第8話 二人きり
高層マンションのエントランスをくぐり抜けると、フロアマンらしき人に会釈をされた。
指定された時刻――19時45分になんとか間に合った。
しかし、俺以外にビジネスマンらしき人がいるくらいで呼び出した張本人――黒岩ルイナさんの姿は見当たらない。
舐められたものだ。
あの鉄仮面はどうやら見た目は真面目そうなくせに、社会人としてのマナーを持ち合わせていないらしい。
まあ、寛大で寛容な俺はそんなことでは心が揺れることなどない。
ないが、あれだ。某掲示板に『最新版、美人鉄仮面に彼氏のいない5つの理由』というスレでも立ててやろうかと一瞬だけ思った。
まあそんなくだらないことを考えるよりも、直近の納期を気にしなければならない。
俺は高級そうなソファーに腰を下ろして、バックパックからタブレットPCを取り出してコードを書き始めた。
しばらくしてからだったと思う。
いつの間にか正面に腰を下ろしている人物がいるような気がして顔を上げた。
すると、淡いピンクのマスクに、伊達メガネをかけている人物がいた。
いや、華奢な身体や色白い手は明らかに――冬野風花ちゃんの姿だ。
カタカタとキーボードを打ち込む動作が止まったからだろう。
少しキョトンと首を傾げてから、チョンチョンと肩が色白い人差し指で押された。
「お仕事は終わりましたか?」
「まあ……いや、なんで風花ちゃんがいるんだよ?」
「黒岩さんは前のお仕事が延びているみたいなので、代わりに私が迎えに来ました」
「そっか……いやいや、どういうこと?」
「説明は後ほどします。だから部屋に行きましょ?」
そう言って立ち上がると、フワッと髪が舞った。色素の薄い黒髪は、毛先が微かに紺色のように波を打つように揺れた。
ああ、なんでそんな簡単に俺の肩に触れることができるんだよ。
勘違いしてしまうではないか。
俺の葛藤など歯牙にもかけないで、風花ちゃんが振り返った。
「さ、はやく!タイムイズマネーですっ」
なぜか風花ちゃんは嬉しそうな声だった。
俺はただ売られていく牛のように風花ちゃんの後ろをドナドナと歩き続けた。
永遠にも思えるエレベーターの中で、もう少しだけ風花ちゃんの隣にいたいなどと思ってしまった。
夢ごごちのような気分でいると、ピンポンという音とともにエレベーターのドアがゆっくりと開いたところだった。
∞
二度目であろうと、他人の家という空間はやはり苦手だ。
それに――一番厄介なのは『推し』と二人きりだということの方かもしれない。
そんなことを言ったら、きっとこう思うだろう。
『推しと二人きりの空間!?そんな夢見たいなシチュエーション最高じゃんっ!むしろワンチャンあるだろっ』など下心満載な思考になるに違いないだろう。
しかし俺くらいの一流のファンになると、そんな思考へと落ち着くことはない。
むしろ『え、俺が一緒にいてもいいの?』くらいのテンション感だ。
……はい、嘘です。
めっちゃ緊張しているし、今にでも抱きしめてしまいたくなる衝動を抑えるのに精一杯です。
などと現実逃避していると、どこかで見たことのあるやや重圧感を与える湯呑みとデザインの似ているカップが運ばれてきた。
「お待たせしました」
「あ、ありがとう」
「ふふ、何も怪しいものは入っていませんから安心してください」
「いや、それだと逆に怪しいからなっ!?」
あ、ついツッコんでしまった。
風花ちゃんはクスクスと口元をおさえて小さく笑った。そして、ちょこんと向かい側の椅子に腰を下ろした。それから、チラッとアーモンド色の瞳を向けた。
「昨日、今日と立て続けに呼び出してしまいすみません」
「いや、それはいいんだけど、今日の目的を説明はしてほしい」
「そうですよね……」
「あ、うん」
なぜかソワソワとしたように視線を俺から逸らした。
風花ちゃんが何かをためらっていることは明白だ。
でも、何をそこまで言い淀む必要があるのか。
まあ、こういう保護欲をそそるところもきっと応援され続けていた一因なのだろうな。
そんなことを思っていると、風花ちゃんは、スッと、決意を表明するような視線を向けた。
「わたし、実は、整理整頓が苦手なんですっ!」
透明な声が居間に僅かに反響した。
うん、人には欠点というものがある。だから仕方のないことだろう。
居間から少し離れたところに、ベランダ――テラスと表現をしたほうが良いのかもしれないが、テラスにはウッドデッキが3つほど置かれているのが見える。そして、夜空にはまん丸い月が青白い光を放っている。
「なんで無反応なのですかっ!」
「いやどう反応すればいいのか。まあ、なんだ。この部屋に住んでいる人は見てくれ――居間とか玄関とかは整理整頓しているようだけど、自室は汚いんだろうなとは思った」
「な、なんでそう思ったんですか?」
「だって昨日、あの部屋覗いた後だったから」
俺はシャワー室の方向に繋がる廊下へと視線を動かすと、それにつられるように風花ちゃんもまた顔を動かした。
そして風花ちゃんの頬がぽっと朱色に染まって、あわあわと桜色の唇を動かした。
キッと細められたアーモンド色の瞳が俺に向けられた。
「わ、忘れてくださいっ!」
「え?」
「昨日、あの部屋を見たことは忘れてくださいっと言っているんですっ!」
「いやでも――」
「……わかりました。そうであれば仕方ないですね?」
「ん?なんで、急に立ち上がったの?」
「……」
「あれ、なんで無言のままなの?てか、いま一気にティーカップのお茶を飲み干したよね?」
「……」
「いやいや、え?なんでティーカップをそんなに強く握りしめる必要がある?てか、明らかに持ち方おかしいでしょ!?」
なんだこの展開。
いやいや、なんで二日連続で鈍器というか――食器で頭をかち割られるシチュエーションなんだよ!?
俺は別にミステリーに巻き込まれたくないっ!
てか『推しに殺されたファン』みたいななんか斬新なミステリーになりそうな気がするんだけども!?
このままでは明らかに死人まっしぐらではないか!
なんか昨日と酷似するシチュエーションが脳裏に浮かび続けているんだけど!?
現在絆創膏を貼ったままの額にティーカップがあたり、血が垂れて視界が霞むところまで見えてしまった。
そんな俺の引き攣った頬を無視して――風花ちゃんは濁った瞳で、ニコッと微笑んだ。
「なーんて、冗談ですよ?ふふ、驚きましたか?」
「驚くも何もマジで迫真の演技だった」
「ふふ、ありがとうございます」と言って、風花ちゃんはまた向かいの椅子へと腰を下ろした。
「コホン。それで、こんな歓談をするために呼び出したわけじゃないんだろ?」
「え?……ああ、はい。そうでしたね」と一瞬忘れていたように、うわずった声を上げた。そして風花ちゃんはコホンとわざとらしい咳をしてから言った。
「実は、私、整理整頓が苦手なんです」
「それは先ほど聞いたけど?」
「ですから、一緒に手伝ってくれたらありがたいなと思いまして」
「え?」
おいおい、俺はわざわざこき使われるためだけに呼び出されたと言うことか。
うーん……別に俺は『推し』の奴隷になりたい訳でもお手伝いさんになりたいという性癖を持っている訳でもないんだが。
むしろどちらかというと風花ちゃんにメイド服を着てもらって『もう、ご主人様……こんなところで……ダ、ダメですっ』とかなんとか恥じらう姿で――ご奉仕してほしいっ!
なぜか風花ちゃんは少し頬を赤く染めて、焦ったように訂正した。
「ち、違いますからねっ!その夏弥さんの得意分野で協力してほしいんですっ」
∞
どうやらお片付けロボット――通称『ルンバンバン』が故障したため、修理してほしいと言うことらしい。
と言っても、俺はハードウェアの方はほとんど素人だから、カスタマーサービスに電話して半ば職務を放棄しようとした。
しかし、どうやらソフトの問題でパッチが当たっていないだけのような気がしたので、ググった。
まあ、案の定システムが更新されていなかっただけのようだった。
だから、普通にネットからダウンロードしてインストールして終えた。
だから、そんな感動した表情をされても困る訳だが、風花ちゃんはどうやら機械音痴らしい。
「システムが自動更新されないことがあるから、公式サイトからインストールすればいいんですね?」
おそらく理解できていないのだろう。
風花ちゃんは少し早口で言い切った。
まあそんな一生懸命なところも可愛いんだけど。
「な、なんですか。じっと見てっ!」
「いや、友だちに相談すれば、早かったんじゃないかと思って」
「そ、それは……あまり、いないので……」
どこか遠いところを見るように呟いた。
風花ちゃん……
うん、あれだ。きっと芸能生活が忙しくて一般の友だちが少ないだけなんだ。
「な、なんで可哀想な人を見るような視線を向けるんですかっ!?」
「いやいや、そんなことはない」
「私にだって、ハルナちゃん、秋乃ちゃんもいますから――」
「そうか」
「あ、いま絶対に『グループメンバーじゃん』って思いましたよねっ!?」
「まあ」
「えっと、他にも連絡知っている方はいるんですからねっ!」
「さいですか」
「そ、そうですっ!ヒカルくんだって、お手紙で友だちが少ないって言っていたんですから、同じですっ」
必死になって風花ちゃんが言い訳を考えている姿は微笑ましい。
……いや、めちゃくちゃ可愛い。
プクッと頬を膨らませて、プイッと小さな顔を横に背ける仕草も全てが愛おしい。
くっそ、これが芸能人のテクニックというやつか。
いやそれよりも何よりも、俺の書いた手紙を本当に読んでくれていたことに感動してしまった。
てか、サラッと下の名前で呼ぶのずるいだろっ!?
「……どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。そんなことよりも他に俺が手伝った方がいいことはあるの?」
「うーん」と考えるようにして天井を見上げて、色白い頬に手を当てた。そして何かを思い出したように俺を見た。
「晩御飯はまだ食べていませんよね?一緒に食べましょ?」
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