集禍場
葉島航
前編(1)
怖い話をしていると、怖いものが本当に来るよ――。
それが嘘だと知ったのは、引きこもって一年半が経った頃だった。
見たかった映画、やりたかったゲーム、そういったものを僕は順調に消化していた。生物は似たような刺激に繰り返しさらされると慣れてしまうものだ。僕の好みがいささか偏っていたこともあって、馴化は早かった。
普段見ないものを見よう、普段しないようなことをしよう、そう思い始めたのは必然だったと言える。別の刺激を求めて、僕は毎日就寝前にネット上の怖い話を読むようになった。
僕は刺激的な体験を望んでいた。恐ろしくて眠れなくなるとか、何か怪現象に出会うとか。今思うと、好きなはずのことに飽和してしまった自分自身にあきれ、自虐的な気分になっていたのかもしれない。それで、恐怖というネガティブな刺激を求めた。
でも、期待した通りにはいかなかった。
電気を暗くした中でそれらを読んでいると、確かに背筋が冷たくなる。でも、それだけだった。金縛りや心霊現象はおろか、悪夢すら見ることはなかった。
飽和状態はどこにでもやってくる。やがてどんな話を見ても怖くなくなり、僕は怖い話漁りをやめた。
怖い話に限ったことではなかった。僕の心の何かは、化石のように硬く、干からびてしまったのだ。何に触れても、もはや僕の心は動かない。
二時間近く話を追い続けるのが億劫で、映画鑑賞をやめた。ネットを見れば、ネタバレを三分で読める。
レベルを上げるための作業に飽きて、ゲームをやめた。キャラや設定が違うだけで、どのゲームも「カーソルを動かして、ボタンを押す」ことを繰り返しているだけなのだ。
同じように、漫画も小説も、ネット上の情報も、僕の選択肢から消えていった。
新しいことを始めてもよかった。ギター、料理、絵画、編み物。この世には余暇活動がごまんとある。
けれど、身体が動かない。ベッドの上で、モニターを見続けることに慣れすぎてしまったのだ。この時点で、引きこもってから三年。僕はあらゆる刺激に飽きながら生き続けた。
どこかで、このままではいけないという思いがあったのだろう。ある日、僕は酒を飲んだ。その勢いで、アルバイトに応募した。賃金も福利厚生も気にしなかった。客を相手にする仕事ではないこと。でも、人と全く接しない仕事ではないこと。それが条件だった。
思えば、僕は他人に飢えていたのかもしれない。これまでの人生で、他人はむしろ苦手だったはずなのに。
そして今、僕は扉を前にしているわけだ。分厚いすりガラスに「神林運輸」と印字されている。廃ビルと言っても差し支えないような、古い建物だ。
扉を開けて正面の受付に行くと、紫のジャンパーを羽織った男が煙草を吸っていた。
「す、すみません」
三年ぶりに他人に対して声を出す。かすかに震えているのが自分でも分かった。
早くも後悔し始める。なぜ僕はこんなところで、こんなことをしているのだろう。お金に困っているわけでもないのに。
男はじろりとこちらを見た。値踏みするような目つきに震え上がる。
紫煙を吐き出し、男は手元の書類へ目を落とした。
「雨宮さん?」
「はい、そうです」
「アルバイトの面接ですね?」
「ええ」
男が顔をくしゃっとした。一秒遅れて、笑ったのだと気付く。
「人手が足りなくて困っていたんです。だから大変ありがたい。もちろん採用となるかどうかは社長次第ですが、あまり緊張せずに行ってみてください」
目つきや人相に怯えていたが、悪い人ではないようだ。
そのまま、社長室への案内を受ける。小さなビルだ。迷うこともないだろう。
「幸運を祈りますよ」
僕は深く頭を下げ、二階の社長室へ向かう。
さすがは社長室と言うべきか、古いビルの中にあって、そこだけはきちんとしていた。木製の扉は光沢を放っている。定期的にニスでも塗っているのだろうか。それに、部屋の前にある待合ソファは革製だ。多少埃が気になるが、相当高級なものに見える。
ためらいがちに、扉を三回ノックする。
「どうぞ」
太い声が聞こえた。
「失礼します」
扉を開ける。目に飛び込んできたのは、黒塗りの机に黒電話、そして黒スーツの男だった。
危険な会社かもしれない、という考えが頭をよぎる。
社長と思われる男は、スキンヘッドに眼鏡を掛け、腕組みをしてこちらを見ている。どう見ても堅気の人間ではなかった。
しかし何であっても、この場で失礼を働くべきでないことは分かる。
「アルバイトの面接に参りました、雨宮と申します」
「ご丁寧にどうも。社長の神林です。どうぞおかけください」
廊下にあったものと同じ、黒革のソファに腰掛ける。神林社長の口調は柔らかいが、ドスが効いている。
「楽にしてください。こんな見た目だから誤解されやすいですが、ここは反社会的な団体ではないですから」
そう言ってから、神林は「だぁーはっは」と自分で笑った。
場を和ませようとしたのかもしれないが、むしろその笑い声に僕は驚いてしまう。少しばかり飛び上がってしまったのを見られただろうか?
「冗談を言っていてもしょうがないですね。面接を始めましょう。いや、反社でないのは冗談ではありませんがね、だぁーはっは」
ちょっとばかり、笑いのセンスがずれた人なのだろう。しかし話しやすい雰囲気になったのは事実だ。「社長」という言葉から連想するほど老けてもいないし、もしかしたらやり手なのかもしれない。
僕にできるのは、社長が笑うのに合わせて愛想笑いを返すことくらいだ。社長は気を悪くするでもなく、上機嫌な様子で履歴書を手に取った。
「ええと、雨宮康太さん。二十五歳。家からここまでは徒歩十分。勤務の日数や時間帯は、なんと一任。ここまでの内容に間違いはないですか?」
「はい」
「正直、わが社としては願ったりかなったりの話なのです。交通費の支給は不要。しかも、シフトの自由度が高い。すぐにでも欲しい人材です」
少しくすぐったい気分になる。しかし、これだけで終わるわけもない。僕は大学を卒業してから、三年間無職だったのだ。そこの説明はしなければならないだろう。逆に、それを突っ込んでこない会社は心配だ。
「それを踏まえて聞きたいのですが、えー、今から聞くことは採用に影響ありません。それに、答えづらい内容であれば、そうおっしゃっていただければ大丈夫です」
来た、と思った。空白の三年間について、説明をしなければならない。
ただ、これだけ人権意識をもってくれているのはありがたかった。やはり、この社長はやり手だ。
「大学を卒業してから今まで、およそ三年間、お仕事をされていない期間があります。こちらについてもう少し詳しく教えていただけますか? アルバイトとは言え仕事ですので、一般的なタフさというのが必要になってきます。もしその点にご不安があれば、可能な限りこちらで配慮することもできます」
要は、メンタル面に不調があるのかどうかを確認したいらしい。
その点について言えば、僕は健康そのものだ――少なくとも自分ではそう思っている。家で考えてきた文言を、なるべく明るい調子で吐き出す。
「ご質問ありがとうございます。恥ずかしい話ですが、父の仕事の関係で、僕が大学を卒業すると同時にまとまったお金が家に入ったのです。それまで裕福とは言えない家庭で育ってきましたので、何というか、舞い上がってしまい……。そのまま、親のすねをかじる形で、就職活動をおろそかにし、今まで来てしまいました。ただ、大学時代にアルバイトの経験はいくらかあります。三年間の空白も、精神的な問題ではなく明らかに甘えですので。このままではいけないと、自分を変えるためにも、御社のアルバイトを希望させていただきました」
社長はいくらかほっとした様子だった。
「なるほど、分かりました。ただ、採用となった場合には、遅刻や無断欠席は厳禁です。もしそれらが続いた場合は、契約違反として強制的に解雇となる可能性もありますが、よろしいですね?」
ここで、社長のまとう空気ががらりと変わった。僕に精神的な不安がないと分かったためだろう。今度は、声のトーン、表情、目つきから、ひりつくようなプレッシャーを感じる。
僕は一度唾を飲み込み、はっきりと口を動かした。
「はい。重々承知しています」
「よろしい」
ふっ、と力が抜けた。社長は僕の履歴書をファイルにしまう。
「はい、採用」
「え?」
拍子抜けしてしまう。
「この後シフトを汲んで、今日の夕方には電話をさせてもらいますね。そうしたら、来週からもう出勤できます」
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ。だぁーはっは」
あまりにもあっけない。狐につままれたような気分で、社長室を後にする。社長の笑い声は階下にも聞こえていたようで、受付の男に「おめでとう、よろしくな」と声を掛けられた。
外に出ると、一気に緊張が解けた。歩き出しながら、深く息をつく。
とにかく、働く場所が決まったのだ。今週いっぱいを使って、生活のリズムを整えるべきだろう。もうベッドの上で一日を過ごし続けるのはやめだ。
僕は社長に嘘をついた。わずかに良心がとがめる。
――父の仕事の関係で、僕が大学を卒業すると同時にまとまったお金が家に入ったのです。
嘘だ。僕は母を早くに亡くした。もとから風水や占いといった不確かなものが好きで、やがて新興宗教にのめり込んだ母は、「原罪浄化」の名の下に劇薬を飲み込んで死んだ。父はそれ以来ふさぎ込み、働くことができていなかった。そのため、僕は奨学金を借りて大学へ行き、アルバイトに明け暮れた。
お金が入ったのは本当だ。でも、父の仕事の関係ではない。父の買った宝くじが当たったのだ。数億という金額が、父のもとに転がり込んだ。父の提案で、僕と父の二人で山分けとなった。
――親のすねをかじる形で、就職活動をおろそかにし、今まで来てしまいました。
違う。
宝くじが当たった翌日、父は自死を選んだ。札束を抱いて、その中で息絶えていたという。
父はずっとそうしたかったのだ。だけど、僕の存在がそれを許さなかった。
多額の金を得られたことで、ほっとしたのだろう。これだけの金があれば、僕が一人でも大丈夫だと思ったのだろう。
僕は一人になった。
友人も、いるにはいた。しかし、宝くじを当てた人間がまともに生きられるわけもない。
宝くじの噂を聞いて――どこから漏れたのかは本当に分からなかった――変わってしまった友人たち。それと、僕が一方的に「金目当てだ」と思い込んでしまった友人たち。
僕が友人を全員断ち切るのに、三日しか要さなかった。たった三日だ。
他人への不信感を抱きながら、僕は引きこもった。家を空けるのも怖かった。
メンタル面に問題がない、というのは本当だ。ただ、僕はいろいろなことに疲れてしまったのだ。それがもとのレベルまで戻るのに、三年間が必要だったというだけ。
とにかく、これから僕の生活が変わる。自分にできる範囲の努力さえすれば、当面心配ないだろう。
怖いものなんて来ないのだから。
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