前編(2)

「ここが働いてもらう場所。このコンベアで段ボールが流れてくるから、それをトラックに積み込むだけ」

 社長直々の説明に、僕は「はい」とうなずいた。

 コンクリートの壁に切れかけた電球。僕はここを「灰色のバックヤード」と呼ぶことにした。どこまでも彩りを欠いた、無機質で肌寒い空間。僕らに支給された作業着も、何の冗談かと疑うようなグレーだ。

 僕らのいる場所は積載場のようで、裏手にある工場からコンベアで段ボールが流れてくる。コンベアの先は二股に分かれていて、それぞれの先にトラックが停まっている。

「超最新技術によって、段ボールはその中身に応じ振り分けられる。いいか? 決して積み込むトラックを間違えないように。右側に運ばれてきた箱は、右側のトラックに。左側の箱は左側のトラックに」

 相変わらず、社長の声はドスが効いている。本人としては通常の業務説明をしているだけなのだろうが、こちらは「規則を破ればただではおかない」と脅されているような気分だ。面接時とは違い、彼が敬語を使っていないこともそれに拍車をかけている気がする。きっとこれが本来の口調なのだろう。

 僕は再び、「はい」と言う。メモを取るほどの内容でもない。仕事を前向きに覚えようとしているというポーズをとるより、はきはきと返事をしておくだけの方が自然だと考えたのだ。

 ところが僕の隣にいる青年は、額の脂汗を拭いながら、必死でメモを取っている。

 名前は「田所」だったと思う。僕と同じ新人で、何の偶然か、二人とも今日が勤務初日だったのだ。もしかしたら、業務の説明が二度手間にならないよう、社長の方で初出勤日を調整したのかもしれない。

「しばらくの間、教育係として金田を付ける」

 社長が指さしたのは、バックヤードの後方に立っているスーツ姿の男だ。髪をオールバックに固め、ここの薄暗さにも関わらずサングラスという出で立ちだ。ここで何かしらの契約違反を犯せば、彼によって簀巻きにされてどこかの海へ――そんな妄想が頭を駆け巡る。

「といっても、基本的には口を出すなとあいつには言ってある。段ボールを積み込むだけの仕事で、今俺が説明している以上のことなんて何もないんだから」

 社長は人差し指を立て、僕らに突き付ける。そこにはまった金色の指輪――悪趣味に、竜の姿が彫り込んである――は、まるで銃のトリガーみたいに見えた。

「もう一度言っておくが、段ボールを積み込むだけだ。そして、ルールが二つ。積み込むトラックを間違えないこと、箱を開けないこと」

 有無を言わさぬ迫力があった。僕は生唾を飲み込みながら、「分かりました」と絞り出す。隣の田所さんは、相変わらずメモを取っていた。

 ちらりとメモ帳を盗み見る。何のことはない、彼はやみくもにペンを走らせているだけだった。メモ帳の表面には、意味のある文字列など一切書き込まれていない。彼は、社長の放つプレッシャーから逃れるために、つまり社長と目を合わせず、返事を返さなくても不自然ではない状況を作るために、ひたすらメモを取る振りばかりしていたのだ――当然、ここまでやってしまうとかえって不自然で、僕でもそれに気付く。社長などずっと前から気付いているだろう。

 しかし、社長はそこに触れなかった。面接のときも感じたが、従業員に対する配慮は厚いようだ。おそらく田所さんは、対人的な部分に苦手を抱えているのだろう。しかしこの会社はそれでも彼を雇い、そして長続きさせようと考えているのだ。

「もちろん、二人の不安は分かる。この荷物は何なのか、安全な代物なのか――こんな面構えの人間が社長をやっている会社だからな。だぁーはっは」

 突然の笑い声に、田所さんが「ひゃいっ」と声をもらして鉛筆を取り落とす。僕はかがんでそれを拾い、彼に手渡した。

「あ、ありがと」

 田所さんの声はか細く、きっと「うございます」も言ったのだろうが、僕の耳ではとらえきれなかった。ただ、彼は不器用だけれども悪い人ではなさそうだということが分かったし、社長も社長で不器用ながら、僕らを育ててくれようとしてくれていることも分かった。

「失礼、声が大きかった。ともかく、この会社の業務についても説明をしておいた方がいいだろう。ただ、俺の方にこの後別の予定が入っていて、詳しい説明は来週の頭になるが、それでもいいか?」

 確かに、先ほどから社長は忙しそうだ。案内のさなかにも何度か携帯電話が鳴っていて、応対した社長の口からは「確保」とか「連行」とか、物々しい単語が飛び出していた。

 しかし少なくとも、僕たちのような新入りにも、会社の業務について詳しく話そうという気はあるらしい。どこまで本当のことを教えてもらえるのかは分からないが、僕はその方針に好感をもった。

 田所さんも同じらしく、小刻みに首を縦に振っている。僕も合わせて大きくうなずいた。

「はい。お願いします」

 社長は満足そうに笑い、「それでは」と手を上げた。

「俺はこれで失礼させてもらう。ここで積載を担当している職員はもう一名、女性がいる。それと時々手伝いに来る男性が一名。それに、先ほど紹介した金田。何か困ったことがあれば、彼らに聞くように」

 社長は建物の奥へ引っ込む。入れ違いに、男女の職員がやって来た。

 男の方は見覚えがある。僕が面接を受けた日、受付にいた紫ジャンパーの男だ。

 にこにこしながら、僕と田所さんに「よっ」と片手を上げる。そのくだけた調子に、僕は幾分救われるような気分になった。

「二人とも、面接のときに会ったな。名前は紫苑だ。基本的には受付にいて、来客予定のない暇なときにはこっちへ来る。まあしばらくは、新人研修も兼ねて、こっちに出ずっぱりかな」

 ここにいるメンバーの中では、おそらく一番の年長者だろう。間近で向き合うと、目じりと口元に刻まれたしわや、髪に混じる白いものがよく見えた。同時に、煙草の臭いが鼻をつく――そういえばこの人、受付でも堂々と煙草を吸っていたっけ。

 もう一人の女性は、目深にキャップを被り、大きなマスクを着けていた。「よろしく」と無愛想な声を出し、ぺこりとお辞儀をする。

「それと、これ、読んで」

 彼女は僕と田所さんに、カードを1枚ずつ手渡した。ラミネートされているが、所々に折り目が付き、かなり古いものであることが分かる。

 僕は軽くお辞儀を返し、カードへ目を通した。

『私は根目沢光(ねめざわひかり)です。趣味はパンクバンドの追っかけ、特技はギター演奏です。こんなカードをいきなり手渡して驚かれるかもしれませんが、一度お読みください。私は昔から怒りの感情をコントロールすることが苦手で、カウンセリングと薬の服用を続けています。今でも時々いら立ちをコントロールできず、周りを不安にさせてしまうことがあります。具体的には舌打ちしたり、「ああっ」という声を上げたり、ひどいときには机や壁を叩いてしまうことがあります。でもそれはうまくいかないことに対してのイライラであって、人を恨んだり攻撃したりするものではありません。だから、無視して受け流してください。数分あれば、自分で気分を落ち着けられます。こんな私ですが、仲間として受け入れていただけるとありがたいです。読み終わったら、またカードを返してください。』

 この人も特別な事情を抱えているようだ。少なからず戸惑いはあったが、それよりも僕は彼女に対して尊敬めいたものを感じ始めていた。社長の説明を聞いているときから、僕はいかにも「三年間怠惰な時間を過ごしましたが、コミュニケーションや生活態度には問題ありません」という姿勢ばかりを見せようとしてきた。そして、心のどこかで田所さんに対しても、「僕は彼とは違う」という思いを抱いていた。

 しかし、彼女はそうではない。話し方がどうとか態度がどうとか以前に、自分のことをよく分かり、それを周りに伝える術を身に付けている。「仲間として受け入れていただけるとありがたい」なんてとんでもない。本来は、僕らの方が、彼女に仲間として受け入れてもらう立場なのだ。

 僕はカードを返しながら言った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 本当はもっと気の利いたことを言えるとよかったのだが、それ以外に言葉が出てこなかったのだ。

 彼女は小さくうなずいて、カードを受け取る。田所さんも、同様にしてカードを返した。

 紫苑さんが肩を回した。

「ようし、自己紹介し合ったところで、仕事にかかるか。分からないことがあったら聞けよ」

 四人そろって、コンベアの方へ歩き出す。

 僕はちらりと後ろを振り返った。スーツ姿の金田さんは、先ほどから微動だにせず、僕らのことを監視し続けていた。


 仕事を始めて三、四日と経つと、仕事の単純さもあってすぐに慣れた。

 出勤してバックヤードに向かうと、すでにコンベアの前にはトラックが待機している。僕らはトラックの荷台を開け、後は荷物を待つ。段ボールが流れてくるのは、五分に一つ、二つ程度。と言ってもこれはまちまちで、段ボールがずらりと並んで流れてくることもあれば、十五分以上コンベアだけが空回っていることもある。待っている間はパイプ椅子に腰掛け、持参した本を読むのが許されていた。六時になってコンベアが停止し、僕らはトラックの荷台を閉めて業務を終える。更衣室で着替えてからバックヤードの戸締り確認に戻ると、すでに二台のトラックは出発した後だ。運転手の姿はまだ一度も見たことがなかった。

「最初は不安だったけど、いい人たちばかりで、仕事も分かりやすくて、ありがたいですね」

 珍しく田所さんから話しかけてきた。

 荷物は少し前から小休止していて、僕も田所さんも手持ち無沙汰だったのだ。僕は読んでいた本から顔を上げ、「そうですね」と返す。

「午後一時から六時までっていう勤務時間もやりやすくて」

 僕の言葉に、田所さんが「そうです、そうです」と小刻みにうなずく。引きこもりから脱したばかりの僕が遅刻せず出勤できているのも、この時間設定によるところが大きい。

 僕らと反対側のコンベアでは、根目沢さんが黙々と作業を続けていた。今日は紫苑さんが休みだ。僕ら二人が働き始めたことで、週休二日制が実現できたらしい。四人で代わる代わる休みをとるのだ。もちろん今のところは、僕と田所さんの二人だけにならないようシフトが調整されていた。

 根目沢さんは一日一回くらい舌打ちをしていた。でも、それよりもひどい怒り方はまだ見たことがない。積み込み方の助言を求めると、無愛想ながら丁寧に教えてくれる。彼女よりも感情の起伏が激しい人間なんて、世の中にいくらでもいるような気がした。

 田所さんは、まだ話を続けるべきかどうか迷っているようだった。彼がここまで話すのは珍しい。しっかり聞くべき時のような気がした。

 荷物の流れてくる気配がないことを確認し、僕は本を閉じて作業着のポケットにしまい込んだ。

 それが後押しとして効いたのかどうかは分からないが、田所さんは伏し目がちにこぼし始めた。

「すでに分かっているとは思いますが、僕、あんまり話をするのが得意じゃなくて」

 僕は喉の奥で「うん」と声を発して続きを促した。ここで「そんなことないですよ」とあからさまに否定するのは失礼だと思ったし、かと言って「ええ」と肯定していくのもはばかられたのだ。

「小学校低学年までは、むしろよくしゃべる方だったんです。だけど、その話し方がまずくて、相手の話を受けて話したり、相手に問いかけたりすることができなかった。つまり、自分の興味のあることを一方的にしゃべっていただけだったんです」

 彼は苦笑いしながら頭を掻く。

「付き合ってくれていた周りの連中も、限界が来たんでしょう。ある日、総攻撃を受けました。『いい加減にしろよ』『お前はいつも自分の話ばっかりだ』って。それどころか、物を隠したり、狭いところに僕を閉じ込めたりと、半ばいじめのようなことをする子も現れ始めました。僕にもう少し理解力があったり、周りの大人からサポートを受けられていたりすれば別だったんでしょうが、そうではなかった。僕はほとんど口を利かなくなりました。ショックだったというのもありますし、どこかふてくされていた部分もあったんだと思います。それで、もともとコミュニケーションに難があったのが、輪をかけて苦手になってしまった」

「なるほど」

「でも、初日に根目沢さんのカードを見て、目が覚めたような気がして。僕もこうやって、自分のことと向き合っていけばよかったんだって思ったんです。雨宮さんも、詮索するでもなく馬鹿にするでもなく、こうして一緒に働いてくれていますし、本当に恵まれています」

 僕は「いやいや」と手を振った。

「僕もこれまで、褒められた生き方はしてこなかったですから。お互い様ですよ」

 田所さんはぎこちなく笑い、「ありがとう」と言った。

「すみません、長話して。まとまらないんですけど、これからもよろしくってことで」

「こちらこそ」

 そのとき、コンベアに荷物が流れ始めた。僕らはまた積み込み作業へ戻る。

 田所さんがこうやって内面を吐露してくれたことを、僕は嬉しく思っていた。それは、いつか僕も自分の身に起きたことを話せるときが来るかもしれない、という予測を含んだ喜びだった。

 それが実現することはなかったのだけれど。

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