第2話 幽霊
「おはよう」
そして彼女は微笑んだ。
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泡沫の人魚姫 第2話 幽霊
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透き通るような白い肌にくっきりとした目鼻立ち。瞳は一点の濁りもなく、恐ろしいくらいに澄んでいた。まるで絵本の中から出てきたかのような少女には、ひょっとしたら海外の血でも入っているのかもしれない。髪や瞳の色から考えたとしても、そうとしか思えない。
顔をほころばせ、美しい笑みを浮かべる少女に一瞬、思考と目線を奪われていたのだが……
よくよく考えてみると、色々とおかしい。
まず第一に自分と同じような年代の少女が何故、真夜中に一人、海にいるんだ?
警察にでも見つかればその時点で補導確実だろう。自分が言えたような義理ではないが、この状況自体がおかしいのだ。
それになんだ?
彼女の足元を見れば、素足のままで靴がない。一応あたりを見渡してはみたが、どこかに置いているわけでもなさそうだった。どうやってここまで歩いて来たのだろう。
もしや入水自殺を図るつもりだったとか?
ここまでの時点で既に怪しい点がいくつもあるのだが、極めつけは彼女の発言だ。
真夜中に「おはよう」ってなんだ。
少しばかり頭がいっちゃってる人かもしれない。
できる限り、関わりを避けたいというのが本心ではあるが、真夜中の海に一人佇む少女を見過ごすのも人としてどうかと思う。俺自身、あまり他人に優しい性格ではないことを分かっているつもりだが、流石にこの状況を放置した結果、何かあれば寝覚めも悪い。
万が一、朝のニュースでこの海が事件現場になんてなった日には、正直勉強にも手がつかないほど気が滅入るだろう。
そんなわけで俺の平和な日常を守るためにも、意を決して彼女に話しかけた。
「ねえ君、こんな夜遅くに何してるの? 女の子一人で危ないんじゃない?」
正直関わるのは面倒くさい。しかし、背に腹は代えられない。
ひきつった笑顔で彼女の端正な顔を見つめ続けること数秒、少女は俺を真っ直ぐに見据え、口を開いた。
「貴方のような子供に言われたくないわ」
ふんっとそっぽを向く彼女に俺は口を開いたまま固まった。
……
……
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。か細くも真っ直ぐに紡がれたその言葉を理解するのには少々時間を要したが、
もしや……馬鹿にされているのか?
待て待て、もしかしたらあの少女は日本語が苦手なのかもしれない。外国の人っぽいし。
いや、それにしては流暢な言葉遣いだったな。
俺が一人頭を悩ませているその横で、くすくすと笑う声が聞こえてきた。
「大丈夫? 少し、言い過ぎてしまったかも」
心配そうにこちらをのぞき込む彼女には一切の敵意が見受けられない。あまりにも無邪気なその表情に毒気を抜かれた俺は、当初の目的通り彼女を説得しようと持ち直した。
「なぁ、君は楽観的に捉えているのかもしれないけれど、ここは人通りも少なく、危ない場所だ。夜はなおさら、犯罪に巻き込まれる可能性も高い」
彼女は俺の話を黙って聞いてはいたが、不満を持ったのだろうか。いかにも納得いかないといった表情で、反撃の言葉を返してきた。
「それは貴方も同じじゃない。」
それは確かにそうである。
はたから見れば、俺も中々に怪しい存在だ。しかも、帰ってきてから着替えていないため、今着ているのは高校の制服。警察に見つかれば、彼女同様一発でアウトとなる。
「いや、確かにそうだな……じゃあさ、俺も君も危ないんだから一緒に帰るってのはどう?」
「帰る?」
「そう、俺が君を家まで送り届けて、その後即俺も帰る。俺に送られたくなければ、お互い一人で帰ろう」
下手をすればナンパ野郎であるが、まだマシな案じゃないかと俺は思う。海に来てすぐに帰る羽目になるとは思わなかったが、彼女の言い分と俺の言い分両方に沿った折衷案だ。頼むから、納得してくれ面倒くさい。
そういくら祈ったところで、神様は俺を簡単に見捨てる。
「無理よ、できないわ」
群を見ない即答ぶりに、流石に話にならないなと思った。
思わずため息をつきたくなる口を強く結びつけ、冷静さを保っていたが流石に面倒になってきた。
もういっそ見なかったことにしてしまおうか。
一応手は尽くしたし、それでニュースになったら運がなかったということで……
「ねえ貴方、ちゃんと聞いている?」
話の通じない相手への諦めのせいか、目の前で何かを懸命に語る彼女の言葉を聞き逃してしまったようだ。俺の顔を下から覗き込み、不服そうに頬を膨らませている。
もう、どうにでもなれ。
「あー、ごめんぼーっとしてた」
一応申し訳なさそうなポーズをしてはみたが、思いのほか声が棒読みになってしまった。
「ならいいわ」
すると彼女は興味がなさそうにそっぽを向き、白線を踏んで遊ぶ子供のように海と砂浜との境界線を手探りで歩き始めた。月に照らされて青白く光る細い素足が波に攫われてはまた姿を見せる。
彼女の言葉に対して「いや、俺がよくないんだけど」と文句を付けようともしたが、彼女の自由人具合を加味すれば、また一蹴されかねない。飛び出しかけた言葉をそのまま飲み込み、しばらく彼女を見つめていた。
背中に視線でも感じたのだろうか、くるりと彼女が振り返った。砂浜へと完全に足を戻した彼女は、砂が足に張り付くのを気にする様子もなく、こちらへと戻ってきた。
「それで、いつまでここに居るつもりなの? 貴方は何しにここへ?」
彼女の唐突な質問が終わると、沈黙があたりを包み込んだ。波の奏でる音色が一層響いて聞こえた。相手にするかを迷った末、俺は思い切った調子で言った。
「海に呼ばれたんだ」
いや、結構くさいセリフだったなと言ってしまってから後悔する。
でも、これは紛れもない事実だ。そんな気もなかったのに、海の青さに引き込まれるかのように自然とここへ向かっていたのだ。少しだけ身を固めた俺の予想とは裏腹に、彼女は言葉を返す。
「そう……私も、そうなのかもしれない」
正直驚いた。自分の意見を否定されるどころか同じだと返してきた。彼女も、海の青さに魅入られて、ここまでやってきたのだろうか。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、彼女は言葉をつづけた。
「気が付いたら、この場所にいたのよ」
「俺も、気が付いたら走ってここに向かっていたんだ」
同じ境遇の少女に高揚感を覚えた俺は嬉しそうにしていたんだ。けれど、彼女は少しだけ困ったように続けた。
「ちょっと違うわ。なんていうか、私……そうね、ここにどうやって来たかの記憶がないのよ」
「それは、一体」
「この海に来る前の記憶が思い出せないの。だから、帰る場所も分からない」
真っすぐな彼女の瞳は、嘘を言っているように思えなかった。けれど、あまりにも突飛な話に俺は納得しかねていた。
所謂記憶喪失といったものか。ドラマでしか見たことのない現象が突然目の前に現れてしまったとき、人は簡単に飲み込めない。考えられる可能性は2つ。本当に記憶喪失になってしまっているのか、帰りたくないがための嘘か。
しかし、記憶喪失であれ、非行少女であれ、今の彼女に必要なのは警察一択だ。とりあえず話を合わせて、警察の元に行くよう説得してみようか。
「記憶喪失……か」
「普通に考えたらそう、よね。夜の海に来てからの記憶が一つもないの」
「そっか……それは結構危険な状況だと思う。君の情報を得るためにも警察に向かったほうが……」
「警察は嫌よ」
また出たな、自由人。
「なんでだよ……」
「うーん……なんとなく?」
なんとなくで片付けられてたまるか。
彼女と話をするのに疲れたという思いが顔に出ていたのだろうか?
「まあまあ、元気出して」
宥められた。本当に自由すぎる。
本気で置いていってやろうかこいつ。
「それで、あなたは無理やりにでも私を連れていくつもりかしら?」
確かに、それも一つの手段だ。
だが、この少女のことだ。実行した場合、全力で逃げようとするに違いない。そうなれば騒ぎを聞きつけた近隣住民からの通報によって俺が捕まるといった結果にもなりうる。住宅地は少しばかり離れたところにあるが、元々が静かな土地であるため、大声や悲鳴は良く通るだろう。
よし、却下だ。
「そんなことはしない。俺はもう、諦めたから」
「ならよかった。もし実行されていたら、大声を出していたわ」
思いとどまって本当に良かった。
ほっとして座り込む俺の横に、彼女も腰を下ろした。
「それで、あなたは何て言うの?」
「え?」
「名前よ、名前」
「ああ……俺は凛久」
「そう、いい名前ね。陸に住む人間にピッタリの名前じゃない」
よくわからない理論で俺の名前を褒めた彼女は、手を上にして大きく伸びをした。
「そっちは? って、記憶喪失だっけか」
礼儀として、彼女にも名前を聞こうとしたのだが、記憶喪失という設定を忘れていた。
しくじったと焦る俺をよそに、彼女が呟いた。
「シレーヌ」
「え」
「シレーヌよ。名前だけは憶えているみたい」
「へぇ、海外の名前? 意味とかあるの?」
「それは覚えていないわね」
「そう」
沈黙が続いた。
手持無沙汰な俺は持ってきたスマホの電源をつけた。
時刻は深夜一時を迎えようとしていた。
今から帰宅したとしてよくて一時、そこから風呂や支度をすれば二時近くになるだろう。明日の……いや今日か。起床時間が七時だとして、睡眠時間は約五時間。死にはしないが、これ以上遅くなるのはなるべく避けたい。
俺は静かに立ち上がると、制服についた砂を払った。
「もう、行くの?」
「ああ」
「じゃあ、またね」
こちらへと向き直った少女は軽く手を振った。月夜に照らされて笑う彼女の姿は、まるで絵画のようであったが、正直二度と関わりたくはない。
明日の朝までいたとしたら、遠くから警察を呼んでやろうかと本気で思った。
適当に返事を返した俺は、真っすぐに帰路へと向かっていった。
*
時刻は朝7時40分。
ここから三つ先の駅にある高校へと登校するために家を出た俺は、最寄り駅までの道のりを暢気に歩いていた。家から駅へと向かう道中は、海がよく見える。
昨日の変な少女はまだいるのだろうか?
ふと疑問に思った俺は、軽く身を乗り出して海の方を見渡した。
30秒ほど目を凝らしては見たものの、人っ子一人見当たらない。だとすれば、無事に家にでも帰れたのか?
もしそうならば、あいつは記憶喪失のフリをしていたってわけだ。
頭に浮かんだ軽い悪態を飲み込んで、俺は駅へと向かった。
*
8時30分、ホームルーム開始の10分前に俺は教室についた。
「おっす凛久! 席借りてんぞ」
「おおーって俺の座る場所返せよな」
「悪い悪い、今退くから待ってろって。そういえばさ、お前の最寄りって下りに3駅先だっけ?」
「ああ、そうだけどって話逸らすなよ」
「あ、バレた? 今そこの噂をしてたんだけどよ、なっ浜っち!」
「おー、凛久も興味あるか?」
俺の一つ前の席に座る浜っちこと
ほら退けと言って自分のリュックを席に置くと、クラスメイトは立ち上がり俺に席を譲った。
俺は着席して上浜に向き直ると、興味なさそうに頬杖をついた。
「あー、じゃあ聞くだけ聞くわ」
「おお! 任せとけって!」
そんな俺の態度を上浜は気にする様子もなく、嬉しそうに声を上げた。
こいつはいつもそんな感じた。
人当たりのいい好青年。部活動は強豪のテニス部。いつもクラスの中心にいて、成績もそこそこいい。そんな彼を慕うように、彼の周りにはたくさんの友人がいる。
俺は、彼に対して少しだけ苦手意識を持っている。理由はまあ、分かるだろう。
「でな、その駅に住んでるって子が女テニにもいるらしいんだけどよ……見たんだよ」
少しばかり考えに耽っていて話を流して聞いていたが、彼の話はまだ本題には入っていないらしい。まるで怪談話でも話しているかのような迫真の演技で、上浜とクラスメイトは話を続ける。
「真夜中の海に居る女の幽霊を!!!」
あいつじゃねぇか。
「浜っちはその幽霊をみたのか?」
「え? 俺は見てないけど? あくまで噂って言ったろ。まあ、今度見に行ってはみたいよな」
いいから、やめとけ。
「それで……その女って本当に幽霊だったのか?」
やっと口を開いた俺の方を向いた上浜は嬉しそうに目を輝かせ、詳細を話し出した。
「おお、例の女テニの子によればな……」
「よれば?」
「ちらっと見ただけで分からなかったらしい」
俺は呆れ顔で視線を戻し、リュックの整理を始めた。
やはり期待通り、信憑性なんて1ミリもなかった。それもそのはず、昨日見たあの少女にはしっかりと足がついていたし、身体も透けてなどいなかったのだ。怪しいからといって、すぐに幽霊と決めつけるのはあまりにも短絡的じゃなかろうか。
「じゃあ、幽霊かわからねぇじゃん」
さっきまで俺の席に座っていたクラスメイトは、口をとがらせて上浜の話に文句を垂れていた。
すると、上浜は真剣な表情でまた空気を作り直し、口元に手を立てた。
「それが、あるんだよ」
「なにがだよ?」
話を聞いていたクラスメイトは怯えるように唾を飲み込むと、姿勢を正して続きを待った。
「あの海で、事故があったんだよ……5年前、女の子が亡くなった悲惨な事故がなぁ!!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁあああ!!!」
上浜の素晴らしく慣れた語りように、クラスメイトは声を上げて駆けてった。
「なあ、その話本当か?」
「え? それも女テニの子が言ってたことだから知らねぇ」
俺は再度上浜に真偽を尋ねたが、笑って適当に流された。そうこうしているうちにホームルームの時間となり、この話は忘れ去られてしまった。
*
夜の十時を過ぎるころ、帰宅した俺はまた天井のシミを数えていた。
この家は、元々母方の祖父母が住んでいた家だ。母の出産を機に家全体をリフォームをしたという。生前この部屋を使用していた祖母が、遺書に「思い出のまま残しておいてほしい」と書いていたため、この部屋だけはそのままにしたらしい。
「私とお祖母ちゃんの思い出がたくさん詰まった部屋なのよ。だから凛久、貴方にあげるわ。大切にして頂戴」
母が、俺に一人部屋を与えたその日に言った言葉だった。
昨日と同じように、また窓の外を見上げた。昨日はあの少女に邪魔をされて、海に身を預けることもできなかった。今日は一人きりで海を感じることができるだろうか。
昨日の今日でまた、記憶喪失ごっこをしているわけはないと高をくくった俺は、サンダルを履き、こっそり家を抜け出した。
*
タッタッタ
海へ
心地よい潮風が頬を撫でる。昨日に比べて少し熱くなったせいか、より一層風が気持ちいい。
俺は海へ着き、空気を肺いっぱいに吸い込んで、そして絶望した。
「おはよう、凛久。また来たのね」
もう一度言う、俺は絶望した。記憶喪失ごっこの女が懲りずに今日もいるとは。
俺はゆっくりと顔を上げると、女の化けの皮を剥ぐために正々堂々向き直った。
「ねえ、あんた一度家に帰ったんだろ? もう記憶喪失が嘘なのも分かってるから」
彼女はきょとんとした顔で、小首をかしげていた。
「私? ずっとここに居たわよ?」
「はぁ? だって朝にはどこにも……」
「朝? まだ朝なんて来てないわ」
「何言って……」
彼女は、心の底から不思議そうな視線を俺に向けていた。
どう考えても、彼女の言っていることはおかしい。
けれど、もしそれが本当だったら?
『……見たんだよ、真夜中の海に居る女の幽霊を!!!』
まさか、そんなわけ……
『あの海で、事故があったんだよ……5年前、女の子が亡くなった悲惨な事故がなぁ!!!』
それは突拍子も無く、馬鹿げた仮説である。
でもそれが、本当に真実であれば……
彼女は、真夜中に生きる海の幽霊なのかもしれない。
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