第4話 名前

幼い俺に笑いかける、白いワンピースを着た少女。

 顔も何も思い出せないけれど、一つだけ、ただ一つだけ思い出したことがある。

 母を失くした俺の頬を優しく掴み、おまじないを掛ける少女の姿。



『大丈夫、シレーヌが守ってあげる!』



 俺は、本当の彼女を知っているのかもしれない。







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  泡沫の人魚姫  第4話 名前




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「なあ、君のそのおまじないって……」


 真剣な表情で尋ねる俺に対して、彼女は少しばかり不満げな様子でいた。

 何か気にさわるようなことでもしてしまったのだろうか……

 念のため、己の行動を振り返ってみる。

 さっきのおでこの痛みが引いていないとか……?


「凛久、的外れな考えをしている顔ね」


 彼女に核心を突かれ、思わず視線を逸らした。


「私が気になったのは名前のことよ」


「名前?」


 全く理解できていないといった顔で返事をする俺に、目の前の少女は小さく呆れている。


「シ・レー・ヌ」


 一音一音を強調するかのように彼女は自分の名前を告げた。


「ああ」


 未だに理解の及ばない俺は、適当な返事を返すことしかできなかった。

 それが癇に障ったのだろうか。彼女の眉間に皺が寄る。


「ああじゃないのよ……シ・レー・ヌ。さんはい!」


「……シレーヌ?」


 まるで、英語教師が単語の繰り返しを求めるかのような剣幕に、俺は少しばかり怯んでいた。


「ええ、結構よ」


 得意げに鼻息を立てる彼女に混乱は加速する。

 結局何がしたかったのだろうか。

 彼女が満足したのならば、まあいいかと胸をなでおろす。いまいち腑に落ちないが。

 最後まで事態を飲み込めずにいた俺であったが、ようやく不満の原因が明らかになるのだった。


 落ち着いた調子で彼女は呟いた。


「貴方、私を『君』とか『あんた』としか呼ばないじゃない。凛久にも呼んでほしかったのよ。私の名前」


 彼女は照れるでもなく、笑うでもなく、まるで迷子の少女が道しるべを探すかのように俺を見つめていた。


 俺は思った。

 もしかして彼女は、曖昧で不確かな自分の存在を認めてほしかったんじゃないのか。きっと、受け入れてほしかったんだ。

 他でもない、俺自身に。


 そう自覚すると同時に、なんだか胸の奥が暖かく感じた。


「シレーヌ」


 その名を呼ぶと、彼女はほころぶように笑った。

 しばらくその笑顔を見ているのもよかったが、俺は言葉を続けたんだ。


「俺は君の正体を知っている」


 彼女の瞳が大きく見開かれる。


「多分」


 瞳の大きさが元に戻った。


「多分ってどういうことなのよ」


 おまじない以降離れていた俺たちの顔は、また大きく近づいた。中途半端な俺の答えにシレーヌは満足していないようだった。

 俺は真っすぐに彼女を見据えると、今思い出した記憶を懇切丁寧に語っていった。




*




「つまり、凛久は私に会ったことがあるのね?」


「ああ、5年も前の話だけど」


 青い海とコントラストを成す真っ白いワンピースに、珍しい海外の名前。前者に関して有力とは言い難いが、後者に至っては明確な証拠となるだろう。それに加えてあのおまじないときた。一言一句違わぬ言葉は、身に染みついたものに違いない。


 きっとシレーヌはあの時の少女だ。まさか、もう一度会えるとは思わなかった。


「まあ、だからといってシレーヌの素性にはつながらないか」


 そう、この情報から新しく分かることなど正直何もない。俺とシレーヌが5年前に会っていたとして一体何になるのだ。

 彼女の正体は依然としてわからぬままだった。


 俺は、横目で彼女を見つめる。そもそも、彼女はどうしたいのだろう。本当の自分を知るのが、必ずしもいい事だと言えるのだろうか。

 第一、シレーヌは警察へ向かうのも拒否していたし。

 俺は、一つ確かめておく必要があると思った。


「シレーヌは自分が何者かって話、興味あるの?」


「もちろんあるわ!!!」


 想像以上に食い気味だった。瞳もキラキラと輝いている。

 勢いに押されて身を引くが、彼女の口は止まらない。


「私自身、自分はただの人間だと思っているのよ。けれど、自分のことも何も分からないし、確証も持てない。仕舞いには、凛久にまで幽霊扱いされてしまう始末……」


 ぐうの音も出ない。

 幽霊の一件を結構根に持っているようだ。

 しかし意外だ。ここまで強く興味を持たれるとは全くもって思わなかった。


 そうすると、なおさら気になるのが警察の件だ。どうして拒否などしたのだろう?

 気になりはするが、一度否定された話をまた持ち出すのは得策であるとは思えなかった。


 とにかく、シレーヌ自身は自分の正体を知りたがっている。正直なところ、結構俺も気になり始めていた。


 ただの人間にしては、あまりにも謎が多すぎる少女。


 もし、彼女の正体が思い出の少女であれば、尚更興味をひかれるものだ。


 シレーヌの瞳を見つめると、俺への期待が見て取れた。いや、今思えば俺の主観が多く混じっていたのかもしれないが。

 とにかくその日、人との関わりを避け続けていた俺は大きな決意を固めたんだ。





「シレーヌの正体を突き止める」





 これは『人魚姫が泡になるまで』の物語。その、全ての始まりだったんだ。





*





「シレーヌの正体を突き止める」


 気がつけば、言葉にしていた。突然の発言に驚きを見せるシレーヌに、恥ずかしさが上回る。

 何をまた、カッコつけた言い回しをしてんだよ俺。

 冷静になった頭で、慌てて口をはさんだ。


「いや、だからと言って探偵みたいなことは無理だけど、協力させてほしいなってくらいの気持ちで……」


 あまりの焦りように、言葉尻がどんどんと萎んでいく。

 ……

 無言の時間が、更に俺を追い詰めた。


「いや、数回会った程度でこんな話……ちょっと踏み「ありがとう、凛久!!」


 俺の拙い言い訳へと被せるかのように、彼女の大声が洞窟中に鳴り響く。


「本当に嬉しいわ。それで、何から始めるのかしら?」


 先ほど以上に前のめりな姿勢を見せた彼女に、今度はこちらが言葉を失った。ハッと意識を取り戻した俺は、あたりを見渡す。彼女の期待を裏切らないためにも、今どうするべきかを考えようとしたのだが、あたり一面が岩肌だった。

 そういえば洞窟の中に居たんだったか。

 自分の愚かさを嘆き、思わず腰に手を当てると指先に硬いものが当たった。

 何かあるな。

 中身を思い出せないままポケットを探ると、中にはスマホが入っていた。


 あ、そうだ。


 苦し紛れに案を一つ考え出した俺は、スマホの検索画面を開いた。指先で軽やかに画面をタップする。


 えーっと、"シレーヌ"と。


 最近の世の中は恐ろしい。特に、ネットとは恐いものだ。検索窓にフルネームを打っただけで、個人情報が出てきたりする。俺はというと中学の授業中、PCルームで実践済みだ。ちなみに、水泳の地方大会の記録が出てきた。


 流石に、下の名前だけで核心を突く情報が出てくるとは思えないけれど、物は試しである。早速俺は検索をかけた。


読み込み中……


読み込み中……


読み込み中……


「動かないわね……これって、時間がかかるものなのかしら?」


 俺の肩口からスマホを覗き込んできたシレーヌは、物珍しそうに結果を待ちわびていた。


読み込み中……


読み込み中……


読み込み中……


 あまりにも変わらぬ白い画面に、シレーヌは既に飽き始めていた。自分の長い髪を指で絡めとり、鼻歌を歌いながらくるくるとまわしている。

 そして俺はというと、今になって過ちに気が付いた。


 スマホの電波が圏外になってんのか。


 それもそのはず、今現在俺たちがいる場所は洞窟だ。電波などあるわけがない。


 俺はシレーヌへと向き直り、インターネットが使えないと伝えたが、あまり分かっていないようだった。がっくりと肩を落とした俺に倣って、シレーヌも残念そうな顔をした。


 洞窟内が無音になったその時、微かな雨音が聞こえてきた。ふと外を見上げると雨は小降りになっており、歩きでも帰れそうな程度まで止んでいた。スマホの時刻に目を向けると、零時を軽く超えている。

 その様子を見て察したのだろうか。シレーヌは俺に向かって声をかけると、大きく手を振った。


「凛久、またね」


「ああ、また」


 今日、初めて次の約束をした。

 なんだか少し、胸の奥がこそばゆく感じた。





*





 深夜一時、シャワーから上がった俺は自室の本棚の前で髪を乾かしていた。


「なんでコンセントがこの位置なんだよ……めんどくさ」


 本当は脱衣所で乾かす予定であったのに、晩飯を終えた父と鉢合わせしてしまったのだ。

 逃げるように階段を駆け上がった俺は、自室で髪を乾かす羽目になった。

 しぶしぶとドライヤーをかけていたのだが、そこに不幸が訪れた。反対側を乾かそうと腕を持ち上げたその時、ケーブルに絡まって体勢を崩し、左肩が強く本棚にぶつかった。


「いった……」


 そこそこ強い痛みに思わず肩を押さえる。今の衝撃で、軽い本が2、3冊落ちたようだった。


「これ……」


 その中には、ひと際目を引く青いカバーで包まれた本があった。

 吸い寄せられるように手に取った俺は、表紙の文字を声に出して読んでいた。


「人魚伝説……」


 その本の角は削れ、日焼けも酷く、年季の入ったものに見えた。


 祖母の残した本の中にこんなものがあったのか。


 少しだけその本を眺めたが、俺はすぐに残りの本も拾いなおし、元の場所へと戻していった。あの青さには一瞬気をとられたものの、すぐに頭から消えていった。


 俺はドライヤーを再開しようかと思ったが、触ってみた感じそこまで髪は濡れていない。このドタバタのうちに乾いてしまったのだろうか。


 寝支度を終えた俺は背中からベッドへと倒れこむと、手探りでスマホを探した。右手の指先がスマホにあたる。そのままうまいことそれを掴んだ俺は、明日のアラームをセットするために電源を入れた。


 そのとき、忘れかけていた先ほどの検索画面が表示されたのだ。ようやくそれを思い出した俺は、勢いよく起き上がってスマホを凝視する。


 残念ながら、一番上に出てきたのはよくわからんホテルとその所在地だった。

 やはりだめかと諦めながらスワイプを続けていたが、ある言葉が目に留まったのだ。






 "シレーヌ(SIRENE):人魚"






「フランス語で、人魚の意……」


 俺は、驚きながらも腑に落ちた。

 月光に輝く白い肌、真夜中の海を飲み込んだかのような深く青い瞳。おとぎ話から抜け出したかのように幻想的な姿。


 幽霊だなんだという話の後だからなのか?


 流石の俺も、毒されてきたのかもしれない。






 俺は、彼女の正体が人魚であろうと今更驚けなくなっている。





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