第3話 雨

『……見たんだよ、真夜中の海に居る女の幽霊を!!!』


『あの海で、事故があったんだよ……5年前、女の子が亡くなった悲惨な事故がなぁ!!!』


 それは突拍子も無く、馬鹿げた考えだった。

 でもそれが、もしそれが真実であれば……




 彼女は、真夜中に生きる海の幽霊なのかもしれない。





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  泡沫の人魚姫  第3話 雨




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「どうしたの? 急に固まって……やっと信じてくれたかしら?」


 片眉を少しだけあげて、いたずらっ子のように微笑む彼女を俺は、真っすぐに見ることができなかった。


「あのさ……」


「凛久?」


 俺の様子が何かおかしいことに気づいたであろう彼女は、姿勢を正して俺に向き直った。こちらの出方を伺うかのように無言で、けれども優しいまなざしで見つめている。

 俺は、重く閉ざされた口をゆっくりと開いた。


「君は……幽霊だったりするの?」


 ただでさえ青く大きな瞳は零れそうなほどに見開かれ、彼女の驚き具合を物語る。

 まさか、言い当ててしまったのだろうか。

 もし、今の状況が怪談話の中であれば俺はすぐに喰われてしまうのだろう。


「っふ……ふふふ、あはははは!!」


 腹を抱えて笑い出す彼女の声に、俺は現実に引き戻された。


「幽霊って、そんなわけないじゃない! 見てのとおり、手も足もあるのよ?」


 グーパーを繰り返し、手の存在を主張し続ける彼女は誰が見ようと幽霊などと思わないだろう。しかし、俺は依然として彼女と距離を取っていた。


「けどさ、今までの記憶も昼間の記憶も存在しないんだろ。それが普通の人間って流石に無理があると思う。でなきゃ、嘘をついてるとしか思えない」


「そう言われてみればそうよね。それに、世の中には自覚のない幽霊が多くいそうだわ」


 俺の意見に食い下がるだろうと予想されていた彼女は、意外とあっさり意見を受け入れた。

 俺は、彼女の謙虚な態度に訝しげな表情を浮かべていた。

 彼女は顎に手を当て、しばらく考える様子を見せたが、数秒の後にパッと顔を上げて更に口角も持ち上げた。


「それなら、触ってみない?」


 そう言ってすぐさま、彼女は一歩ずつ歩みを進めてきた。固まる俺の腕へ静かに近づくと、白く細長い指をこの手に重ねようとした。

 そして、されるがままに二人の指先が触れた瞬間。




 酷く冷たい冷気が体を走った。




 それが、記憶の引き金になってしまったのだろう。



 冷たく、無機質に感じた手のひら。


 病院特有の強い消毒液の匂い。


 無力感に泣きじゃくる自分の姿。


 あの夏の日の情景がフラッシュバックした。



 俺は、反射的にその腕を振り払ってしまった。茫然とする彼女の様子に気づけないまま、胸の前で両手を握りしめていた。俺は震える身体を抑えながら、恐る恐る彼女を見上げた。


 彼女の顔には、驚きと悲しみを織り交ぜたような表情が浮かんでいたんだ。


「ごめんなさい……」


 そう言い残して、一歩ずつこの場を離れていく後姿を止めることができなかった。

 何十メートルも先で足を止めた彼女は、こちらに背を向けて海を見つめ続けていた。

 結局俺は、何も言いだすことができなくて。やるせない思いを胸に今日も帰路へとついた。




*




 あれから三日が経った。俺は海に行かなかった。

 いや、行けなかったと言うべきか。

 別に、幽霊の話を真に受けたからとかじゃない。


 単なる気まずさだ。


 そもそも、彼女とどう気まずくなろうとかまわないつもりだったし、幽霊だろうが嘘つきだろうが関係なく、関わるのには損しかない。


 けれど、その手を振り払ってしまったときの表情が一向に頭を離れなかった。最近は寝ても覚めても、そのことばかりだ。


 俺は一刻も早くすべてを忘れるため、あの海を諦めた。

 行ったところで、どうあの少女に話しかければいいというのか。だから行けない。





 そんなこんなで平穏な日々を過ごし、やってきた休日。俺は日課の予習復習をこなし、夕飯に山川さんの作ったロールキャベツを食べていた。


「お口に合いますでしょうか?」


「うん、いつも通り美味しい」


「良かったです」


 山川さんは食事を口に運ぶ俺の様子を横目に、静かにエプロンを畳んでいた。彼女はたいてい俺の食事を見届けてから帰宅する。もう帰って大丈夫だと伝えたこともあったが「そうでもしないと、凛久さんはお食事を抜かれるじゃありませんか」と笑って返された。

 別に食事を強制されているわけではないが、夕飯を作り終えるといつも声をかけてくれていた。もう、5年の付き合いだ。親心でも湧いたのだろう。

 俺はそんな彼女の親切心を好意的に受け取っていた。


「そういえば、今夜は台風が来るそうですね。海も荒れますかね」


 台風?

 山川さんの言葉を受け、俺はカーテンを軽くよけて窓の外を伺った。夜になりかけていた空は、あたり一面が厚い雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうだった。


「明日の朝には通過するそうですが、夜中は特にひどいと聞きました」


 山川さんの言葉が頭の中を巡る。


 一瞬、あの少女の姿が目に浮かんだ。


 その映像を振り払うかのように、俺は頭を横に振った。後片付けに夢中だった彼女は、俺の様子がおかしいことに気づけなかった。



*



 食べ終えた皿を流しに運ぶ。茶碗に水を溜めながら、俺はあの少女のことを考えていた。


 今更、彼女を気にする意味がどこにある。流石に自分の命くらいは自分で守れるだろう。嘘つきなら家に居ればいいし、幽霊には風邪の概念なんてない。多分。

 とどのつまり、心配するだけ無駄である。


 そもそも、なぜ俺がこのような心配を?

 自分自身へのイラつきを吐き出すように、小さく舌打ちを打った。



*



 時刻は夜の十一時過ぎ。雨戸の音がガタガタと鳴り響いている。

 自室のテレビをつけてみると、丁度台風の中継をしていた。


『台風4号は深夜零時丁度に関東地方でピークを迎える予定です。今、神奈川県沖に来ていますが、すごっ……凄い風と雨の量で、立っているのがやっとの状態です!!』


 男性リポーターの顔には、容赦ない量の雨粒が吹き付けていた。斜め前へと重心を寄せ、じっと堪えるようにして突風に耐えているようだ。彼の言っていることは、大げさではなさそうだった。


 猛烈に襲い来る台風の様子を見て、再度少女の顔が浮かんだ。


 今度は大きく舌打ちを打った。

 数秒の逡巡の後、ビニールに入れたタオルを用意した俺はビニール傘を差し、真夜中に家を出た。



*


 

 外の有様は想像以上にひどかった。

 家の前に止めてあった自転車は、強風のためかドミノのように倒れていた。傘を差しながら進めば、風に飛ばされて裏返りそうになる。そもそも、傘があまり意味をなさなかった。

 吹き付ける雨は角度を持っていて、足元が特にびちゃびちゃになりながら俺は海への道を辿った。




 そして数分の格闘の末、ついに目的地へとたどり着いてしまった。


 軽くあたりを見渡すが、白いワンピース姿は見当たらない。


 なんだかほっとしたような、自分に呆れたような。

 居ないなら帰るか。そんな気持ちを抱えながら堤防へと続く階段を上ろうとしたそのとき、


「凛久!!」


 聞き覚えのある透き通った声が微かに聞こえた。大雨のせいか、どの位置から聞こえているのかも分からなくなっていた。


「凛久!! こっちよ! 貴方の後ろの岩場!」


 言われた方向へと目を向ければ、びしょ濡れになりながらも手を振り続けている彼女が目に映る。


「傘もささずに何して!!」


 あまりにも無防備な彼女の姿に、俺は急いで駆け寄った。


「大丈夫よ、こっち」


 俺が走り出すのを確認した彼女は、岩場の奥へと姿を隠した。彼女の後を追って進むと、雨音が止み、空間が広がった。

 岩場の奥には洞窟のような空洞があった。


「ここなら雨風もしのげるわ」


 なんてことない様子で笑う彼女に、急いでタオルを放り投げる。


「嘘付け、びしょ濡れじゃん」


「それは、貴方を迎えに行ったからよ」


 だとすれば、俺のせいで彼女は濡れてしまったのだろうか?

 無駄足を踏んだかとため息をつく俺に、彼女は優しく声をかけた。


「ごめんなさい、嘘をついたわ。目が覚めたとき、既に雨が降っていたの。避難していたらあなたがやってきたのよ」


「目が覚めたとき?」


 彼女の言葉に少しの違和感を感じた。


「そう、目が覚めたとき。初めは長いこと夜が明けないのだと思っていたの。けれど、突然違う景色になったり、天気が変わっていたり……記憶に境界があることに気が付いたのよ」


「記憶の境界……」


「貴方は私を朝には見かけないと言うし、さっき目が覚めたときの服の濡れ具合も……ずっとここに居たとすれば少なく感じた」


「……」


「私は、一体……何者なのかしら」


 いつもと違って不安に押しつぶされそうな彼女の様子に、思うように言葉が出てこなかった。無理をして浮かべられた笑顔も、いつもの自由な彼女からは思い浮かべるのに程遠く。彼女自身、今にも消え果ててしまいそうだった。


 俺は言葉をかけるのを諦めた。代わりに、儚い存在をこの手で掬い取るかのように彼女の腕を取った。


 雨に濡れたまま放っておかれたせいか、この前触れたときに比べ、遥かに冷たく感じた。けれど、震えそうになる指先で彼女を離すことはなかった。


 時間が経つにつれ、俺の手のひらから伝わる熱は彼女の冷たい腕へと徐々にぬくもりを与えた。


 無言で見つめあうこと数秒、手のひらで掴んでいたその場所は人間の温かさを取り戻していた。


 やっとのことで俺は口を開いた。


「少なくとも俺は、こんなに暖かい幽霊を知らない」


「……」


 今度は彼女が黙りこくった。

 俯く彼女の様子を伺うようにしゃがみこんだ俺の瞳には、泣きながら笑うような少女の顔が映った。


「……ありがとう、凛久」


 ずっと不安を抱えていたのだろうか。

 自分が何者かもわからない中、たった一人でいるのはどれだけ心細かったのだろう。

 俺は無意識のうちに、彼女に微笑みかけていた。



*



 薄暗い洞窟の中、濡れた髪から滴る水音が鳴り響く。持ってきた二つのタオルを分けて使い、俺たちは濡れた体を拭きとっていた。

 しばらくの間、お互い無言を貫いていたが先ほどとは異なり、不思議と居心地の悪さは感じられなかった。

 ようやく体を拭き終えた俺は、少しの距離をとって彼女の横に座った。


「今日はまだ帰らないのね」


「ああ、もう少しここに居るつもり」


「そう……」


 洞窟の外を見ると、未だに大ぶりの雨が続いていた。朝には止むらしいし、もう少し小雨になってから帰るつもりでいた。


「凛久は……もう大丈夫なの?」


「大丈夫って?」


 心配される心当たりのない俺は、遠慮がちに尋ねてきた彼女に質問を投げ返した。


「こないだ……私の手が触れたときのことよ。顔色もだいぶ悪かったわ、本当に平気なの?」


 心配してくれたのだろうか。


 本音を言えば、自信をもって大丈夫だとは言えない。

 けど、さっき彼女に触れたときの震えはもう収まっている。それに数日前のことならなおさら平気だ。

 あの日の情景を完全に克服するのは、今の俺には少しだけまだ難しい。それでも今はもう大丈夫だ。そう言い聞かせている。


「たまに、過去を思い出して不安になることもあるけど、もう平気だよ」


「本当の本当に?」


「……しつこいな」


 何度も執拗に尋ねてくるので、思わず悪態をついてしまった。

 そんな俺の様子を気にもしない彼女は、嫌な笑みを浮かべて何かを企んでいるように見えた。その予感が的中してしまったのか、彼女は突然俺の両頬を掴むと、そのまま顔を近づけてきた。


 は?何なになに


 唐突な出来事に混乱を隠せないでいる俺を待つことなく、彼女の顔面が近づいてくる。俺は思考を放棄して、思わず目をつむった。




ゴツンッ




 額に鈍い痛みが走る。


「勢いを付けすぎたわね……」


「って、何して……」


 目を開くと、まつ毛の先が触れそうな距離に深く青い海があった。俺は、その美しさに魅入られるように言葉を失ってしまった。


「目を見て」

『目を見て』


「深く息を吸って」

『深く息を吸って』


「そして吐き出して」

『そして吐き出して』


 彼女の言葉に被さるように、幼い少女の声が聞こえた気がした。俺は、まるで魔法にかけられてしまったかのように言葉の通りに動いていた。


「大丈夫。これでもう不安とはさよならよ」


 目を細めて笑う彼女の顔が次第に離れていく。

 終わったのか?

 茫然とする俺に彼女は続けた。


「不安を失くすおまじない。なぜだか覚えていたのよ」


 "おまじない"?


 その瞬間、俺は既視感の正体を思い出した。


『凛久!』


 幼い俺に笑いかける、白いワンピースを着た少女。顔も何も思い出せないけれど、一つだけ、ただ一つだけ思い出したことがある。


 母を失くした俺の頬を優しく掴み、おまじないを掛ける少女の姿。



『大丈夫、シレーヌが守ってあげる!』









 俺は、本当の彼女を知っているのかもしれない。







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