第3話 遭遇
若干の冷静さを取り戻して、俺は黒岩さんに話しかけた。
「とりあえず、俺は風花ちゃんに渡しているんであって、決してあんたら事務所に渡したい訳じゃないんだから、そこら辺ご理解のほどよろしくお願いします」
「風花だって困るんですよ。全く、社長になんていえばいいか――」とモゴモゴと黒岩さんの赤い唇が動いた。
その時だった。
カチャ、という軽快な音がして、扉が開いた。
そして現れたのが――冬野風花、本人だった。
ゆっくりとした仕草で、一礼してから顔を上げた。つられるように、フワッと黒くて長い髪が揺れた。アーモンド色の大きな瞳が僅かに細められて、口元に笑み浮かべた。
「失礼します」
「―――!?」
え?
ん?
何、ドッキリ?
ああ、俺の脳が見せている幻想か。
人は極限状態の時にせん妄に取り憑かれるのだと、最近読んだ心理学の本に書かれていた。もしかしたら俺は今、電車に乗り過ごして眠ってしまっているんだ。そして、とてつもない非日常的な冒険をするような夢でも見ていたのだろう。
その悪い夢から覚めて、まだ意識が混濁しているに違いない。
夢などというものはいつも断片的だし、脈絡もないものなのだから、ここで場面が変わるに違いない。
とりあえず、深呼吸をして、右を見て左を見た。
そして、下を見て上を見て、入り口を見た。
あ、俺の妄想だったか。
危ないな。
現実と妄想が混ざり合うなど、陳腐なミステリー小説の主人公ではあるまいし。
やれやれどうやら相当、疲れているらしい。
中学生のあの頃――一瞬、脳裏に思いっきり体重をかけられ、踏まれた時の脚の痛みがフラッシュバックした気がした。
とっとと、帰ってシャワーを浴びて寝るとしよう。
うん、そうするのが一番だな。
そのような結論が出たところで正面に座る黒岩さんを見ると――隣にちょこんと腰を下ろした冬野風花ちゃんがいた。
いや、流石に俺の頭、都合よく錯覚しすぎでしょう。
何、もしかして俺はまだ夢の中にいるのか?
流石に起きないと、こんなイタイ夢は見てられないだろう。
風花ちゃんは、キョトンとして表情でちょこんと首を傾げる仕草をした。そして、何かに気が付いたように、ハッとした表情をして頭を下げた。
「いつまでも応援して頂いて有難うございます。本当に本当に、いつも手紙を読んで元気をもらっています」
ははは………やはり現実だよね。
「あああああああああああああ」
「ちょっと、夏弥さん?先程から大丈夫ですか……?あ、いやこの人初めから大丈夫な人間じゃなかったですね」と黒岩さんが勝手に納得するように呟くのが聞こえた。
「おい、聞こえているからなっ!この鉄仮面マネージャー!」
「て、鉄仮面ですって!?」
「あんた以外に誰がいるっていうんだ」
「も、もしかして、某掲示板で『握手会の時に、美人鉄仮面を回避する5つのテクニック』とかふざけたスレ立てたのあんたなのっ!?」
「な、何のことだかわからないなー」
「ゆ、許さない……っ!あのあだ名で、社内でも『美人鉄仮面』て呼ばれるようになったんだからねっ!?」
「ふん、フランス人形みたいに色白い顔しているから、フランスにかつて存在したという謎の人物――鉄仮面に当てはめて、わざわざ美人という枕詞も付けて命名してあげたんだから、むしろ感謝してほしいくらいだ」
「ついに開き直りましたねっ!?」
「キャンキャンと吠えないでいただきたいな」
「くっ……このガキ――っ!」
ついに本性を表したようだ。
元アイドル出身のマネージャーだからと言って、その外見でチヤホヤされてきたのだろう。
俺は昨年だったかに自ら高校生にアプリの作成を頼んでおいて、代金を踏み倒そうとした輩がいた事件を思い出した。
それは『私とデートしてあげるから、それが報酬よっ』などというちょっとばかり見た目は可愛いが、外見の可愛さを裏切るような頭のおかしい女子大生から急に代金の支払いを拒まれたことだ。
現物支給とか何時代だよ。
てか、この場合は現物どころか、デートなどという意味のわからない等価交換を持ち出されたのだ。
そうだ。確かあの時もこんな感じで初めは端正な顔だったが、話し合いがこじれるにつれて、真っ赤に染めて怒り――口をつけていない水の入ったグラスを掴んだんだ。
そして――バシャン、と生ぬるくなった水が頬にあたった。
でも前回と違った光景が視界には映った。
きっと手が滑ったのだろう。
放物線を描いて、どこかの有名な焼き物であろう高級そうなカップ――いや湯呑みは、すでに俺の目の前に来ていた。
「あ」と言ったのはどちらだろうか。
「ぐっ」という声にならない声が喉から出て、脳内が押されるような圧迫感を感じると、視界がぐらぐらと揺れた。ガタ、という音が耳元で聞こえたかと思ったら、視界が反転していた。なんか赤い液体が視界を覆ってきた。
ああ、血だ。
瞳をうるうるとさせて、心配そうな表情で俺を覗き込む風花ちゃんを見たような気がするがきっと気のせいだろう。
視界が真っ黒になった。
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