第90話 進んだ一歩

 空に星がチカチカとまたたく静かな夜、私は満腹感と幸福感を味わいながら凛音さんと一緒に夜道を歩いていた。


「はぁ、凛音さんのお家のお夕飯、とても美味しかったなぁ……」

「ふふっ、それはよかった。梨花さん達が本当に美味しそうに食べるもんだから、母さんも久しぶりにあんなに嬉しそうにしていたし、また好きな時に遊びに来てくれなんて言うと思ってなかったから、だいぶ母さんから気に入られたみたいだね」

「それは嬉しいんですが、私って礼儀とかちゃんとしてましたか?」

「うん、それはもう。父さんもこんなに素敵なお嬢さんはお前達にはもったいないなんて言ってきたしね」


 微笑みながら言う凛音さんの顔を見て、私は少し照れながらさっきまでの出来事を想起した。凛音さん達のご両親が帰ってきた後、私はアンジェリカと交代してご両親に挨拶をした。

ご両親は前々から凛音さんと凛斗君から私の話を聞いていたようで、私に実際に会えた事をとても喜んでくれ、私と話もしたいし、そろそろ夕飯の時間だから良かったら食べていきなさいと言ってくれた。

それを聞いて私は申し訳ないと思ったけれど、せっかくのお誘いを断る事の方が申し訳なく感じて、私はお夕飯をご馳走になる事を決め、両親に凛音さんのお家でご馳走になってくると連絡をした。

電話で話しながら私はてっきりダメだと言われると思っていたけれど、二人はこれも良い機会だから失礼にならないようにだけ気をつけてご馳走になってこいと言ってくれ、私は両親の優しさに感謝した。

そしてお夕飯の時、私はアンジェリカと度々交代して二人で美味しいご飯を食べ、ご両親から凛音さんと凛斗君の小さい頃の話も聞く事が出来てとても良い時間を過ごす事が出来た。


「あんなに優しいご両親だったからこそ今の凛音さんと凛斗君があるんだなって思いましたよ」

「普段はあそこまで積極的に話そうとはしてないんだけどね。いつもは凛斗が学校や部活であった事を話して、それに俺達が色々聞く感じだから」

「そうなんですね」

「やっぱり俺が女の子を家に連れてきた事が二人にとってとても嬉しかったんだと思う。初めて会った日にも梨花さんと買い物をしてきたって話したら、驚かれたけれどそれ以上に喜んでいたし、両親は梨花さんの存在が俺にとってこれからも良い影響を与えてくれると期待してるのかもしれないね」

「凛音さんだって私に良い影響を与えてくれてますよ。チャットルームでもリアルでも色々お世話になってますし、こうして出会えた事が本当に奇跡みたいでこれ以上の幸福があるのかななんて思うくらいです」


 その言葉に嘘はない。もちろん、アンジェリカの助力があってこその毎日だけど、凛音さんがいてくれた事で助かった場面はとても多くて、本当はもっと先の関係になれたらなんて思う。

異性の友人の先の関係となると、それは当然恋人同士という事になるけど、私はまだそこまで自分が進めるとは思っていない。

私自身も異性と恋人になれる程に異性に心を許して良いのか迷っているし、凛音さんだって心の傷が完全に癒えたわけではないのだ。そんな状態で無理に先に進もうとしたら、たぶんこの関係自体も無くなってしまうし、私はそんな事を望んではいない。

だから私は、まだこの距離感で十分なのだ。一緒に出掛けたり食事をしたり、少しだけでも手を繋げたりするそんな友達以上恋人未満な関係でも。

そんな事を考えている内に私の家に着き、凛音さんは安心したように笑った。


「何事もなく帰ってこられたね」

「そうですね。凛音さん、送ってくれてありがとうございます」

「どういたしまして。でも、このくらいは当然だよ。アンジェリカがいるとは言え、こんな夜中に女の子を一人で帰らせるわけにはいかないからね」

「凛音さん……」

「それに、今日は一日中梨花さんといられて本当に嬉しかったんだ。俺達は別に恋人同士というわけじゃないけど、梨花さんとそういう関係になったら、こういう事も増えるのかななんて歩きながら思ってたしさ」

「……凛音さんはそういう機会が増えたら嬉しいですか?」


 頬に熱を感じながら聞くと、凛音さんは一瞬驚いた顔をしてから微笑みながら頷いた。


「嬉しいよ。中学の時に好きだった子よりも今の梨花さんの事が好きだと断言出来るからね」

「…………」

「……だから、ちょっとだけごめんね」

「……え?」


 凛音さんの言葉に疑問を感じていると、少し赤くなった凛音さんの顔がゆっくりと近づき、そのまま私の唇に何かが触れた。


「んっ……!?」


 柔らかくて瑞々しいそれは一瞬触れただけで離れていったけど、それは間違いなく凛音さんの唇であり、キスをした瞬間に感じた多幸感は私の心を甘くとろけさせた。


「り、りんねさん……」

「まだそういう関係でもないのにキスなんてしてごめん。でも、今日一日で梨花さんの事がもっと愛おしくなったし、梨花さんを誰にも渡したくないって思えたんだ」

「凛音さん……」

「……本音を言えばもっとしたいし、手を繋ぐだけじゃなく抱き締めたいとも思うよ。だけど、今の状態でそんな事をしたら止まらなくなるのは間違いないし、きっと梨花さんを傷つけてしまう。

だから、今はここまでにするよ。でも、自分の過去の傷にしっかりと決着をつけて、梨花さんの事をいつまでも支えられるだけの気持ちが決まったら、その時はちゃんと告白をさせてもらうからね」

「……はい。でも、もしかしたら私の方が先に覚悟を決めて告白をするかもしれませんよ?」


 破裂しそうな程にドキドキしている心臓をグッと堪えながらどうにかニヤリと笑ってみせると、凛音さんはまた驚いた顔をしてから優しく微笑んだ。


「……それじゃあ、俺達だけの勝負になるね。でも、俺の方が先に告白してみせるよ」

「私だって負けませんからね」

「ふふ、楽しみにしてるよ。それじゃあまたチャットルームで」

「はい」


 返事をした後、凛音さんがゆっくり歩いていく姿を見送っていた時、私の心臓の鼓動は更に速くなり、キスをした時の感触が残る口の中はカラカラに乾いていた。


「……ふぅ、すごく緊張した……」

『そうだと思います。しかし、リンネ様も中々やりますわね。まだ不慣れな様子ではありましたが、優しく唇を重ねていましたし、そこにもリンネ様の誠実さが表れていました』

「……アンジェリカだけ落ち着いてるのズルい」

『ズルくありませんわ。貴女もキスの回数を重ねていけば、こうなれますから』

「回数を重ねる、かぁ……ねえ、私って凛音さんから好きになってもらって本当に良いのかな?」

『ダメなわけはありませんわ。これまでの貴女の行いが今のリンネ様の気持ちを作っていったわけですから、好きになって頂けた事を嬉しく思って良いのです』

「……そうだよね」


 凛音さんは中学の時に好きだった人よりも今の私の方が好きだと言っていた。それはつまり、私の事を異性として好きであると告白してくれた事と同じで、私の事をしっかりと意識してくれている事になる。

だったら、私もこの気持ちは大事にしたい。まだ恋人になれるだけの気持ちの整理はついてないけど、凛音さんともっと親密になりたいのは間違いないから。そしていつかは、この気持ちをしっかりと伝えて凛音さんと恋人同士になるのだ。


「アンジェリカ」

『わかっていますわ。このアンジェリカ・ヨーク、必ずや貴女の恋を成就させ、リンネ様と付き合えるようにして差し上げます。ですが、その前にやるべき事は礼儀作法の勉強や淑女としての立ち居振舞いなどまだまだあります。梨花、私にしっかりとついてきてもらいますわよ?』

「うん、もちろんだよ」


 アンジェリカの言葉に笑顔で返事をした後、私は頬の熱を少し冷ましてから家の中へと入った。

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