第2話 発端

 ――厄介な堅物マネージャーと対峙する数時間前のこと。


 放課後の2年A組の空気は弛緩していた。

 前の席の山田くんが振り返った。


「ねえ、ヒカルくんってさ、確か……『SeaSonS』好きって言っていたよね?」


「おう、それがどうかした?」


「いや、なんか、今日登校する時にさ、校舎前で知らない女性に声かけられたんだよねー」と何かを思い出すように、山田くんは銀色の眼鏡の奥で瞳を細めた。


「へー……ん、それがどうかした?」


「いや、今朝のことだけど『ヒカルさん、という方はどなたですか』って、めちゃくちゃ丁寧な口調で聞かれたんだよねー」


「それと『SeaSonS』の話がどう繋がるんだ?」


「いや、以前さ、某掲示板で貼られていたマネージャーと顔が似ているような気がして」


「……アイドルを引退した『推し』――風花ちゃんのマネージャーが俺に会いにきたとでもいうのか……なんで?てか、まさか山田くんの口から冗談が聞ける日が来るとは思わなかった。ははは」


「僕の勘違いだよね」


「まあ、俺と同じ苗字や名前の奴はこの学校にもいるかもしれないし、そいつの姉貴とかじゃないか?」


「うーん。でもなんか違うような……まあ……それもそっか」


「ああ」


「あ、そうだよ。ヒカルくん、アプリの開発のバイトしているって言っていたよね?だからお仕事関連かもしれないよね。1年生の頃にも取材とか言って、大学生の起業サークルと胡散臭いWEBライターがきてなかったっけ?」


「ああ。バイトの方ね……」


 うーん、その可能性の方が高い気がする。

 SNSやフリーランスの求人サイトで現役高校生の謳い文句を全面に出し続けているのはやはりミスったか?


 おそらくモザイクアプローチで簡単に俺のことなんて特定できるだろうし。

 でも、高校生という肩書きを公開することでブランディング的にかなりの額まで単価を上げることに成功しているからそんな簡単に方針を変えたくもないんだよな。


 そんな余計な思考をしていると、山田くんはすでに帰り支度を終えていた。


「まあ、とりあえずはさ、僕からはそれだけ。うん、とりあえず、やばそうなビジネスには関わらないことを祈っているよ」


 そう言って、颯爽と山田くんは教室を出て行ってしまった。

 きっと予備校があるのだろう。


 まあ、とりあえず、俺も帰るか。



 電車の中でSNSを見ていると、『冬野風花、突如の芸能界引退の真相!』などというくだらないゴシップ週刊誌の記事がタイムラインで流れてきた。


 パパ活疑惑、いじめ疑惑、結婚疑惑、根拠の乏しい空虚な情報が面白おかしく羅列さていた。


 ……ダメだ。こんなことに時間を消費してしまったら勿体無い。


 それに何よりもこのような記事を興味本位で読んでしまった自分に嫌気がさした。


 気持ちを切り替えたくてイヤホンを装着して、『ラブラブ。』というハッピーオーラ全開の冬野風花ちゃんのソロ曲を流した。


 ああ、最高。


 それから、スマホでエディターアプリを開いて自作アプリのプログラムを書き始めた。


 思考をコードとして具現化することが心地よい。


 いや、風花ちゃんの透き通るような声とロック調のギャップと相まって、ノリノリでコードを書き続けた。


 夢中になっていたらすでに乗り換えの駅を告げるアナウンスが聞こえた。


 プシューという音が鳴って、扉が開いた。


 急足で電車を降りた。


 その時だった――ホームに足を着けて、乗り換え電車のホームへと移動しようとして、トントンと肩を叩かれた。


「……?」


 振り返ると、どこかで見たことのある女性が立っていた。


 少し堅苦しさのあるスーツ――いや、オフィスカジュアルのようなベージュのセットアップで着飾っていた。

 

 そんな若干の堅苦しさを誤魔化すように肩まで切り揃えられているボブカットの茶色の髪はふわふわと舞った。


 どこかで見たことがあるが、思い出せない。


 イヤホンを外すと、女性はホッとしたように柔らかな口調で言った。


「夏弥光さん、ですよね?この後、少し時間ありませんか?」

「……え?逆ナンパですか?」

「な、違いますっ!」


 女性はちょっと焦ったようにホームをチラチラと見た。そして、近くに人がいないことを確認して、安堵したように息を吐いてから、キッと俺へと視線を向けた。


 あ、この少し冷めたような視線は――SeaSonSのマネージャーの人だ。


「コホン、突然、すみません。私―こういう者です」


 そう言って、可愛らしいデザインの名刺を差し出した。


「はあ、これはご丁寧にどうも」


 とりあえず、反射的に受け取ってしまったがどうすれば良いのか。

 

 名刺には――黒岩ルイナとゴシック体で書かれていた。


「芸名?」

「違います。以前は芸能活動もしていましたが、本名です」

「あ、そうですか」

「はい」

「では、俺、門限がありますのでこれで――」


 と何か面倒ごとになりそうな気がして、早々と話を切り上げて立ち去ろうとして、ガシッと腕を掴まれた。

 

 決して……かつての推し活動が少し、いやほんの少し過激だったかもしれなくて、それを理由に警察に突き出されてしまうことを恐れたからではない。


 そう、単に高校生として早く自宅に帰って勉強に勤しむのが当然であるからであって、決してやましいことなどないのだ。


「何、勝手に帰ろうとしているんですか?」

「……なんの御用でしょうかね?」


「コホン、冬野風花に会えると言ったら、ついて来てくれますか?」

「はい、喜んでっ!」


 気が付いた時にはラーメン屋のお兄さんのように返事をしてしまっていた。


 それから、ワクワクドキドキとする鼓動と『もしかして、俺のことを覚えてくれていて、特別なファンの一人をご招待する何かのイベントでもあるのではないか』など、様々な思考が脳内を高速に流れ始めて、俺は黒岩さんに釣られるようにして、ドナドナと付いて行った。


 駅を降りて、タクシーに乗って、そして――気が付いた時には馬鹿でかいオフィスの前へと居た。それから、エレベーターに乗って、取調室のような殺風景な部屋へと誘われた。


 ガチャン、という嫌な音が今しがた入ってきた部屋の扉の方からした。


 気が付いた時には、すでに逃れることができなかった。


 ……クッソ、拉致監禁されたらしい。

 詐欺師の類だったか。


 なんと小賢しい女か。

 監禁でもして、ちょっとばかしアプリ開発で潤った男子高校生から金を巻き取ろうという魂胆だな。


 俺は威嚇の意味を込めて、無言を貫いた。


 若干気まずそうな表情で誤魔化すようにコホンと咳をしてから、黒岩さんは早口で言った。


「まず、夏弥光さん、いつも冬野風花を応援していただき有難うございます」と言って、黒岩さんは頭を下げた。そしてすぐに、「また、ファンレターを毎日のようにお送り頂きまして有難うございます。冬野風花も目を通し、活力にもなっていると言っています」と続けた。


「しかし――毎月現金書留でお送り頂く10万円に関しては、スタッフ含めて困惑しています」


 夕焼けの空は、徐々に暗がりになっていく。

 オレンジ色と青色の境界が高層ビルからはやけに綺麗に見えるな、などと他人事のように思えた。

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