクヒクさせる音が響いていた。

「あれえ、臭くないなあ」

 悪臭の元凶が笹川という女子でないことを、担任はようやく理解した。

「先生、藤原君がくさいです」

 ここでメガネの真面目女子が 真相を暴露した。

 この騒動のあいだ、小太郎はずっと下を向いていた。糞の臭気は、自分のボストンバックからであると知っていたからだ。さっき川原で拭きとったつもりだったのだが、所詮小学三年生の仕事である。拭き方が雑であり、逆に薄く広く引き伸ばしてしまった。それは、臭いのエキスを拡散する行為となっていた。

「おい、藤原、ちょっと立てや」

 女子に対してまったく気遣うことない教師は、男子児童、とくに小太郎には常日頃から冷淡な態度で接していた。

「うん、やっぱりだ。おまえが臭いぞ。おまえだな」

 真犯人が特定された。無実の女子はひとまず泣き止んで、隣でずっと下を向いている小太郎を涙目で見つめていた。

「やっぱ小太郎じゃん。だと思った」

「こいつ、いっつも学校の便所でクソしてっからな」

「くそたれ小太郎」

 クラスの中でも、もっとも活動的で目立ちたがりの将太という児童が、前の席からササっと駆け寄ってきて、小太郎のそばにやってきた。

「おげえ、ウンコくっさ。すげえウンコのニオイだ。おえ~、おえ~」と喚いて、その場で転がりまわった。

 確かに悪臭はするのだが、彼のリアクションは誇張されすぎである。少なくとも、床に這いつくばって、自らの馬鹿さ加減を宣伝するほどには深刻ではない。

「あ、くっさ」

「うんこやー」

「小太郎のウンコだ」

 すでにクラスの半分ほどが集まっていた。誰も小太郎に触れようとしないが、小太郎が糞を漏らしたと確信していた。囃し立てているのは男子だけで、女子はイヤそうな表情をするだけだった。

 この年齢の男の子は、例えば生殖器や排せつ物、捨てられたポルノ雑誌など、タブーで禁忌なものに異様な執着を持つことがある。それらに遭遇すると、騒ぎたくて仕方ないのだ。

「おまえら、席に戻れ。ったく、バカみたいに騒ぎやがって」

 怒った担任が解散させる。ウダウダしている児童の頭のてっぺんに、ゴツンゴツンとげんこつを見舞った。それらが予想外に強力で、ダメージを受けた男子たちが、泣きべソをかきながら席に戻った。

 この当時は、教師による日常的な愛のムチは、ほとんどが容認される状態にあった。

「学級委員長、ちょっとこい」

 学級委員長は加藤正清という男子である。クラスで一番成績が良くて、運動神経もそこそこで、性格も明るく面倒見もよかった。ほかの児童たちからは、ある程度の信頼を得ていたし、クラスの仕事を押し付けられるちょうどいい地位にいた。

「藤原を保健室に連れて行ってやれ」

 担任としては、ニオイとトラブルの元凶である小太郎を早々と処理したかった。しかし、非衛生的な子供の排せつ物を自らの手で片付けようとは、ツユほども考えていない。

「連れていって、どうするんですか」

「そんなのおまえ、なんとかしてこいよ。保健の先生がいるから、なんかやってもらえ」

 納得いかなかったが、教師に逆らうという考えはないので、加藤正清は小太郎を保健室に連れていくために彼の席までやってきた。

「藤原、行くよ」

 学級委員長がそう言っても、小太郎は動こうとはしなかった。事実として彼が糞を漏らしているわけでないし、ここで保健室に行ってしまうと罪を認めてしまうことになるからだ。

「早くしてよ」

 加藤正清は小太郎のジャージのポケットに人差し指だけを突っ込んで、グイグイと引っっ張る。それでも動こうとしないので、下手人を連行する岡っ引きのように背中を押した。なにか言い訳でもすればいいのだが、こういうときの小太郎は無口になる。いや、そもそもあんまり口を開かないので、いつもの彼といえばいつもの態度だった。

 学級委員長と小太郎が教室から出ていった。悪臭元は去ったし、糞便の処理は責任感過多の児童や、保健の担当に押し付けることもできた。やれやれ、これで面倒事はおさまったと担任は楽観していた。

「先生、くさいです」

 だが、原因を取り除いたはずの教室は、まだ臭かった。小太郎の席周辺の児童が鼻をおさえながら、くさいくさいと訴え続けていた。

「先生、藤原君のカバンがくさいです」

 さっきまで糞たれの容疑をかけられていた女子が、小太郎のボストンバックを指さして言った。

「ああ?」

 いったん教壇に戻っていた担任が、再び後ろにやってきた。笹山が指し示している皺だらけの黒いカバンを持ち上げた。ちなみに、小太郎は自分のカバンを常に足元に置いている。

「うわ、くっせーな、おい。なんだ、このカバンは」

 大型犬の糞が、ふんだんに塗りつけられているので、じかに手にしている教師には容赦のない悪臭となった。

「やだあ、くさそう」

「うんこのもとだー」

「きっと、カバンの中に、いっぱい入ってるよ」

「うんこかばん、うんこかばん」

 児童たちが騒ぎ出した。担任は、それの口を開けて小太郎の私物を調べる。コーラの瓶と、カビが浮いた給食のパンがあった。

「ゴミしか入ってないな。このカバンもゴミか。臭えしなあ」

 一時間目の授業が始まる前に、担任は小太郎の糞カバンを持って校庭に向かった。用務員室の目の前に、コンクリート製の焼却炉がある。彼は、灰黒色の焼却灰が積もった内部へ、その臭いカバンを躊躇なく放り込んだ。ほどなくして用務員がやってきて、溜まっていた雑多のゴミとともにそれを焼いた。

 保健室から小太郎が教室に戻ってきた。自分のカバンがなくなっているのに気づいてあたふたしたが、担任からの説明はまったくなかった。冤罪をかけられた隣の女子が、「先生がなげた」とボソっと言った。今日のコッペパンをどうやって持って帰ろうか、小太郎は悩まなければならなかった。


 小太郎は糞たれではなかったが、そうだと思われてしまった。カバン事件があった日、男子は小馬鹿にすることしきりで、女子もあえて近づこうとはしなかった。もともと誰からも相手にされていなかったが、その扱いがより徹底されてしまった。

 唯一のカバンを燃やされてしまったことが気がかりだった。あの中には、食べ残しのパンと、飲料水を入れる瓶が入っていた。パンは半分食べていたので諦めがつくが、瓶は替えがなかった。どこかで調達してこなければならない。

 教科書は机の中に入れていたので無事だった。もっとも学業が不得手な小太郎には、勉強道具よりもコーラの瓶に絶大なる価値を見出していた。下校時になんとかしなければと、授業の間中、眉間にシワを寄せて考えていた。

 四時間目の国語が終わり昼食の時間となった。すでに、三年三組に給食は配膳済みで、教室の前にある棚の上には、四十人分の温食が入ったアルミバケツ、パンや三角牛乳のケース、食器、副食などが置かれていた。

「今日の当番小太郎だー。やべえって」

「けんちん汁にウンコ入ってるぞ、ウンコ」

 よりによって、今日の給食当番の一人に小太郎がいた。ほかの給食係と一緒に、キャップを被ってエプロンをしている。

「おげえ、うんこマンが、おたま持ってるって」

「うんこだらけになるじゃんか」

 彼自身が糞便にまみれていたわけではないのだが、悪臭カバンの件から、そういう印象をもたれてしまっていた。

「小太郎、どっかいけよ」

「おまえがさわると汚えって」

 小太郎の目の前で、イキのいい男子からの叱咤が交差した。常にざわついている教室内の空気が、ピキっと音を立てて凍りついた。そして,ほぼすべての視線が小太郎に集中した。普段は調子に乗った男子を諫める女子たちも努めて静かにしている。彼女たちも、内心では小太郎が食べ物に触れることを恐れているのだ。

「こらー、おまえら静かにしろ」

 昼時だというのに子供たちが騒いでいた。教室の前の椅子にふんぞり返った担任は、腕を組み足を放り出しながら睨みつける。

「静かにしないと、オレンジゼリーなしだからな」

 今日のデザートにはオレンジゼリーが用意されている。半分凍った状態で供されるそれは児童たちの大好物であり、垂涎の的であり、給食デザートの地平であった。

 ごく一部の味覚天邪鬼を除いて、それを没収されることに冷静ではいられない。この時代の教師の権限は絶大なので、まかり間違えば取り上げられてしまう。しかしながら、彼らにはリスクを承知で言わなければならないことがあった。

「だって、小太郎がさわったら、うんこついちゃうもん」

「そうだよ。きたないよ」

「臭くなるって」    

 小太郎の手に触れた給食を食べるのはイヤだと、少なからずの児童が主張している。その理由を知っていて、なお且つ同じように汚らしいと感じていた担任教師は、彼らの訴えを無下にできなかった。「う~ん」と唸って、どうしようか考えていた 

「先生」学級委員長の加藤正清が手をあげた。

「なんだ、加藤」

「ぼくのそうじ当番と、藤原くんの給食当番を替えっこしたいと思います」

 責任感が強く小利口な委員長は、クラス全員と教師、小太郎本人でさえ納得できるような提案をする。

「よし、それでいこう」

 担任の指示で、加藤正清と藤原小太郎の当番が替えられることとなった。衛生問題は、これで解決となった。張りつめてしまったクラスの空気がフッと温和になり、関係のない給食当番たちがチョロチョロと動き出す。

「・・・」

 だが、小太郎は動かなかった。給食当番のエプロンやキャップもそのままに、温食のアルミバケツを前にして突っ立ったままなのだ。  

 じつは、今日の給食当番には重要な意味があった。温食を配ることに使命感を抱いていたわけではない。それは、本日のパンが甘納豆入りの豆パンであるということだ。

 給食のパンは、ほとんどの日が味もそっけもない粉っぽくて不味いコッペパンなのだが、たまに揚げパンやらクリームパン、さらに豆パンなどの菓子パン類が供されることがある。油っぽくて甘いそれらのパンは人気があり、普段は余してしまう者も食べるか、または家に持ち帰ったりする。余分が出てしまうことはまずない。そして欠席者分の再分配は、クラスのヒエラルキーに従うこととなる。最下層の住人である小太郎には、ほぼ絶望的な状況なのだ。

 しかしながら、今日はオレンジゼリーという絶好の目くらましがある。菓子パン類はたしかに魅力だが、デザートの女王たるオレンジゼリーにはかなわない。しぜん、皆の目はそこに集中することになり、したがって小太郎が愛してやまない甘納豆パンは手薄となる。

 誰も見向きもしないコッペパンは例外として、給食の余りをもらえるのは、一人一個との暗黙のルールがあった。余りものを狙う連中は決まっているので、彼らがオレンジゼリーを獲ると、小太郎が甘納豆パンを得る確率は高くなる。

 しかし、それも時間との闘いであり、ぐずぐずしていると、思わぬ伏兵に先を越されてしまう場合がある。とくに発言力の乏しい小太郎は、獲物のすぐ傍にいなければならないのだ。

「シッシ」

 なかなか動こうとしない小太郎に向かって、担任は面倒くさそうに手を振った。小汚い野良犬を振りはらうような、ぞんざいな対応である。  

 小太郎は、それでも動かなかった。大人に逆らうことなど思いもよらぬ性格なのだが、どうしても甘納豆パンを持ち帰りたいとの執着が、彼の体をきつく縛り付けていた。

「ほらあ、おまえなにやってんだっ。早く委員長と替われ」

 男性教師のイラついた声が直線的に飛んでいき、不感症な児童に突き刺さる。それでもなお、小太郎はその場に留まっていた。

「はやく行けばいいのに」

「あいつ、なにやってんだよ」

 子供たちの気持ちは、この時ばかりは教師と一体となっていた。

「藤原君、こっち来なよ」

 いつまでも茫然としている小太郎を、加藤正清が引っぱって配膳エリアから遠ざけた。エプロンを脱がせて自分の席に着かせる様子を、クラスの皆が見届ける。緊張が解かれた教室内は、安堵したのか徐々に音量を上げてゆく。小太郎の頭に上にはまだキャップが残されていたが、彼の諦めの気持ちとともに放っておかれた。

 欠席者分のオレンジゼリーは取り合いになったが、わんぱくでガキ大将的な男子と、その子分が奪い取った。甘納豆パンは二つほど残っており、ひょっとしてそのまま忘れされるのかと期待されたが、前の席にいた女子二人が手をあげて、パン箱にある二つを欲しいと言った。担任が快く許可したので、嬉々とした彼女たちがとってしまった。 

 結局、小太郎は甘納豆パンを得ることができなかった。カバンにストックしていたパンも捨てられてしまい、明日の朝食に確固たる予定を与えることができなくなった。これならば余りやすいコッペパンのほうがよかったと、すっかりと溶けて生ぬるくなったオレンジゼリーを食べながら思うのだった。

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