第9話 悪戯
正直なところ料理はできないんじゃないかって勝手に決めつけていた。
でもそんなことなかった。
むしろすごく手の凝った料理を次々と作り始めた時は、驚いてしまった。
主食、副食、主菜、副菜、それぞれ用意し始めたのには、流石に二度見してしまった。
一方で、俺は食器の用意以外にできそうなことがなかった。
その後は、明らかに戦力外だった。
おとなしく途中からはタブレットPCを開いてコードを書くしかなかった。
そして時は過ぎて――何かを察したように少し不貞腐れるように風花ちゃんが言った。
「今は時間に余裕があるので、できるだけ自炊をしているんですっ!」
「そ、そうか」
「コホン……誘っておいて今更ですが、門限は大丈夫ですか?」
「それは問題ない。親――と言っても母さんだけしかいないんだけど、夜勤でいないし。それに妹は今頃、塾でいないから」
「そうでしたか」
若干気まずそうな顔をして、風花ちゃんは食事を続けた。
そんな申し訳なさそうな表情が少しだけ母さんと重なってしまった。
あの時――俺が怪我をしてサッカーを続けることができないと知った時の悲しげな表情と似ていると思ってしまった。
「いつもは一人で食べているの?」
「そうですね。黒岩さんの帰りが早い時は一緒です」
「そうか……てっきり昨日の様子だと、ハルナちゃんや秋乃ちゃんとは一緒に食べているのか思った」
「いいえ、今は一緒に住んでいませんからね。それに最近は……時間が合わないことの方が多いですね」
「あれか、ドラマの撮影とかってやつ?」
「そうですね。ハルナちゃんはドラマ。秋乃ちゃんは映画の撮影ですね」
そう言って俺に教えてくれる風花ちゃんの姿は、どこか誇らしげな声色だった。
本当に仲が良いのだろう。
……あれ。親御さんとは一緒に食事をすることはないのだろうか。
ああそうか、出身は確か――
「でも、寂しくはないんです。だって、一生会えなくなるわけじゃないですから――」
「……」
「それに本当に寂しくなったら、一応京都に実家もありますけど……でも実家は――最終手段ですけどね」
今にでも消えてしまうのではないかと思うほどに儚げに微笑んだ。
なぜだろうか。
実家には戻りたくない、というようなニュアンスが込められているような気がした。
∞
食事を終え、やっと俺の出番であろうと判断し、食器を洗おうとした。
しかし、食器洗浄器があるそうで、俺のやることはほぼないと言われてしまった。
やれやれ老兵はさるのみとはまさにこのことか。
手持ち無沙汰となり、鉄仮面――黒岩さんをおとなしく待つことになった。
もちろん、風花ちゃんに警戒されないように最新の注意を払って、半径1.5メートルは目視で確認してから、ソファーの隅へと腰を下ろした。
それから、タブレットPCで作業の続きに着手した。
そんな俺の姿を見ていたのだろうか。
いつの間にか、風花ちゃんもまた事務所の裏方を手伝っていると言っていた作業的なものを食卓の上でやり始めた。何かのポップアップでも考えているのだろうか。ラフな絵を描いて、PC上にトレースとでもいうのだろうか、投影しているようだった。
意外と本格的に手伝っているらしい。
てか、作業するときにメガネ掛けるんだな。
黒縁のメガネが知的に見えて、すごく似合っている。
めちゃくちゃ可愛いな。
真剣な表情で集中している横顔は、やっぱり魅力的だ。
桜色の唇がちょこんと動いた。
などとじっと見ていると、チラチラと風花ちゃんからの視線が感じた。
「その……そんなに見られると、緊張するんですが」
「ご……ごめん。なんかこうしていると不思議だなって思って」
「そ、そうですか?」
「いや、ほら俺みたいな普通の高校生がまさか風花ちゃんと一緒の空間にいるなんて思えないというか、まあそんな感じ」
「ふふ、私だって普通の高校生なんですよ?」
そう言って、風花ちゃんは口元に微笑みを浮かべた。
ああ、反則だろう。
とりあえず、作業に集中しようと心がけた。
そうでなければ、きっと取り返しのつかないことをしてしまいそうで恐かった。
∞
結局、黒岩さんが帰宅してきたのは、食事をしてから数時間も後のことだった。
ちょうど、俺が帰ろうとしている時にドアが開いた。
「あれーもう帰ってしまうんですかー?」
ろくに説明をしないまま呼び出しの電話を寄越しておいて、よくもまあ呑気な反応だ。
『あんたを今まで待っていたんだろうが』と反射的に言い返してしまうところをなんとかぐっと堪えることができた。
自分を褒めてあげたいくらいだ。
それこそ、丸の内のOLの如く、ご褒美と称してスイーツでも買ってしまうくらいには褒めてあげたいものだ。
そんな俺の葛藤など無視するように呑気な声で、鉄仮面が言った。
「明日は土曜日ですよねー。学校ありますかー?」
「いや、ないですけど」
「では、許可します」
「はい……?」
「ですから、泊まることを許可しますから、一杯くらいつきあってくださいっ!」
あ、今更ながら気がついた。
この黒岩ルイナという人物はどうやらすでにどこかで飲んで来ているようだ。
きっと社会人としての付き合いで今まで接待でもしていたのだろうか。
ことの真相はよくわからんが、人を呼び出しておいて全く連絡がなかったところを見ると、おそらく突発的に強制的に参加しなければならない事情でもあったのだろう。
などと大目に見てやろうとしたが、前言撤回だ。
「いいから、来なさいっ!」
そう言って強引に俺の腕を引いた。
なんだこのバカ力は!?
くっそ、振り解こうとしてもびくともしないんだが?
風花ちゃんは呆れるように呟いた。
「はあ……今日は長くなりそうですね」
いや、終電が近いから帰りたいんだけど。
∞
それからは地獄の時間だった。
常備していたのだろう。
ビールやワインをどこからか取り出してきて、勝手に飲み始めた。
そして終いには、俺に対して説教をし始めた。
もちろん、とっくに終電の時間を過ぎていた。
「夏弥さん――あなたは少しくらい常識というものを持ちなさいっ!いいですか――って、私の話ちゃんと聞いているんですかっ!?なんで平べったくて白い顔なんてしているんですか!?馬鹿にしているんですかっ!」
「いや、あんたがさっきから喋りかけているのは壁なんだけど?」
「なんですか、私のつぐ酒が飲めないっていうんですか!?」
「えー何この人、脈絡もなく急にキレ出したんだけど」
「ふふ、たまにこうなるんです」
そう言ってから、風花ちゃんはちょこっとオレンジジュースに口をつけた。
やわらかな表情は、どこか安心しているかのように思えた。
「今のあれ――鉄仮面を相手にするのは大変でしょ?」
「ふふ、少しだけ」
「いや、風花ちゃんマジで優しすぎだろ。あの人、マネージャーでほんと大丈夫だったの?」
「普段はすっごく頼りになるんですよ?」
「……」
「デビューするまでも含めると、6年くらい一緒だったんです」
風花ちゃんは神妙な面持ちで言った。
6年も一緒にいたのか。
ということは、中学生になる前――小学生の頃、おそらく10歳前後から知り合っていたことになる。
日中は学校に通っていた時間を差し引いたら、親御さんと一緒に生活していた時間とほぼ変わらないんじゃないのか。
てか、俺たちが10歳前後くらいだと、鉄仮面――黒岩ルイナだって年齢的にアイドルをしていた頃なんじゃないのか。
そんな俺の疑問を察したように、風花ちゃんが言った。
「黒岩さんは、元々私たちの先輩だったんです。でも、色々あったみたいで結局デビューしてから、すぐにそのグループは解散してしまったようです。その後で、私たちの指導係になり、そこからのご縁です」
「そうだったのか……じゃあ、家族みたいなものなのか」
「家族……そうですね、それに近いですね」
風花ちゃんは少し重くなった雰囲気をまるでわざと壊すように、口元に笑みを浮かべた。そして、席を立って、奥の方の部屋に何かを取りに行った。
すぐに戻ってきた。
なぜか右手には、家庭用の救急キットを抱えていた。
「ところで、額のお怪我の具合はどうですか?」
「このタイミングで確認するのかっ!?」
「ふふ、どうですか。見せてください」
「いや、問題ないから」
「そんなこと言わずに、前髪を上げてください」
「いいよ。結局、出血したものの縫うほどじゃなかったわけだから」
「まあ、それはそうですが――」
「だから、気にしなくていい」
「いいえ。私、気になって仕方がないんですっ」
「なんだその某青春ミステリー小説のヒロインのようなセリフは!?」
「ふふふ、あの作品私好きなんです」
「へーそうなんだ――って、なぜ、さりげなく救急キットを開いているんだよ」
「え?」
「いや、そんなキョトンとした顔をされても、誤魔化せないからな?」
「……」
プクッと頬をふぐのように膨らませた。
それから風花ちゃんは黙ったまま、俺の横にすとんと腰を下ろした。ふわっと重力に負けるように、黒い髪がゆらゆらと揺れた。
微かに柑橘系の甘い香りがした。
アーモンド色の瞳がじっと固定された。
「さあ、見せてくださいっ!」
「いや大丈夫です」
「私、こう見えてもスプラッター系の映画好きなんですっ」
「へー意外だな……って、今、その情報をもらうと逆に怖いんだけど!?」
さっと横に移動して、風花ちゃんとの距離を空けた。
すると、口をへの字のように曲げて不満げに、風花ちゃんが距離を詰めてきた。
それに対処するために、もう一度ソファーの奥へと移動した。
そして――風花ちゃんは口元を僅かに歪めた。
「……残念でしたね?もう逃げ場はありません」
あと一回移動したらソファーの端だ。そしてそのソファーの端は行き止まりだ。テラスと続く扉――窓ガラスがあるだけだ。
好奇心の強いことをこれでもかと主張するアーモンド色の瞳が俺をとらえた。
おそらく引き攣った頬で、困ったような顔をした哀れな男の姿が写っていることだろう。
「なるほど、風花ちゃんは――」
「いいから、大人しく見せてくださいっ」
そう言って、風花ちゃんは色白い腕を伸ばした。
小さな手が俺の前髪をかき分けて――少しひんやりとする掌が触れた。
ああ、だめだ。
気がついた時には、風花ちゃんの細い腕を掴んでしまった。
驚いたようにアーモンド色の瞳が大きく見開かれている。
そんな表情なんて無視して、ソファーに押し倒した。
風花ちゃんの小さな手に握られていたガーゼが、カーペットの上へとひらひらと舞って落ちていくのが、視界の端で見えた。
僅かに朱色に染まった頬、閉じられた桜色の唇、押さえつけている色白い腕から伝わってくる――少し浅い呼吸を繰り返す脈拍、そして、風花ちゃんの瞳に動揺の色があらわた。
数秒ほどしてやっと自分が押し倒されていることに気がついたのだろう。
「――っ!?」
「俺が善人とでも思った?襲われないって安心していたんだろ」
「……ください」と小さく唇が微かに動いた。
「風花ちゃんみたいな魅力的な女の子が目の前にいたら、こうなることくらい分かれよ」
「ごめんなさい。だから――」
「いやだって言ったらどうする?」
「――っ」
風花ちゃんは悔しそうに下唇を噛んで、キッと俺を睨んだ。
アーモンド色の瞳は僅かにうるうると輝いていた。
……くそ、俺は何をやっているんだ。
こんな下劣なことをするために、ここにいるわけじゃないだろ!
「……まあ、あれだ。冗談だ。わかってくれたのならば、これからは誤解を招くような――」
俺は押さえつけていた風花ちゃんの腕を緩めて、身体から離れようとして――パシャという無機質な音が聞こえた。
音のした方へと顔を上げると、またパシャとカメラ音が鳴り、フラッシュがたかれた。一瞬、視界が光の波に埋もれた。
「あらあらーこれは困りましたねー」
間延びした声が聞こえた。
チカチカとする視界を追い払いたくて、二、三度瞬きをすると――いつの間にか女の子が立っていた。
ゴシックと言えば良いのか、黒いドレスのような格好でスマホを片手に持った――湖上秋乃がいた。どこかの外国の血筋を表すような長い白髪をかきあげた。
柔らかな雰囲気を醸しているおっとりとしたタレ目は、アイドル『SeaSonS』として活躍していた時とは打って変わって、なぜか今は凍えるような気がする。
ゆっくりとした動作で、俺と風花ちゃんのいるソファーへと近づきながら言った。
「深夜の撮影が終わったので来てみたのですが……まさかー、お酒を飲ませてー、暴漢をする場面に遭遇してしまうなんて――事件性がありそうですねー」
あ、俺の人生終わったな。
そう思った。
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