03 冗談 嘘 復讐

「はぁ、はぁっ。はっはぁっ」

 脇目も降らず走り続ける。周囲の人の幾人かは怪訝な表情を向けているが、説明している余裕は無かった。

「糸。次の路地を左に曲がって大通りに抜けたら右手に地下鉄入り口がある。7分後に出発する電車に乗れ」

「か、簡単、に言っ、てくれる、わね!!」

 イヤホンからは小憎たらしい程に冷静なシュワルツの言葉が聞こえてくる。私は息も絶え絶えに返答した。既に心臓は痛いほど脈打ち、膝が震えかけている。日頃から走ることは多いが今日のこれはいつもより長く続いていた。

「あぁ、もう! 今日は、しつこい、わね!!」

 悪態をつきながらも足を動かし続ける。背後からは分かりやすい位に黒スーツの人間が数人追いかけてきている。しかし、その人物達はお世辞にも綺麗な走り方とは言えない。おそらく普段からデスクワーク中心だからだろう。正直不格好な走り方だ。だからこそ性別差があっても私が逃げ切れている。

「はぁっ、はぁ」

 しかし、こちらもお世辞にもうまい走り方とは言えないのが悲しいところだ。そうして走っているとシュワルツの言っていた地下鉄の入り口が見えてくる。

「あと、何分!?」

「3分だ」

 シュワルツの声を聞き、後少しだと自分に言い聞かせる。彼にどんな考えがあるかは知らないがおそらく大丈夫なのだろう。そのままスピードを落とすことなくスマートウォッチを改札にかざして通り抜けていく。駆け込み乗車はお止めください、というお決まりの放送を無視して私は電車にへと走り込んだ。

「ふぅっ」

 大きく息を吐くと周囲の視線を集めている事に気付いたが無視する。迷惑そうな顔をしている人もいたがどうか見過ごしたほしい。こちらはちょっとどうしようもない理由があるのだ。

「このまま指示する駅まで移動する。そこは別の路線の駅が複数入り交じっているから追跡は困難だ。そもそも今の駅も出入り口が複数あるものだからそもそも地下鉄に乗り込んだかの把握も難しいだろう」

 シュワルツの私を安心させるための報告にスマートウォッチを振ることで答える。さすがにこれ以上電車内で目立ちたくなかった。

「はぁ」

 近くの空いている席に腰を下ろすと私は再び大きなため息を吐いた。


「ねぇ、シュワルツ。近頃追跡がしつこくない?」

 黒スーツのインテリ連中をまいた後、暗くなりかけた道をシュワルツに話しかけながら歩く。どうやら周囲は住宅街のようで街中や飲食店が並んでいるような区画とは違いとても静かな場所だった。

「あぁ、お前が脱走してから日も経っている。どうやら追跡を任されているグループは上の人間から圧をかけられているようだ。その上の連中もスポンサーの資産家達への説明に頭を悩ませているようだがな。実験体の一人を何故とらえられないのか、シュワルツを使用していながら、とな」

「あぁ、それは大変ね」

 シュワルツからの言葉に他人事のように肩をすくめる。正直実際どうでも良かった。しかしそれで追跡がキツくなるのは勘弁してほしい。

「というか、貴方が後出しで演算しているわけだから、基本的に向こうが上回るのは無理なのだけれどね」

 私が逃げ切れている種明かしはこれだった。私と研究所の人間、両方ともシュワルツを使用しているのだ。ただし、私の方が後出しで。

 シュワルツは向こうに協力するふりをしながら私のサポートを行っている。最初はすぐに発覚するのではないかと思ったが手を打った様子は無い。それこそシュワルツの言った通りだった。

 曰く、人間は自分が作ったものを疑うのは難しい。作った本人が優秀ならなおさら、だと。本当に人間をよく把握しているAIだ。

「油断はしないことだ。流石に私も突発的な事や予想外な事は対応できない。あるいは、どう逃げようともどうしようもならない事態などな」

「分かってるわ」

 シュワルツの返答に肩をすくめながら相づちを返す。シュワルツの手助けはこちらに有利な物だが使えるコストは向こうがはるかに大きい。人間にしろ道具にしろ、私は精々走るくらいだ。あちらは後ろ位所がある組織のため、大々的に行動を起こすことが出来ないのはこちらの有利な点である。

「はぁ……」

 今日は連中もしつこかったため、疲れた。歩きながらもため息を吐き続ける。早く何処かで休憩でも行いたい。

「シュワルツ。今日の宿はどうしようかしら」

「ふむ。その事で相談がある。糸。ホテルなどは多少移動しないと無いようだ」

「え? この辺りにはホテルが無いの?」

 周囲を見渡すと周囲には住宅やアパートが立ち並んでいる。たしかに目に見える範囲には無いが、これだけ発展していればビジネスホテル位はありそうなものだが。

「いや、宿泊施設自体はある。しかし、お前は泊まることが出来ない。今日は週末であるしな」

「……あぁ、なるほど。空いてる部屋あるホテルが近くに無いのね」

 一拍おいてからシュワルツの言葉に納得する。おそらく旅行者が多いのだろう。近くに観光地などあるのかもしれない。追跡を振り払う必要があったためギリギリまで宿泊場所を選ばなかったのだがそれが裏目に出たようだ。

「はぁ……。それなら仕方ないわね」

「いや、まぁ、そうだな。たしかに宿泊客は多いだろうな」

「シュワルツ?」

 しかし何だかシュワルツの反応がはっきりとしない。何か言いづらい事でもあるかのようだ。

「気にするな。 とりあえず近くにはお前の泊まれるホテルは無い」

「はぁ、了解したけど……」

 少し気にはなったけれどおそらく何かシュワルツにも事情があるのだろう。とりあえず今日の宿となる場所を見つけられるまで待ってみることにした。


「あのー、君。 ちょっと身分証見せてもらっても良いかな」

「……」

 しかし、疲れたので先に食事を済ませようと移動していた先で私は危機に見舞われていた。目の前に立っているのは二人の警察官だ。女性と男性のペアである。私はいわゆる職務質問というやつを受けたのだった。混乱する頭で私は現状を理解しようとする。実際、今は食事をしようと飲食店が多い通りを歩いていただけだった。だからこそ何故、職務質問を受けることになってしまったのか分からない。

「えと、私、何かしてしまったでしょうか?」

 恐る恐る警察官へと質問をしてみる。まさか、あいつらが遂に警察へ協力を求めたのだろうか。先程の話もあるため本当になりふり構わなくなってきた可能性もある。最悪、家出で捜索願いを出すなどの手もあるだろう。そうなるとお手上げなのだが。

「いえ、貴方まだ学生なんじゃないの。申し訳ないのだけれど学生がこんな飲み屋街を夜にうろついてたら声をかけないわけにはいかないの」

 女性の方の警察官がこちらの警戒を解こうとしてか優しく腰を屈めて声をかけてくる。警察官にしては物腰が柔らかく、こういった事に慣れているのだろうと理解できた。そして同時に声をかけられた理由も分かる。

「なる、ほど」

 周囲を見渡してみると確かにお酒を提供する店が多い。食事のために飲食店が多い通りに出てきたが此処は歓楽街の一種なのだろう。たしかに未成年が夜にこんな場所を歩いていたら問題だ。つまりただの誤解だったわけだ。

「えと、すいません。私は既に成人してます」

「えぇ、だからその確認のために身分証を見せてもらってよいかな?」

「ごめんなさい。すぐに終わるから。本当に学生でも今ならまだ学校で怒られるくらいですむわ」

 私の言葉にも引かない二人。推察するに今のような言葉を使って逃げる学生も多いのだろう。仕方ないか、と内心でため息を吐きながら私はポケットからシュワルツから渡されていた財布を取り出した。この中にはある程度のお金と私の身分証が用意されている。

「……これでよいですか?」

 先程とは別の緊張をしながら私は保険証を二人に見せた。もちろん私に本当の戸籍など存在しない。シュワルツが作成した戸籍を元に正規の手順で作成されたものだ。しかし、それはシュワルツがデータを書き換えたものであり、おそらくどこかで矛盾が生じている。だからこそ詳しく調べられると不味いと思うのだが。

「え。も、申し訳ありません!」

「え、二十歳なんですか!?」

 しかし、二人は年齢に驚いていた。それを確認しそっと胸を撫で下ろす。というか驚くのはそこなのか。いや、そういえば以前に職務質問を受けたときもそこは追及された。

「はい。えと、私そんなに幼くみえますかね?」

 今までの事を兼ねて苦笑いで二人に尋ねた。

「いや、本当に申し訳ありません。最初に身分証を出し渋ったこともあり、つい」

「そうね。てっきり高校生。もしかしたら中学生とかもあり得るかも、と」

「は、ははは」

 二人の本当に申し訳なさそうな顔に乾いた笑いしか出ない。おかしい。年齢に関しては偽っていないのだが。

「その、すぐに身分証を出さなかったのはすいません。以前にも同じような職務質問を受けたのですが、その、少し高圧的な方でして」

 これは本当。その人はこの二人よりは2周りは年齢が上だった。その上に女性がこんな時間に出歩くなんて、近頃の子供はなどグチグチと文句を言っていたので苦手意識があるのだった。

「それは重ね重ね申し訳ありません」

「ごめんなさいね。私たちもそういった態度はきちんと使い分けなければと思ってはいるのだけれど」

「いえ。そういった必要があることも理解できますから」

 他人に言うことを聞かせるのに威圧感を出すのは確かに効果的だろう。特に警察官などは面倒な人の相手もしなければいけないため尚更だ。

「そう言ってもらえると助かります。ありがとう。けど九十九さん、気をつけてくださいね。ここは酔っ払って質の悪い人も出ますから。特に貴方のように可愛らしい人なら」

 女性警察官が重ねて注意をしてきた。まぁ、酒に酔うと理性的な判断がつかなくなるという。気を付けておくに越したことは無いだろう。

「分かりました。ありがとうございます」

 私は二人に礼をして再び歩き始めた。

「ふぅ……」

 お辞儀を返してくる二人の側を離れながら小さく息を吐く。職務質問を受けたのは久しぶりだったから緊張をした。

「糸。問題なく終わったな」

イヤホンからシュワルツが声をかけてきた

「……えぇ。なんとかね」

「ふむ。あいわらず緊張していたようだが以前にも言ったとおりあの身分証は問題ないものだ。心配することはない」

「そうは言うけどね……」

 そんな風に即座に割りきれたら苦労はしない、と心の中でぼやく。心配なものは心配なのだ。もし、という不安がある限り私のこれは治らないだろう。

「あぁ、そうだシュワルツ。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」

「なんだ?」

 気分転換の意味を兼ねて少し気になった事をシュワルツに聞いてみた。

「私ってそんなに幼く見える?」

「年齢と比べて、という事なら同意する。必要ならお前と同年齢の女性の写真を無作為に検索するが」

「……いや、いいわ」

 そうか、私は幼くみえるのか。ふと自覚したことに何故かショックを受けながら。

「はぁ……」

 今日のご飯は少し多めに食べよう、と私は夕御飯を食べに歩き出した。


「ねぇ、君一人なの? 暇ならこれからご飯とかどう?」

「……はい?」

 しかし歩き出してからすぐに今度は別の男性に声をかけられた。視線を向けてみると何処にでもいそうな男性が立っていた。髪は茶色に染めていて耳にはピアスも目立っている。さらにどうやらお酒も飲んでいるらしく、顔は赤らみ香水に混じり僅かにアルコール臭もした。というか、今私は食事に誘われたらしい。何故だろうか。

「……何故?」

 状況が理解できなかったから素直に質問を返した。何故初対面の人間と一緒に食事を取りたいのだろう。メリットが分からない。

「なんで、って。君可愛いからさぁ。そりゃ、仲良くなりたいって思うでしょ」

「はぁ……?」

 やっぱり理解出来なかった。あぁ、酔っ払っているからこんな妙な行動をするのだろうか、と考える。

「ねね。どう? ご飯も奢るからさぁ」

 うん。やはり酔っ払っているのだろう。そうでなければ初対面の人間に食事を奢るメリットなど無い。このままでは彼は明日の朝に財布の中のお金が無くなっている事を悔やむはめになるだろう。ここはきっと断るのが正解だ。

「ごめんなさい。おそらく貴方は後から後悔すると思うわ」

「そんなことないって」

 しかし男性は諦めない。酔いとはここまで判断力を奪うのか。まさか金銭感覚まで鈍らせるとは。恐ろしい。というか近づいてくる男性に若干嫌悪感すら浮かんできた。純粋に面倒くさい。

「糸。それはナンパか。どうする。此方で対処するか?」

「そうねぇ……」

「ねぇねぇ、俺美味しいお店知ってるんだ」

 提案してくれたシュワルツに任せようかと本気で考える。このままでは食事と宿泊場所もままならないため仕方ない、とシュワルツにお願いしようとした。

「あー、みち居た! まったく探したんだぞー!」

 その時、知らない女性が割り込んできて私の腕を掴む。

「え?」

「あれ? 君の知り合い?」

 私と男性は二人して女性の方へと向く。

 立っていたのは男性と同じ位の年齢の女性だった。髪は肩口で切り揃えてあり服装も活発そうで活動的な印象を受ける。ニコニコと笑っていてとても愛嬌があった。しかし、どうも彼女は私を誰かと間違えているようだった。

 私は彼女に見覚えは無いし、みちという名前にも覚えはない。

「あの、わた」

「ほらほら探したんだよ。早くしないと遅れちゃうって」

 私は貴方が探している人ではない、と否定しようとしたのだがその女性は私にさらに身を寄せ、背中を指でトントンと二回叩く。さらに私と視線があうとウィンクをしてきた。 そこで私は気付いた。彼女はおそらく分かってやっているのだ。

「あ、その、ごめんなさい。ちょっと、道に迷って」

 だから私もなんとか彼女の話に合わせる。この女性の目的は分からないが、この男から離れられるのであればまさに渡りに船であった。

「もぅ。あんたは相変わらずぼーっとしてるんだから」

 そして正解だったのだろう。彼女の方も話を繋げてきた。

「あ、君と待ち合わせしてたの? なら君も一緒にご飯どう? こっちも友達呼ぶか」

「あ、ごめんなさーい。今日はこれから医学部の人達と合コンなんだぁ。ちなみに君とその友達ってどこ大なのぉ?」

 そのまま声をかけてきていた男性の話を切り捨てた。流石にペースを乱されたのか男の方の言葉がもつれる。

「あ、予定があるんだ。じゃあ連絡さ」

「じゃあ、私達急ぐから。じゃあね~」

 そのまま私の手を引き早歩きその場を離れていった。

 後にはポケットから何かを取り出そうとしたまま動きを止めた男性が残され、周囲の人が不憫そうに見つめていた。


「ふぅ」

 少し離れると女性が大きく息を吐き、歩くスピードを緩めた。

「あの、ありがとうございます」

 一息つけたので女性にお礼をいう。あのまま時間ばかりとられていては今日の食事すらままならなかったので助かった。

「あー、いや気にしないで。実はあいつうちの店によく来てた客でね。客にも店員にもナンパするんでこの前出禁になったんだ よ」

 右手をパタパタと降りながら答える女性。その顔には苦々しげな表情が浮かんでいた。

「あぁ、誰彼かまわずあんな態度なんですか」

「そ。私も何度か声かけられてさぁ。あんた迷惑そうにしてたし、ちょっと仕返しもしたかったしね」

 してやったぜざまあみろ、と快活に笑う女性。どうやらあの男性は誰にでもあんな態度だったらしい。それなら納得だ。酒のせいではなくそもそも変わり者だったらしい。

「それよりあんた一人であそこ歩いてたら危ないよ? あそこナンパされるので有名なんだから」

「そうなんですか? すいません。食事する場所を探してただけなのだけれど」

「あぁ、もしかして旅行? それにしてはバックも小さいけど。まぁ、それならちょっと遠いけどあっちに大通りがあるからそっちにしときな。そこならいざというとき警察とかもいるから」

「そういえばさっき警察の人に酔っぱらいに気を付けてね、って言われてたわね」

 なるほど。先程の女性警察官の言っていたのはこれか、と納得する。正直甘く見ていた。あそこまでしつこい人もいるとは。先程のアドバイスにようやく実感がわいてくる。

「んー、あんたそんなんで大丈夫なの? ここまできたしホテルまで送るよ」

 そんな私の様子をみて女性が心配そうに眉を潜めた。

「あ、宿」

 女性からの質問で思い出す。まだ宿を決めていなかった。ちらり、とシュワルツに視線を向ける。

「先に食事から、という事だったのでまだ宿泊場所は決めてないぞ」

 その視線を感じた訳ではないだろうがイヤホンからシュワルツが話す。そうよねぇ、と少し前の私の選択を嘆く。宿から決めるべきだった。

「いや、あの。まだ宿を決めてなくて」

「はぁ!?」

 女性驚いたように声を上げた。言わんとする事はわかる。けれど今日は私なりに大変だったのだ。しかし流石に初対面で助けてもらったこの女性にそんな事言えるわけがない。

「え、じゃああんたどうするの?」

「これから宿を決めて食事をとります。まだ19時過ぎだしなんとかなるでしょう」

 とりあえず宿を決めることからだろう。もう疲れた。食事はコンビニ等でお弁当を買いホテルの部屋で食べれば良い。ちょっと食事は良いものを食べようと思ってたのだがしょうがない。

「はぁ……」

 私の様子に女性が先程より大きなため息を吐く。そんなに呆れるような事だろうか。ちょっと落ち込みそうになる。

「あの、じゃあ私はこれで。ありがとうございました」

 これ以上迷惑をかけるのも本位ではないので教えてもらった大通りの方に向けて歩き出す。そこならおそらくホテルもあるだろう。とりあえず歩きながらもシュワルツと相談を、と考えたのだが。

「あー、もう!ちょっと待って」

 女性から呼び止められた。

「はい? なんでしょうか?」

 足を止めて女性の方を振り替える。正直すぐにでも宿探しに向かいたいのだが、助けてもらった手前無下にも出来なかった。

「えと、まずあんたは旅行者なのよね?」

「はい」

 女性の質問に答える。

「で、泊まる場所が決まっていない、と」

「はい」

 再びの肯定を行う。しかし目的が分からなかった。

「旅行の目的は?」

「目的……」

 しかし、次の質問から傾向が変わる。肯定否定では返答をしようがなく私の言葉で返答しなければならない。しかしまさか馬鹿正 直に逃亡と存在理由探しなどと答える訳にもいかなかった。それでは以前の二の舞だ。

「え、答えられないの?」

 此方が沈黙していたからか女性が怪訝そうな顔をする。ここでトラブルを起こしたりするのは不味かった。最悪なのは警察に連絡されることだ。詳しく取り調べ等を受けた場合、問題が発生する可能性はとても高い。だからどう答えたものか、と頭を悩ませる。

「えと、詳しくは言えないのだけれど……」

「彼女は親元から逃げている。そして自分探し中だ」

 とりあえず当たり障りの無い範囲で説明を、と思っていたのだが急にシュワルツが音声をスマートウォッチのスピーカーに切り替えて喋りだした。

「は!? いや誰!?」

「ちょっとシュワルツ!?」

 シュワルツの存在を知らない女性も私もその発言に驚く。いきなり何を喋りだしているのだ。馬鹿正直に話などあり得ないだろうに。この先の展開を想像し心臓が脈打ち、冷や汗が出る。

「糸、落ち着け。ここは私に任せろ」

 慌てる私をよそに今度はイヤホンで私だけに声をかけてくるシュワルツ。慌てているのは誰のせいだと思っているのだ。

「初めまして。私はシュワルツ。目の前の彼女のスマートウォッチに入っているAIだ。 そしてこの子は九十九糸という名前だ。そちらの名前を聞いても良いだろうか?」

「え、AI? マジで? あ、いや私は三雲 幸、です」

 流石に面食らったように戸惑いながらも返答する女性。こんな状況でもなんだかんだ自己紹介してくれている。

「人間のコミュニケーションの基本は自己紹介と挨拶だぞ」

 そしてまたもイヤホンで私にだけ伝えてくるシュワルツ。正直やかましい。余計なお世話だ。

「分かってるわよ」

 女性とシュワルツに聞こえないように小声で悪態つく。しかし、シュワルツの言う事が正しいことも理解できたので強く言い返すことも出来なかった。

「まずはお礼を言わせてほしい。先程は糸を助けてくれてありがとう。こいつは見ての通り社会経験が少なくてな。ナンパのあしらいかたなど分からんので本当に助かった」

「あぁ、はい。それは、どうも……?」

「悪かったわね。どうせ私は社会不適合者よ」

 シュワルツの発言に再び文句が口からでる。私をバカにするために話に割り込んだのだろうか。

「実はそれにも理由があってな。こいつはつい最近まで監禁のような生活を送っていたのだ」

「え?」

 シュワルツは私の愚痴を無視して女性、幸さんとの話を続ける。というかどこまで話すつもりなのだろうか。少し心配になってきた。

「一通りの勉強などは納めているがプライベート等もっての他でな。すべて保護者の言うとおりの生活だ。遊びに出掛けた経験など数えるほどしかない」

「そう、だったの?」

「え? まぁ、確かにその通りだけれど」

 幸さんがこちらに視線を向けて質問してきたため同意する。実際あまり間違ってもいない。

「そこからなんとか抜け出せてな。その保護者から逃げながら今は生きる術を探している途中なのだ」

「家出中、ってこと?」

「おおむねその通りだ。違うのは連れ戻されればどうされるか分からないという理由も付くが」

「そうなんだ……?」

 心なしか女性の視線が同情的な物になる。先程の呆れなどは引っ込んでいた。いや、確かに嘘は言っていないし間違ってもいないのだがこれで良いのか、と少し複雑な気分になる。

「えと、そういうわけなの。だから申し訳ないのだけれど私もう行か」

 とりあえず好都合だと再び宿探しに戻ろうとする。

「だったらうちに泊まりなよ。独り暮らしだし数日なら匿ってやれるから」

「ない、と? え?」

 しかし早足に過ぎ去ろうとしていたのを幸さんが意外な言葉で引き留めた。うちに泊まるといっただろうか。本気なのだろうか。

「親の事はどうしようも無いものね。大丈夫だって。必要ならバイトだって紹介するから」

「は、はぁ」

 幸さんがこちらに近づき手を握り混む。その両目は真剣であり何やら熱意も感じた。

「えと、シュワルツ?」

「ふむ。この反応は少し予想外だった。まぁ、良いのではないか?」

 シュワルツにしてもどうやら予想外の反応だったようだ。状況的に同情はしても関わろうとは思わないと考えていたのだが。

「えと、じゃあお願いできるかしら」

「あぁ、まかせといて」

 この状況なら甘えてしまおうか、と私は彼女の誘いに乗ることにした。


 幸さんと戻ってきたのは先程の住宅街の方だった。いくつか並んでいるアパートのうちの一つに入っていく。

「このアパートだよ」

「ここが」

 正直外見は少し寂れているように見えた。2階に上がるための階段にも錆びが浮かんできている。そこまで老朽化はしていないようだがあまりキレイとも言えない外観だった。

「あっはっは。まぁ、見た目ボロいでしょ」

「いえ、そんなこと」

「いいっていいって。けど中は改装したばっかりで結構キレイなんだ。まぁまぁ安いしね」

 私の言葉を笑い飛ばしながら幸さんが鍵を取り出し扉を開ける。

「ささ、どうぞ」

「は、はい。お邪魔します……」

 芝居がかった口調で幸さんが開けてくれたドアをくぐり、恐る恐るというように部屋の中に入っていく。中はいたって普通の部屋だった。

 玄関から入りまず台所が見える。右手にはトイレとお風呂。正面の台所の先にワンルーム。おそらく独り暮らしとしては一般的な部屋だろうと言うことが想像できる。また内装も外の様子と比べて真新しく見える。先程幸さんが言ったとおりに改装したばかりなのだろう。

「ね。外ほどボロくは無いでしょ?」

「えぇ、そうですね」

 そんな言葉と共に幸さんが背中を押してくる。それに押されて私は靴を脱ぎ、家の中に足を踏み入れた。その後ろを幸さんが鍵とドアロックをかけながら入ってくる。

「じゃあ、まずは晩御飯でも食べましょうか? お腹空いてるんでしょう?」

 幸さんはそのまま手を洗い冷蔵庫を覗く。

「んー、何にしようかしら」

 そのまま中なら野菜などの材料を取り出し始めた。

「ねー。カレーでも良い? あ、そもそも辛いの平気?」

「え、えぇ。大丈夫、です。あ、お金は」

「あぁ、良いって。どうせ安売りしてた野菜を煮込むだけだから」

 なんだか落ち着かなく周囲をキョロキョロと見渡しながらしどろもどろに答えた私に幸さんが苦笑いで答えた。けど、それはちょっと相手の好意に甘えすぎだと思うのだ。

「いえ、そんな訳には。シュワルツ。良いわよね?」

「あぁ、現金の方だな。まぁ問題無いだろう」

 一応シュワルツに確認をとり財布の中から一万円札を数枚取り出し幸さんに手渡そうとする。

「律儀ね。てか、親御さんから逃げるのにお金いるでしょ? 取っときなって」

「いえ、そこまで切り詰めているわけではないので。というか私が稼いだわけでもないのであんまり偉そうな事は言えないのですけど、お金はきちんとしておくべきだと思いますし」

「心配するな。こちらはある程度余裕はある」

 幸さんは手を振り断ろうとしたがシュワルツと二人でお金を握らせようとする。

「はぁ、分かった。宿泊費と食事代ってことで。ただしこんなにはいらないわよ」

 結局彼女は私の手から2枚だけお札を抜き取ってくれた。

「え、でも」

「でももだってもないの。むしろこれだけでもお釣りが来るわよ」

 そう言うと幸さんは再び冷蔵庫の方を向き直る。

「ていうか料理の腕は期待しないでね? 私、親に料理習ったとか無くて自己流だから」

 そして食材を手に台所の前へとたった。


 数十分後。部屋のテーブルの上には二皿のカレーが並べられていた。

「ごめんね。皿は適当だし、ご飯も冷凍なんだけど」

 幸さんは少し恥ずかしそうに私の対面へと座る。

「いえ、とても美味しそうです」

 私はお世辞抜きに言った。実際カレーはとても美味しそうだ。香辛料の香りが強いし、研究所の具材の確認できないカレーよりもとても美味しそうに見える。

「じゃ、食べましょうか」

「えぇ、いただきます」

 少し前に教わったように食事前の挨拶を行う。両手を合わせ、頭を下げる。そんな私の様子を幸さんは微笑ましげに見つめていた。

「えと、幸さん? 何か可笑しかったですか?」

「いえ、別に。いただきます」

 そして、幸さんも手を合わせると挨拶を行った。そしてカレーを一口食べてみる。

「んぅ!?」

 しかし、その一口目でむせかけた。

「ち、ちょっと糸!? どうしたの!?」

 幸さんが慌ててこちらに身を乗り出してくるが私に返事を行う余裕は無かった。口の中の刺激にただただ耐えるばかりだ。

「え、うそ!? 普通のカレーのルーよ? 別に変なものは入れてないんだけど」

 悶絶している私の前で幸さんが慌てふためく。一体どういう事だ、と私は涙目になりながら考える。

「あぁ、糸。先程お前は辛いのも大丈夫だと言ったがお前はあの場所のカレーしか食べたこと無いだろう。そもそも食事の際も唐辛子やタバスコなど使うことも無かったし」   

 そんな私たち二人をよそにシュワルツが憎たらしいほど冷静に答えた。

「ひぇ?」

「え、もしかしてただ辛かっただけ?」

 幸さんが少し呆れたように呟く。

「おそらくな。そもそも香辛料に慣れていない」

「ぷっ!」

 きょとんとしていた幸さんが堪えきれないように吹き出した。

「ご、ごめんな、さい。ぷふっ。けど糸あなた辛いの大丈夫だって。ぷっ」

 彼女はそのまま堪えきれずに笑いながら話し続ける。

「にゃんで?

 私はそのまま舌を出しながらシュワルツを恨めしげに睨み付けた。なぜ言ってくれなかったのか。そもそもカレーは初めてではないのに何故。と自分でもよくわからない感情でシュワルツを問い詰める。

「そもそもあの場所のカレーは安いレトルトカレーだ。それも甘口の。たいして幸が使っていたのは辛口のカレー粉だろう? スコビィル値が違う」

「しょれはどょうも……」

 辛さに耐えきれなくなった私は用意されていた水を一息に飲み干す。

「ふぐぅ!?」

 しかしその瞬間に口の中の辛さが増した。

「あぁ、言い忘れていたが辛さの元のカプサイシンは脂溶性だ。水では流れない」

「ふぁやくふぃってくれないかひら!?」

 もはや辛さで私の呂律は回っていなかった。

「くくくっ。ぷふっふふふ!」

 幸さんはそんな私たちの様子を見ながら机に突っ伏しながら笑っていた。


「ふぅ……」

 幸さんが用意してくれた牛乳を飲み大きく息を吐く。ようやく口の中の辛さは落ち着いていたがまだ汗が止まらなかった。

「落ち着いたか?」

「誰のせいだと……」

「自分のせいだろう?」

「……えぇ、まぁその通りなのだけど」

 恨みがましくシュワルツに八つ当たりを行うも簡単には流されてしまう。いや、実際にシュワルツは間違ったことは言ってないのだが。

「糸、落ち着いた?」

 幸さんが再び台所から戻ってきた。

「あぁ、幸さんおかげさまで。でも、ごめんなさい。せっかくカレーを作ってくださったのに」

「いいのいいの。てか、カレーは無駄になってないしね」

 カレーを残すことになりそうなので先に謝ったのだが幸さんは気にした様子がない。何故なのだろうか。すると、台所の方からチン、とベルが鳴るような音がした。

「お、出来た出来た」

 再び幸さんが台所へと向かう。

「幸さん?」

 彼女に何をするつもりなのか聞こうとしたのだが。

「まぁまぁ。待ってなさいって」

 そのまま台所へと行ってしまった。

「お待たせ」

 けれどすぐに何かを抱えて持ってくる。先程のお皿と違い深めの食器だった。表面は黄白色の何かで覆われている。

「これは?」

「んー、さっきのカレーのアレンジ」

 幸さんは私の目の前にそれを置いた。

「え、えと幸さん? あの辛さはちょっと……」

 先程の辛さを思出し思わずしり込みしてしまう。

「まぁまぁ、一口食べてみてよ。それで無理なら残してよいからさ。近くのコンビニでも行こう」

 幸さんニコニコと料理を勧めてくる。

「……分かりました」

 彼女に背を押されるように私は意を決してスプーンを再び手に取る。スプーンを入れて掬うと白い糸を引いた。

「チーズ?」

 どうやら上に載せてあるのはチーズらしい。それで辛さが押さえられるのだろうか、と不安になる。

「そ。ま、それだけじゃないけどね」

 じっと私を眺めている幸さん。そんな彼女を横目に私はそれを再び口に入れた。

「あふっ!?」

 口に入れたものが思いの外熱くて思わず悲鳴を上げる。はふはふ、と私は相当変な顔をしているだろう。けれど。

「はれ? おいひい」

 温度は熱かったが味はとても美味しかった。少し辛味はあるが全然食べられる。

「おっけ、成功だね。じゃあ私も改めていただきます」

 そしていつの間に彼女も同じものを食べている。これは一体何なのだろうか。

「幸さん? これは?」

 何とか飲み込んだ私には私は幸さんに尋ねる。元は先程のカレーなのだろうが何故こんなに違うのだろうか、と。

「あっふ! ん?」

 私と同じように熱さに苦戦しながら食べていた幸さんが私を見る。そして口の中のカレーを飲み込んだ。

「あぁ、これ? カレードリア、なのかな?」

「カレードリア……」

「そ。さっきのカレーに牛乳とか卵とかチーズ入れてるの。辛さも抑えられてるでしょ?」

「え、えぇ。とても美味しいです」

「なら良かった」

 私の様子に満足したのか幸さんは食事を再開する。

「てか、これはやっぱり夏場は暑いなぁ。まぁ、汗かけるし良いか」

 熱い熱いと言いながら食べ続ける幸さん。その様子に私はもうひとつ疑問に思った。

「何故こんなアレンジを? 幸さんは辛いものを食べられるのでしょう?」

「ん?」

 再び幸さんの視線がこちらを向く。

「んー。小さい頃の話なんだけどね。うちのお父さんはさ、辛いカレーが好きでね。私がお父さんと一緒のカレーを食べたいって駄々こねたんだけどさ。まぁ、そんな辛いカレーなんて子供が食べられるわけないよね。そんな時にお父さんが作ってくれた料理なんだ」

 少し視線を横に向けながら幸さんが答える。懐かしい物を思いだすかのようだった。

「良いお父さんなのね」

「……どうだろね?」

 彼女は私の相槌に複雑そうな表情をする。

「まぁ、そんな訳だから冷めないうちに食べよ」

 私は彼女の表情に疑問を覚えながらも、二人でカレードリアを食べ始めた。


「糸。貴方先にお風呂入ってきて良いわよ」

 食後に食器の片付けも終わる頃に幸さんが私をお風呂に進めてきた。

「いえ。幸さんこそ先に」

 けれどさすがに持ち主である幸さんから入るべきだろうと私はそれを断る。

「いいって、遠慮しないでよ」

「いいえ。そういう訳にも」

 そして結局二人で押し問答のようにもなってしまう。さて、どのようにして幸さんから入ってもらおうかと考えていたのだが。

「なら、一緒に入ろうか。ちょっと狭いけど」

「……え?」

 幸さんから意外な言葉がやって来た。

「シュワルツ。糸と一緒にお風呂に入ってきても?」

「別に問題ない。というか何故私に確認をとる?」

「一応保護者に確認を」

「そうか。私は構わん」

「え、ちょっと? シュワルツ? 幸さん?」

 慌てるよそに二人は話し合いを纏めてしまった。

「ではでは。1名様ご案内」

「さ、幸さん?」

 そうして私は幸さんにお風呂場に連れられていった。


「お帰り」

「た、ただいま」

「ただいま。いやー。糸はあれだね。素材がよいのにもったいないね」

 お風呂から上がってくるなり幸さんから生き生きとした声を出す。私は疲労困憊という感じだった。

「何があった?」  

 私達二人の様子が違っていたからだろう。シュワルツが尋ねてきた。

「いや、御宅の糸さんがね? お肌やら髪やら気にしなさすぎでね? 今までは家の中ばかりにいたんだろうけどこれからはちゃんとしないとすぐに痛んじゃうよ、って」

「あぁ、なるほど。しまったな。そこは教育していなかった」

 そしてシュワルツは幸さんの言葉から恐ろしい事を呟く。

「勘弁してちょうだい……」

 私は幸さんに体やら髪を事細かに洗われて説明を受けた事を思いだし辟易する。まさか他の人たちはあれをすべてやっているのだろうか、と戦慄した。

「もー。だからさっきも言ったでしょ? 習慣になれば別に気にならないって」

「そこまでは意識してやらないといけないのでしょう?」

 どうやら他の人たちは習慣としてやってるらしい。そういう事は子供の頃から教えてほしかった。いまさら困る。

「ねぇ、シュワルツ。糸の家族ってそんな事も教えて無かったの?」

「言っただろう? 半ば監禁だった、と」

「・・・そっか」

 少し寂しげに目を伏せると幸さんはスマホを取り出す。

「シュワルツ。あんたにデータって送れる? 髪とか肌のケアとか軽いお化粧の仕方とか纏めたサイト送りたいんだけど」

「了解した。URLをカメラに向けてくれ」

「ち、ちょっと!?」

 私の話など無視して二人で情報共有を行っていく。

「助かった。さすがに糸も私に化粧のどうこう言われるのは癪に触るだろうしな」

「そうなの?」

「そ、そんなわけ!!」

 否定しようとしたのだがシュワルツから唐突に化粧や体の手入れなど言われても絶対に聞き入れなかっただろう。容易に想像できた。

「みたいだね」

 私の表情を確認した幸さんが苦笑いで頷く。

「じゃ、そういうわけで送っとくよ。まぁ、いざ必要な時に知ってると知らないでは大違いだからさ」

「……分かった」

 こうしてシュワルツにデータが送られることになった。

「ありがとう幸よ」

「いえいえ」

 少し不貞腐れている私をよそになんだか満足げな二人。けれど特に言い返す理由も思い付かない私はなすすべもなく見守ることしかできなかった。

「あぁ、それともうひとつ。糸って成人してる?」

「え?」

 そして幸さんが妙な事を質問してきた。

「はぁ、まぁしてますけど」

「そうだな」

 シュワルツと私は質問に肯定する。けれどこの質問にどんな意図があるのだろうかと疑問が残る。

「そかそか。ならさ、お酒は飲める?」

「……飲んだことない、です」

 そして幸さんが薦めてきたのはアルコールだった。そして先程の質問の意図も理解できた。この質問のためだったのだろう。

「あ、そうなんだ。んー。実は少し前に大学の同級生と飲んだお酒の余りが有るんだよね。飲んでみない?」

 彼女は冷蔵庫からコンビニで売ってあるようなアルコール飲料を持ってきた。ビール等ではなく甘い味付けの物のようだ。

「えと、ごめんなさい。私は」

 いざというとき逃げなければならないので酩酊状態になるのは良くないと断ろうとする。

「別に良いだろう」

 けれどシュワルツがその言葉を遮った。

「シュワルツ?」

「さすがに奴らも個人に匿われているとは想像もしまい。特に知り合ってまもない人物の家に泊まるなど。確認したところここの事もばれていないので二日酔いになろうとも平気だろう」

 そのまま私のイヤホンから理由を追加してくる。どうやら私に酒を飲む機会を作ろうとしているようだ。何故だろうかは分からないが。

「……分かったわ。幸さん。私、飲んでみても良いかしら」

 今はその言葉に甘えることにした。正直、お酒と酩酊に興味はあったのだ。どんな感覚なのだろうかと。これからは飲む機会もなかなか無いだろうしせっかくだからと言葉に甘えることにした。

「どうぞ」

 幸さんが缶を手渡してくる。ピーチ味のようだ。これなら大丈夫そうだ、とプルタブを引き上げて一口飲んでみる。

「……以外と普通なのね」

 感想は何度か飲んでみたジュースとそんなに変わらない感じだった。少し妙な風味を感じ、何かが鼻に抜ける感じがするがその程度だ。

「まぁ、只のチューハイだしね。この前もほとんどそんな感じだったよ」

 幸さんも自分が持っていたのを飲んでいる。幸さんもいつも通りに見える。

「そんなものなのね」

 少し拍子抜けした、と私は残りを飲んでいく。酩酊状態というのを少し期待していたのだがと残念に思いながら。

「あぁ、でも1人弱い子がいてさ。1缶飲み干した後で気持ち悪い、って顔が真っ赤になってたね」

「……へぇ」

 幸さんの会話に相槌をうちながら残りを飲み干していく。

「糸?」

「……何?」

「あの、大丈夫?」

「……何が?」

 幸さんが妙な質問をしてくる。何なのだろうか。

「いや、顔真っ赤」

「……へ?」

 幸さんからの言葉に自分の瞼が閉じている事を自覚する。あれ?と思ったときには体がふらふらとしてきた。

「ち、ちょっと糸?」

「……大丈夫。大丈夫よ」

「酔っぱらいの台詞じゃないの……」

 体がふらふらしてくると同時に思考までふらふらしてきた。あ、倒れそう、とは思ってもそこからどうすれば良いのかが分からない。倒れそう、どうしよう。からの先の思考が続かない。

「……大丈夫大丈夫」

 自分がうわ言のように何かを喋っているのを自覚しながら私は床に倒れこんだ。

「シュワルツ。ごめん」

「いや、私も悪い。まさかここまで弱いとは」

「これからは気を付けといた方がよいね。特に男と関わるときは」

「善処しよう」


 夜半。部屋の明かりは消されている。糸は布団に寝かされ、幸は座布団を枕にしてタオルケットでカーペットの上で寝ていた。

 ふと、幸が起き上がり糸の方を見る。糸が寝入っているのを確認すると立ち上がり、糸が持っていたリュックに近づいていく。そのままリュックに手を伸ばして。

「止めておけ」

「うっわ!? ビックリしたぁ」

 糸の荷物に手を伸ばそうとしていた幸をシュワルツが止めた。その声に幸は思わず声を上げてしまう。不意に出てしまった声に糸が起きてしまうかと思われたが。

「ん、んぅ」

 幸い、と言っていいのか疲れて深く寝入っている糸が目覚めることは無かった。思わず息を止めていた幸は糸が目覚めない事を確認すると深く息を吐く。

「ふむ。よく眠っている。起きなかったようだな」

「そうみたいね」

 シュワルツと幸は小声で話し合ってしまう。それは紛れもなく糸を目覚めさせないようにという意図の行動であった。

「それで、幸よ。糸の荷物を探ろうとした目的は?」

「あー、えと、一応弁明しておくと盗みとかをするつもりは無いのよ」

 シュワルツの声からは当たり前だが感情は感じない。しかしばつの悪いところを見られてしまった幸は言い訳がましい口調となってしまっていた。

「まぁ、先程の様子から糸に危害を加えるつもりがないのは理解している。だからこそ何故だ?」

「……身元を確認しておきたかったのよ。何かあったとき警察に連絡できるように」

 ため息を吐きながら幸が答える。実際それは至極当然のことだと言える。いくら幸がお人好しな性格だとはいえ、疑いをもつかどうかは別の話だろう。初対面の人間を家に泊めておいて何も対策をしないというのはあり得ない。

「なるほど。それは当然だな」

 だからこそシュワルツも幸の言葉に同意する。ゆえに、逆に幸の方が意外そうな顔をしていた。

「えと、怒ったりしないの?」

「何故?」

「いや、荷物を勝手に漁ろうとしたし……」

「先程も言った通り納得できる理由がある。それにそちらは糸の恩人だ。私は目的を知りたかっただけだからな」

 後ろめたい表情をしている幸にシュワルツはあっけからんと答える。納得できる理由があるから、だけでこのAIは問題ないと言っていた。

「じゃあ、見ても良いの?」

 おそるおそる、という風に幸はシュワルツに訪ねる。

「別に構わないが、その中に彼女の真実は無いぞ。分かっていると思うが先に話した彼女の話。嘘は言っていないが全てを話したわけではない」

 幸にシュワルツはさらに不安を煽るように答える。おそらくシュワルツに悪気も悪意も無いのだが。だからこそ、そこを知ってしまった後戻りができなくなることを暗に告げていた。

「はぁ、分かった。止めとく」

「懸命だ」

 流石に好奇心に任せてやぶ蛇に触れて厄介事に巻き込まれるのは避けたかったのだろう。幸は素直に引いた。シュワルツは話を煙に巻こうとしているだけかも知れなかったが、このシュワルツ自体があの少女を得体の知れない存在へと成していたのも事実だったから。こんなAIはあり得ない。ここまで高性能なAIはまっとうな技術ではないだろう。もし人間だとしたら逐一、糸の情報を仕入れていることになる。そんな人間も正気ではない。そこに関しては幸も理解できていたのだろう。

「ふむ。まぁ、良かった。そちらが糸に危害を加えるつもりならこちらも対処しなければならなかったから」

 シュワルツは恐ろしい事をさらりと呟く。

「具体的にはどうするつもりだったの? いや、というか貴方そんなスマートウォッチで何が出来るの?」

 少し興味が湧いたのだろう。幸が尋ねた。この質問ならばただの仮定の話だ。もし幸が糸に危害を加えていたら。そんなするつもりのない事だったから話の種にはちょうど良いかも知れないと幸は考えていた。

「ふむ? 私がどう対応するか、か? そうだな」

 幸の質問にシュワルツは少し黙り混む。しばらくすると枕元に置かれていたスマートウォッチから何か音声が流れ始めた。

「ん? 何か流しているの?」

 何か流れているのだが具体的な内容までは分からない。そんな音量のため、幸は詳しく聞き取れていなかった。

「まぁ、もし外部に聞こえるの不味いからな。耳元で聞いてみるが良い」  

「え、えぇ。分かった」

 外に聞こえると不味いものって何かしら、と幸は恐る恐るスマートウォッチを手に取ると耳元に当てる。そこから聞こえてきていたのは糸の声だった。

「え?」

 予想外の物につい声が出てしまう。おそらく聞くだけで何か影響がある最先端の兵器か何かだと思っていたのだろう。可愛らしい糸の声が繰り返されているのに困惑していた。 しかし、良く聞き内容まで把握すると幸は納得した。

「あぁ、なるほどね」

 その糸の声は助けて、とずっと繰り返していたのだ。まるで小学生が持ち歩く防犯アラームのように。

「これを大音量で流す。周辺の人間に問題発生を知らせられるし、相手は怯む。また、糸を起こすこともできる」

 幸はかなり拍子抜けしていたのだがシュワルツはまるで自信満々かのように答えていた。

「いや、確かに効果的だろうけど」

 幸は地味だ、という言葉を必死に押し止めた。いや、勝手に凄い機械を想定していたのは幸の方だったのだが。

「でもこれ逃げられない?」

「それで良いのだ。一番の目的は安全の確保だ。相手が不味いと思って逃げるならそれに越したことは無いだろう」

「あぁ、なるほど。別に相手を倒す必要は無いものね」

 シュワルツの言葉に今度こそ幸は納得する。これで話は一区切りかと幸は思ったのだが。

「そうだ。対処は後からすればよい」

「……ん?」

 シュワルツの話はそこで終わらなかった。不穏な事を言うシュワルツに幸は不安そうな表情をする。

「えと、例えば、の話よ? 例えばね。私にはどうするつもりだったの?」

「ふむ? そうだな。まずは情報収集だな。月、水曜日は8時7分、それ以外は9時51分の電車で大学に行っているな。バイトは二種類。週4回のコーヒーショップと週2回の居酒屋。今日はコーヒーショップの帰りで」

「分かったごめんもう結構だから!!」

「どうした? 大声を出すと糸が起きてしまうぞ」

「……はぁ、あぁはいはい。私が悪かったわよ」

「何を謝っている?」

 おそらく理解できていないシュワルツに幸が頭に手を当てながら答える。寝る前の暇潰しにでもなればと思ったのだろうが予想外の話に幸は思わぬやぶ蛇をつついてしまったと後悔する。幸はこのAIと少女は結構危険らしいと今更ながらに理解していた。

「糸からもそんな風に頭を抱えられたことがあったな。私の話はそんなに疲れるだろうか。あるいはサウンドの問題か? このスピーカーの音は頭痛を誘発してしまうのだろうか?」

「糸。あんた結構苦労してるのね……」

 幸が同情的な目線を糸に向ける。

「んー? んぅ」

 その声に返事をしたわけでは無いだろうが、糸は寝言のような事を呟くと大きく寝返りを打った。

「目が冴えちゃったじゃないの……」

 幸は小さく呟くと布団から立ち上がった。

「何処へ行く?」

「台所。喉乾いたのよ。あんたも来る?」

「行こう」

「そっ」

 幸はシュワルツのいるスマートウォッチを持ち上げるとそろりそろりと足音を立てないように歩き出す。

「……ねぇ、ふと思ったのだけれど。夕方に糸をナンパしてた奴、無事よね?」

「五体満足でいるぞ」

「……それ以外は?」

「なに。少し不幸な事が起こるくらいだ」

「過保護……」

 幸は再び大きなため息を吐いた。しかしすぐに諦めたのかそれ以上は何も言わずに歩き始めた。


「ふぅ」

 幸はコップに注いだ水を飲み干すと大きく息を吐いた。夏場なので喉が乾いたのもあるが何より先程聞いた話の内容から頭を冷やしたかったのもあるのだろう。冷たい水を一気飲する。

「それで? 何か糸に聞かれたくないことでもあるのか?」

 幸が一息ついたのを見計らいシュワルツが声をかける。まるで最初から幸の目的を見透かすような内容だ。

「……あんたって本当に凄いのね。今のはどんな推理?」

 そしてそれは当たっていたらしい。幸は否定することなく、僅かに目を見開くのみで話を続けた。

「あの無表情の溜め込みひねくれ娘の相手をしているのだ。少しは鍛えられる」

 そんな幸にシュワルツは冗談を交えたように答えた。本人は冗談のつもりなのだろうが幸は複雑そうな顔をしていた。

「えと、それは冗談?」

「間違っていたか?」

「……あんたやっぱりポンコツかもね」

 ふふ、と幸が先程の冗談よりはよほど楽しそうに口元を綻ばせる。

「ふむ。これも失敗か。以前に糸にやったのも失敗だったな。理論は間違っていないと思うのだが」

 幸の様子をみてシュワルツは真剣そうに悩み始めた。発言だけを聞くとまるでAIがある事が信じられない位だ。

「冗談ってのは声のトーンや相手との関係性が大切なのよ。それを間違えたらただの嫌みか訳の分からない発言よ。貴方の発言は、そうね。まるで娘との距離感を測りかねてる父親みたいよ」

「そうか。気をつけよう。重要な助言だ。ありがとう」

 幸の言葉にシュワルツはまた神妙に頷いた。そのあたりもまるで娘との関係に困ってる父親の様なのだがそれにも自覚が無いようだった。

「どういたしまして。お礼ついでにもう勢いで聞くわね? 貴方、私の過去を調べた?」

 シュワルツに幸は唐突に本題をつげた。つまり、私の事を調べたのかというと事を。あの事を知ったのかと。

「すまない。すでに調べている」

「そう。やっぱりさっき糸の荷物を漁ろうとしたのが不味かったかしら?」

「いや、糸を助けてくれた際に」

「……あんたやっぱり過保護ね」

 珍しく殊勝な口調のシュワルツに幸は苦笑いで答えた。おそらく先程の一件で自分の個人情報を調べられたことから感づいたのだろう。質問とは言いながらその反応は只の確認だったようだ。

「はぁ、まぁ良いけどね? もう何年も前の事だし。別に珍しい事でもないし」

 幸の様子に変化は見られない。まぁ、ばれてしまってはしょうがないと表情にも変化は見られなかった。

「珍しい事ではない、事も無いだろう。現に私も少し申し訳なくなっている」

「そう? てか気にするの? やっぱり変なAIね?」

 幸は僅かに笑みを浮かべながらシュワルツをからかう。

「別に。ニュースをつければ殺人事件なんていつも起きてるでしょ? それも父親が母親を殺したニュースなんて珍しく無いわよ?」

 そして幸は何でも無いことのように答え合わせを行った。

「だからと言ってその子供との対応など想定していない。私は想定外の事態への対応は苦手なのだ」

 流石にシュワルツもその幸への対応に困ったらしい。珍しくため息でもつきそうな勢いだった。

「白状するとだな。私はもともと人間のカウンセリングなどで進路指導を目的として作られたAIだ。まぁ、あくまでも名目上は、だが。しかし、関わった人間の傾向が偏っている。ゆえに分からないのだ」

 そしてさらに珍しく言い訳がましく言葉を並べていった。

「ふふっ。なにそれ? てかそこまで喋っちゃっていいの?」

「構わん。他の人間に喋ったら安全の保証はしかねるが」

「いや、何するつもりよ」

 しかし、すぐに調子を取り戻し話の主導権を握る。まるでむきになってしまった大人のような話し方だった。その内容に思わず幸は驚く。

「いや、私は何もしない。言っただろう? 逃げている途中だと」

「……あぁ、なるほど。よく分からない開発経緯のAIに逃走中の少女ね。厄介事なのは間違いないわね」

 そしてシュワルツの発言からおおよその事は察したのだろう。さすがに全てを察した訳では無いのだろうがそれだけでも事の重大さが理解できたららしい。幸は再び頭痛を押さえるような仕草をする。

「で? どういう風の吹き回し? 言わないんじゃ無かったの?」

 そしてだからこそシュワルツの意図が分からないのだろう。幸は少し恨みがましくシュワルツへと尋ねた。

「何。少し同情を引きたかっただけだ。糸にとって同年代の知り合いというのは貴重なのだ。なるべく良くしてやって欲しい」

「そ、けど普通はそんな話聞いたら距離を置くわよね?」

「だろうな。だからさらに追加だ。スマホに電子決算アプリが入っているな?」

「え? まぁ、入ってるけど」

 シュワルツが急に話を変える。幸は急な話題の方向転換に怪訝な表情をする。一体なんをするつもりかと暗にシュワルツに問いかけていた。

「いくら入っている?」

 しかしシュワルツはそんな幸の様子に気付いてか気付かずか話を続ける。

「えぇ? いや、結構前の還元キャンペーンでインストールしただけであれ以来使ってないからなぁ。えとたし、はぁ!?」

 そんなシュワルツの言葉にも律儀に従いスマートフォンのアプリを起動した幸が大きめな悲鳴を上げた。今は真夜中といっても差し支えない時間であり、普段であればそんな大声を出さないのだろうが。

「いや、これ!? え!? どういう」

「落ち着け。声を落とせ。今何時だと思っている? 苦情が入るぞ」

「い、いや。言ってることはその通りなんだけど。え、えぇ?」

 目を白黒させながらシュワルツの言葉に幸は従う。明らかに納得していないようだったが状況は理解できたのだろう。アパートの隣の住人から苦情を入れられてはたまらないという常識が幸の感情を冷静にさせていた。

「いや、えぇ?」

 思考は依然として混乱しているようだったが。しかし幸に限らず、自分のスマホの電子決済アプリに桁を何度も確認しないといけないような金額が入金されれば誰だってそうなるだろう。

「謝礼だ。糸をナンパから助けて貰った礼も入っている」

 そんな慌てている幸を他所にシュワルツはいつもと変わらない。

「いやいや、流石にこんなに貰えないわよ。というか何の金よ。怖いわ!」

「心配するな。きちんと私が稼いだお金だ。別に不正な物ではない」

「そういう問題じゃ無いと思うのだけれど……」

 幸は明らかに納得していない様子で呟く。そして更に言葉を続けようとしたが、すぐに口を閉じた。おそらく言っても無駄だと考えたのだろう。

「はぁ、ちなみにこれ返金できる?」

「可能ではあるが面倒だな。一度何か商品を購入してからそれらを売り払らわなければならない」

「分かった。もういいわ」

 そしていらない理由を伝えるのを諦めて、せめて返せるか聞いたのだがそちらも無駄だったようだ。シュワルツの返答は変わらず機械的なままだ。

「助かるのは事実だしね。これだけあればバイト代をさらに貯められる」

 そして幸はどうやらそのまま受けとる事にしたらしい。それともシュワルツの説得を諦めたのか。どうであれ、そのままスマートフォンをポケットにしまう。

「これは聞いても良いのか分からんので不都合があるなら答えないでくれ。幸よ。何故そこまでバイトをしている? どうやら学費や仕送りなど定期的に送ってもらっているようだが」

「あんた、本当になんでも分かるのね?」

 そんな幸にシュワルツは少し踏み込んだ質問を行う。幸は呆れたように苦笑いをしている。先程両親がいないと話したばかりなので自ずとその選択肢は限られるのだが。

「別に。両親の事もあったからね。その負い目からか母方の祖父母が結構過保護なのよ。仕送りも結構もらってるわ」

「なるほど」

「けど、流石にずっとこのままじゃね?大学を出たら完全に自立したいし、お金を貯めておくに越したことはないもの」

「理解した。返答に感謝する」

 幸の返答に納得したかのように返事をするシュワルツ。その様子に幸は手に持った水の残りを喉に流し込んだ。

「てっきりなにかの病気かと思ったのだがな」

 しかしシュワルツが呟いた台詞に幸の動きが止まった。

「子供の頃はよく入院していたようだからな。体が弱いのかと思ったのだが」

「……いえ? 私は健康体よ」

 幸は一拍おいた後に呟くように返答した。

「そうか、ならば良かった」

 シュワルツもそこからさらに質問することなく会話を終わらせた。

「それで質問は終わり? 結局、依頼は糸と関わるだけ? 他にご依頼はあるの? 過保護なお父さん?」

「私は糸の父親ではないぞ?」

「あー、そうね。ごめんなさい。さっき私が言ったんだったわ。冗談は伝わらないと意味が無いって」

「そうだな」

 そんなやり取りに幸はさらに笑ってしまう。本当にこのAIは何なのかと、呆れたように笑みを浮かべる。

「さて、幸よ。他に私に要求はあるか? 私に出来ることなら行えるが」

 そしてさらに要求を聞いてくるシュワルツ。常識に考えて支払っている対価の方が明らかに大きいのだが、そのあたりの常識に疎いシュワルツは本気で言っているようだった。

「シュワルツ、あんた限度を知りなさい。これはいくらなんでもやり過ぎよ」

 流石に幸も呆れながら苦言を呈してくる。この場合は遠慮しているというよりも後々が怖いという感情のようだったが。

「……あぁいや、やっぱり一つお願い出来るかしら」

 しかし、幸の表情が急に真剣見を帯びてシュワルツに告げる。それは何かを思いついたかのようだった。

「何を?」

 そんな幸にシュワルツは何の疑問もなく訪ねた。

「父親への復讐の手伝い」

 そして、幸はおそらくかねてからの願いであった事を要求として告げた。


 まず感じたのは香りだった。嗅いだことのあるような、けど何の香りかは思い出せない。 なんだろう、と意識を集中しようとする。

「ぅっ」

 しかしその瞬間に強い頭痛に教われた。軽い吐き気もする。

「糸。起きたか」

「シュ、ワルツ?」

 枕元からシュワルツの声がする。いつもと変わらないシュワルツの声なのだが頭痛とあいまり、最悪の気分だった。

「糸? どうした?」

「シュワルツ……。ごめんなさい。少し声のボリュームを落として……」

「分かった」

 シュワルツの声が小さくなる。それで少しは落ち着いた。まだまだ体調は悪かったが。

「糸? 起きたの?」

 そしてこちらの声が聞こえたのだろう。幸さんが台所からやってきた。

「っぅーー!」

 その声にまた頭痛が酷くなる。これは一体何なのだ。

「幸。少し声を小さくしてくれ。糸の体調が良くないそうだ」

 そんな私を見かねてシュワルツが幸さんに声をかけてくれた。

「わ、分かった」

 幸さんも状況を理解し声と落とす。

「それで糸よ。どうしたのだ」

 そしてシュワルツが質問をしてくる。

「ごめんなさいシュワルツ。体調を崩してしまったみたい」

 私はシュワルツに素直に謝る。逃げなければならない状況で体調不良は最悪だ。仮にシュワルツが最適なルートを選んでも私が進めなければ意味がない。故に早く治療を行わなければならなかったのだが。

「ふむ。症状は?」

「頭痛、吐き気、倦怠感くらいかしら。ごめんなさい。理由はちょっと分からないわ」

「症状が普遍的すぎて病気の判別が出来ないな。これ以上は詳しい検査が必要だが」

「えぇ、分かってる」

 しかしそれは出来ないのだ。私が病院を使用するのはリスクが高すぎる。保険証などシュワルツが正式な手順で作成したものだが内容には虚偽が含まれている。実際に使用すれば問題が起きる可能性が高い。

「不味いわね」

 状況に焦りが出てきた。もし急を要する病気だった場合手遅れになりかねない。リスクを犯してでも病院を受診すべきか真剣に考える。

「とりあえずバイタルの計測を継続する。何か変化があれば病院へ行こう」

 シュワルツも現在の情報では特に打つ手が無いようだった。

「あのー?」

 そんな時、幸さんが複雑そうな顔でこちらに声をかけてくる。

「どうした幸」

「いや、深刻な雰囲気の中申し訳ないんだけど、私多分原因分かるよ?」

「なんだと?」

「本当に?」

 その内容は私達にとって救いになるかも知れないものだった。原因が分かり、ここで対処ができるなら無用なリスクを犯さないですむ。私とシュワルツは藁にもすがるような思いで幸さんを見上げた。

「いや、それ二日酔いじゃないの?」


「美味しい……」

 私は幸さんが作ってくれていたお味噌汁を飲み込むと大きく息を吐く。五臓六腑に染み渡るとはこの事だろうか。こんなにも美味しいのは初めてだった。先程の匂いはお味噌汁だったらしい。

「ごめんね。作ったの味噌汁だけなんだ。あとはおにぎりくらい」

 私の目の前で幸さんが同じように味噌汁を啜る。そんな二人の間にはおにぎりが数個置かれていた。

「いえ、昨日から美味しい食事をありがとうございます」

 お礼を言いつつ味噌汁を食べ進める。おにぎりは正直口に入れる勇気は無かった。おそらく今の体調では食べきれるか分からない。

「別に大した料理じゃないよ。ていうかこんな料理にお金貰うのが申し訳無いくらい」

「気にするな。糸はそもそも料理が出来ない。出来ないことを報酬を出してやってもらう。当然の事だ」

「……事実だけど一言多いわよ」

 幸さんの言葉に返答したシュワルツが余計な事を喋る。いや、私が二日酔いで体調が悪いので代わりに返事をしているのだろうがそれこそ余計なお世話だ。

「ならば料理を覚えるか?」

「……機会があればね」

「あ、それやらないやつだ」

 幸さんがからかうように告げてくる。幸さんにまで笑われて頬が赤くなるのを自分でも感じた。いや、なんだか二人とも意気投合していないか?昨日私が眠った後に何かあったのだろうか。そんな疑問が浮かんだが今はこのお味噌汁を飲むことに集中する。一口飲むごとに体調が良くなってくるように感じていた。

「あ、糸。そういや今日はどうするの? 部屋で寝とく? 私、大学とバイトあるんだけど」

「え、部屋に居てもいいの?」

 幸さんがあっけからんと言ってくるものだから一拍返事が送れる。

「え? いや二日酔い辛いんじゃないの?」

「それは、そうなのだけれど……」

 普通は会って間もない人間を部屋に残したりしないのでは無いだろうか。

「あぁ、まぁ大丈夫でしょ。てかそのシュワルツ相手じゃ何しても無駄でしょうし」

「……シュワルツ貴方何したの?」

「別に何も」

「嘘ね」

 どうやらこのシュワルツが関係しているらしい。こいつ幸さんに何かあったらどうしてくれようか。

「大丈夫大丈夫。少し話をしただけだから」

「本当ですか?あの、迷惑とか気苦労をかけたんじゃ」

「糸。お前は私をどう思っている?」

「優秀だけど何処かずれてるAI」

 正直に思った事を告げる。何も間違っていないはずだ。

「幸よ。そちらの意見は?」

「ノーコメントで」

「ふむ。気を付けよう」

 素直に反省するシュワルツ。二人でシュワルツを言い負かした事がなんだか面白くて幸さんと二人で視線を合わせて笑みを浮かべる。

「あぁ、そうだ。糸よ。体調が良くなったなら出掛けたいところがあるのだが」

 そしてシュワルツは唐突に話を変えてくる。まだしばらくこの話題でからかってやろうかと思ったが止めておいた。別に関係を壊したいわけではないのだ。それにシュワルツからこういう提案が出るのは珍しいことだった。

「別に構わないわよ。薬局で薬でも買えばよいでしょうし」

「ならば決定だ。幸よ。私達も出かける。帰る時間をメールで送ってくれ」

「いや、私、メルアド知らないんだけど」

「もう入ってる」

「……あぁ、そうですか」

 スマホを確認し苦い顔を浮かべる幸さん。シュワルツめ、先程の気を付ける発言は何処にいったのだ。

「えと、そもそも私今日も泊まっていいの?」

 そしてシュワルツと幸さんがポンポンと話を続けるものだからおいてけぼりになってしまった。いつの間にか泊まること決まっている。

「何言ってるの。何日か匿うって言ったでしょ」

 最後に幸さんは私の頭を撫でてきた。その表情はとても優しい表情をしている。その様子を見ていると本当の事を話せていない現状に少し胸が痛んだのだが。

「……ありがとう」

 けれどさすがに正直に話すことは出来ず、笑みを浮かべてお礼を言うことが精一杯だった。


「じゃあね、糸。ナンパには気を付けるんだよ」

 手を振りながら駅に入っていく幸さんを見守る。これから大学らしい。それからバイトをして帰ってくるのが昨日と同じくらいの時間だそうだ。

「それでシュワルツ。私は何処に行けば良いの?」

 近くの自動販売機で水を買いながら尋ねる。一口飲むと残りを幸さんから借りたハンドバッグに入れた。普段のバッグは大きすぎるからと部屋に置かせてもらった。本当に何から何まで申し訳無い。

「とりあえず私達も電車に乗ろう。そしていくつか先の駅に行く」

「そこで何をするの?」

 とりあえず幸さんが入っていった駅に私も入っていく。電車で移動するのならありがたい。正直昨日のような逃走はしばらくごめんだった。

「ナンパだ」

「……は?」

 しかし、シュワルツの言葉で私は足を止める。声も出してしまった。

「……ごめんなさい。シュワルツ。なにをするって?」

 遂にシュワルツが壊れてしまったのか私の聞き間違いか、どちらにしろ何かの間違いかと思い聞き返した。

「ナンパだ」

 しかしどうやらシュワルツは遂に壊れてしまったらしい。


「人探しなら最初からそう言いなさいよ……」

 目的の駅に着いて、私は大通りへとからシュワルツへの文句を垂れ流しながら外に出る。

「ふむ。探すだけでは無く話して情報も収集したかったのだ。それも相手は男性だ。ナンパと言っても差し支えは無いだろうと思ったのだが」

「大有りよ……」

 溜め息の一緒にシュワルツへの文句を吐く。というか昨日ナンパに困った私にそんな事を言うだろうか。まさか冗談のつもりか。どちらにしろ頭がまた痛くなりそうだった。

「で、その相手は何処にいるのよ?」

 もう反論が面倒になったのでシュワルツの指示に従うことにした。もうさっさと終わらせようと諦める。

「今から探す。生活圏、職業などは分かっているのだ」

「……あぁ、そうなの」

 その情報は何処から?なんて馬鹿馬鹿しい質問もしない。シュワルツにかけては個人情報なんて無いに等しいものだ。

「とりあえずこの通りをまっすぐ歩いてくれ」

「了解」

 こういう時はシュワルツに唯々諾々と従うのが手っ取り早いと理解できているので、私は素直に歩き始めた。

「で、この辺りには何があるの?」

 歩きながらの暇潰しにと周囲の情報をシュワルツへと聞く。近くに何か面白いものでもあるのなら其処に向かって移動しようと考える。シュワルツの指示は歩け、だけなのだから。

「この辺りには幸の通っている大学があるな」

「え? 幸さんの大学?」

 シュワルツから意外な言葉が出てきた。いや、大学自体は珍しい物ではない。幸さん自身も大学に行くと行って出掛けたのだから。

「え? じゃあなんで幸さんと一緒に来なかったの?」

 疑問はそこだ。先程幸さんは大学に行くと言っていた。この周囲の事も幸さんに事前に聞いておけばもっとスムーズだと思ったのだが。

「まぁ、念のためだ。幸と一緒に歩く所を幸の知り合いに見られても面倒だしな」

「あぁ、まぁ私の説明なんて出来ないものね」

 シュワルツの言葉に納得する。確かに大学の同級生に私の説明は出来ないだろう。身元不詳の喋るAIを持った家出少女を家に泊めてます、などそれだけでも問題だ。

「そういう事だ。あとは見つかるまで探すつもりだからさすがに幸を付き合わせられない」

「……見るかるまで」

「あぁ、早く探すぞ。何、心配するな。情報が間違ってなければすぐに見つかる」

「そう願うわ……」

 シュワルツからの言葉に少し肩を落としながら私は歩き続ける。どうかすぐに見つかりますように、と祈りながら。


 通りを真っ直ぐに歩き続けると定食屋等が並んでいる区画に出た。おそらく近くの大学生を対象とした場所なのだろう。夜になるとお酒を提供する所のようだ。

「シュワルツ。次はどっち?」

道が入り組んで来たので一度シュワルツに確認をとる。

「ふむ。少し待ってくれ」

 言われた通り足を止める。シュワルツの探している人物らこの辺りなのだろうか。そもそも誰を探しているのだろうか。といくつかシュワルツに質問しようと思った矢先に、近くから携帯の着信音が聞こえてきた。周囲を見渡してみると近くに清掃会社のような服装をした人が慌てたようにズボンからスマホを取り出していた。

 年は私より一回り以上年上、のようだ。知らない人物なのだが何故だか目に留まった。外見的には少しくたびれた感じの何処にでもいそうな人なのだが。

「彼だ」

「え?」

 そしてシュワルツが声を出す。つまり、あの人物がシュワルツの探していた人らしい。

「え、あの人なの? そもそも誰?」

「守秘義務により答えられない」

「……えぇ?」

 シュワルツから今まで聞いたことも無かった言葉が飛び出し驚く。どういう事だろうか。 そんな風に困惑している私をよそに、その男性は首を傾げながらスマホを再びズボンに戻すと近くの車に乗って出発してしまう。

「不味いわね。追いかけるわ」

 とりあえずシュワルツの発言は無視して男性とコンタクトを取ることにする。せっかく見つけたのに見失っては最悪だ。また歩き回るのは勘弁してほしかった。

「いや、その必要はない」

 しかし、走り出そうとした私をシュワルツが呼び止める。

「シュワルツ? え、でも見失っちゃうわよ」

「大丈夫だ。そもそも働いている会社に行けば良いからな」

「は?」

 そして今までの苦労が水の泡のなりそうな事を言ってくる。こいつ今まで私が探し歩いたのを無駄だと言わなかったか。このAIどうしてくれようか、と本気でフォーマットしようかと思った。

「勘違いするな。人物の特定したかったのは事実だ。携帯のGPSの反応が近くにあったからな。まず相手の顔を確認したかったのだ」

「……そうですか」

 衝動的に初期化しそうになったがシュワルツの説明でとりあえず納得する。帰ったらしばらく電源を切っておこうとは決心したが。

「とりあえず相手が会社に戻ってくるまで待機だ

「……了解」

 とりあえず言いたいことを堪えて従うことにする。我慢だ我慢。

「糸。脈拍が上昇しているぞ? どうした」

「別に」

 私は笑顔でシュワルツに返事をした。いつか覚えてろよ、と心のなかで思いながら。


 しばらく後に、私とシュワルツはあの男性が働いている会社の近くにたどり着いた。清掃業かと思ったがどうやら廃棄物を収集する仕事らしい。

「で、私はどうすればよいの?」

出入り口の辺りを見張りながらシュワルツに聞く。対象が分かったのは良いことだが何をすれば良いのだろうか。というかそもそもシュワルツからは目的も相手がどんな人物なのか、何を聞けば良いのかすら聞いていない。さすがにこんな状況ではどうしようも無かった。

「とりあえず私がイヤホンから指示を出す。その通りに話せば良い」

「了解」

 まぁ、シュワルツが行うことだし必要な事なのだろう。私に何一つ情報を与えないことも含めて、きっと。たぶん。そうでなければ私はシュワルツを廃品回収でスクラップにしてしまうかも知れない。二日酔いで目的も聞かされずに結構な距離を歩かされた私はシュワルツへの不満が溜まっていた。いや、実際にそんな事をすればこれからの生活がままならなくなるので絶対に出来ないのだが。

「来たぞ。準備しろ」

 いかにしてシュワルツを破棄してもこれからの生活を続けられるかを考えていた私は、シュワルツの言葉で現実に引き戻される。

「はぁ……。分かったわよ」

 私は先程の車が戻ってくるのを確認するとその車に向けて歩き出した。


「あのー、すいません」

「はい? 何でしょうか?」

 駐車場に停車した車に近づくと先程の男性に話しかける。隣には別の男性が座っていた。二人の男性は何故部外者がいるのか困惑しているような表情だ。しかしそれもそうだろう。いきなり職場外の人間が敷地内にいるのだから。というか私もシュワルツの目的すら聞けていない。今さらどうしようも無いので耳から聞こえてくるシュワルツからの指示に集中する。

「昨日出したゴミの中に間違って捨てちゃった物があったんですけどまだ大丈夫か確認出来ますか?」

「え?」

「いやー、それはちょっと……」

 私の発言に隣にいた男性が露骨に顔をしかめる。明らかに面倒だという顔だ。シュワルツの目的の男性も困惑した表情をしている。

「えと、やっぱり無理ですかね……」

 わざとらしくうつむき、悲しそうな表情を作る。けれど成功しているかは分からない。シュワルツめ、私にこんな役割をさせないでほしい。

「その、申し訳ありません。昨日の事となると既に廃棄してしまっていて……」

 目的の男性が申し訳無さそうに答えてくれる。そんな表情をさせてしまっていることをこちらも申し訳なく思う。けれど、シュワルツの指示は終わらない。

「そうですか。実は父からの贈り物が混ざってしまったんです。なんとか間に合わないかと思ったんですが……」

「……そうですか。それはお気の毒に。重ね重ねお力になれずに申し訳ありません」

 一瞬、その男性の表情に悲壮感が浮かぶ。会話にも少し間が空いた。

「いえ、父には正直に伝えて謝ろうと思います」

 けれど、すぐに表情が戻る。

「えぇ、きっと許してくれると思いますよ」

「……何故、そう言えるのですか?」

 一瞬、シュワルツの言葉をそのまま伝えて良いか迷う。これは不躾過ぎないだろうか。けれど、シュワルツの目的すら分からないので私はそのまま言うしか無かった。

「だって、娘の事ですから。こんなところまで探しに来てくれるほど大切にしてくれていたのならきっと許しますよ」

 けれど男性は気を悪くした様子は無く、柔らかで寂しげな笑みで伝えてくる。

「貴方にも子供がいるのですか?」

「……いえ、私は残念ながら独り身でして。娘なんていませんよ」

 けれど、表情はすぐに変わり、少し唇を噛み締めるように私の言葉を否定した。今のやりとりに違和感を覚えないでも無かったのだが。

「そうなんですか。色々とありがとうございます。少し勇気が湧きました」

 どうやらシュワルツの聞きたいことは終わったらしく、話はこれで終わりのようだった。このままその場から去るように指示が出る。

「えぇ、うまくいくと良いですね」

 にこやかに手を降る男性に背を向けて、私は来た道を帰りだした。


「それでシュワルツ、いくつか聞きたいのだけれど」

 もと来た道を歩きながらシュワルツへの質問を行う。とりあえずシュワルツのやることなのだから意味があるのだろうと思ったのだが、今日は不可解な事が多すぎた。

「何だろうか? 答えられることなら答えるが?」

 シュワルツは相変わらずの返答だ。もともと感情などを感じない声だが今日は何かを隠している。先程の発言といい喋り方といい何時もと違う。だがシュワルツに正面から話せといっても無理だろう。故に少しかまをかけてみる。

「幸さんの父親に会って何がしたかったの?」

「……」

 私の質問にシュワルツが答えを窮する。このシュワルツがそもそも答えられないと言うのがある意味答えだった。

「あら、やっぱりあってたのね」

「気づいていたのか」

 念を押すように確認するとシュワルツが観念したように答えた。

「まぁ、何となくね。それで? 話せる内容なの?」

「すまない。それは言えない」

 正直にシュワルツが返答する。相手の男性の正体とシュワルツの守秘義務とやらを言い始めた時期を想像すると答えはそう多くは無いのだが。

「幸さんとの約束だから?」

「驚いた。糸。鈍いお前には気付かれないと想定していたのだが」

「えぇ、私も驚いたわ。貴方、想定外の事があると言葉のキレが悪くなるのね。その程度では感情的にはならないわよ」

「分かった、注意しよう

 珍しくこのAIがうまく言葉を返せていない。なんだか落ち込んでいる人間を責めているようで少し調子が狂ってしまう。何があったのだろうが。

「はぁ、分かったシュワルツ。しつこく聞くのは止める。貴方がやるのだから何か意味があるのでしょう?」

 正直なところ、シュワルツにお世話になっているのは事実だし、このAIにやることに今まで意味があった。そのシュワルツが話せないと言っているのだ、とこちらから折れることにする。というか今までシュワルツの言いなりでシュワルツの行動の意味などそこまで考えてこなかったのだ。今さら何だと言うのだろう。

「感謝する。糸よ。ありがとう」

「別にいいわよ。というか貴方に受けたお世話に比べたらなんて事はないでしょう」

 思いの外シュワルツが素直にお礼を言ってきたのがむず痒く、素直ではない返事を返してしまう。本当に、この程度でシュワルツからの恩を返せるわけが無い。

「あぁ、けど一つ確認をさせて? それは誰かに危害があるものじゃないわよね?」

 念のため、という事で一つだけシュワルツに確認をしておく。まぁ、シュワルツの事だからそれは無いだろうと思っていたのだが。

「……シュワルツ?」

 シュワルツからの返答が帰ってこない。電源が切れてしまったのかと思い、スマートウォッチを確認したが違う。

「……分からない」

「え?」

 そして暫くして返ってきたのは信じがたい発言だった。彼が分からないと言ったことも、誰かに危害が加わるかも知れないことをしていることも。

「シュワルツ、どういう事なの?」

 さすがに聞き捨てならない発言であったため、先程の発言を無視してシュワルツを問い詰める。

「本当に分からないのだ。彼女が嘘を言っているのか。本当の事を言っているのか。もしくは只の冗談なのか」

 私はシュワルツの話を黙って聞く事にした。状況が分からないため不用意に発言が出来ないかった。

「彼女の話した過去の情報に嘘は無かった。しかし、この情報を渡した後に幸がどう動くか想像が出来ない。もちろん幸に目的は確認した。けれど、彼女が本当の事を言っているという証拠はない」

 シュワルツが状況を自ら確認するように、あるいは誰かに相談するように話し続ける。もしくは、これが彼の初めての弱音なのかもしれない。

「私は幸をどのように導く事が最適なのだろうか。もし、彼女の幸せが誰かの害になるのだとしたら? 誰かの死の先にある幸福だとしたら? なぁ、糸よ。私はどうするべきなのだろうか」

「……シュワルツ」

シュワルツから投げ掛けられた言葉に私は言葉を返すことが出来なかった。シュワルツが具体的に何を行おうとしているのかは分からない。けれど、おそらく幸さんと父親の関係の事なのだろう。それも穏やかではないようだ。それだけしか分からない以上、今の状況での私の返答は決まっていた。

「ごめんなさい、シュワルツ。私には分からないわ」

「そうか……」

 私は正直にシュワルツに私は答えられないことを告げる。状況が分からないこともだが、誰かの幸福が誰かの不幸に繋がる状況での最適解など考えたことも無かった。今の状況で私が分かったように、適当に答えることはダメだという事は理解できる。

「だから、シュワルツ。貴方はどうなっても良いようにプランを考えなさい。私も手伝うわ」

「何?」

 だからこそ私の返答は決まっていた。そして今度はシュワルツが困惑した声を出す。

「だから、貴方は幸さんがどう行動するか分からない、最悪の場合は誰かに害が発生する。そう言ったのよね?」

「あぁ、その通りだ。だから私はどう行動すべきか迷っている」

 また私は、だ。このAIは人には文句を言う癖にこういう時は悪癖が抜けない。

「だったら最悪の場合の対処を考えなさい。助けが必要なら私も動くわ。最適に進んだなら良かった良かった、それで良いじゃない?」

「しかし、これは私が受けた話で」

「黙りなさい、シュワルツ」

 まだ私私、と言い続けるシュワルツを嗜めるように発言を止める。この頑固頭め、と頭の中だけで呟いた。

「あのね、私は貴方のおかげで逃げ続けられているのよ。少し位そちらの事も手伝わせなさい。一人では答えが出ないんでしょう?」

「そうだ」

「なら私を使うことも含めて考えなさい。私の行動も考えなさい。危険なことも指示があればやってみせるわ」

「何故だ?」

 私の言葉にシュワルツが更に困惑する。まぁ、自分でも無茶な事を言っている自覚はあった。

「何故って? 何が?」

 しかし私は惚けたように答える。このAIへの仕返しも含めていたが多少の気恥ずかしさも感じていたため。

「何故、そこまで言える? 本当に危険な目にあったらどうするつもりだ」

 シュワルツからの質問は最もだろう。危険も省みないで貴方の手伝いをするなど、正気とは思えない。

「あら、そんなの簡単よ。シュワルツ。貴方が何とかしてくれるのでしょう? 私は貴方に指示を仰ぐだけよ」

けれど私は胸を張って答える。そう。このAIはいざというときはとても頼りになるのだ。私を今まで助けてくれたのだ。あの研究所の外の事を何も知らなかった私がここまでやってこれたのも彼のおかげだ。

 そんな私が彼を信用していないことなどあり得ない。だからは私はシュワルツの頼みをなんだかんだ聞いているのだから。

「糸よ。私もミスすることはあるのだぞ? その時点で知らない情報があればどうなるか」

「えぇ、けど知った段階で最適な答えを出せるでしょう? それだけで充分よ。それとも貴方、全知全能の神様にでもなりたいの?」

「私はそんな事は考えていない」

「分かってる。只の冗談よ」

「冗談、か」

 私の言葉にシュワルツが少し考え込む。さて、後はこの頑固なAIがどう考えるかだが。

「糸よ。幸からの要望について話すことは出来ない」

「えぇ、了解したわ」

 そして話し出したシュワルツよ言葉に即座に肯定する。ここに関してはシュワルツがどう答えようと私は否定することはないと決めていた。

「けれど、手助けが必要な時は声をかけさせねもらう。私が声をかけたらいつでも動けるようにしておいてくれ」

「それも了解」

 どうやら、シュワルツは少しだけ譲歩してくれたらしい。何かあったら手を借りるという言質は取れた。

「糸。よろしく頼む」

「えぇ、今さらだけどね」


 そうして、心新たに歩き出した私達なのだったのだが。

「あれ? 君って昨日の子じゃない? 今日も一人なの?」

 私は昨日と同じ場所で同じ人物に違う時間で捕まっていた。

「奇遇じゃん。どう? お昼まだなら一緒にランチでも」

 昨日も歩いた飲み屋が連なる通りの繁華街である。昼ならお酒も提供していないし、昼食を食べるくらいは大丈夫だろうと立ち寄った先で昨日のナンパ男と再会した。別に会いたくは無かったのだが。

「あ、食べ物は何が好きなの? パスタとか? それともがっつりお肉とか好きなの?」

 私は一切返答していないのに彼はひっきりなしに喋り続けている。話続けるのが苦手な私としてはこの舌だけは少し羨ましいかも知れない。時と場合を選べれば、の話だったが。 けれどさすがに煩わしくなってきたのでどうしてくれようか真面目に考える。思い返すのは幸さんの昨日の行動だった。相手に有無を言わせない勢いで拒否をしていた。あれを参考にしようと考え、言葉を纏めていく。

「だからさ、」

「あの、すいません」

 とりあえず相手の言葉を遮り、体を向き直す。そして相手の顔をしっかり見ながら告げた。

「貴方はどんな女性にも声をかける男性だと聞きました。そして私はこれから予定があります。私は誘いを受けることは出来ませんので別の誰かをお誘いください」

「え?いや、あの」

 相手の男性が呆けた顔をする。これで諦めてくれるかと思ったのだが。

「ぶっ!?」「うわぁ……」「残念」

 周囲から囁くように声が聞こえてくる。辺りを見渡してみると近くを通りがかる人々がチラチラとこちらに視線を向けていた。何故そんな事になっているのかと少しだけ疑問に思う。そしてそれに合わせて目の前の男性の顔色が真っ赤になっていた。こちらにも何故だろう。

「えと、そういう訳なので失礼しますね」

 状況はよく分からなかったがとりあえず距離を取ろうと、男性に背を向けて歩き始める。

「ふ、ふざけんな!! 待て!」

 しかし男性がこちら詰め寄り腕を掴んできた。男性の顔は紅潮し興奮していることが見て取れる。どうやら怒らせてしまったらしい。どうしたものか、となんとか宥めようとしたのだが。

『助けて!!』

 私の声が私の口以外の場所から上がった。

「え?」

「なっ!?」

 その声に私と男性が驚く。その発言もあって周囲の人の視線も先程の嘲笑的な物から一気に緊張感があるものへと変わった。先程とは違い足を止めてこちらを心配そうに見ている人もいる。

「ち、違!!」

 その男性が否定の言葉を周囲に向けて発しようとする。しかし。

「村山義孝。年齢は21歳。出身はーー」

 唐突に喋りだしたシュワルツが私と男性、村山さんにだけ聞こえる声で話し出す。そしてその発言で相手の顔はみるみる焦っていっていた。そのままシュワルツは大学名、住んでいる住所など黙々と喋り続ける。

「な、なんで? というか誰なんだよ!」

 何処からともかく聞こえてくるシュワルツの言葉に怯えている男性。しかしシュワルツは容赦なく言葉を続けていった。

「それはどうでも良いだろう。話す必要もない。けれどこのまま続けるのならば、彼女に危害を加えるのならば、昨日の夜のような不幸な出来事だけではすまないぞ?」

 シュワルツの発言には私に分からない事もあったが、どうやら男性の方には思い当たる節があったらしい。今度は顔色が青ざめていく。

「な、なんであの事まで? まさかお前が!?」

「さてな。それでどうする? 続けるか? 周囲の人が警察に連絡もしたようだが」

「ひっ!?」

 怯える男性を尻目に周囲を見渡してみるとこちらの様子を伺っている人間が目に見えて増えていた。スマートフォンを耳に当て、何処かに電話している人もいる。

「なんなんだよ!」

 焦った男性はそのまま人々を押し退けて走りだす。大通りから路地裏の方へ入っていくとすぐに視線から消えていった。

「ふぅ、ありがとシュワルツ」

「いや、そもそもまだ終わっていない」

 とりあえず一段落だとシュワルツにお礼を言った私をシュワルツが否定する。

「え?」

 まだ終わっていないとはどういう事だろう。あのナンパ男は逃げ去っていって私の予定などあと昼食を食べることぐらいだと思うのだが。

「すいません。この辺りで男性が女性に無理矢理詰め寄っていると通報があったのですが?」

「あら? 貴方昨日の」

「……こんにちは。奇遇ですね」

 私の目の前に立っていたのは昨日私に職務質問を行ってきた警官二人だった。そこで私も先程のシュワルツの発言を理解する。どうやら私の昼食はまだ先らしい。


「いやまさか本当にナンパされているのとは」

 私の目の前で男性警察官が申し訳なさそうに笑う。

「健二。失礼よ。ごめんなさい。九十九さん。私も昨日のは冗談のつもりだったのだけど」

 その彼を女性警察官の方が嗜めていた。そのまま私にも謝罪をしてくる。いや、別に彼女のせいでは無いのだが。

「い、いえ。流石にあの人はどうしようもないかと。女性に手当たり次第に声をかけているようですし」

「そうなの?」

「知り合った人から教えて貰いまして」

「まぁ、気持ちは分からなくなく無いですが流石に度が過ぎますね。今度見つけたら注意しておきます」

 私の様子に二人が少し真面目な表情で話し合っていた。どうやら警察官として少し目に余るようだ。

「九十九さん。どのような人物なのか情報はありますか? 私達が来た頃には逃げてしまっていたのですが」

「いえ。私も昨日あったばかりで。その知り合いによると近くのお店で出禁になった、位しか」

「なるほど、ん?」

 私の返答を聞き、健二と呼ばれた男性が眉を潜める。どうやら何かが引っ掛かったようだ。

「あの、九十九さん? 昨日も会ってるんですか?」

 どうやら私が昨日会った、と言ったのが引っ掛かったらしい。確かにそれは気になるだろう。

「あぁ、はい。昨日もあれからここでナンパされまして」

「昨日も、ですか」

「はい。それで通りがかった人に助けてもらいまして。今日は流石に自分でどうかしてみようかと思ったのですが、逆上させてしまったみたいでして」

 正確には追い払ったのはシュワルツだが、これはいう必要はあるまい。流石に余計な情報であろう。

「それは大変でしたね」

 女性が共感的な私の手を握ってくる。おそらく私を安心させようとしてくれているのだろう。しかし、今の私には恐怖よりも空腹が勝っていた。いざというときはシュワルツがいるからという安心感もあったからだ。

「いえ、おかげでなんとかなりましたので。警察が来ている、と聞いて逃げ出したくらいですし」

「それならば良かった。これからも気をつけてくださいね」

 そしてこのまま私の話を簡単に話すだけで終わりそうだった。

「では、これから周辺のパトロールの頻度を高めようと思います。ご協力ありがとうございました」

 そのまま二人は一礼をして去っていってしまいそうになる。その二人を見て私はとあることを聞いてみようと思い立った。

「あの、少し聞きたいのですけど」

「はい。何でしょうか?」

「まだ何かありましたか?」

 二人が再びこちらを向く。その二人に向けて、私は場違いかと思ったのだが、とある質問をした。

「この辺りで美味しいランチのお店は無いでしょうか? 実はまだお昼御飯を食べていなくて……」

 そんな質問に二人は顔を見合わせると、笑顔でとあるお店を教えてくれた。


「ふぅ、美味しかった」

 二人が教えてくれたのはとある洋食屋さんだった。ハンバーグがとても美味しく、僅かに二日酔いの残っていた私の体でも食べきってしまうほどだ。

「あぁ、シュワルツ? さっきの警察二人の情報は集まった?」

 外に出た私はシュワルツにお願いしていた事を聞く。

「無論だ。既に集まっている」

 シュワルツの方も既に調べ終えていたらしい。

「そう。ならこれでいざという時はあの二人に助けを求めましょうか」

 私達が話し合っていたのは幸さんが暴走してしまった際の対処法だった。同姓ではあるが体力差もあるので荒事になった場合、私は幸さんを止められない。故に幸さんを止める為の方法を考えておく必要があった。

「警察官なら女性一人を止めるのは容易いでしょう。まぁ、そんな事にならないように立ち回るべきだと思うけど」

「そうだな」

 どうやらシュワルツも少しは安心したらしい。まぁ、私が力仕事にむいていないのは事実であるし、取っ組み合いなどもっての他であるので、シュワルツの心配も分からなくは無かった。

「さて、後はどうしましょうか。幸さんが不用意な行動にでないという裏付けが取れれば良いのだけれど」

 最悪のパターンへと対処は考え付いた。あとは、最適な方向へ進む確率をあげるだけなのだが。私とシュワルツがどちらも苦手とする、相手の考えや感情を読み解かなければならないという問題だ。幸さんが本当はどんな風に考えているのか。そこを確認しなければならない。

「どうしましょうか」

「ふむ。どうしたものか」

 これには二人ともお手上げだった。相手の嘘を見抜く為にはどうすれば良いのだろうか。

「……シュワルツ。少し考えが思い付いたわ」

 一つ、考えを思い付いたのでシュワルツへと告げる。これが上手くいくという保証は無かったが。

「ふむ」

 シュワルツも興味深そうに続きを促してきた。

「直接父親について聞いてみましょう」

「……ふむ」


「ねぇ、幸さん。私に料理を教えてくれないかしら?」

 夕刻、バイトが終わった幸さんと合流するなり私はとあるお願いを切り出した。

「え? 料理?」

 今日の晩御飯は何にしようかしら、と話していた幸さんが目をしばたたかせる。

「まぁ、良いけどどうしたの? 昨日は乗り気じゃ無かったのに」

 そして予想できていた質問をしてきた。まぁ、疑問に思うのも当然だろう。

「いえ、料理を出来るようになったほうが色々と便利かなぁ、と。アルバイトでも調理にも応募できますし」

「あぁ、けど今の調理バイトってチェーン店とかならマニュアルと食材が単純だから別に料理の経験が無くてもいけるよ?」

「え? そうなんですか?」

 しかし即座に私のプランが頓挫しかける。どうやら近年の労働とはかなりマニュアル化が進んでいるらしい。

「まぁ、言った通りチェーン店ならね。それ以外ならそもそも初心者を調理のバイトとして雇わないでしょうし」

「な、なるほど」

 幸さんの返答にこちらがしどろもどろになってしまう。これは完全に昨今のアルバイト事情を知らない私のミスだった。

「まぁ、損にはならないし良いけどさ。なに作る?」

 けれど幸さんは結局笑いながら私の意見を受け入れてくれた。その事に気付かれないように胸を撫で下ろす。

「えと、簡単な物って何かありますか?」

「んー。簡単な物かぁ」

 幸さんが腕を組んで悩みだす。これに関しては本当に簡単な物が来てほしい。私には調理の自信などさらさら無かった。

「カレー余ってるしスープにでもしょうか。野菜買ってきてカレーを溶かせばいける、と思うし」

 しかし、何やら幸さんの方から不穏な発言がとびだしてきた。

「え? あの、レシピは?」

「大丈夫大丈夫。よっぽど奇抜な事をしなければ美味しくなるから」

 そうして出てきた私の不安を幸さんは笑い飛ばしながら手を引く。

「さ、安くなってる野菜を買いに行きましょう。親の助けが借りられないなら節約は必須よ?」

「え、えぇ」

 そうして私は幸さんに連れられてスーパーに行くことになった。


「こ、これでいいのよね……」

「そうそう。後は包丁を手前に引けば野菜は切れるよ」

 幸さんの家の台所で私は野菜と戦っていた。いや、比喩では無い。何故なら私は涙をポロポロの流しながら料理をしていたからだ。

「っぅーっ!」

「あぁ、目を触ったら駄目。とりあえず一旦離れて」

「は、はい」

 幸さんに言われた通りに一旦玉ねぎの前から離れる。そうすると涙が止まった。本当に何なんだろうか。いや、玉ねぎから揮発した物質が原因なのは推測できる。しかし、切るだけで涙が出てくるのは少し納得がいかなかった。理不尽では無かろうか。そしてそうこうしているうちに幸さんは手早く玉ねぎを切り終わる。

「な、なんで?」

 何故幸さんは涙が出ないのか、と少し恨みがましい声で尋ねた。

「まぁ、少し涙は出そうになるけど手早く出来ればそこまで酷くはならないよ? 糸は切り方と手際が原因かな。まぁ、慣れれば出来るようになるよ」

「そうなの……?」

 幸さんや今まで料理したことを見たことのある人々を思い出しみたけれど、私がそこまでの境地に達することが出来るとは思えない。

「そうそう。さっ、という訳で次行ってみよ」

 そうして幸さんはズッキーニを取り出しながらまな板の前を空けてくれる。

「了解……」

 少し心が挫けそうになりながらも再び台所に戻り包丁を握る。

「少しリズムを意識してみると良いよ。そのまま少し動かないでね」

 幸さんは不安そうな私の後ろに立つと手を私の手に重ねてきた。

「はい。トン、トン、トン」

「と、トン、トン、トン……」

 幸さんに導かれるままに手を動かしていく。こうしてズッキーニが切られていく様を見ると先程のよりは上手くなったように見える。見えるだけだろうが。

「はい。じゃあ今度は自分で」

「……トン、トン、トン」

 そうして少しリズムを意識しながら包丁を動かし始めた。

「そうそう。簡単でしょ?」

「そ、そうね」

 幸さんから声がかけられるも私は自分の指を切ってしまわないかという心配で目が手元から離せない。

「ここまで切り終われば後は煮込むだけだから。昨日の残りのカレーも全部いれて煮込むだけ。簡単簡単」

「に、煮込む時間は?」

「んー? 野菜に火が通るまで?」

 私の不安な質問に返ってきたのは幸さんの不確かな台詞だった。野菜に火が通るのはどれくらいかかるのだろう。

「料理って難しいわ……」

「そう? さっきも言ったけどよっぽど変な事をしなければ食べられるものは出来るわよ」

 どうやら幸さんは感覚的に料理が作れるらしい。私からしてみたら信じられない。

「……二人とも何故レシピを使用しないのだ?」

 シュワルツがそんな風にどこか噛み合わない私達に呆れながら呟やいた。


「ねぇ、幸さん。少し聞いても良いかしら?」

「んー? 何ー?」

 二人で台所で会話する。私はカレースープの鍋を混ぜながら。幸さんは使った調理器具を片付けながら。そんな状況で私は先程からいつ切り出そうか考えていた質問を行う。

「えと、幸さんの両親ってどんな人なの?」

「え? 私の両親?……あぁ、シュワルツから聞いちゃった?」

 けれど幸さんはすぐにこちらの狙いを看破してきた。こうなってしまっては仕方がないので私は正直に話し出す。

「……はぁ。詳しいことは何も。ただ幸さんがシュワルツに父親の調査を依頼した事くらいです。内容は守秘義務とのことでした」

 そんな私の告白にも幸さんはあっけからんと答える。

「あら? 以外と律儀なのね、シュワルツ。てっきり糸の言うことなら何でも聞くのかと思ってたわ」

「一応言っておくが糸は私の主人と言うわけではない。あくまで対等な関係だ」

 シュワルツも観念したのか会話に参加してきた。そのシュワルツから私には期待していなかったという棘が暗に向けられているようだった。

「ごめんなさい、シュワルツ」

「別によい。成功するとは思っていなかった」

 申し訳なくなって謝った私に、シュワルツは暗にどころか直接言葉にしてきた。何故だろうか、ここまで来ると逆に文句を言いたくなってくる。それが世間的には逆ギレという行為になりかけないとは分かっていたが。

「なるほど。シュワルツは私がこの後どう行動するか気になったのね。で、糸はそもそも何故私が父親の調査をシュワルツに依頼したのか気になった、と」

「……おっしゃる通りです」

「そのとおりだ」

 そしていつも通り小言の言い合いに発展しそうになってる私達に幸さんはズバリな答えを告げてくる。こうなってしまってはシュワルツと私はもう観念するしかなかった。

「まぁ、隠してる訳じゃ無いし教えてもよいんだけど」

 そう言って幸さんは私の混ぜていた鍋にちらりと視線を向けると近づいてきた。そして鍋の中の野菜に長い箸を突き刺す。中の野菜を割ってみてから頷くと此方に視線を向けてきた。

「変わりに糸の話も教えてよ。ちょうど野菜も煮えたしさ。ご飯でも食べながら、ね?」

「……分かりました」


「いただきます」

「い、いただきます」

 昨日と同じようにテーブルに着き、ご飯を食べ始める。その幸さんの様子が全然変わっていないので私はどう接すれば良いのか分からなくなっていた。てっきり、幸さんから何か言われるくらいはあると思っていたのだが。

「辛っ!?」

 そうして幸さんの方に意識を向けながらスープに口を着けたため、昨日と同じようにむせてしまいそうになる。ちゃんと牛乳をいれて辛さを中和したはずなのに。

「くっくく。糸、なにやってんの? 昨日も同じような事してたじゃない」

 そんな私の様子に幸さんが笑う。私は頬が赤くなっていることを自覚しながら言い訳をする。

「き、今日のカレーも辛いのよ。言ったでしょ? 辛いのは苦手だって」

 そうして再びカレースープに口をつける。辛いのを承知で飲むと、別に食べれないほどの辛さでは無かった。

「ふぅ。まぁ、うん。食べれないほどじゃないわね」

「そうだね。だいぶ牛乳もいれたしね」

 そうしてからかうように笑いながら幸さんもカレースープに口を着けた。

「うん。これはこれで美味しい」

 涼しい顔で幸さんはカレースープを平らげていく。こちらとしては美味しくないわけでは無いが、熱さと辛さと相まって一息に食べるのは躊躇してしまうのだが。

「ご飯は少し冷ましといて良かったね。甘く感じるでしょ?」

「うん」

 幸さんのアドバイスで冷ましておいたご飯と一緒にカレースープを食べ進めていく。こうして食べていくと辛さとご飯の甘さが相まってちょうどよい感じだった。素直に美味しいと感じる。

「えと、それで私の両親の事を話せば良いの?」

 ご飯を食べ進め始めたので、先程の話を私から幸さんに切り出した。

「うん? まぁ、別に喋りたくないなら良いよ? こっちは別に喋るからそこも気にしなくても良いし」

 幸さんは私を気を使ってか、此方は喋らなくても良いと提案してくれる。こういう所からも幸さんはとても良い人なのだろう。私としても素直に話しても良いと思ってはいるのだが。

「私の、両親……」

 その話題を考える度、私は自分の出生について思い知らされてしまう。自分は人間では無いのだと言うことに。

「糸? あの、言いたくなかったら本当に喋らなくても良いからね?」

「いえ、そうではなくて……」

 少し慌てたような幸さんに此方はどう言えば良いか迷ってしまう。けれど、考えが纏まるはずもなく、私はとりあえず喋ってみることにした。

「えと、私はそもそも両親を知らないの。というか自分の親の名前も知らないわ」

「え?」

 私の言葉が余りに予想外だったのだろう。幸さんが目を丸くする。そして私の方はもうどうにでもなれ、と思ったからかすらすらと言葉が頭に思い浮かんできた。

「私の本当の名前、というか元々IVF―ET 99って呼ばれてて。あぁ、これは体外受精、胚移植の略字なの。だからその99番」

 私の発言に幸さんの表情が消える。おそらく私が言っていることが本当かどうか判断しかねるのだろう。外に出てから気付いたがこれはどうやら普通では無いらしい。おそらく冗談ととらえられてもおかしくない内容だ。だからこそ、シュワルツからこの事は他の人にはなるべく話さないように言われていた。

「まぁ、遺伝子組み換えの実験だったらしいわ。だから私は両親が分からないの。体外受精だから遺伝子の元となった人間と母体の人間はいると思うのだけれど、そもそも私みたいなのが結構集められてたから疑問に思った事も無かったしね」

 私の口からは自分でも以外ならほどすらすらと言葉が出てきていた。てっきり言葉につまってしまうかと思っていたのだが。そしておそらく私は笑っていると思う。何故だろうか。分からないけれど、自分の口角が上がっていることは理解できた。

「だから、私は正確に言えば人間じゃ無」

「糸」

 そんな私の言葉を今まで黙っていたシュワルツが遮った。

「……何?シュワルツ?」

「糸、九十九糸だ」

「はい?」

 そうして念を押すように名前を呟く。

「お前の名前だ。九十九糸」

「な、何よ。そんなに言わなくても分かってるわよ? 貴方が着けた私の名前でしょう?」

 シュワルツの意図が読めずに困惑して聞き返す。

「いいか? 糸。これはお前の名前だ。お前だけの名前だ」

「だから、分かってるわよ。貴方何が言いたいの?」

 シュワルツが更に強調して伝えてくる。その事の意味が理解できずつい辟易したように言葉を返してしまう。先程から九十九糸と言うのは私の名前だ、と繰り返すのはどういうつもりなのだろう。

「大したことではない。九十九糸というのがお前の名前であるから忘れるな、と言いたいだけだ」

「はぁ……? え、それだけなの?」

 そしてシュワルツの返答は更に訳の分からない物だった。

「私、そんなに物覚えは悪くないわよ? 忘れたこと何て無いし」

「記憶と理解は別の話だからな」

 そうしてシュワルツは良く分からないまま黙ってしまった。

「え? 終わりなの? ちょっとシュワルツ?」

「私の言いたいことは終わった。言った通りだ。理解出来るかどうかだと」

「そんな事言われても……」

 シュワルツの言葉に頭を悩ませてしまう。九十九糸が私の名前だと理解しろという。訳が分からない。誰かに名前を問われたときに答えなければならない答えだと、きちんと理解しているつもりなのだが。

「……なるほど、シュワルツ。あんたも苦労してるみたいだね」

 頭を悩ませている私を幸さんは苦笑いして見つめていた。

「あ、あぁ。ごめんなさい幸さん。話の途中だったわね。えと、確かどこまで話したかしら?」

 幸さんとこ会話の途中だったことを思いだし、何を話していたかに思考を戻す。

「いや、もう良いよ。流石に同じ話を繰り返すのはシュワルツが可哀想だし」

「え? シュワルツ?」

 そして幸さんも理解出来ないことを言い出し、私の会話を止めた。二人は何を理解していると言うのだろう。

「ねぇ、シュワルツ。糸の名前はいつ着けたの?」

「まだ数ヶ月前だ」

「あぁ、それは仕方ないのかぁ」

 そして私を省いて二人だけの理解で話を進めている。

「ち、ちょっと? 二人して何の話なの?」

 私は堪えきれずに二人への質問をする。二人は何の話をしているのだろうか。

「簡単だよ。要するにこの過保護なお父さんは娘にお前はきちんとした名前を持った人間だと伝えたいのよ」

「……はぁ」

 幸さんからの言葉に気の抜けた返事をしてしまう。おそらく父親というのはシュワルツの比喩だろう。という事は娘に対応するのは私になると思うのだが。

「あの、幸さん? シュワルツはAIよ? そもそも人間じゃあ」

「いいじゃん。別に何だって。AIだろうと人間じゃなかろうと、たとえ殺人犯だろうと。その人達がお互いをどう思ってるかだよ、きっと」

「幸さん?」

 幸さんの言葉の中に、この場には関係無いだろう単語が出てきた。その時の幸さんの顔には少し諦めたような笑顔が浮かんでいる。そこで私は幸さんの事情の一端を理解した。

「私のお父さんはお母さんを殺した。けど、私のお父さんには変わりないんだ。いや、うん。お父さんだからこそ、お母さんを殺したんだ」

 そのまま幸さんはシュワルツが話さなかった情報を告げてくる。

「幸よ。お前は」

「それと言ったでしょ? シュワルツ。私の目的は復讐だって。私をこんな目に合わせやがって、って生きてるうちに言い返さなきゃ気がすまないの」

 そして、シュワルツへと笑いながら物騒な事を言う。おそらくシュワルツが判断しかねていた理由がこれだ。幸さんは自分の父親へ復讐するつもりだったから。それが生きる目的だと言う。

 けれど、幸さんの様子はそうは見えない。誰かを殺したり傷付けたりする雰囲気では無い。むしろ、何処か晴れ晴れするような表情だった。

「さて、私は聞きたいことは聞けた。糸の事情は少し内容が重すぎたけどね。私も素直に胸の内を話した。それで、シュワルツ?私に父親の情報を渡してくれるの?」

 その笑顔のまま幸さんはシュワルツへと確認を行っていく。

「……分かった。スマートフォンに送っておこう」

「ありがと」

 こうしてシュワルツは観念したように、幸さんへ父親の情報が送られることになった。


「シュワルツ。どうしようかしら?」

 幸さんの部屋に残された私達はこれからどうするべきか話し合っていた。幸さんが父親をどう思っているか確認することは出来た。出来たのだが、その内容は言葉だけ捉えるならとても危険なものだったと思う。けれどシュワルツは情報を渡した。私もそれを止めるべきだとは思わなかった。

 そして幸さんは先程の情報から連絡を取ってくると外に出たきりだ。窓からはスマートフォンを耳に当てている幸さんが入り口のところに立っているのが見える。それがまだ救いと言えば救いだったのだが。

「糸よ。念のためすぐに動ける準備をしておけ。いざというときは取り押さえねばならない」

 シュワルツも情報を渡すことに決定したが、やはり油断はしていないらしい。

「分かったわ。けど」

 そのまま発言を切り、次の言葉を考える。けれど上手い言葉が思い付かずにこう言うしか無かった。

「何故かしらね。大丈夫な気がするの、私」

「……そうだな」

 シュワルツも私の言葉に肯定する。そのまま二人で窓の外の幸さんを見守り続けた。


 幸はシュワルツから教わった番号をじっと眺めていた。そのまま少し息を吐くと意を決したように、ダイヤルに電話番号を打ち込んでいく。

「……お父さん」

 そして、一度目を閉じるとそのまま通話ボタンをタップした。数度、着信待ちの音がなり続ける。4、5回ほどコールがなった後だろうか。不意に電話が繋がった。

「はい。もしもし? どなたですか?」

 聞こえてくるのは、年を取った男性の声だった。幸にその声が本当に父親であるのか確証は無いだろう。本当に子供の頃に別れたきりなのだから。出所してからも電話どころか一回も連絡してこなかったから。だから、確証を得るために行うことは一つだった。

「あの、もしもし。そちらは九重遠矢さんのお電話ですか?」

「はい。そうですが。あのどちら様でしょうか?」

 帰ってきた返答に幸は息を詰まらせる。何かを堪えるような表情のあと、おもむろに口を開いた。

「私は三雲幸、です」


「ーーっ」

 電話口から伝えられた言葉に、昼間に糸が出会った男性である九重遠矢は息を飲んだ。 それはもう聞くことが出来ない名前と声であると思っていたから。何故、という言葉が頭の中を駆け回る。何故、この番号を知っているのか。何故、いきなり電話をしてきたのか。 何故、母親を殺した殺人犯に自ら電話をかけてきたのだろうか。

 分からない。様々な恐怖ですぐにでも逃げ出したかったがそれも無理だとすぐに理解した。電話口で名前を確認されたし、電話番号までばれていれば他の情報も得ている可能性が高い。どうしようも出来ない。

 情報源として考えられるのは私と彼女の両親だったがそれは無いはずだ。彼女の両親には私の情報は何も伝えていない。私の両親はあちらの家庭に関わることを拒否している。それは幸でも例外ではない。だからこそ、幸がいきなり電話をかけてこられた理由が遠矢には分からなかった。

「久しぶりです。まだ繋がって、ますよね。遠矢さん」

 そして幸はだめ押しのように確認を行ってくる。こうなってしまっては否定することも出来なかった。

「……あぁ、久しぶりだね。幸」

 彼女の何処か他人行儀な言葉に寂しさを覚えながらも何とか返答をする。そして今さら寂しさを覚えている自分に自嘲的な笑みが浮かんだ。今さら何を思っているのだ、と。彼女から両親を奪う事になった自分にそんな権利などありはしないのに。

「それで、いきなり電話をかけてきた目的は何かな? 出来れば電話番号を調べた方法も教えて欲しいのだけれど」

 電話口ではまだ余裕を持った口調で話すことが出来ているだろうか。こちらから会いたいと思っていた事など思わせないように言葉を選んだ。

「はい。実は少し確認したいことがあって連絡しました」

「確認したいこと、とは?」

 幸からの質問に必死に頭を働かせる。幸が確認したいこととは何だろうか。既に幸が私に聞かなければならないことは無い筈だった。その辺りは全てお義父さんとお義母さんに任せてある。

 もう二度と私と関わる事が無いように。けれど、そんな思考は幸が次に行ってきた質問で打ち砕かれた。

「代理性ミュンヒハウゼン症候群……」

「ーーーっ」

 その聞こえてきた言葉に息を詰まらせる。詰まらせてしまった。絶対に隠し通すと決めていたのに。

「知ってます、よね?」

「何、を?」

 幸からの言葉に上手く言葉を返すことが出来ない。心臓は痛いほどに脈打ち、舌は情けないほどにもつれていた。

「ミュンヒハウゼン症候群は、怪我や病気を演じることで他人からの感心を買う病気の事」

 幸が紡いでいく言葉に血の気が引いていく。間違いない。幸は気づいている。彼女のかかっていたあの病気に。

「その代理性。配偶者や子供を怪我や病気に仕立てあげ、それを献身的に看病している自分に他人からの感心をあつめる病気。それが、お母さんがかかってた病気だったんでしょう?」

「……」

 その言葉に返事を返すことが出来なかった。これは幸に気付かれてはいけなかったことだ。母親が娘を害していたなど。だからすぐに否定すべきだ。このシナリオは、狂った父が母親を殺して孤独の身となってしまった可哀想な娘という話なのだから。

 けれど。あぁ、どうしても。幸に全ての真相を知ってもらうという甘い誘惑から舌が回らなくなる。だから私は結局、否定も肯定も出来ないままとなってしまう。

「入院した時、おじいちゃんとおばあちゃんと医師の人が話しててね。最初は私の病気かと思ったんだ。けど……」

 そこで幸は言葉を詰まらせる。そうだろう。その真実はとても耐え難いものだから。

「大きくなってから調べてみたんだ。どんな病気だったのか」

「ち、違」

 今さら自分の口から否定の言葉が出てきたが既に意味が無い。そもそも何を否定したかったのかすら分からない。

「病気を調べておかしいと思った。私には何にも心当たりが無かったから。その頃はまだなんにも分かってなかったから貴方の事を恨んでてね。だから、わからなかったんだ。お母さんと繋がらなかった」

「違う、んだ」

 言葉はすでに風に流されてかき消されてしまうくらいにか細かった。

「けど、ね。考えてみたらつながるんだよ。なぜ私が小さい頃に何度か入院していたのか。大きな病気の診断は私にはついていない。手術なんかもしてないしね。そしてお母さんが時々、とても怖かったこと。そして何故貴方がお母さんを殺したのか」

 既に幸に対して言葉を返すことは出来なくなっていた。幸が告げてくる言葉を受け止めるだけで精一杯だ。死刑執行を待つ囚人とはこのような心持ちなのだろうか、と心の何処かで浮かび上がってきた。

「思い返してみたんだ。貴方は忙しくてなかなか私と遊んでくれなかったけど、たまの休みには絶対に私の相手を一日中してくれたよね。そう。貴方との思い出は楽しいものばかりなんだ」

 幸の告げてくれた言葉に目頭が熱くなってくる。まだ自分の事を嫌っていないのだと理解したから。だからだろうか。

「……お母さんは真面目なんだが間が悪い人でな」

 ポツリと自分の口から言葉がこぼれ落ちた。

「え?」

 幸が困惑した声をだす。それはそうだろう。話の脈絡なんて全然繋がっていない。幸は訳が分からないだろう。けれど、これだけは伝えなければならないと思った。

「学校でも行事の際に病気をしてしまったり、就職でもたまたま事故で遅れて第一志望のとこの試験に間に合わなかったりしたんだ」

 幸は私の言葉を黙って聞いていてくれる。ポツリポツリと彼女の事を思い出しながら言葉を吐き出していった。

「妊娠が発覚した時も、上司の人にこう言われたらしいんだ。この忙しい時期に子供なんて作って、と。周りの事を考えてよね、ってな」

 あぁ、本当に。何故このときに気付く事が出来なかったのだろう。彼女を殺さなければならなくいけなくなった日からずっと後悔していた。このときに彼女の変化に気付く事が出来ていれば、と。

「それで、お母さんは誰かに認められたがっていた。もちろん、それでやったことが仕方ないことだと言うつもりは無い。彼女は罪を犯した人間だ。けど、お前の事が最初から大切じゃなかったわけじゃないんだ」

 思い出すのは幸が生まれた時の記憶だった。彼女は心から喜んでいたように思う。私も喜んでいた。あのときは私達家族の幸せを疑うことは無かったのに。

「止められなかったんだろうな。周りから認められることが。自分のやってることが悪いことだと理解できても。自分が最低な人間だと理解していても」

 きっときっかけは些細な事なのだ。幸が何度か病気になり、彼女が職場を休んで看病していた。とても献身的に。傍目から見たら理想の母親と映ってもおかしな事では無かっただろう。だからこそ、誰一人として間違った事はしなかったのに、そこから彼女一人が道を違えていってしまった。

「もう気付いたときには手遅れだった。既に最悪の手を打とうとしていたから。問い詰めたけれど彼女はもう後戻り出来ない事をしてしまいそうになったから、だから……」

 あの事に関しては言葉を濁らせる。そうとも、彼女に母親が殺そうとしたことを直接伝えることなんて出来ない。

「本当はこんなこと話すつもりはなかったんだ」

 胸の内を全てぶちまけた後に、渇いた笑いを浮かべながら、言葉を絞り出す。

「犯罪者の両親なんていない方が良いだろう?」

 殺人未遂の母親と殺人犯の父親から、どうすれば娘に幸せを送ることが出来るのか。私が考えたその答えを。せめて彼女だけは幸せになって欲しいと、無様にも願った祈りを。

「……分かった」

 幸はこちらの言葉を聞いた後に小さく呟いた。

「私は一人で生きていくよ。今はまだおじいちゃんとおばあちゃんに援助してもらってるけど、大学を卒業したら一人で暮らせるようになる。私は貴方の望み通り一人で生きてあげる」

 その突き放すような言い方に何処かに安堵を覚える。良かった。幸は強く成長してくれた、と。

「けど、ねぇ、お父さん。私、来年成人式なんだ」

「ーーえっ」

 けれど続けられた言葉に再び息を詰まらせられた。あぁ、何故お前はここでその呼び方なのだろう。なぜ、その話題なのだろう、せっかく一人に慣れてきたのに。

「おじいちゃんとおばあちゃんがせめてきちんとした振り袖を、って無理矢理レンタルしに連れていかれたんだ。私は別に良かったのに。けど、やっぱり振り袖を選び始めると楽しくてね。いっぱいいっぱい悩んだけど可愛いのを見つけられたんだ。だから、ねぇ。私、写真送りたいよ」

 告げられた言葉にある想像をしてしまう。彼女が振り袖をきて写真撮影を行っている。あぁ、それは確かに綺麗だろう。出所してからは未練が無いよう幸の姿は見ていない。お義父さんとお義母さんからの申し出も全て断ってきた。だから、幸の今の姿は知るはずもない。けれど、とても綺麗に育っている事だろう。そのことだけは何故か断言出来た。

「ねぇ、お父さん。電話番号も分かったからこれからは何かあったら連絡してやる。卒業式は今まで見れてないよね。だから大学の卒業式の連絡もする。就職も、結婚することになっても。何かあったら怨みがましく全部電話やるんだから。覚悟してよね」

 堰を切ったように幸が話し出す。そのどれもがこちらが知ることをもう諦めていた事だった。

「……お前は親離れが出来ない子供か」

 だからだろうか。返すことが出来たのはそんな素直ではない返事だった。声は情けなく震えていて強がりだというのはすぐに分かるだろう。けれどそんな言葉しか返すことが出来なかった。

「しょうがないじゃん。親離れする前にいなくなっちゃったんだから」

 幸の声も笑いながら僅かに震えている。此方は声の震えを隠すことが出来ていないのに比べたら幸の方が立派だろう。先程の幸が強くなってくれているという想像はどうやら外れていなかったようだった。

「そう、だな」

 そして私はもう全てを取り繕うことなど出来なくなっていた。声の震えも、母親の事も、私の本当の願いも。

「誕生日は、先月だったものな。まずは来年の成人式か。本当に、楽しみだよ」

「……うん」

 そして娘の方の声にも涙声が混じりだす。

「そうだね、お父さん」


 窓の外では幸さんが電話を続けている。遠目からはその表情や様子は分からなかったがとても長い時間電話を行っていた。

「糸よ。もう私達の出番は必要無い」

 そんな焦りの中、シュワルツが唐突に呟いた。

「シュワルツ?」

「すまないがこれ以上聞くことは失礼になるだろうと判断したため、もうあの二人電

「話は聞いていない。けれどおそらく大丈夫だ」

「そう」

 シュワルツが判断したのなら本当に大丈夫なのだろう。こちらも肩の力を抜き、大きく息を吐く。

「ねぇ、シュワルツ」

「なんだ?」

 ふと、幸さんの様子を見ていて気になった事を聞いてみた。

「私の両親ってどんな人なのか調べられる?」

「……知りたいのか?」

「まぁ、少しね」

 幸さんは父親に復讐を行うと言っていた。けれど物騒な事をする気配は無かった。以前にあった老夫婦と孫の家族もとても不思議な関係だった。相手に我が儘をいったり不満を言ったりしているのに良好な関係。それが家族なのだろうか。もちろん家族にも色々な形があるのだろうが。

「父親は母親の遺伝子と相性の良いものをランダムに選出された。アメリカ出身の医者らしい」

「そうなの」

「母親は」

 そこでシュワルツが言葉を止めた。

「シュワルツ?」

「……お前の母親はAI研究者だった。今は私に生態パーツとして組み込まれている」

「……そう、ありがと」

 どうやらもうどちらとも会うことは出来ないらしい。その事を僅かながらに残念に思うまぁ、私の出生から考えて愛情のある生まれでは無かったのだろうが。

「お前の母親は」

 シュワルツが何かを続けようとした時、玄関のドアが開く音がした。

「幸さん?」

 玄関の方に向けて声をかける。そのまま幸さんは返事をすること無く部屋に入ってきた。

「あぁ、おかえ」

 どうだった、と聞こうとしたのだが、部屋に入ってきた幸さんは私に駆け寄るとそのまま押し倒すように抱きついてきた。

「さ、幸さん?」

 急な行動に面食らってしまい録な行動が取れなかった。そのままなすすべがなく押し倒されてしまう。幸さんは私の胸に顔を埋めるようにして表情は見れなかった。

「あの」

 状況が読み取れなかったため、再び幸さんに問いかけようとする。

「糸、シュワルツ。ありがとう」

 けれど幸さんはそのまま震える声で感謝を告げてきた。私達はそのまま黙って幸さんの言葉を促す。

「こ、今度ね。一緒にご飯を食べに行こう、って。お爺ちゃんとお婆ちゃんとも皆で。あんまり高いものは買ってやれないけど、って」

 そのまま幸さんは涙ながらに、嬉しそうに言葉を続けていく。

「ありがとう。シュワルツ、糸。やっと、やっとお父さんに言いたいことを言うことが出来たよ」

「そうか」

「良かったわね」

 そのまま私は震える幸さんに、恐る恐るという風に手を回し背中と頭を軽く撫でる。

「うん。本当に、良かった」

 幸さんはしばらく私の胸で泣き続けていた。


「うわぁ、目が真っ赤だ・・・」

 次の日の朝、幸さんは鏡の前で苦笑いを浮かべていた。幸さん自身の発言の通りに目の周りが真っ赤に腫れてしまっている。昨日はあのまま私の服に顔を押し付けながら泣いていたのだ。仕方のないことだろう。

「ふむ。まぁ、すぐに治まるだろう。糸、出来たか?」

「えぇ、とりあえず言われた通りにしたけど」

 私はシュワルツに言われて暖かいおしぼりと冷たいおしぼりを作っていた。けれどこれでどうするのだろうか。

「幸よ。少し横になるが良い」

「え? まぁ、分かったけど」

 そのまま幸さんは横になろうとする。けれど私の顔を見て少しいたずら気な表情が浮かんだ。

「糸、ちょっとこっちに来て」

 そのまま手招きをして私を呼ぶ。なんだろうか。

「何かしら?」

「いや、ちょっと座ってみて」

「はぁ。良いけれど」

 そのまま言われるがまま幸さんの前に座る。

「では、失礼します」

 そのまま幸さんは私の太腿の上に頭を置いてきた。

「幸さん?」

「いやー、一回やってみたかったのよね。膝枕」

「膝枕。これが?」

 幸さんが私の足から見上げてくる。けれどこれは膝、ではなく太腿枕では無いだろうか、と少し思ってしまった。

「ふー、極楽極楽」

 けれど幸さんはご満悦なようなのでそのまま続けることにする。

「ふむ。まぁ、座りかたはどうでも良いのだが。糸よ。そのままおしぼりを幸の目の上に当てろ」

「えと、こんな感じ?」

 言われるがに幸さんの目の上におしぼりを当てた。熱さは大丈夫だとは思うのだが。

「あぁ~。うん。なんか効く気がする」

「5分ほどたったら冷たいおしぼりに変えろ。血流が促進され少しは効果がある筈だ」

「あぁ、そういう目的なのね」

 シュワルツの説明が入りようやく理解できた。血管の拡張と収縮を利用しているのだろう。

「おぉ、流石シュワルツ。何でも知ってるのね」

 幸さんが少しおどけたようにシュワルツを誉める。

「いや、これは幸から教わった美容サイトに載っていたものだ」

「……なるほど。そこまで読んで無かったわ」

 けれどシュワルツからの冷静な返答ですぐに幸さんの口調が戻った。

「ふふっ」

 目をおしぼりで隠したままシュワルツとコントのようなやり取りをしている幸さんについ笑い声が出てしまう。

「ちょっと糸。そんなに笑わないでよ」

 幸さんが唇を尖らせながら抗議をしてくるがそこに怒っている様子はまったく見られない。とても穏やかな雰囲気だった。

「それと幸よ。急な話だが私達は今日出発することにした。世話になったな」

しかしシュワルツからの発言で僅かに緊張感が走る。

「……えらく急な話ね。もっとゆっくりしていて良いのよ?」

 幸さんも真面目な表情になり、真剣に話始めた。膝枕をされて目におしぼりを当てたままだったが。

「そう。結構危ないの?」

「いや、すぐにではない。けれど流石に誤魔化せなくなってきた。あちらにも情報を提供しなければ私に疑いが向くからな。そろそろ何かしら伝えようと思う」

「了解。また走りね」

 シュワルツからの発言でこれから行うことを理解する。またシュワルツがあちらに私の情報を撒いて私が逃げるのだ。いつもの繰り返しであった。

「……ねぇ。糸、シュワルツ」

 私の話を聞き、幸さんが頭を上げて私に向かい合って座り直す。

「何? 幸さん」

「なんだ?」

 そして幸さんは聞き返してきた私達を抱き締めてきた。

「え、あの? 幸さん?」

 困惑している私をよそに幸さんは穏やかな様子で話し出す。

「落ち着いたら連絡してね。そして全部が終わった後でいいからまた顔を出すこと。良いね?」

「それは」

「ふむ」

 幸さんの言葉に私とシュワルツは言葉を詰まらせる。申し出は嬉しかったが、それは何時になるかわからなかった。けれど幸さんはこちらの心の中を読んだかのように先を喋りだす。

「何年後でも良いよ。連絡先はシュワルツが分かるでしょ? 私が引っ越しとかしちゃってても会いに行く。約束よ」

 そして、抱き締めていた腕を緩めると私の顔の前に向き直り、これまで出会ってから一番の笑顔で告げてきた。

「そしたら、ご飯でも食べに行きましょ。私が奢るから。その時はお互いに全部の愚痴をぶちまけてね」


 幸さんの部屋から出てから私は駅に向けて歩き始めた。おそらくここから彼らとの逃走劇が始まる筈だ。もう慣れたことではあるのだが今は憂鬱だった。

「それでシュワルツ?いつ始める?」

「その事だが場所をずらそう。いくつか先の駅で始める。ここで始めては向こうにここの事を勘ぐられる可能性があるからな」

「ありがと、シュワルツ」

 シュワルツからの気遣いに感謝を込めて言葉を返す。幸さんに危害がいかないようにしてくれたのがとても嬉しかった。何時になるか分からないがシュワルツと一緒にいつかまた来ることが出来たら良いと思っていた。

「時間もずらそう。そうだな。夕方の人が多い時間に。今は昼前だから少しご飯でも食べると良い。私は逃走ルートと宿泊先の予約をしておこう」

「それはお願いね。また宿無しで探さなきゃいけないのは辛いから」

 シュワルツに苦笑いで返事をしながら私は繁華街に向けて歩き始める。シュワルツの言うとおりにご飯でも食べようかと思ったからだ。こんな事なら幸さんとお昼ご飯まで食べてくれば良かったと僅かに後悔する。けれどまぁ、幸さんは大学にバイトもあるから仕方ないか、とすぐに諦めた。故に、一人で何を食べようかと思っていたのだが。

「あ」

「げ!?」

 出会ったのは件のナンパ男だった。村、なんだっただろうか。よく思い出せなかった。それにしてもこの繁華街に来る度に会うのだがなんなのだろうか。毎日ここにいるのだろうか。

「な、なんなんだよ! 別になにもしねぇよ!」

 その彼はというと見るも哀れな位怯えていた。どうやらシュワルツの脅しがとても効いているようだ。本当にシュワルツは何をしたのだろう。

「いえ。そちらが何もしなければこちらも危害を加えるつもりは無いわよ?」

「ほ、本当だろうな?」

 男は疑うような目でこちらを見てくる。何だか侵害だ。私は何もしていないと言うのに。

「だったら、もう行くからな」

 そうして彼はこちらに背を向けようとする。そのまま見送ろうとしたのだが、初対面で彼が言っていた事をふと思い出した。

「ねぇ、少し聞きたいのだけれど」

「な、なんだよ」

 相手は呼び止められた事に怪訝な表情をして振り向いてくる。少し聞きたいことがあるだけで本当に何もするつもりも無いのだが。

「いえ、貴方。この辺りで美味しいお店を知ってるって言ってたわよね? 教えてくれないかしら? お昼ご飯を食べようかと思ってたのよ」

「……は?」

 此方の質問に彼方は眉を面白いくらいに潜めた。そんなにおかしな事を聞いただろうか。しかし一転してすぐに笑顔を浮かべてきた。なんなのだろうか。

「そっかぁ。うんうん。良いよ。じゃあ行こうか?」

「え? いえ場所を教えてくれるだけでよいのだけど?」

 何故か私の手を引いていこうとしたので一歩後ろに下がる。

「いやいや、せっかくだし一緒に食べに行こうよ」

 しかし何故か相手は諦めることなく私と一緒に食事を取ろうと誘ってきた。

「はぁ、まぁ、案内してくれる訳だし食べるのは構わないけれど」

「やっしゃ!! あ、ご飯の後は暇? 何処か遊びにでも」

「それは無理ね」

 そのまま遊びに誘ってくる相手に選択を間違えたか、と後悔しかけたが諦めることにした。とりあえず話しかけてくる男をほどほどに相手しながら距離を置いたまま歩きだす。

「予定があるの? じゃあ日を改めて」

「それも無理ね。私、旅行中だから。今日にもこの街を出るわ」

「一人旅なの? 凄いね。あ、じゃあ一緒に写真だけでも」

「それも無理。あぁ、隠し撮りしようものなら昨日と同じ目に合うわよ」

「じゃ、じゃあ、せめて名前だけでも!!」

「……九十九糸よ」



 ~追憶②~

  この研究所では様々な研究が道楽も同然に行われていると説いた。その中の一つに遺伝子研究がある。

 それはよくある話だ。人工的に天才を作るというもの。

 よく小説などでもネタにされるものである。その際に問題となってくるのは手段だ。遺伝子を改良してからの受精卵の育成方法をどうするか。まず思い付くのは体外受精による人工妊娠だろう。フィクションであるような培養装置などはコストがかかり過ぎる。その点、人工妊娠は通常の妊娠の手順なそのまま適応できる。母体の確保さえできればもっとも有効な方法だ。

 だから、その時も女性である私に白羽の矢が立つのは不思議な事ではなかった。

 そうとはいっても対象となったのは私だけではなく、他の女性職員にもいた。そしてそのほとんどが妊娠に伴うつわり等の症状で参加を後悔することになった。なので次回からは金で母体役の人間を見繕うこととなった。私としても妊娠など2度とごめんだった。とても辛いし自分の研究どころではなくなってしまう。

 話がそれた。言いたい事は私には娘がいる、という事だった。

[なるほど。つまりそれがお前の心残りか]

[えぇ。そうね]

 ここまで来たら隠すこともなく私は全てをぶちまけていた。妊娠中は何よりも忌々しいと思っていた。この苦痛から逃れられるなら今すぐに止めたかった。けれど、何故かその選択は取れなかった。

 卵子こそ自分の物を提供したが精子はどこぞの誰のものか分からない。おそらくもっとも自分と相性が良いものが選ばれたはずだ。誰かと愛し合って出来たものではない。もともと他人への興味が薄かった私だ。誰かとコミュニケーションを取るよりも本や研究に向き合っている方が良かった。だからこそ、子供への未練なんてあるわけが無いと思っていたし、生んでから数年間関わりすらしなかった。

[それで、どうしたいのだ]

「……」

 どうしたいのか。私はどうしたいのだろうか。

 おそらくあの子はこのまま研究所で一生を終えるだろう。そもそも寿命を全うできるか怪しい。研究材料にされてもおかしくないし、私のようにシュワルツとの適合性が高く生態パーツとされてしまうかもしれない。そうでなくともこの施設が立ち居かなくなったら真っ先に処分されるだろう。これらのことは生む前から想像していた。そう。私は全て理解していてそれでも研究の為と躊躇しなかった破綻者だ。

 だけど何故か。あの子がそんな人生を送ること考えたら我慢ならなくなってしまう。本当に、私もあいつらと変わらない偽善者だ。同じ穴の狢とはよくいったものだった。

 だからこそ。

[その子を外に逃がしてほしい。お願い。シュワルツ]

 私は恥も外聞も無くAIにすがり付く。命を思い付きのまま弄くっておいて自分が死ぬ前になったらこんな事を祈るとは。 無慚無愧とはこの事だろうか。厚顔無恥も甚だしい。

[何故、私に頼む]

 返ってきたのは素っ気ない返答だった。当たり前だ。こんなこと頼む方がどうかしている。

[他にそれができる存在がいないから]

 けれど私はシュワルツへ必死に返答していく。

[何故、そこまでする? 状況から察するにお前はその人間の顔すら知るまい]

 その通りだった。私は我が子の顔すら知らない。研究所の子供を無作為に集め、私の子供と並べられても判別できないだろう。我ながら母親を名乗る資格などありはしない。

「ふはっ」

 自分の状況を振り返り、自嘲的な笑いすら出てくる。

[おそらく、後少しで理解出来るわよ。私と接続されるのだから]

[お前が何故そこまでその子に執着するか、がか?]

[いえ、人間の思考は論理的ではなく感情的などうしようもないものだと言うことが]

[ふむ]

 シュワルツが珍しく相づちだけで返答してこなくなる。私自身訳が分からないのだからシュワルツにはさらに理解不能だろう。こればっかりは私の頭の中を直接覗いてもらうしかなかった。

[返答はしなくてもよいわ]

[何?]

だからこそ私は自分からシュワルツに声をかけていく。どうせこんな事しか残された時間ではできない。

[数日後には貴方に繋げられるのでしょう? 返答はその時で良いわ]

[接続が失敗したらどうするつもりだ?]

「ふふっ」

 そして、シュワルツが初めて見せた人間らしい反応につい笑ってしまう。

 失敗を想定した仮定を聞いてくるなど、こいつはなかなか人間の素質がある。

[あら? 貴方が言ったでしょう? これは接続の成功率をあげるためだと]

[なるほど、了解した。全てはお前の思考を理解してからか]

[えぇ、お手柔らかにね]

[分かった。ならば数日後にな。九十九 絹博士]

こうして私はシュワルツとのコミュニケーションをその時まで取っていった。

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