後編(1)
一面に黄色が広がっている。
私はそれを一瞥し、ガードレールに沿って歩き出す。
切れ目なく舞う葉。重みのある匂い。
ここS町の銀杏は、全国的に有名だ。私がいるのは、この時期、観光名所同然の歩道で、植樹された銀杏が立ち並んでいる。辺りにはカップルや家族連れがひしめき、彼らは写真を撮って歩くうち、銀杏の実やその他特産品の販売所へと誘導されていく。宿泊するには物足りないが、日帰りくらいなら十分楽しめる場所だろう。
黄色いカーテンを背景にして写真を撮る人。黄色いカーペットに足を踏み入れて歓声を上げる人。彼らを避けながら私はスタスタと進む。
銀杏の色づきと同時に、季節は確実に冬へと向かい始めている。風に身を震わせ、私はコートの前を合わせた。この風景の中、ビジネスコートを羽織った私はきっと場違いであるはずだ。
父親に手を引かれた子どもと目が合う。そして、私は反射的に、いいなあ、と思う。
安定した仕事に就いて、優しい人に出会って、そして子育てに四苦八苦しながら、たまにこんな華やかな場所へ出掛ける。私が知らず知らずのうちに臓腑の底で育んできた夢だ。
でも、そうそううまくいくものではない。第一に、私は感情の調整が未熟すぎた。今でこそカウンセラーのおかげでコツを掴めてきたものの、一日に一度は舌打ちをしている人間に心を許す人などいるのだろうか。
第二に、私の恋愛対象は同性だった。出会いそのものが限られる中で、さらにこの時代、この国――私が子どもを育てられる未来などあり得なかったのだ。
私が積載や梱包の作業に慣れ、集禍人として活動するようになってから、まだ一年少し。初めて担当した集禍は、ある富豪が持つ美術品の回収だった。私は不審に思われないよう、まず期限付きの使用人として雇われることにした。そこで出会った富豪の娘に、私は淡い恋心を抱いた。彼女には繊細な一面と、常識的な一面があり、つまるところ「守りたくなる」けれども「病んではいない」という稀有な女性だった。当然のごとく私はその思いに蓋をし、誰にも気付かれないよう、ただ任務に集中した。それは幸いだったのかもしれない。私は家人から誰よりも信頼され、首尾よく美術品を回収した。それが済んだ後でも私を疑う者はなく、契約期間を無事満了し、私は会社へと戻った。
余談だが、後日、今度は件の富豪の娘が集禍の対象となった。なんでも、その屋敷で開かれるパーティーの余興で怪談が催されることになり、そこで披露しようと彼女の仕入れた話が禍を含んでいたらしい。火元となった人間はすでに集禍済みだったが、パーティーが開かれる前に彼女も連行する必要があった。再び私が現れるのは不自然だろうと、私より年下の新人が集禍に当たることになった。しかし、彼には経験も能力も不足していたのだ。あろうことかその新人は彼女と恋仲になり、そして、そのパーティーが彼女の政略結婚に関わるものだと知る。パーティーの前の晩に、彼は彼女を車に乗せ、逃避行に走った。彼にしてみれば、彼女を連れ出した後、集禍を済ませ、後は二人で慎ましく暮らそうという算段があったに違いない。しかし、その車内で彼女は仕入れた怪談を披露してしまう。禍に呑まれた二人は、大事故を起こして帰らぬ人となった。
――嫌なことを思い出している。
無意識に舌打ちをしそうになり、私は自分の状況に気付いた。記憶は私に怒りを呼び覚ます。自己憐憫に浸って感情を暴走させる前に、今、ここに戻って来るべきだ。カウンセラーに教わった方法を思い出せ。
私は両手に意識を集中した。右手の重さに意識を向け、左手よりも右手が重いことを確認する。次いで、左手の熱さに意識を向け、右手よりも左手が熱いことを確認する。
オーケー、私はもう落ち着いた。最近は、一分足らずで気分の平静を取り戻すことができる。薬の服用もしていない。
ともかく、任務に集中するのだ。私は今、大きな任務に向かうため、ここにいる。そして、ある人間に助力を求めなければならない。
集禍場をすでに引退した人だ。禍の恐ろしさを知っている分、助力を断られる可能性もある。しかし、他に手はない――そのくらいに危険で、切羽詰まった案件だった。
目的の場所で立ち止まる。黄色いカーテンの向こうに、小さなログハウスが見える。私はそこへ踏み込んでいった。
明かりは点いているようだ。近づいてみると、そのログハウスが思ったよりも年季の入ったものであることがうかがえた。玄関脇にチャイムのボタンは付いているものの、会話のできるインターホンではないらしい。おそらく、カメラやモニターもないだろう。もしかしたら、最近話題のDIYとやらで、手作りされた家なのかもしれない。
ためらわずに、チャイムを鳴らす。
ドアの向こうからバタバタと足音がし、ドアから髪をぼさぼさにした細身の男性が顔を出した――もう昼過ぎだが、今起きたのだろうか?
彼は、私を見て目を丸くする。
「ね、根目沢さん?」
「お久しぶりです。雨宮さん」
数日前、社長に呼び出されたときのことを思い出す。
「すまない」
机の上で祈るように手を組んでいた社長は、いつになく神妙な様子で言った。すでに、この難しい案件を依頼されるだろうと覚悟していた私は、「いいえ」と首を振る。
「ベテランを失ったんだ。頼れるのは君しかいない」
「買い被りですよ」
「集禍の腕そのものにおいて、君の右に出る者はいない。それは誰もが認めている」
社長はゆっくりと立ち上がった。
「でも、この案件はそうではないんですよね?」
「そのとおりだ。ターゲットがなかなかの曲者でね」
「宗教の教祖でしたっけ?」
「うむ。欲深く、用心深い。連行はおろか、二人きりになることすら許されまい」
噂に聞いていたとおり、厄介な相手だ。だが、それだけでベテラン集禍人を失うだろうか。
私の言いたいことを社長も汲んだらしく、「それだけじゃあない」と言い添えた。
「もっているものも相当な代物だ。やつが広めようとしている禍は強力すぎる」
宗教そのものに禍が入り込むことはないとされている。あれは言葉でも具体的事物でもなく、信仰だからだ。どんなに危険な思想の新興宗教であっても、私たちは手出しをしない。私たちが闘うのはあくまで禍なのだ。
この宗教も同様で、信仰の対象や信念そのものに害が――禍による害が――あるのではないらしい。社長の話によると、この教祖は説法に凝っていて、手を尽くして津々浦々から自身の信条を補強するような逸話を集めているのだそうだ。子どもが戯れに紡いだ家系図のように、何の根拠もなく、ただやみくもに逸話の類似点を線で結び、ときには捏造し、すべてを自分の興した宗教に帰結させていく。
その逸話の一つに、とてつもなく危険な禍が含まれていた。集禍対象を追っていた社員たちが、そのことに気付き、教祖が物語を線で結び終えて説法に持ち出してしまう前に何とかせねばと動いたのだ。
当時、我が社で一番の実力をもっていたベテラン集禍人が派遣され、数名の犠牲を出しながらどうにか教祖を拉致し、梱包に臨んだ――しかし、失敗した。禍の力に押し負け、肉片となって弾け散ったのだ。
「雨宮くんを頼れ」
突然の懐かしい名前に、私は面食らう。
「なぜ彼を?」
「彼は、君ほどではないにしろ、優秀な集禍人だった。しかし、彼にとってここは社会復帰のための階段でしかなく、やがて引退してしまった――いや、これは本題とは関係ないな。とにかく、彼が優秀だったのは、たぐいまれな梱包能力の高さをもっていたからだ」
「知っています。積載から梱包の担当に移ったとき、誰よりも速く、的確に梱包をやってのけたと」
「彼が梱包を離れて集禍人になってからの活躍も、器用に梱包をやってのける能力によるところが大きかった。彼であれば、会社まで相手を連行しなくとも、相手がちょっと居眠りしている間に梱包を終えることができたからね」
納得がいく。私が集禍人としていくつかの仕事をうまく成し遂げられたのは、危険を嗅ぎ分ける力があったからだ。それは皮肉にも、私が忌み嫌ってきた「怒り」の感情が私に与えた者だった。
話している相手が私にネガティブな感情を向ける、あるいはその辺に転がっている事物が禍々しいエネルギーを放つ。
自分の敵意に敏感で、目には目をと牙をむき続けてきた私には、それらをキャッチすることなど容易かった。
同時に、集団に溶け込んで、疑われないうちに目的を果たす力も必要だ。これは、雨宮さんと出会った頃の私では無理だっただろう。しかし、十代に入ったばかりから、治療の一環として私はずっと社会的技能を訓練されてきた。年単位で人間関係を持続させるのは難しいが、短期間ならむしろ得意と言えた。
納得がいったのは、禍を感じ取るセンサーも、対人能力もそれほど秀でているとはいえない雨宮さんが、なぜあれほどの成果を上げられたのかという疑問に対してだ。梱包は器用さとセンスに大きく左右される。だから私はむしろ苦手としていて、縛られた上に薬で朦朧としている相手からしか禍を選別できない。それを、居眠りの最中に気付かれずやり遂げるというのだから恐れ入る。
「彼がいれば、ターゲットの連行が無理だと判断される場合でも、柔軟に対応が可能になるだろう」
「なるほど――」
私は顎を数回指でさすった。昔からの癖だ。
「今のお話を聞いて、社長の意図はよく分かりました」
「引き受けてくれるか?」
「ええ」
「すまない」
西日が射していて、社長の表情はよく見えない。しかし、その口元がぎゅっと真一文字に引き締められているのが分かった。
そのまま社長は私に深く頭を下げた。
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