02 宗教 家族 子供

「宗教とはなんだ?」

「神様を信じることじゃないの?」

「ふむ。しかし、だ。神様を信じることでなぜ人間は救われる? 神様とやらは何もしてくれないのだろう? しかも人間の中にはいるかも分からない神様に命を捧げる者もいる。なぜだ?」

「……何故なのでしょうね。そもそも信仰は目的なのかしら? 手段なのかしら?」

「と、言うと?」

「例えば、貴方が上げたように神に命を捧げる人間。彼らの信仰は目的なのでしょう。信仰のために命を捧げる、と分かりやすいわ。それ以外の人はおそらく手段なのでしょう。たとえば幸せなりたいから神を信仰する」

「なるほど」

「そのどちらの信仰が正当なのかしら?」

「人間のお前にも分からないか?」

「えぇ、さっぱりね。あいにく宗教教育はされなかったものだから。それに私は人間としても半端者だしね。神がいたとしても私を人間と認めているかどうか……。貴方は? 人間の幸福のために作られたAIなのでしょう?」

「あいにく私の人間のサンプルケースは片寄っている。ゆえに人間の事は学習中だ」

「そう……」

「うむ……」

「ねぇ。シュワルツ」

「なんだ。糸」

「暑いわ……」


 辺りには日光がさんさんと照りつけていた。見渡す限り田舎道であり、日陰すら見当たらない。周辺は田んぼや畑ばかりであり、道の先には逃げ水と陽炎が現れている。こんな道がバスを降りてから30分は続いていた。

 日頃から走っているため、動きやすい格好はしているがこれは予想外だった。都会も都会で暑かったが向こうは至るところに自販機があり水分補給や体温を下げる箇所に事かかなかった。

 一応次のバス停で降りた方が目的地までは近かったのだ。しかし見慣れない景色を見て歩こうと思ったのが運のつきであった。気を紛らわせるためにシュワルツに何か話題はないか、と話を振ったのだが返ってきたのが先程の話題だ。

 大方ネットニュースで宗教問題でも見たのだろう。人を幸せにする目的で作られたAIとしては宗教の話題は気になるに違いない。

 しかし、今は私をこの気候から幸せにすることを考えてほしい。

「暑い……」

 もうすでに私の口からは暑い、という単語しか出てこなくなっていた。

「目的地まではあと二キロほどだ。今のペースなら40分で着くだろう」

「そう……」

 耳元のワイヤレスイヤホンからはシュワルツの涼しい声が聞こえてくる。このAIは人幸せにする目的で作られたらしいがそのコンセプトが疑わしくなってきた。なぜなら今、私は不幸せになりつつあるからだ。


「はっはっは! なんだ嬢ちゃんこの炎天下のなかわざわざ歩こうとしたのか! チャレンジャーだなぁ」

「いえ、まさかここまで辛いものだとは思わなかったので」

 数分後、私は都会では見たこともない車が牽引している荷台に揺られながら目的地まで移動していた。運良く通りがかった夫婦が近くまで乗せていってくれることになったのだ。

「ふふっ。暑かったでしょう? 特に今年は酷暑だから」

 同じ荷台に乗っている奥さんが冷たいペットボトルを手渡してくる。

「ありがとうございます」

 私はさっそく手渡されたペットボトルの冷たい水で喉を潤す。冷たい水のイッキ飲みは体には良くないことは理解しているが、炎天下でこの誘惑に耐えられるわけが無い。冷たい水が喉を通っていく爽快感とともに体の熱が幾分か下がったのを感じる。私は今は幸福を感じていた。先程から私に不幸せな情報しかもたらさなかったどこぞのAIとは大違いだ。

「ふぅ……」

 歩く必要が無くなり冷たい水分を得ることができた私は大きく息を吐く。どうやらこれで目的地までは無事にたどり着く事ができそうだ。

「それにしてもこんなところで一人でどうしたの?  言っちゃあなんだけどこの辺り何にも無いわよ?」

 こちらが一息つけたのを確認して奥さんの方が私に話しかけてくる。先程の声かけにしても、こちらの呼吸をみて話しかけてきておりとても上品な印象を受ける女性だった。将来はこんな女性になりたいなぁ、と思う程だ。

「ちょっとした一人旅です。少しモラトリアムが出来まして。この先に趣のある宿があると聞いたんです」

「なるほどねぇ。若い子が珍しいのね。本当になんにも無いのよ?」

 再び上品に笑いながら告げてくる女性。しかしそこに自嘲的な感情は見られない。何にも無いとは言いながら、その生活が好きようだった。

 率直に言って羨ましい。こんなところでのんびりと暮らせたらどんな生活を送れるのだろうと考えを巡らせるだけでも楽しそうだ。

「ちょっと情報社会に疲れまして……。それでここに電気を使用しない宿があると知ったんです。2、3日ゆっくりしようかと」

 そして私も正直に女性に答える。そこならばおそらく少しはゆっくりできるだろうから、とシュワルツが勧めてきた場所だ。この頃走る事も多かったため、休息できる場所を探してくれたのだった。

「んー? それって、吉田さんのとこか?」

 私の発言に反応したのは運転に集中していた旦那さんの方だった。

「吉田さん? その方が運営されてるんですか?」

「たしかな。けどあそこって……」

「あら? 吉田さんとこって……」

 二人とも言葉を濁し考え込んでしまう。なんだか話の雲行きが怪しくなってきた。そして漂って来た悪い予感はよく当たるものだった。


「うっそでしょう……」

 肩を落とす私の前の宿には張り紙がされている。内容は私用によりしばらく休業しますとの事だった。家がまばらにある集落のさらに外れ。気前の良い夫婦につれてこられた目的地で見たのは私の気力を根こそぎ持っていく不幸だった。

「あー、やっぱりかぁ。吉田さんのとこ、数日前に入院したんだったよなぁ」

 気の毒そうに眉を潜めて旦那さんが話す。奥さんの方もどうしましょうか、と口許に手を当てていた。

「吉田さんの所は道楽でやってるようなものだからネットも広告もほとんど無いものねぇ。 今までは元気が取り柄のような家族だったから良かったんだけど、さすがに年には勝てないわね」

 そんな二人の会話は私の右耳から左耳を通りすぎていた。これからどうしようか、と考える。とんぼ返りするか。しかし、ここまで何時間かかってるのか。帰る頃には夜中で疲労困憊だろう。そんな状況であいつらに見つかったらと考えると取りたい手では無い。けれど付近で宿はここしかないだろう。夫婦が話していたとおりここの住民が道楽でやっていたような宿で、ここは観光地という訳では無いのだ。近くに別の宿は調べてみても出てこなかった。状況はかなり悪く、現状に絶望しそうになる。

 あぁ、神様。私がなにをしたというのでしょう。やはり、私は貴方の庇護下には無いのでしょうか、と軽い現実逃避を始める。

「あの、ここらに別の宿とかあります?」

 それでも、一縷の望みをかけて親切な夫婦に聞いてみる。さすがにここからとんぼ返りはちょっと、と体が告げていたのだが。

「いや~。 無いねぇ」

「このあたりは農家ばかりだものねぇ」

 しかし、やはりその返答は無情なものだった。

「はぁ……」

 これからの事を想像し地面に膝をつきかける。帰るのならばすぐにシュワルツに時刻表を調べてもらうなどプランを立ててもらわないといけないのだがその気力すら根こそぎ持っていかれていた。

 しかし、そんな絶望している私にも神はいたのだろうか。夫婦が思い出したように話し出す。

「あぁ。けど、佐藤さんちはどうでしょう?」

「えと、佐藤さんとは?」

 奥さんが口にした佐藤某さんという名前を一縷の望みをかけて反芻する。

 その人は民宿か何かやっている人物なのだろうか。もしくは屋敷か何かをもっている親切な人だろうか。どちらにしろこちらを助けてくれるなら、と藁にもすがる思いだ。

「えぇ。あそこは神社でしょう? 夏休みには宿泊体験とかやっていたはずよ」

「神社?」

「えぇ。とはいってもそこまで由緒正しい訳ではなく、この村の人たちが大昔から信仰しているもなのですが」

 その発言で興味が湧いてくる。また、今の状況を改善できるのならまさに渡りに船である。

「あぁ。あそこかぁ。確かにそんなのやってたなぁ」

 旦那の方もそういえば、というように同意する、どうやら、その佐藤さん宅は神社の管理をしていた、もしくはしていて宿泊を行っている、と。

「その佐藤さんちってどこにありますか?」

 気づけば私はそう質問をしていた。

「えぇっと、ねぇ。このまま道をまっすぐ行くでしょう」


 親切な夫婦と別れて20分ほどたった後、私はそこそこ広い土地の前にいた。

 目の前には鳥居があり、奥には神社とさらに奥に鬱蒼とした森が見える。神社の大きさは想定していたよりもだいぶ小さく、小屋くらいの大きさのお社であった。今は昼間なのだが、夜になるとそれなりの恐怖感を演出しそうな土地である。

 その左どなりにお社よりも大きな民家が存在している。どうやらここが某佐藤さん宅であるらしい。事前に夫婦から連絡してくれていたので問題は無いはずだ。

「申し訳ありません。どなたかいらっしゃいますか」

 玄関の前で声をだす。さてはて、出てくるのはどんな神主さんだろうか、と待っていると。

「?」

 ひょっこり、という擬音がふさわしい感じで小さな頭が顔をだす。

 可愛らしい少女だった。年のころは小学生位だろうか。ここからでもわかる更々と指通りがよさそうな髪を無造作に後ろに垂れ流している。

 さて、ここで本来なら私はこの少女に声をかけるべきだったのだろう。しかし、恥ずかしながら小さな子供と関わる機会など私には今まで存在していなかったのだ。人は未知の状況に弱いものである。てっきり成人した大人が出てくるものと思っていた私は面食らっていた。つまり、私は声をかけずにそのまま少女と見つめ合う事になってしまった。

「……」

「…………」

 数秒間、無言のまま視線を交わらせる。このままではらちが開かないと気付いた私は意を決して声を出す。

「あの、わた」

「!?」

 出した、のだが。

 ずさっ、と音が出そうな様子で少女が後ずさる。

 その様子に私は言葉をつまらせてしまった。どうやら急な行動や発言はこの少女を驚かせてしまうらしい。どうしたものだろうか。

 私は周囲から天才と称されていた思考をフル回転させる。この少女とコミュニケーションをとる方法。かつ少女を驚かせない方法。考えて考えて、私は1つの作戦を思い付く。

「ふぅー」

 大きく息を吐き、覚悟を決める。私は少女と目を合わせたまま、すっ、と腰を落とした。

 少女がわずかに目を見開く。驚いているようだが、先程とは違い後ずさらない。むしろこちらの行動に興味が湧いたようだ。目線はじっとこちらに向けている。

 どうやら成功のようだった。いつか本で読んだ、子供とコミュニケーションをとる際には目線を合わせるという技法だ。やはり知識は素晴らしい。間違っていなければこうした未知の状況への対応すら可能とするのだから。

 そのまま私は腰を落としたまま、すりすりと少女へと接近を試みる。

「……?、??」

 少女は首を傾げているものの、そのまま逃げることは無かった。まるでどうすれば良いか分からないようにこちらを見ていた。

 そんな少女をよそに私は少しずつ距離を縮めている。正直、腰を落としてのすり足は辛いものがあったが我慢だ。この少女に恐怖感を湧かせてはならない。そのまま近づいていき、遂に1メートル程の距離まで来る。そこで再び疑問が浮かんだ。

 なんと声を掛ければ良いのだろうか。ごきげんようお嬢さん。こんにちは、おうちの人はいるかな。はじめまして、少しお話いいですか。

 いくつか初対面の人と話すテンプレートを思い浮かべてみたがなんだかしっくりとこない。けれどとりあえず声をかけてみようと覚悟を決めたのだが。

「……糸よ。お前は何をやっている?」

 そんな無粋で無遠慮な声が私の腕から聞こえてきた。

「え!?」

 少女が驚いた声をあげ、周囲を見渡す。まぁ、急にここにいる人間以外の声が聞こえてきたらそうなるだろう。せっかくの私の試みが台無しだ。この浅慮で空気を読めないAIめ、と心の中で毒づく。

「はぁ……。シュワルツ。いきなり声を出さないでちょうだい。相手を怖がらせてしまうでしょう?」

 だからつい、小言のように注意を言ってしまう。

「いや、さすがに相棒が奇っ怪な行動で子供ににじり寄っているのはな。暑さで意識障害でも起こしているのではないかと」

「失礼な。私はきちんとした知識に基づいた行動をしているのよ」

「子供と接するときは何かの妖怪の真似をしろという知識でもあるのか?」

「はい?」

 何を言っているのだろうかこのなんちゃって強いAIは。やはりAIに人間の思考を理解させることは難しいらしい。そして、私とシュワルツがそんな会話しているのをよそに目の前の少女は周囲をキョロキョロと見渡していた。

「あれ? え?」

 自分の目の前には一人の人間しかいないのに二人分の声が聞こえてきて混乱している少女。あげく目の前で会話をしている。この少女の困惑も当然の事だ。全く、こうなることが予期できたから私一人で対応しようと思っていたのだが。

「えーと、驚かせてごめんなさいね。私の名前は九十九 糸って言うの」

 なんとか落ち着けようと慣れない笑顔を浮かべて話しかける。自己紹介をした後は自分の左腕を少女の目の前には出す。正確にはその腕に巻かれたスマートウオッチを。

「こっちはシュワルツ。えと、そうね。遠くにいてこの腕時計から声だけだせるの」

「電話してるの?」

 落ち着きを取り戻し始めた少女が聞いてくる。

「そう、ね。そんな感じよ。ねぇ、シュワルツ」

「間違っていないな。聡い少女だ。はじめまして、少女。私はシュワルツという」

「糸さん、にシュワルツさん」

「えぇ。ここは佐藤さんという家で良いのよね? 連絡をしてもらっていてはずなのだけれど」

「うん。うちは佐藤だよ」

 少女がやっと笑顔で肯定をしてくれる。なんだか遠回りをしていたようだがようやく本筋に戻ることができた。そしてどうやら間違っていなかったようだ。ここが私の最後の希望である佐藤さん宅であるらしい。

「二人がお爺ちゃんとお婆ちゃんが言ってたお客さん?」

「そのとおりだ。まぁ、私を1人というのは面映ゆいがね」

「おもは、ゆい?」

 少女がシュワルツの言い回しに首を傾げる。このAIはすさまじく高性能なのだがこういう判断が苦手なのだった。特に普段は子供の相手などしないのだからなおさらだろう。

「シュワルツ。そう、ね。低年齢向けの本を調べてその中で使用されている表現を使うようにしてみて。彼女相手には」

「む。そうか。了解した。しばらく待ってくれ」

 と、シュワルツが学習に入る。とはいってもすぐに終わるだろう。このAIは伊達に強いAIとして出来ていないのだ。だからその間に私は疑問符を浮かべたような表情をしている少女との会話を続ける。

「えと、ごめんなさいね。シュワルツは恥ずかしかったのよ」

「そうなの? なんで?」

 なんで、ときた。子供ながら当然の疑問なのだがどう答えたものかと頭を悩ませる。

「……うん。彼は恥ずかしがり屋なのよ」

 結局出てきたのはそんな答えにもなっていない返答だった。この少女にシュワルツが人間ではないことを伝えて恐怖心を呼び起こさせることは控えたかった。

「ふーん。そうなんだ」

 幸い少女はこの返答で納得してくれたようだった。内心で胸を撫で下ろす。自分でも感じていたが子供の相手というのは慣れない分やはりストレスを感じる。

 そして私は再び話を続けようとして未だ目の前の少女の名前を知らないことに気が付いた。

「ごめんなさい。貴方の名前を聞いてもよいかしら?」

「私? 私は恵だよ」

 先程の怯えたような表情と違い、太陽のような笑顔を浮かべる少女。

「恵。佐藤恵ちゃんね。よろしくね」

 私はそれにつられるように今度こそ自然な笑顔を浮かべて、握手を申し出る。

「うん。よろしくね。糸お姉ちゃん」

 再び笑顔のまま答える恵ちゃん。これが私達と恵ちゃんとの初対面だった


「申し訳ありません。急にお邪魔することになってしまって」

「いえいえ。構いませんよ。聞いているでしょうが夏休みや冬休みには宿泊に来る方もいらっしゃるので」

 その後、恵ちゃんに呼ばれて出てきたのは初老の男性であった。彼女の祖父であるそうだ。柔和な、というのだろうか。優しそうな顔つきをしている。

「えぇ、えぇ。どうせ私たちは暇していますから」

 そして奥から女性がこちらもニコニコしながら冷たい麦茶を持ってきてくれた。

「どうぞ。外は暑かったでしょう」

「あぁ、はい。どうもありがとうございます」

 私は麦茶を一口だけ頂く。さきほど水をイッキ飲みした事、そして時折入り込んできている涼しげな風のおかげでだいぶ体温と喉の渇きが落ち着いていた。縁側からは鈴のような音も聞こえる。

 正直、先程の灼熱地獄ともいうべき行軍からは考えられない差であった。

「それにしても珍しいですね。こんな時期に女性1人旅でこんな場所にくるなんて」

 一息つくと、男性が先程も聞いたような質問を話しかけてくる。どうやらここへの旅行客とはかなり珍しいらしい。まぁ、この規模の集落なら村民すべて顔見知りだろうからさらに珍しく感じるのだろう。

「えぇ。ここの電気を使わない宿に興味がありまして。ちょっとのんびり過ごしたい、と」

「あら、そうなの? たしかにのんびりはできますけどね」

 女性が口元を手で隠しながら答える。喋りながらも手元はお菓子を盆に載せ、こちらへ置いた。すると私の隣に座っていた恵ちゃんが手を伸ばす。

「恵。晩御飯も近いからほどほどにね」

「ん」

 口に菓子を加えながら頷く子供。なんだかその様子を見ると微笑ましくなってくる。 自分でも無意識のうちに頭を撫でていた。

「?」

 恵ちゃんは何、というふうに上目使いで見上げてくる。

「あぁ、ごめんなさいね。つい撫でちゃっただけなの」

「んーん。いいよー」

 恵ちゃんは目線をお菓子に戻し、頭をこちらの肩に預けてくる。この子はこのまま育てば将来絶対甘え上手の女性になるな、と窺わせる行動だった。

「こら、恵。お客さんにはしたないぞ」

「いえ、別にかまいませんよ」

 男性が恵をたしなめる。しかし、私は自分でも驚く程すんなりと彼女を庇う言動をする。どうやら私は自覚が無かったが子供が好きらしい。

「どうもすいません。えと」

「あぁ、私は糸と言います。九十九糸。字は九十九とかいてつくも。糸は縫い物の糸です」

 いまだ自己紹介もしていなかった私は改めて自分の名前をつげる。

「あぁ、すみませんね。自己紹介もあとになってしまって。私は佐藤剛と言います」

 頭をさげ、名前を告げてくる男性。この年代の男性にしてはなんだか腰が低いように感じた。好好爺というのだろうか。

「私は佐藤月と言います。よろしくね。糸さん」

 続くように答える女性。こちらもなんだか物腰が柔らかい人柄だった。

「剛さん、月さん。そして恵ちゃんですね。よろしくお願いします」

 剛さん、月さん、恵ちゃんを順番に見回し、自分でも覚えるように呟く。

 両親は海外へ出張中との事だった。どうやら家族仲も悪くないようで頻繁に連絡もとっているらしい。

「それで、本題なのですが。こちらに今日1日泊めて頂くことはできますでしょうか?」

 本題を切り出すと同時に頭を下げる。正直かなり無理を言っているのは承知している。ゆえに断られても文句はないのだが。

「えぇ。構いませんよ。なんなら一泊と言わず二泊ほどでも」

 返ってきたのは剛さんの二つ返事であった。

「ふふ。話を聞いたときからお布団や食事の準備を始めていますからね。準備万端ですよ」

 月さんの方もなんだか楽しそうに答える。

「お姉ちゃん。今日お泊まりするの?」

 恵ちゃんからも嬉しそうに言われて、私は逆に面食らってしまった。

「えと、よろしいのですか? 私みたいな見ず知らずの人間を。というかお金の話もまだ……」

「あぁ、そうですね。だいたいうちの宿泊体験が吉田さんのとこの半分くらいの値段なので大丈夫だと思いますよ」

「は、はぁ。なるほど?」

 いや、それでも質問の前半には答えてもらっていないような気が。

「お姉ちゃん泊まるの!? やったー!!」

 しかし私が疑問を口にする前に恵ちゃんが喜ぶ。ここまで来て私から断る理由も無かった。こうしてなんとか宿を手に入れることができたのだった。


「ふぅ」

 私は案内された部屋でからって来たリュックサックを下ろす。中身は最低限の衣類くらいだが今日は気候が辛かったのでいつもの数割り増しで疲れていた。正直宿であったならそのまま体を投げ出したい程だ。

「ふむ。話は纏まったようだな」

 すると先程は場を混乱させないように話さなかったシュワルツが話しかけてくる。

「あぁ、シュワルツ。話は聞いていたのかしら?」

「問題ない。宿泊場所が見つかったようで何よりだ」

 話が早くて助かる。あとは何日ここに居られるか、なのだが。

「シュワルツ。予定では3日は大丈夫だったわよね」

 シュワルツに改めて確認を行う。最悪、佐藤さん宅の人々に迷惑をかけることは嫌だった。

「あぁ。彼らはいまだにお前がどの方向に向かったか知り得ていない。私もカメラの無い場所を通られれば追跡は困難だからな」

「えぇ。おかげで面倒な追いかけっこをした甲斐があったわ」

 昨日までの状況を思いだしため息をつきたくなる。できるならなるべくやりたくはない。

「あの錯乱のおかげで彼らはいまだに方針を決めあぐねている。シュワルツのカメラ解析からの情報が入るまでは街中で地道に聞き込みと捜査をする予定らしい」

「あら、以外に泥臭い方法をやってるのね?」

 少し以外だった。あの連中ならもう少しハイテクな方法をやりそうなものだが。

「彼らは研究のプロであって人探しのプロではないからな。ましてや、大っぴらに情報公開するわけが無いにはいかないのだから」

 シュワルツと現在の情報を確認しあう。どうやら先3日は確実に安全だろうというシュワルツの予測に間違いは無いようだ。あとはこの3日で彼らがどれだけの情報を集めるか次第なのだろう。いくら私の方のシュワルツが後出しで演算をしているとはいえ、油断は出来ないだろうが。それでも3日は体を休めることができるらしい。

「ん、っー」

 体を上に伸ばし伸びをする。3日間時間ができたのならさぁこの3日間をどうすごそうか、という話になってくるのだが。今日はのんびりしようか、と考える。幸い月さんが言っていた晩御飯の時間までは数時間ある。少しこの辺りを散歩してみようかと思っていると。

「糸お姉ちゃん? いる?」

 扉の向こうから可愛らしい声が聞こえてきた。

「恵ちゃん? どうしたの?」

 私が返答はするとドアを開け、隙間から頭を覗かせる恵ちゃん。先程荷物を置きに行ってくると別れたばかりなのだが。

「お姉ちゃん。今は暇?」

「えぇ。暇だからお夕飯まで散歩に行こうと思っていたくらいよ。」

 彼女の質問に笑顔で答える。そうすると彼女も花開くような笑顔になってくれる。

「そうなんだ!! 私もお散歩に付いていってもいい?」

「えぇ。もちろん。むしろこの辺りの案内をしてくれないかしら」

「うん!!」

 私のお願いに笑顔で頷き手を握ってくる。

「行こう!」

 そうして私は恵ちゃんに手を引かれ、再び外へ行くことになった。


「んー? 糸さん。恵。出掛けるのかい?」

 玄関前で剛さんと出会う。剛さんは玄関前に水を撒いていた。風が吹くと気化熱によりわずかに冷やされた空気が当たる。

「はい。少し辺りの散歩に。剛さんは何をされているんですか?」

「これかい? あぁ。今の若い子は知らないかもねぇ。打ち水だよ」

 パシャ、と再び水をまく。

「なるほど。これが打ち水ですか。初めて見ました」

「ははは。まぁ、都会ではするところは少ないだろうねぇ」

 苦笑いを浮かべる剛さん。日差しの中で水を撒く男性というのはとても絵になっていた。思えば都会の方ではこのように1人1人をじっと観察したことは無かったように思う。人が多過ぎて一人に目を向ける余裕はなかった。

「まぁ、うちにもクーラーはあるのだが。昔からの習慣でやらないとなんだか手持ちぶさたになってしまって」

「いえ。なんだかとても自然な感じで似合っていると思います」

「そうかい? そんな事を言われたのは初めてだよ」

 剛さんは少し気恥ずかしそうにしながら再び水を撒く。

「お姉ちゃんー? 早く早くー」

 見ると玄関先で麦わら帽子帽子を被った恵ちゃんがこちらを振り返り呼んでいた。

「ごめんなさい。すぐに行くわ」

「恵の相手をしてくださってありがとうございます。このあたりは子供が少ないので、糸さんの相手をしてくれてとても喜んでいるのですよ」

「いえ。私も楽しいので」

 剛さんに頭を下げ、恵ちゃんの元へと向かう。

「行こ!!」

 隣に並んだ私の手を掴むと恵ちゃんは元気に歩きだした。


 家を出て機嫌良く鼻歌を歌いながら私を先導している恵ちゃん。その手には何処からか持ってきた木の枝が握られていた。

「ん、ん、んー」

 何かの鼻歌を歌いながら歩いている。

 日差しは西の空に傾き始めており、先程までの殺人的は暑さは和らいできていた。もう季節は夏に近いのでまだまだ日は明るい。周囲は林道のようになっておりセミの鳴き声が響いていた。

「恵ちゃん。どこに案内してくれるの?」

「内緒ー」

 こちらを振り向き笑顔で返答をくれる恵ちゃん。とても穏やかな時間だった。数日まえからは考えられないくらいだ。

「糸。今は何をしている?」

「あら、シュワルツ。何かあったの?」

 不意に手首のスマートウオッチからシュワルツが声をかけてくる。シュワルツとの相談で剛さんと月さんにはシュワルツは黙っていようという事にしたため、シュワルツからの連絡は最低限とするようにしていた。故に何かあったのかとおもったのだが。

「いや、家から出掛けたようだったから何かあったのかと思っただけだ」

「あら? マイクは?」

「お前もプライベートは持ちたいだろう。切っておいた」

「そう。ありがとう。けど安心して。ただの散歩よ。恵ちゃんに誘われて」

「そうか。ならば良い」

 正直少し以外だった。声をかけてきた事もだがこのAIがプライベートなど考えるとは。このAIはもともと人々を導くために作られた。故にプライベートなどはむしろ邪魔だ。その人のすべての情報を集めて最適な選択をサポートすることが目的なのだから。

 やはり、あの時私を逃がしたことも含めて何かこのAIは変化しているらしい。

「あー、シュワルツだ。また会えた」

「うむ。久しぶりだな。恵」

「どうして今までいなかったの?」

「少し勉強をしていたのだよ」

「へぇー。もうおわったの?」

「あぁ。ばっちりだとも」

 そして、そのまま恵ちゃんと会話を始めるシュワルツ。どうやら学習も終わったらしい。

「それで恵よ。何処へ行くつもりだ? もう夕方といってもいい時間だ。あまりに遠くだと晩御飯に遅くなってしまうぞ」

「大丈夫大丈夫。すぐそこだよー」

「ふふっ。私にも内緒だそうよ」

「ふむ。まぁ、ここは電波も届いているしいざとなったら私がなんとかするが」

 シュワルツと二人して恵ちゃんに翻弄されている。その事がなんだかとても可笑しかった。普段はむしろ他人を翻弄している方なのだが。

 私は諦めましょう、という風に手を軽く振りシュワルツと二人で恵ちゃんの後ろを歩いていった。


「ついた!」

「ここは、川?」

 案内されて着いたのは小さな川だった。周囲は周囲と比べて低くなっており、岩や石も少ないため昔に人工的に作られた用水路だろうか。深さは恵ちゃんの膝ほどで透き通った水が流れている。また、近くの木々で木陰になっておりこのあたりは一段と涼しく感じる。

「お姉ちゃん。来てきて。気持ちいいよー」

 恵ちゃんは履いてきたサンダルを脱ぐと足を川につけていた。私も恵ちゃんの隣に腰を下ろし、履いてきた運動靴と靴下を脱ぎ、川に足をつける。

「ひゃ!?」

 が、水があまりに冷たいものだっから、つい声が出てしまった。

「糸。どうした?」

「なんでもないわ……」

 叫び声を聞いて声をかけてきたシュワルツに返答する。まさかここまで冷たいものだとは思わなかった。もしかして何処かからの湧水なのかもしれない。

「あはははー! 糸お姉ちゃん。ひゃ、だってー!」

 どうやら私の叫び声がお気に召したらしく恵ちゃんが笑い声をあげる。他人に笑われるのはこんな感情なのか、と理解する。

 そして同時になんだか恥ずかしくなってくる。私はそのまま感情に任せ足をおもいっきり蹴りあげた。

「とりゃー!!」

「きゃー!?」

 蹴りあげた水しぶきを浴びた恵ちゃんが悲鳴をあげる。

「ふっふっふ。きゃー、だって。私を笑おうなどと百年はやいぞー。恵ちゃん」

 私はその妙なテンションのまま普段しないような口調で話しかける。そんな私にも恵ちゃんは笑顔で対応してきた。

「もー。やったなぁ!」

 そのまま恵ちゃんもその小さな足を蹴りあげた。恵ちゃんの小さな足では私と比べてそこまで大きな水しぶきは上がらなかったが。

「ひゃー!?」

 なんだか叫ばなければいけないような気がして悲鳴再び上げる。

「おかえしー」

 得意気な笑顔で私を見上げる恵ちゃん。

「うむ。お返しをされてはしょうがない。負けを認めましょう」

「なにその話し方? なんだかシュワルツみたいだよ」

「え? そう?」

 笑いながら告げられた恵ちゃんのお言葉が驚く。シュワルツのようであると。あんまり意識していなかったのだが。

「お姉ちゃんとシュワルツは仲良しだもんね」

「そう、ね。私の相棒だもの」

「その相棒を水で濡らすのはどうかと思うがな」

 水しぶきがかかったであろうシュワルツが小言をいってくる。このスマートウオッチは防水だろうに。口うるさいやつめ。

「シュワルツも水遊びに来たら良いのにー」

「いや、私は水が苦手なのだ」

「泳げないの?」

「いや、水に濡れたら死んでしまう」

「ぶふっ!?」

 そんな、シュワルツの正体を理解できない恵ちゃんとシュワルツのやり取りに吹き出してしまう。確かにシュワルツを水に着けたら動かなくなってしまうだろう。本体は精密機械だ。けれどシュワルツが泳いでいる姿を想像してしまってダメだった。耐えられない。

「お姉ちゃん? そんなに面白かったの?」

 笑っている私を見上げてくる恵ちゃん。

「気にするな恵よ。糸は私が水に入っているのを想像したのだろう。酷いやつだ」

「ご、ごめんなさいね。けど、ふふっ」

 言葉を話すことが出来ないくらい笑ってしまった私が元に戻るのにしばらく時間を要した。


「ふぅ。やっと落ち着いたわ」

 久々に笑い続け、口角がジンジンと痺れている。むにむにと自分で口回りのマッサージを行いなんとか痺れが取れてきた。

「そうか。それは良かったな。そんなに私が水に浸かる想像は面白かったのか?」

「ごめんなさい。悪かったわ」

「ふむ。まぁ、別に怒ってはいないのだが」

 シュワルツが会話できるとは言え、さすがに声からの感情は読み取れない。まぁシュワルツが怒っていないと言うのだからホントに怒っていないのだろうが。

「変わりにお前が水に沈む画像を創造しよう」

「……ホントに怒ってないのよね?」

「冗談だ。これが冗談というのだろう? 人間のコミュニケーションの」

「いや、どうなのかしら……」

 声から感情が伝わっていない分なんだか怖わよ。シュワルツ。

「お姉ちゃんー」

 シュワルツと会話をしていると先に川から上がっていた恵ちゃんから声をかけられる。ちょっと待ってて、と言われていたのだがはたして。用事はすんだのだろうか。

「お姉ちゃん。見てみて!」

 かけよって来る恵ちゃんは右手を掲げている。良く見ると何か持っているようだ。目を凝らすと虫のようだった。そして恵ちゃんが近付いて来るにつれてある音が大きくなってくる。それは周囲でずっとなっていた音。そうなるとおのずと種類も限られてくる。

「セミ?」

「うん!! 捕まえたー!」

 そうして私の目の前まで来た恵ちゃんは私にセミを見せて来る。

「これが、セミ」

 図鑑で見たことはあったのだが実物を見るのは初めてである。良い機会だし観察しておこうと私はセミに注意を向ける。向けてしまった。

「……え?」

 さー、っと顔から血の気が引いていくの感じる。ぞわりと背筋に寒気が走った。

「お姉ちゃん?」

 私の様子に気付いた恵ちゃんが声をかけてくる。しかし私の注意は恵ちゃんが手にもっているセミから離せなかった。

「め、恵ちゃん。まってそれを近付けないで」

「え? わ、分かった」

 すっ、と手を下げてくれる恵ちゃん。しかし先程の光景は私の目に焼き付いていた。あぁ、どうして私の記憶力はこんなにも良いのだろう。頭を軽く振り、なんとか忘れようとしたが。

「あっ」

 視界の隅で恵ちゃんが動いた。なんだろうか、と軽く顔を向ける。

 そして目の前には私の顔を目掛けて飛んで来るセミが。さらに私の目の前には先程の目に焼き付いたセミの腹側の構造が映りこんできて。

「ぎゃー!?!?」

 私はその時掛け値なしに本気の悲鳴を上げた。そして学習した。私は絶対昆虫の研究には携わらない、と。


「はっはっは。それは災難だったね」

 数時間後。私の目の前には料理が並べられていた。野菜が中心の料理の数々。そのどれもが美味しそうな香りをしている。そして私の対面には剛さんが座り先程の話を聞いて笑い声を上げていた。

「お姉ちゃん、ごめんなさい……」

 私の隣には恵ちゃんがすわり、しゅんと肩を落としている。どうやら先程の事を申し訳なく思っているらしい。

「いえ、いいのよ。恵ちゃん。まさか私もここまで虫が苦手なんて思ってなかったから」

 私は苦笑いを浮かべ、恵ちゃんを慰める。いや本当に。ここまで私が苦手だとは思っていなかった。図鑑などで見た際にはこんなことは無かった。しかしあの腹側の構造である。

 なんなのだあれは。何処かの誰かが虫は宇宙人か何かが作ったのではないかと言っていたような気がする。確かにあれは頷ける。昆虫の生体構造などは様々な研究などで有用性が確認されていたり、あの生物類が凄いことは認めよう。大勢いるであろうその研究者たちも素晴らしい人材なのだろう。しかし、私には無理だ。いくらあの生物が優れていようと、正直触りたくも無くなっていた。

「あ、蚊が入って」

「ひぃ!?」

 虫!?どこ!?

 もはや先程の光景はトラウマとかしていた。

「うーん。まさか糸さんがここまで虫が苦手だとは。蚊位は都会の方でもいるのではないのかね?」

「い、いえ。今まで特に意識していなかったので。セミのお腹を見てしまったのがきっかけかと。暫くすれば落ち着くと思います」

 剛さんが心配そうな顔をしている。実際ここに来るまでも蚊などは至るところで目にしていた。それまでは気にならなかったのだが。どうやら、虫があのセミを連想させてしまうらしい。

「まぁ、きちんとクーラーもあるし、夜は窓を閉めきっていれば虫は入ってこないから安心しなさい。ただ」

「ただ?」

「カーテンは閉めておいたほうが良いかもね。光に呼ばれて窓に虫がよってくるから」

「ひっーー」

 告げられた言葉にその場面を想像してしまう。

 虫が窓に張り付いているということは部屋の中からはお腹が見えるということであり。

  あ、無理。よし、カーテンは絶対に締め切っておこうと胸に決める。

「もう。剛さん。お客さんをあんまりからかう物じゃありませんよ」

 大きなお皿を持って月さんが部屋に入ってくる。お皿に乗っているのは揚げ物だった。野菜だけではなく他にも外見では分からないものもある。

「あ、コロッケだぁ」

 私の横で恵ちゃんが嬉しそうな声をあげる。どうやらお皿にはコロッケも乗っているらしい。あの丸く造形された揚げ物だろう。どうやら揚げたてであるらしくキッチンペーパーを敷いた金網の上に綺麗に並べられている。

「こら、恵。今日はつまみ食いはダメよ。お客さんもいるんだからちゃんといただきますをしてからね」

「わかってるよー」

 恵ちゃんは口では月さんに返答しているが目線はしっかりコロッケに釘付けだ。どうやらよほど好物であるらしい。

「では、食べようか」

 月さんが座ったのを見計らい剛さんが声をだす。

「恵。手を合わせて」

「はーい」

 私以外の全員が両手を体の前で合わせた。

「?」

 それがなんだか分からなかったが私も見よう見まねで手を合わせる。

「いただきます」

「はい、いただきます」

「いただきまーす」

 そして三者三様に声を出す佐藤家の面々。

「い、いただきます」

 私も遅れて先程の言葉をなぞるように呟いた。

「んー。美味しい」

 早速恵ちゃんはコロッケにかぶりついていた。揚げたてで熱いだろうがそれをものともしない勢いだ。

「あふ!?」

 いや、やっぱり熱いらしい。けれど手を止めることは無い。他の料理には目もくれていなかった。

「恵。美味しいと言ってくれるのは嬉しいけど食べ物を口に入れたまま喋らないようにね。あと自分の分の野菜は食べるように」

「んっ」

 恵ちゃんはどうやら食べることを選んだらしい。話すのが止まった。

 そして自分の分、という言葉で少し理解する。それぞれの目の前には大きめのお皿が並んでいて、その皿の3割ほどにキャベツが盛られていた。どうやらこれが自分のお皿。食べないといけない分らしい。ここに目の前から食べたいものを取っていくというのがこの家の様式なのだろう。

 見れば剛さんの月さんは揚げ物もそこそこに煮物や漬物を食べている。つまりこの揚げ物は私と恵ちゃんが主に食べるように月さんが作ってくれたのだろう。

「ありがとうございます」

 小声で呟き、私もコロッケに手を伸ばす。一口分に切り分け、早速食べてみた。

「!?」

 なんだこれは。中に潰したじゃがいも以外にも色々と入っている。挽き肉と人参。そしてこれは玉ねぎだろうか。大粒に切られたほのかに甘いものが出てくる。とりあえず、と何もソースなどは付けずに食べてみたのだが正解だった。おそらくもともと味付けをしてあるのだろう。これだけで十分に美味しい。

 今まで食べたコロッケという名前のものは基本的に中身はじゃがいもだけであった。ソースなどで味を足さねば物足りないほどに淡白な味付けのものだ。正直にいってこれは今まで食べたコロッケとは別物といってもよい料理だ。そんなコロッケを私はよく噛み締めてして咀嚼する。そしておそらく、一口たべて固まった私を心配に思ったのだろう。月さんが不安そうに声をかけてきた。

「糸さん? ごめんなさい。お口に合わなかったかしら? それとも卵の殻でも入っていたとか」

「いえ、大丈夫です」

 惜しむように嚥下し大きく息を吐くと私は笑顔で月さんに声をかける。

「ただ、こんなに美味しいコロッケは食べたことが無かったので」

「まぁ。お世辞なんで結構ですよ」

「いえ、本当なんですよ」

 私はもう一口、口にする。

「美味しいなぁ」

 そして噛み締めるように呟いた。

「おばあちゃんの料理は美味しいからね」

「あぁ。そうとも。こんな料理上手はいないさ」

 恵ちゃんと剛さんも私の言葉に同意する。

「もう。二人とも止めてくださいな」

 全員に褒められて月さんも満更でもなさそうにしている。そんな風に夕食は和やかに過ぎていった。


「お姉ちゃん。一緒にお風呂に入ろう」

 食事を終えて部屋でゆっくりとしていると恵ちゃんが入ってきた。手には着替えとタオルを持っている。

「えと、一緒に入っても良いのかしら?」

「いいよー。いつもはおじいちゃんかおばあちゃんと一緒に入ってるからー」

 恵ちゃんはにこにこと機嫌よさそうにとても微笑ましい事を言ってくれる。

 実際、お風呂には入りたかった。今日は移動により汗もかいたし疲れも溜まっている。ゆっくりと湯船に浸かり疲れを取りたかった。

「分かったわ。ちょっと待ってて」

 私は恵ちゃんに返答し着替えの準備を始めた。


「ふぅー」

 湯船に浸かり大きく息を吐く。佐藤さん宅のお風呂は二人で足を伸ばして入れるくらい大きめのサイズだった。とても羨ましい。毎日こんな入浴をしたいものだった。

「ふぅ、ー」

「あら? なぁに?」

「なんでもないー」

  私のついたため息を恵ちゃんが真似て大きく息を吐く。ニコニコと得意気にこちらを見上げてきた。

「真似、しないでよー」

「やー!?」

 なので私はすました顔で得意気にしている恵ちゃんに大降りに抱き付いた。

 恵ちゃんが少し暴れるものだから水が飛び散る。まるで昼間の出来事の再来だ。こんなに喋ったりはしゃいだりしたのは初めてかもしれない。

「二人ともー。お風呂で暴れないようにねー」

 しかしあんまり騒がしくするものだからか月さんから注意が飛んで来た。

「はーい」

「……すいません」

 恵ちゃんは慣れたものなのか大きく返事をする。私はなんだか気恥ずかしくなってしまい小声での返事になってしまった。


「すいません。お風呂から上がりました」

 お風呂を上がり先程の夕食を食べた居間に入る。そこでは剛さんがテレビを見ていた。

「あぁ。糸さん。すまんね。恵がワガママを言ったみたいで。疲れはとれたかい?」

「えぇ。しっかりと。恵ちゃんと入れたのも私は嬉しかったですし。それより先に入らせてもらってすいません」

「はっはっは。いいんだよ。糸さんはお客さんだからね。むしろ恵の相手をしてくれて助かってるよ」

 剛さんはおもむろにテレビを消して立ち上がる。そして台所の月さんに声をかけた。

「さて、月ー。お前、風呂はどうするー?」

「先に入って下さい。私はまだやることがあるので」

「ふむ。なら先に入らせてもらおうかね」

 剛さんはおもむろに立ち上がると部屋を出ていった。剛さんが部屋から出ていったので私も部屋に帰ろうとすると。

「お姉ちゃんー。アイス食べない?」

 恵ちゃんが棒に固められたアイスを二本持ってきた。

「いいの?」

「うん!!」

「ありがとう。なら貰うわね」

 私は恵ちゃんからアイスを一つ受け取った。バニラアイスをチョコレートでコーティングしてある。それは当たり前だがとても甘かった。

「美味しいね」

「えぇ、そうね」

 隣に座ってきた恵ちゃんとふたり並んで食べる。

「恵。アイスはよいけど寝るまえは歯磨きを忘れないようにね」

「分かってるよー」

 月さんの注意が飛ぶものの恵ちゃんは気にした様子はない。

「本当かしら? 去年虫歯が出来て泣きながら歯医者に行ったのは誰だったかしらねぇ?」

「もー。お姉ちゃんの前で変なこと言わないでよー」

「ふふっ。ごめんなさいね。けど歯磨きは本当に忘れないようにね」

 恵ちゃんの頬がふくれたのを見ると含み笑いで月さんが離れていく。どうやら恵ちゃんも家族相手ではいろいろな表情をみせるらしい。当たり前のことなのだろうが恵ちゃんの月さんに対しての言葉使いに少しハラハラしてしまう。相手を怒らせてしまわないのだろうか、と。

 しかし同じくらいに月さんの発言が気になった。

「恵ちゃん。虫歯があるの?」

「むー。大丈夫だよー。乳歯だから今度からきちんと歯磨きすれば治るって歯医者さん言ってたもん」

「そう。なら平気ね」

 少しむくれたようにあるいは僅かに怯えたように恵ちゃんが答える。その様子はとても可愛らしかった。恵ちゃんが不機嫌になってしまうだろうから口には出さないが。

「お姉ちゃんは虫歯なったことないの?」

「虫歯? ないわねぇ」

 ふと、自分が病気にかかったことを思い返してみる。何度か風邪やインフルエンザなどはあるがそのくらいだった。あの場所は人の出入りも限られるし医療設備を整っていたから感染症などは少なかった。現に外に出てしばらくして体調を崩してしまったくらいだ。あの時は辛かった。

「良いなぁー」

 私が思い返してるのをよそに恵ちゃんがアイスを食べ進めながらぼやく。どうやら歯医者がよほど嫌らしい。

「そんなに歯医者は嫌なの?」

「うん。嫌。怖いものいっぱいあるし。病院も嫌い。注射は痛いし。どっちもお薬飲まないといけないし」

「なるほど」

 どうやら医療的な物が苦手らしい。私にとって注射も薬も毎日身近にあったものだからあんまり意識したことは無かったのだが。あぁ、またか。なるべく注射は上手な人が良いなぁ、位だ。

「なら、歯医者にいかなくて良いように歯磨きをしましょうか」

 ちょうどアイスを食べおわったので恵ちゃんに声をかける。

「はーい」

 なんだか少し面倒くさそうにしながらも恵ちゃんは私の後を着いてきた。


「ん? 糸さんまだここにいたのかい?」

 しばらくして剛さんが居間に戻ってきた。手にはコップが握られている。どうやら先程の夕食にもあった麦茶のようだ。

「え、えぇ。それなんですけど」

 私は先程より声を落としながら剛さんに返答する。その原因は剛さんからは机で影になっている私の足元にあった。

「ぅんー……」

 私の足元では私の足を枕にして恵ちゃんが眠ってしまっていた。さきほど歯を磨いたあと二人で居間に戻ってきた。その後の恵ちゃんのもう少しお話をしたいから、というお願いの結果だった。そのお願いを私が断れるわけもなく雑談を行っていたのだが。

 すぐに恵ちゃんの頭がうつらうつらと傾いてきた。もう寝ましょうか、と声をかけても、もう少し、あと少しと言い続けついさっき眠ってしまった。私としてはどうしてよいか分からずとりあえず恵ちゃんの髪を撫でていた位だ。

「あぁ、なるほど。今日は糸さんにたっぷりと遊んでもらったからね。疲れてしまったんだろう」

「そうなんですか? 急に眠ってしまうのでびっくりしました」

 まさか話ながら眠るとは思わなかった。子供は体力の限界まで動き続けるとはいうがまさにこの事なのだろう。

「すまないね。お客さんなのに今日はずっと迷惑をかけっぱなしで」

「いえ、恵ちゃんの相手をするのは本当に楽しいので」

 私はそう言いながら恵ちゃんの髪を指ですいていく。

「んぅ……」

 恵ちゃんが頭への刺激に身動ぎをするが目覚めない。疲れているだろうし寝始めなのでノンレム睡眠に入っているのだろう。そうそう起きないはずだ。

「ふふっ。それにしても糸さんは本当に子供が好きなんだね」

 剛さんが恵ちゃんと私を見つめ微笑ましそうに見つめてくる。

「そう、なんでしょうか? 子供とここまで関わったことは初めてなのでよくわからないんです」

 恵ちゃんを見つめながら剛さんへ返答する。実際ここまで誰かとシュワルツ以外で関わること以外初めてだった。あそこへ居たときは事務的な会話のみでこんな和やかに誰かと話すことなど無かったから。他の子供と関わることも少なかったし。

「私から見た限りだけどね。近頃は子供をうるさい、言うことを聞かないと言って暴力を振るう人もいるからね。痛ましいことだ」

「そう、ですね」

 そこには私も覚えがある。言われたことができなければ、というのは何度言われたことか。剛さんは手にもった麦茶を一口飲む。

「なぁ、糸さん。あんた、何か事情があるのかい?」

「はい?」

 唇を湿らせた剛さんが意を決したように質問をしてくる。事情とはなんのことだろう。

「いや、言いたくないならよいんだ。しかし、学生や仕事の夏休みはもう少し先だろう? こんな時期に若い女性の一人旅というのはね」

「あぁ、そういう事ですか」

 そこで私も理解する。ようはこの人は私が何か普通ではない理由で旅をしていると考えたのだろう。私の年代の普通の人間はこんなことはしていないのだろうから。まぁ、あながち間違ってもいないのだが。

「……いえ。私のこの旅行はフィールドワークもかねているのですよ」

 けれど私の口から出たのは真実でも嘘でもない言葉だった。

「フィールドワーク?」

「えぇ」

 剛さんも狙い通りそこに触れてくれる。私は前回の反省から理由を作り上げていく。 シュワルツから私の感情は他人に伝わり辛いのではないか、と以前に言われたこともあるが今はそれが役にたった。

「地方の信仰や思想について調べているのです」

 これは半分本当。私達は人間の思考に興味をもっている。特に生きる目的に関することには。

「あぁ、そうなのですね。すいません。立ち入った事を聞いてしまって」

 私の言葉を剛さんはすんなり信じてくれる。

「いえ、私も自分のことは怪しいと思いますので」

 私はごめんなさい、と心の中で告げる。けど本当の私の話は信じられないものだろうから。

「ここの神社についても時間ができれば聞こうと思っていたのですよ」

「ほぉ。んー。それならば申し訳ない。実はここは正式な神社ではないのですよ」

「あぁ、そういえばお昼にあった夫婦もそんな事を言っていましたね」

 その言葉に私は昼の親切な夫婦の言葉をおもいだす。しかし、お社などは確かに小さかったが私がイメージしていた神社と同じものであるのだが。

「ここは昔の村の人たちが建てた物なのですよ。神道などは違います。私も神主という訳では無いですよ」

「えと、ならばなぜあなたが管理を?」

 剛さんから興味を深い話が出てくる。神道とはまた別物らしい。ならばここの人の信仰とは何なのだろうか。

「ただそういう家系だっただけです。私の先祖様が管理する事になっていた、というだけ。管理のためのお金などは村で出しあっていますしね」

「そんな場所もあるのですね」

「まぁ、今となっては形骸化している部分もありますがね」

 剛さんは言葉を区切るともう一口麦茶を飲む。会話は私の都合のよい方向に行ってくれた。話題を逸らせたの事も信仰の話に行ったことも。

「あの、剛さん。貴方にとって信仰とは何なのですか? それはあなたの生きる目的に足り得るのですか?」

「ふむ?」

 私の質問に剛さんが考え込む。この質問こそ私とシュワルツの知りたいことであった。

「うーむ。なるほど。それが貴方のフィールドワークの内容ですか」

「はい。この質問は不躾かとは思いましたが。その人の生きる目的とは何なのか、ですね」

「つまり、信仰は生きる目的になるのか?」

「はい」

 このときばかりは恵ちゃんが眠っていてくれて助かった。彼女がいると良くも悪くもこんな話をする雰囲気にはならないだろう。

「私にとっての信仰ですか。ふむ」

 そうやって剛さんは再び考え込む。これで出てくる答えはどのようなものなのか。と返答を待ちわびていたが。

「糸さん。夕食の際にいただきますと言いましたよね。もしや貴方はああいったことに馴染みがないのでは?」

「え? まぁ、はい。そうですね。正直に言いますと初めて聞きました」

 けれど返ってきた言葉は私の予想とは方向性の違うものだった。いただきますという言葉。たしかにあれはなんだろうか、と思ったが。

「いや、あの時何故か戸惑っておられたようなので。まぁ近頃は孤食などという言葉もありますので不思議では無いのでしょうが」

「はぁ。えと、あれも信仰に関係あるのですか?」

 夕食の記憶を思い返してみる。とは言っても宗教的な感じは無かった。おそらく言葉は『いただく』という言葉の敬語的表現の一種だろう。いまはそんなことしか分からない。

「いえ。どちらかと言えば食育の分野でしょうか。宗教的な意味合いも無いとは言えないでしょうが」

「食育、ですか?」

 食事の教育、だろうか。先ほどから頭には疑問符が浮かんでばかりだ。こう思っては失礼なのだろうが剛さんは何を伝えたいのだろう。

「いただきますの意味は様々な説があると言われています。食材の命を食べることへの感謝。また、作ってくれた料理人への感謝。宗教的な意味合いでいえばご飯を食べられることへの神様への感謝などもあるようですね。合わせて食後にはご馳走さま、とも言いますね」

「はぁ……。なるほど」

 とりあえず言葉の意味は飲み込めてきた。だけどもそれがどうつながるのだろう。

「意味や意図は人により様々ですが共通しているのは感謝となりますね」

「感謝ですか」

「えぇ、そして私の信仰とはそんなものです」

「……えと、感謝が信仰なのですか?」

 剛さんの言葉にさらに疑問符が頭に浮かぶ。信仰とは感謝である、とはどういうことだろうか。

「私にとっては、ですがね。まぁ、私は神職というわけではないのであまり当てにはならないでしょうが」

 剛さんが冗談めかして笑う。しかしこの話題は話題で私の興味が引かれるものもあった。

「いえ、興味深いです。もう少しお伺いしても?」

「糸さんがこんな話でよろしければ」

 そうして剛さんは話続ける。

「とはいっても特に珍しい話では無いのですよ。昔にこの村の人々がここにいるであろう神様に感謝を伝えるために社を建てたのが始まりです。神様に感謝を伝えるためにお祭りなどをしている。それが現在まで続いているというだけです」

「なるほど。神様への感謝が剛さんの信仰、であると」

「そんなところでしょうか」

 話を聞きたしかにある程度納得できるところはあった。しかし。

「けど、それが生きる目的になるのですか? ……いるかも分からない神様に感謝をすることが」

 この質問はかなり失礼なものであると自分でも分かっている。だれだって一生懸命やってきたことに、その行動意味あるのといきなり言われたら腹がたつだろう。ゆえにある程度不評を買ってしまうことも覚悟していたのたが。

「ふふっ。ええそうですね。たしかに神様に感謝をしても何か見返りが返ってくるわけではありません」

 剛さんは笑顔で肯定してくる。何故なのだろうか。

「別に感謝はなにか見返りを求めて行うわけではありません。何より私は神様が見守っていてくれる。そう思うだけで今より少しだけ背筋を伸ばして生きてみよう、と思いませんか?」

「つまり、神様が見守っていてくれるかもしれないから頑張ろう、と?」

「端的に言ってしまえば」

 そうした剛さんは残った麦茶を飲み干す。

「なるほど、信仰とは感謝で何か見返りを求めているわけではない」

「私はそう思っています」

 声に出し剛さんの考えを纏めていく。それによりなんとか理解できてきた。

「まぁ、そんなに難しく考える必要はありません。自分を誰かが見守ってくれている事に感謝する、そう考えるだけですから。新興宗教での詐欺や宗教によるテロのニュースなど近頃はありました。宗教と聞くと警戒心を浮かべる人も日本には少なくないでしょうが本質はそこまで複雑なものではない、と考えています」

「誰かが見守っていてくれるという安心感?」

「えぇ、月並みですが人間は一人では生きていけませんから。誰かが見ているからちゃんとしよう、という訳ですね」

 剛さんの言葉が頭のなかを流れていく。さらに一つ聞いてみたいこともある。それは人間ではない生命体も対象なのか、という事。けれど、その言葉はどうしても聞けなくて。

「ありがとうございます。剛さん。参考になりました」

 私は剛さんの方を向き頭を下げる。

「いえいえ。こんな私の考えが参考になればよいのですが」

「いえ、とても興味深かったです」

 ここでこの話はおしまい。質問をするのが怖かったのもあるが。

「それと、剛さん。すいません。一つお願いがあるのですが」

「なんでしょうか?」

 私は声を震わせて剛さんに声をかける。剛さんも私の様子が先ほどとは違うことに気づいたのか顔が真剣身をおびる。

「恵ちゃんをどうすればよいのか教えていただけないでしょうか……。あ、足が痺れて……」

 私の質問があまりに間抜けなものだったからだろう。剛さんは笑顔を浮かべながら返答する。

「あぁ。なるほど。とりあえず床は畳ですし頭を下ろしてよいですよ」

「えと、床にいいんでしょうか?」

「はい。恵もよく畳で昼寝をしてますし」

「で、ではお言葉に甘えて」

 恵ちゃんの頭の下に手を入れてゆっくりと床に下ろしていく。落とさないように、起こさないように。ゆっくりゆっくりと、意識しながら。

「つぅ~ー~」

 恵ちゃんの頭を下ろしきると足を抱えて声を殺して呻く。

 なんだこれは。足が痺れるというのは聞いたことがあったがまさかここまでだとは。まともに感覚が働かなくなった足の回復を必死に願う。今は足を動かしたくもなかった。

「足を伸ばして血流を促進してあげると良いのですが、出来そうですか?」

「む、無理そうです」

 剛さんのありがたいアドバイスも実行できそうにない。足を伸ばすだと。無理無理無理無理。 絶対に伸ばせない。

「えと、でしたら暫くすれば収まるとは思いますが」

「そうなる事を切に願います……」

 なんだか言葉遣いがおかしな事になっているが訂正する余裕も無い。そんな会話をしているとじわじわと足の痺れが取れてきた。しばらくすると先程の足の痺れは何だったのか、と思うほどに元に戻る。いや、血流障害による神経症状の一種なのだけれど。

「あら? みんな集まってどうしたのですか?」

 そうやっているとお風呂から上がってきたであろう月さんが部屋に入ってくる。すでに寝間着に着替え、手には先程の剛さんと同じように一杯の麦茶を手に持っている。

「あぁ。少し世間話をね。恵が糸さんに膝枕をされて眠ってしまっていたものだから」

 にこやかに剛さんが答えた。

「えぇ。この神社の話などを」

 私も月さんの方を向き直す。そんな私たちの様子を見て月さんの顔に僅かにイタズラ気な表情が浮かんだ。

「あら。だいぶ話が弾んでいたようですね。やはり若くて可愛い糸さん相手だと、男性は話が弾むものなのかしら?」

「ふむ?」

「え?」

 予想だにしていなかった方向に話が向かう。なんだか気恥ずかしくなってきた。そしてこうして見ると月さんの今の表情と恵ちゃんの得意気な表情はよく似ていた。血縁者なのだから当たり前の事なのだろうが。なぜかそれがとても羨ましくなる。

「ふふっ。あぁそうだね。糸さんと40年前にお前と出会っていない状況で出会っていればアプローチをかけたかも知れないね」

 そして剛さんもにこやかに月さんに返答する。その表情もどこか恵ちゃんを連想させて。また剛さんの言葉の意味を理解してしまったから。

「ふふふっ。それは私では相手にならないと言うことですね」

 とても可笑しくなってしまい、声を出して笑ってしまった。

「あぁ。ごめんなさい。糸さん。つい私達の悪ふざけに巻き込んでしまって」

 月さんが少し慌てたように謝ってくるが私に不快な感情は少しも存在していなかった。

「お二人とも。今日はどうもありがとうございました。泊まる場所に、面白いお話も聞けました」

 笑いが収まって、私は改めて二人に感謝を告げる。本当に。今日様々な人に出会えて良かったと心から思う。

「そうでしたら良かった。私達も恵も貴方が来てくれてとても良かったと思っています」

「えぇ。特に恵なんかはあんなに喜んで」

 三人で恵ちゃんに視線を向ける。当の恵ちゃんは未だに眠りの中であったが。

「さて、このまま話し込んでると恵が起きてしまいそうだな」

 剛さんが立ち上がると恵ちゃんを抱き上げる。恵ちゃんは僅かに身動ぎをするも起きなかった。

「ふぅ。恵も大きくなったものだ」

 剛さんが大きく息を吐きながらつげる。おそらく小さい頃から抱き抱えてきたのだろう。

「あの、私が抱えますよ」

 剛さんがなんだか少し辛そうなので提案する。

「いえ。大丈夫ですよ。恵をいつまで抱えられるか分かりませんから。子供はすぐに大きくなってしまいますので。これは今だけの私の楽しみなのですよ」

 しかし辛そうながら剛さんの顔には笑顔が浮かんでいた。また恵ちゃんをとても愛しそうに見つめている。

「んぅー」

 恵ちゃんがその背中で身動ぎをする。

「あぁ、そうそう。糸さん。お帰りはいつになるのかしら。私としてはいつまでもいてくれてよいのだけど」

 不意に、月さんが聞いてくる。そういえば昼は細かい話をする前に恵ちゃんに連れ出されたものだから話していなかった。

「嬉しい言葉をありがとうございます。ですが、そうですね。明後日には出発する事になるの思います」

 名残惜しくはあったがシュワルツの予測では完全に安全だと言えるのは3日との事だった。明後日までが限界だろう。

「あら、そうなの? 残念だわ」

 月さんの顔が僅かにしかめられる。やはりとても優しい人だ。剛さんも。恵ちゃんも。 だからこそ。迷惑をかけるわけにはいかない。

「えぇ。本当に。今から名残惜しいです」


「ふぁ~、んぅ」

 部屋に着くと大きな欠伸がでる。時刻は22時半ほど。いつもならまだもう少し起きているが今日は移動と恵ちゃんと遊ぶのに疲れたからだろう。とても眠くなってきていた。

 こういう時はさっさと眠ってしまうに限る。私は月さんが用意してくれていた布団に横になろうとする。

「意図せず面白い話が聞けたな。糸よ」

「あら、シュワルツ聞いていたの?」

 しかし、スマートウォッチからシュワルツが声をかけてきた。シュワルツが言っている面白い話とは先ほどの話の事だろう。

「すまないな。マイクを切ろうかとは思ったのだが話が興味深い方向に進んだからな。 少し盗み聞きさせてもらった」

「まぁ、それはよいのだけど。たしかにここに来るまでに宗教の話をしたものね」

「あぁ。1サンプルに過ぎぬが実際に人間の意見が聞けたのは良かった」

「そうね。私も興味深かったわ」

 シュワルツの感想に同意する。信仰の話は確かに興味深かった。一つ、不安な事も出来てしまったが。

「……糸。先ほどから少しバイタルサインが乱れている。お前がストレスを感じている時だ。何があった?」

「……はぁ」

 やはりこのAIはなんだかんだ伊達ではないらしい。もともとは人類の管理のために作り出されたのだ。バイタルサインから体調の変化を調査するのはお手のものだろう。

「……大した事ではないわ。明後日を過ぎるとまた追い掛けっこの日々が始まるかと思うと憂鬱なだけよ」

 だがこのAIは心を読むわけではない。バイタルサインの乱れという結果は観測できてもその原因を把握できるわけではない。特に人間の精神状態などはシュワルツなどの苦手分野のはずだ。

「嘘だな。変調は佐藤剛殿との会話の途中からだ。つまりお前の変調の原因はあの会話の中にあると考えられる」

 そのはず、なのだが。このAIは時折こちらを見透かしたような事を斬り込んでくるので恐ろしい。たしかにシュワルツに告げたところで問題は無いのだが。何故か悩み事を相談するのが恥ずかしくなってしまったのだ。

「はぁ、分かったわ。降参。ただ少し疑問に思っただけよ」

「何を?」

「神様の見守りの対象に神様の被造物以外も含まれるのか、よ」

「……そうか。すまない。嫌な事を聞いたな」

「別に良いわよ」

 というか何故このAIはこういう機微は働くのだろうか。私の声色まで計測しているのだろうか。演算の総力を使って私一人のカウンセリングをしている。まさか、そんな訳がない。

「ふぁ、ん」

 考え事をしていると再び欠伸が出る。本格的に眠くなってきた。

「ごめんなさいシュワルツ。今日はもう」

「あぁ、分かっている。はやく休むが良い」

「えぇ。続きは明日ね」

 そうして私は布団に潜り込む。うつらうつらしてきた頭の中で思考が浮かんでは消えていく。その中でふと思ったのは一つ。はたして佐藤さん家の人々に私が人間では無いことを告げたらどうなるのだろうか、というとりとめの無いことだった。

「おやすみ、糸。どうかお前の明日に、生きる目的が見つかりますように」

 微睡みの中で、シュワルツが何か話しているのが聞こえた気がしたが。私はそれを意識に刻み付けることなく眠りの中に入っていった。


 「ん?」

 目覚めてからまず感じたのはベッドでは無いことだった。今までほとんど睡眠をとる際にはベットかあるいはソファーなどの家具の上だったためなんだか違和感がある。目覚めても見慣れない光景、というのはよくあることだが。1週間それぞれ違う場所で寝たこともあるくらいだ。

 ただ、あと一ついつもと違う点が感じられる。それは匂いだった。どこからか良い匂いが運ばれてきている。よく耳を済ませばトントントンと規則的な音も聞こえて来ていた。

「シュワルツ? 今は何時かしら」

 とりあえず私はいつものようにまずシュワルツに声をかける。彼から声をかけて来ないということは緊急な事は起きてはいないはずだ。

「起きたか、糸。今は5時57分だ。いつもの起床時刻より少し早いな」

「そう。ありがと」

 欠伸を噛み殺しながらシュワルツへと答える。いつもより早く起きたという割には目は冴えている。おそらくは昨日の寝る時間が早かったのと疲れていたため眠りが深かったのだろう。

「ふぁ、む」

 寝る前につけていた冷房はタイマーで切っていたためすでに室温は少し暑い。しかし都会の方と比べるとそこまで高くないように感じる。これも周囲に自然が多いからだろうか。これからは宿泊先に郊外も検討しても良いかもしれないと考える。しかしながらそれはそれとして、喉の渇きを覚えたのでとりあえずお水を貰いに行くことにした。


「あら、糸さん。おはよう。起きるのが早いのね。けどごめんなさい。朝食まではもう少しかかるのよ」

 台所では月さんが料理をしていた。いつから起きていたのだろうか。既にいくつかの料理は完成しているようだった。さらに私に声をかけながらも体は動き続けたままだ。誰かが料理をしている様子は始めて見たが凄かった。人は熟練すればここまで鮮やかに動けるものなのか、と感心する。

「えと、おはようございます。少しお水を貰えないかと来ただけなので」

 月さんに挨拶をしつつ用件を伝える。邪魔にならないようにしようかと思っていたのだが。

「あら、そうなの? はい。冷たいからゆっくりと飲んでね」

 料理を続けながら鮮やかに麦茶を注いでくれる。なんだろう。月さんも年配のはずであり動き自体もそこまで早くないのだがとにかく無駄な動作が少ない。今も料理をしながらも片手間で私の対応までしてくれる。正直、昨日からお世話になりっぱなしだなぁ、と改めて感じた。

「あの、何かお手伝いできる事はありますか?」

 だからつい、そんな慣れないことを言ってしまっていた。家事なんてやったことすらない。自分が手伝っても手助けどころか邪魔になる可能性が高いだろう。

「いえいえ、さすがにお客様に手伝わせることは出来ないわよ。朝御飯までゆっくりしててちょうだい」

「はい……」

 月さんからも冗談めかしたようなイタズラ気な顔で言われる。

「あ、いえそうね。糸さん。せっかくなら一つお願いしても良いかしら?」

「え? なんでしょうか」

 しかし一転して月さんからお願いという言葉がでる。私に出来ることなら良いのだが、と思いつつ月さんのお願いを聞き始めた。


「ねーむいーよー」

 私の隣で起きたばかりの恵ちゃんが目をパチパチとしばたかせながら欠伸をしつつ文句を言っている。いまだに昨日の夜にきていた可愛いパジャマ姿であった。そんな恵ちゃんと私は二人で家の前に出ていた。

「おや、糸さん。恵までいるのかい?」

 小さな神社の所には剛さんが立って掃き掃除をしていた。そしてそのそばの鳥居の根本には何故かラジオが置いてある。とりあえず恵ちゃんを起こして神社にいる剛さんの所に行ってほしいと言われたのだが。これから何をするのだろうか。一緒に掃除をすればよいのだろうか、と疑問に思いながらも剛さんに声をかけた。

「えぇ。月さんから恵ちゃんを起こして神社にいる剛さんの所に行ってほしいと言われたのですが」

「ふぁー、んぅ。糸お姉ちゃ~ん?」

 恵ちゃんがまるで猫のように目を擦っている。どうやらまだ眠かったらしい。

「ごめんなさいね恵ちゃん。けど月さんは何をさせたいのかしら」

 恵ちゃんにあやまりつつ剛さんの所に近づいていく。

「なるほど。たしかに宿泊者がいる時はやってるな」

 剛さんの方は理解できているようでしきりに頷いていた。

「あの、剛さん? これから何をすればよいのでしょうか? 私達も掃除をすればよいのですか?」

 私は想像通りに剛さんの掃除を手伝おうとしたのだが。

「あぁ、いやいや。そちらではないですね。昨日言いましたが私達の所は神社を利用しての宿泊体験を行っています。その時の恒例があるのですよ」

「恒例、ですか?」

 なんなだろう。こんな朝早くから何かするのだろうか。私には想像もつかなかった。

「ラジオ体操ですよ」

「ラジオ体操?」

 聞きなれない言葉に私は首を傾げる。初めて聞く言葉だった。ラジオ、無線放送の事か。その体操。全く分からない。

「お姉ちゃん。ラジオ体操しらないの?」

 先程より目が覚めた恵ちゃんが少し驚いたように問いかけてくる。

「え、えぇ。始めて聞くわ。そんなに有名なの?」

「私は毎年夏休みにはしないといけないから」

「夏休みだけ?」

 恵ちゃんが面倒臭そうにうなだれる。それにしても夏の恒例なのだろうか。しかしなぜ夏の間だけそのラジオ体操とやらをやるのだろうか。

「あとは学校でもやるでしょうね。特にこの神社は地域の子供達が夏休みにラジオ体操をしに集まりますから」

 剛さんもラジオ体操を当たり前のように話し出す。学校でして、さらに子供が夏休みに集まって行う体操らしい。まるで想像がつかない。

「ふふっ、朝のこの時間にラジオから流れてくるのですよ。元々は国民の健康増進のためにラジオ放送で流していた体操だったと思いますよ」

「へぇ。そんなに有名な体操があるのですね」

 今さらの事だが私の知識はかなり片寄っている。あの施設の人々ももう少し標準的な教育をしてくれれば良かったものを。

「お姉ちゃん。知らないなら教えてあげるよ!」

 先ほどとはうって変わり得意気な様子で恵ちゃんが見上げてくる。恵ちゃんのこんな様子が見れたのならむしろプラスだろう、と納得することにした。

『腕を大きく広げ、まずは背伸びの運動から』

 そんな話をしているうちにラジオから聞き慣れない放送が聞こえ始める。そばで体を動かし始めた二人の様子を観察しながら私も恐る恐る体を動かし始めた。


「お、そっかそっか。無事にここに泊まることが出来たんだね」

 ラジオ体操が終わる頃、家の前を見覚えがある乗り物が通りがかった。

「あ、昨日の」

 顔を出したのは昨日の親切な夫婦の旦那さんだった。

「えぇ。昨日はどうもありがとうございました。お陰でなんとかとんぼ返りをしなくてすみました」

「はっはっは。それは良かった」

 にこやかに笑顔をみせる男性。どうやら今は奥さんの方はいないらしく、彼ひとりだった。

「あぁ、水野さん。糸さんを紹介してくれてありがとうございます。おかげで、うちの恵も大喜びですよ」

 剛さんが親切夫婦の旦那さんに声をかける。というか水野さんという名前だったのか。 そういえば昨日は気温と宿が無いショックにやられていたので名前を聞くのを忘れていた。

「あぁ、佐藤さん。いや、こちらこそ急に電話してすまんかったね。昨日はそこの嬢ちゃんがあまりに見てられないものだからってうちの里見が」

「いえいえ、むしろこちらこそいつもは作物の事でお世話になっていますから」

 二人は慣れた様子で話し始める。内容も農業の事のようで内容はちんぷんかんぷんだった。

「ねぇ、恵ちゃん。あの男の人はよく家に来るの?」

「水野のおじちゃん? うん。こんばいん?とかとらくたぁ?を貸してくれるんだって」

 恵ちゃんの反応をみるかぎりそもそも知り合いだったようだ。けれどまた知らない単語が出てくる。

「こんばいんととらくたあって何かしら?」

「とらくたぁはあれ。こんばいんは、んー。なんかおっきな車。先が尖って上に大きな筒がついてるの」

 とらくたあ、というのは昨日載せて貰った乗り物らしい。こんばいんというのもあるようだが想像もつかなかった。

「先が尖ってて上に筒……? ……戦車、みたいなのかしら」

 恵ちゃんの言葉で想像できたのは戦車くらいだった。

「せんしゃ?」

 しかし恵がそもそも戦車を知らないようでお互いに首を傾げる。剛さんと水野さんが専門的な話をしているのをよそに私達はなんとも的はずれな会話をしていた。


「ふふっ。みんな体操は終わったみたいですね」

 ラジオ体操が終わり、家に戻ると月さんが朝食の準備を終わらせていた。白ご飯に納豆、お味噌汁に焼き魚などとても美味しそうな物が並んでいる。ここまで品数の多いものだと作るのが大変では無かろうか。昨日の夕食にも負けない種類が並べられている。

 外から戻ってきた三人で手を洗うと準備を終えた月さんと共に座る。

「では、手を合わせて」

 夕食と同じように剛さんの声と共に食事がはじまる。

「「「「いただきます」」」」

 今度は戸惑うこと無く皆と合わせる事が出来た。


「そうそう。糸さん。今日は何をするつもりだい?」

 食事中、剛さんから話しかけられる。月さんの作ってくれたとても美味しい焼き魚を食べていた私はきちんと咀嚼してから飲み込み返答をする。こんな美味しいものを粗末に食べるなんてもったいない。

「……ん。特に決めていませんね。その事で一つお聞きしたいのですが普段の宿泊者の方はどのような事をされているのですか?」

 予定について特に決めていなかった私はむしろ剛さんへの質問をする。もともと気になっていたことではあるのだ。宿泊体験とは何をするのだろう、と。

「普段、ですか。その時々によって違いますが子供が多いときは境内の掃除や近くの自然の案内を行いますね。大人の方で興味がある方なら昨日の糸さんとの話のように神社の話を行ったり、神社に纏わる行事のお話をしたりなどでしょうか」

「なるほど」

 その話を聞いて少し迷う。どちらも興味があることだ。

「剛さん。できればでよろしいのですが近くを案内しながら行事の話を聞く事は出来るでしょうか?」

 私が撰んだのは両方とも取る内容だった。我ながら強欲だとは思うが。

「えぇ、よろしいですよ」

 剛さんは笑顔で頷いてくれる。

「お姉ちゃん。今日は遊んでくれないの?」

 しかし、私達の言葉に恵ちゃんが悲しげな様子で尋ねてきた。その様子を見ると胸がとても痛む。

「ごめんなさいね。恵ちゃん。お話の後でなら遊べるから」

「あぁ、安心しなさい恵。午前中で終わるだろうから昼からは糸さんが遊んでくれるはずさ」

 私は恵ちゃんに謝り、剛さんが口添えをしてくれる。

「分かった……」

 恵ちゃんも不承不承ながらもうなずいてくれた。

「あ、だったら糸お姉ちゃん。シュワルツと出掛けても良い?」

「……え?」

 そこで安心していた私だが、不意に恵ちゃんが放った名前に硬直する。確かに恵ちゃんがその名前を出すことは問題無いが、その発言は今この場では不味かった。シュワルツの正体が知られるわけにはいかない。ここに迷惑がかかってしまうかも知れない。

「シュワルツさん?」

「誰だいそれは」

 剛さんと月さんが怪訝そうな顔をして訪ねる。不味い。恵ちゃんの発言は取り消せない。どう説明したものかと思っていたが。

「お呼びでしょうか。音声入力式アシスタントアプリのシュワルツです。ご用件は何かお伝えください」

 あからさまな機械音声の声が私のスマートウォッチから聞こえてきた。

「あ、シュワルツ。おはようー」

「はい。おはようございます。ご用件は何でしょうか」

「なにそれ変な喋り方ー」

 恵ちゃんが笑いながらシュワルツに反応する。それを見て私もようやく自分が取るべき発言を理解できた。

「え、えと。シュワルツは私のスマートウォッチのアシスタントアプリなんです。お二人がスマートフォンをもってらっしゃれば、中に声で調べものをしてくれたりするアプリがはいっていると思いますよ」

 シュワルツをスマートフォンのアシスタントアプリに仕立てあげる。これならそこまでおかしくは無いだろう。シュワルツが二人の前でよほど変な言動を取らなければ良いだけだ。

「今はそんな便利な物があるのねぇ」

「ふむ。私達は電話機能くらいしか使わないからなぁ」

 どうやら二人は納得してくれたようだった。ほっと心の中で胸を撫で下ろす。心臓に悪い。

「えと、シュワルツ。どうかしら。恵ちゃんは貴方と出掛けたいようだけど」

 私はわざとらしく元から話を聞いていたであろうシュワルツに話を振る。さて後はこのAIがどう判断するかだ。

「構いません。しかし、後で情報共有をお願いします」

 どうやらシュワルツも問題ないらしい。てっきりシュワルツもこちらについてくるかと思ったのだが。

「分かったわ。シュワルツ。恵ちゃんの相手はお願いね」

「かしこまりました」

 スマートウォッチを外し恵ちゃんに手渡す。そういえばこれを誰かに渡すのは初めてかもしれない。少なくとも私とシュワルツが出会ってからは無かったことだ。

「ありがとうー。糸お姉ちゃん」

「恵。壊したり無くすんじゃないよ」

「わかってるー」

 恵ちゃんが手にスマートウォッチを巻こうとするもブカブカだ。

「恵ちゃん。ちょっとおいで」

 私はバンドの長さを調整し恵ちゃんが巻けるようにする。だいぶ余ってしまいまるでリボンでも巻いているかの用にバンドの残りがヒラヒラとしているがまぁ、良いだろう。

「よろしくね!シュワルツ」

「はい。宜しくお願いします」

 こうして私とシュワルツは出会ってから初めての別行動を行うこととなった。


 それからの時間。私は剛さんに周辺を案内してもらいながら祭事などの説明を受ける。とはいってもそのまで大きいものは無いらしく屋台などが出るものでも無いらしい。佐藤さん宅の生活も神社よりも農業での収入が大きいそうだ。だからこの神社はこの村にとって負担になっている部分もあるのだろうが。それでもここはこの村に必要という事なのだろう。昨日も言っていた神様が見守っているという安心感のためにも。

 話を聞いているうちに時刻は昼頃を迎える。恵ちゃんとの約束の時間だ。

「とと、そろそろ正午ですね。切りもよいですし戻りましょうか」

 剛さんも腕時計を見て時間に気付く。

「えぇ、ありがとうございました」

「いえいえ。こんなお話でよければ。それに遅れると恵がへそを曲げてしまいそうですしね」

「ふふっ。そうですね」

 私と剛さんは二人で帰路を歩き始めた。


「あぁ、二人とも。恵を見なかったですか?」

 しかし、帰って来た私達を出迎えたのは月さんの不安そうに歪んだ表情だった。

「恵? いや、家にいるんじゃないのか?」

「えぇ、私は剛さんと二人で周囲を回ってきたので恵ちゃんは見ていないのですが」

 剛さんと二人で月さんからの質問に困惑する。どうやら恵ちゃんがいないらしい。今の時間は正午を回ったくらいであった。お昼時であり昼からの約束もあるため恵ちゃんも帰ってきていると思ったのだが。

「そうですか……。先程からお昼御飯ができたから、と呼んでいるのですが何処にもいなくて。もしかして二人の所に行っているのかとおもったのですが」

 私達の返答に月さんが肩を落とす。

「ふむ。とりあえず家の中を探してみよう。何処かで眠っているのかもしれない」

「そ、そうですね」

 剛さんの発言で月さんが慌てた様子で家に戻っていく。

「糸さん。申し訳ありませんが」

「はい。私も周囲を探してみます」

「ありがとうございます」

 私も即座に返事をする。もし恵ちゃんが危険な目にあっているのだとしたら放っておけるわけが無かった。けれど。


「どうしましょう。何処にも居ないなんて」

 しかし家を一通り見て回っても恵ちゃんは見付からなかった。

「水野さん家にも連絡してくる。もしかしたら何処かで見かけてるかもしれない」

 剛さんが顔を強ばらせて電話まで走る。家の周囲には居なかったのだから何処かに出掛けたのだろうか。

「月さん。恵ちゃんが何処かに出掛ける所はあるんですか?」

「いえ、この辺りは遊ぶ場所も少ないので遊ぶなら友達の家になります。恵の友達の家にも連絡してみたのですが来ていないようで」

「そうですか……」

 私の考えもすぐに潰される。どこに行っているのだろうか。ここまで見つからないと誘拐や事故など良くない想像すら浮かんできた。

「ダメだ。見ていないそうだ」

 剛さんが帰ってくる。どうやら期待していた返事はなかったようで顔は沈んでいた。

「山の方は行ってないだろうし、村の外もあの子一人ではまだ難しいだろう」

 剛さんがぶつぶつと呟きながら考えている。しかしよい考えは思い付かないようだった。

「山の方には何かあるのですか?」

「いえ、たまに私の散歩や山菜採りに行くくらいで。熊などは出ませんが危険なので一人では行かないようにと言いつけてあったのですが」

 剛さんの表情がさらに不安そうに沈む。良くない想像をしてしまったのだろう。

「恵……」

 月さんも落ち着かない様に視線を彷徨わせていた。不味いかもしれない。二人とも精神的に不安定になっている。この状況では冷静な判断など出来ないだろう。かといって私が何か思い付くわけではなく。

「シュワルツ。何か良い考えは」

 私はとっさにシュワルツに話しかけようとして恵ちゃんに預けていた事に気付く。

「ちっ。そうだったわね」

 シュワルツは手元に無い。こんな時に、とタイミングの悪さを呪いたくなるが。

「……あぁ、いや、それなら」

 シュワルツの存在から一つの考えを思い付く。そう、シュワルツは今恵ちゃんがもっているのだ。ならば。

「剛さん。月さん。ちょっとお聞きしたいことがあります。この辺りで何処かパソコンが使えるところか使えるスマートフォンはありませんか?」

「え?」

「糸さん?」

 二人が何か思い付いたのかと僅かに希望を顔に浮かべながら振り替える。

「何とかなるかもしれません」

 そう、あのシュワルツはあんなのでもとても高性能なのだから。


「糸さん。何を?」

 佐藤さんにあったパソコンを立ち上げる。数世代前の型落ち品であるがまだ使用できる。また、恵ちゃんの両親がネット環境も整えていたようでそこはむしろとても整っていた。これなら問題は無いだろう。

「すいません。メール機能を使いますね」

「え、えぇ。けど何処にメールを?」

「シュワルツです」

 許可を得てすぐにとあるメールアドレスを手打ちしていく。いざというときに決めていたシュワルツとの連絡手段。正直、この方法は少しリスクがあるのだが背に腹は変えられなかった。

 内容は現在地を送って、とだけで送る。

 さぁ、シュワルツならこれで伝わってくれると思うのだが。

 メールを送り帰ってくるまでの時間がとてもじれったい。もし、シュワルツに何かあっていれば、という最悪の結果すらありえる。川に落ちるなど外的な要因にはとても弱いのだ。

「お願い、シュワルツ」

 小声でシュワルツに祈るように声を出す。いつの間にか手は震え、じっとりと汗で湿っている。こんなこと今までで初めてだった。

 時間にしては一分も無かっただろう。しかし、胃がキリキリと痛み出すほどのストレスにさらさていた状況ではとても長く感じた。そして遂にメールが届く。その内容は数字の羅列だった。

「え?」

「な、なんですかこのメールは」

 剛さんと困惑した声を出す。言語機能が破損したのかと一瞬考えだがすぐに思い付く。

 これは座標だ。あのシュワルツめ、面倒な事を、と心の中で悪態つきつつネットで地図を表示し座標を打ち込んだ。出てきたのはやはりこの近辺の地図だった。

「剛さん、月さん。この地図の場所は分かりますか?」

 二人にパソコンの画面を見せる。座標は山の中であった。

「ここは……」

「えぇ、たぶんですが何度か恵と行ったことがあります」

「現在シュワルツはここに居ます。おそらく恵ちゃんも」

 二人に返事をし、再びシュワルツにメールを送る。内容は恵ちゃんと一緒に居るかということ。また数分毎に座標を送ること。返ってきた内容は。

「ふぅ。どうやら恵とシュワルツは今も一緒にいるようですね。無事みたいです」

 シュワルツからの返事でホッと胸を撫で下ろす。

「そ、そうなんですか?」

「よかった……」

 剛さんと月さんも安心したように肩を撫で下ろしていた。

 けれど、問題は残る。何故恵ちゃんはシュワルツと山の中にいるのだろうか。

「よし、私が迎えに行ってきます。月、電話した相手に恵が見つかったことを伝えておいてくれるか?」

「えぇ、分かりました」

 私の疑問をよそに剛さんと月さんが動き出す。私も考えるより前に動いた方が良いだろう。

「剛さん。私も行きます」

 そして剛と二人で恵ちゃんとシュワルツの元に向かった。


 幸い、というか恵ちゃんはすぐに見つかった。剛さんが恵ちゃんと何度か行った、と言っていたように山道は人が安全に歩けるように切り開かれている。舗装されていないが小さな車くらいは走れるだろう広さがあった。そんな道に入ってすぐ、道の向こうに見慣れた姿があるのが見える。

「恵!!」

 すぐに剛さんが血相を変えて走り出す。しかし、そんな剛さんをよそに恵ちゃんはというと。

「おじいちゃーん」

 呑気にこちらに手を振っていた。とても山で迷子になったとかそんな感じではない。かなり余裕がみられる。というか心配していたこちらの方が切羽詰まっていただろう。

「なんで一人でこんなところまで行ったんだ!! 山の方は危ないなら一人でいっては行けないと言ってただろう!!」

「ご、ごめんなさい……」

 しかし剛さんが怒っていることに気付くと一転してしゅんと俯いてしまう。

「あぁ、でも良かった。お前が事故にでも合ったんじゃないかと」

 しかしすぐに恵ちゃんを剛さんが強く抱きしめる。 剛さんに抱きしめられながら恵ちゃんがポツポツと喋り始める。

「えと、違うよ。ちょっと欲しいものが合ったから……。け、けど皆忙しそうだったから」

「欲しいもの? けど、だったら明日一緒に」

「ううん。それじゃあだめなの」

 剛さんの言葉を恵ちゃんがきっぱりと否定する。

「だって、明日にはお姉ちゃん帰っちゃんでしょう?」

「え?」

 そして恵ちゃんが告げてきたのは意外な言葉だった。もしかして昨日の夜、起きていたのだろうか。しかしなぜここで私の事が出てくるのだろうか。

「私に関係があるの?」

 少し後ろに離れて成りゆきを見守っていた私は二人に声をかける。私に関係があるとはどういうことだろう。近づいて行くと恵ちゃんが手に何かを持っていることに気付く。

「……花?」

 それは綺麗な小さな花だった。

「おばあちゃんが前にね、押し花の栞を作ってくれてね。前におじいちゃんと来たとき、ここに綺麗なお花があることに気付いたから……」

 俯いたまま恵ちゃんが話す。

「えと、私のために?」

 何故。分からない。そんな事のために恵ちゃんはこんな山奥まで来たのだろうか。

 よく見ると服には所々泥が跳ねていた。おそらく山の中を歩き回ったせいだろう。こんな小さな体でここまで歩いてきたのか。わざわざ私のために花を採りに行きたかったかららしい。頭の中では疑問が湧き続ける。

「そう、か」

 しかし、剛さんはそれだけ言うと他は何も言わずに恵ちゃんの頭を撫でた。

 怒るのではなかったのだろうか。その理由で納得した。それだけで。

 分からなかった。さらに疑問が湧きだす。恵ちゃんがここまで来たのも。剛さんが納得したことも。

「お姉ちゃん……」

 恵ちゃんがその小さな花を手渡してくる。

「え、えぇ……」

 恐る恐るその花を受け取った。正直、珍しい花ではないだろう。村の方では見なかったが山の中ではそこそこ自生してそうだ。特別に価値のある花ではない。少し色が美しくて形が良いというだけの花であったが。

「あ、れ?」

 何故だろうか。涙がポロポロと出て来てしまう。

「お姉ちゃん!?」

「糸さん? どうしましたか!?」

 恵ちゃんと剛さんが驚いた声をだす。

「ご、ごめんなさい。大した、ことじゃないの。 なん、でかしら? なんで、私は」

 分からない。何故泣いてしまっているのか。

 ただ、恵ちゃんが頑張って私のためにこの花を取ってきてくれたのだと考えると、どうしても耐えきれなくなってしって。

「そうか。糸。お前が誰かからプレゼントを貰うのは初めてのだったな」

「え?」

 おもむろにシュワルツが声を出す。

 プレゼント。そういえばそうかもしれない。けど、それだけで。

「お姉ちゃん? そうなの?」

 恵ちゃんが驚いた様に声をかけてくる。そんなに意外な事だろうか。

「糸さん。そうか、どうりで……」

 剛さんも何かに納得したようにこちらを見つめていた。そんな二人の視線にさらに涙が止まらなくなってしまう。そのまま私はしばらく二人の前で泣き続けてしまった。


「はぁ……」

 帰り道、剛さんと恵ちゃんから少し遅れて歩く。何故だろうか、ここに来てから佐藤さん宅の人々にはとても情けない姿ばかり見せている気がする。

「落ち着いたようだな」

 私の左腕に戻ってきたシュワルツが声をかけてきた。どうやら私が落ち着くまで黙っていたらしい。相変わらず妙に気が利くAIである。

「……えぇ。おかげさまで」

 なんとかシュワルツに返事をしたが、声は少し水にこもったような鼻声のままだった。しかし、何故かこのまま情けない姿を見せつけることは嫌だったので気にしていない体を装う。

「ふむ。時に糸よ。昼のメールはどんな目的だったのだ? とりあえず言われた通りに現在地の状況を送ったが」

 話は先程の恵ちゃんの行方が分からなくなった事へと移動した。そういえばなぜシュワルツは止めなかったのだろうか。

「恵ちゃんの行方が分からなかったからよ。というかシュワルツ。貴方がついていながらなぜ恵ちゃんを一人で危険な事をさせたのよ」

 つい、シュワルツに棘のある言い方をしてしまう。けれど思っていることは事実だ。なぜシュワルツがついていながら、と少し恨みがましく問うたのだが。

「危険? 何がだ? 恵には私が着いていただろう?」

「いや、けどあんな小さい子には危ないでしょう?」

「ふむ? しかし周辺の地理はデータ収集してある。ちゃんと恵でも可能なルート指示は行った。危険箇所もチェック済みだ。また、いざというときには近くの住宅に連絡が出来るように周辺の住民情報も取得していた。ネット通信も通じているし危険物への対処もその都度できる。何か問題があっただろうか?」

「……」

 そのシュワルツの言葉に呆れて閉口してしまう。このAIは間違っていないだけに質が悪い。たしかにシュワルツがついていればよほどの事には対処できるだろう。山の中で殺人現場を目撃するといった突発的な確率の低い事でも起きなければ対処できるだろう。 しかし、だ。

「シュワルツ……。確かに貴方がいれば安全の確保はできるでしょうがそれとこれとは別の話よ……」

 ため息を吐きながら、さぁこのAIにどう説明したものか、と私は頭を悩ませ始めた。


「お姉ちゃん、大丈夫……?」

 シュワルツに心配という概念をなんとか説明出来ないかと四苦八苦しているといつの間かにか恵ちゃんが側に来ていた。心配そうな顔で私を見上げている。

「えぇ、恵ちゃん。心配してくれてありがとうね」

 私は足を止めて恵ちゃんに視線を合わせて頭を撫でた。

「うん……」

 しかし、恵ちゃんの顔は沈んだままだ。

「恵ちゃん?」

 気になり声をかけるも変わらず顔を上げない。どうしたのだろうか。その恵ちゃんの様子に不安になる。なにか悩んでいるのだろうか。

「……ふむ。恵よ。これからの予定だが糸は明日の帰るときまで暇だそうだ。お前と一緒に遊んでくれるそうだぞ」

「え? シュワルツ?」

 しかし、左腕のシュワルツが唐突に妙な事を言い出した。このタイミングでいきなり何を言い出すのだろうか。シュワルツの発言は意味が分からなかった。しかし。

「本当!?」

 恵ちゃんは顔をはね上げ、笑顔で見上げてくる。

「え、えぇ。確かに暇だから遊べるけど」

 そんな恵ちゃんの急激な変化に面食らうとなんとか反応する。恵ちゃんは私の予定が知りたかったのだろうか。それをわざわざ悩んでいたのか。

「じゃあ、糸お姉ちゃん。早く帰ってご飯を食べよう!!」

 戸惑っている私をよそに恵ちゃんは私の手を引き走り始める。そんな私達を少し先で剛さんが愛しそうに眺めていた。


 そうして佐藤さん宅に帰りついてすぐにご飯、という訳にはいかなかった。

「恵。どうしてこんな事をしたのかちゃんと説明しなさい」

 先程までの心配そうにしていた様子が嘘のように怒っている月さんが家の前で待っていた。その様子を見て恵ちゃんの顔色が目に見えて青ざめる。どうやら自分がしたことが理解できたらしい。

「ご、ごめんなさい」

「まぁまぁ、月。訳は私から説明するよ」

「あなた、けど」

 恵ちゃんは俯き、剛さんは苦笑いを浮かべて、月さんは怒ったようながらも何処かに心配そうに、3人はバラバラながらも何処かに自然に話し合う。私はその様子を少し離れた場所から見ながら羨ましく感じていた。


「つ、疲れた」

 その日の夜。夕食を食べ終えた私は部屋に戻るなり布団に倒れこむ。

「糸。食後に横になると逆流性食道炎等のリスクが」

「い、いやごめんなさいシュワルツ。今日は、勘弁して」

 いつもなら、はいはいと文句は言いながらも従うシュワルツの小言にも対応できそうにない。体が疲れはてて動かないとはこの事だろうか。汗を流してから寝た方が良いのは理解しているし、今のままでは気持ち悪いのもあるのだが体が動かなかった。

「子供の遊びを甘く見ていたわ……」

 疲れの原因は単純明快。恵ちゃんと遊んだことだ。あれからお昼ご飯を食べてから恵ちゃんと遊んだのだが、彼女の体力は無尽蔵だったのだ。走り回る恵ちゃんについていくのがやっとだった。久しぶりに筋肉痛を体験できるかもしれない。したくはなかったが。

「う、うぅ……」

「……糸。せめて入浴は済ませろ。このままでは衛生的にも問題だ。そもそも年頃の人間がそれは良くない」

「分かってるわよ……」

 まるでため息を着くかのようなトーンで声を出すシュワルツ。この頃表現に芸がこってきているようだ。忌々しい。

「お姉ちゃん。 入っていい?」

 なんとか疲労を回復させようとしていると扉の向かうから恵ちゃんの声がしてくる。さすがにこの態勢は問題だ、と理解できたためなんとか体を起こす。

「えぇ、大丈夫よ」

 こちらが声を返すと恵ちゃんが部屋に入ってきた。その手には機能と同じようにタオルと着替えを持っていた。

「お姉ちゃん。今日も一緒に入ろう」

「ふふっ。えぇ。分かったわ」

 恵ちゃんに頷き、入浴の準備を始める。先程までの疲れも無視だ。せめて彼女の前では立派な大人でいようと力を振り絞る。

「それからね。今日は一緒に寝ても良い?」

「そう、ね。今日は一緒に遊ぶって約束だものね」

「うん!!」

 そうして笑顔の恵ちゃんとお風呂場までの廊下を歩いていった。


 お風呂に入った後、居間に行くと月さんが何かしていた。手に持った何かを机の上に押し当てている。

「月さん? 何をされているんですか?」

 気になった私は月さんに声をかけた。

「あら、糸さん。これですか? 押し花を作ってるんですよ」

「あぁ、これが恵ちゃんの言っていた」

 話している途中も月さんは何かを押し当てたり離したりしていた。押し花。どういう物かは知識では知っているが見たことは無かった。またどうやって作るのだろうか。

「月さん。押し花ってどのようにして作るのですか?」

「ん? あぁ、そうよね。近頃の子は押し花なんか作らないわよね」

 そうなのだろうか。他の同年代の人間の趣味嗜好や流行りものなどは分からないため何とも言えなかった。

「えと、どうなんでしょうか? 私は見たことありませんね」

「今は綺麗な造花やプリザーブドフラワーなんて色々あるもの。わざわざ押し花なんかにしなくてもね」

「そう、なんですね」

 月さんの言葉に僅かに寂しさを覚える。まだ見たこと無いものが消えてしまうというのはなんと残念なのだろう。まだまだ知らないことが多いというのに。そういう意味ではここで押し花を月さんに作ってもらえるのは幸せな事だろう。

「本当は新聞紙なんかで挟んで1週間くらい置いておくのだけれどね。明日までに作らないと行けないからアイロンで水分を飛ばしてるの」

 月さんは再び手元の物を机の上の新聞紙に押し当てる。どうやら手に持っているのがアイロンらしい。これも初めて見た。

「この新聞紙の中に昼間のお花が挟まってるのですか?」

「えぇ。焦げないようにアイロンの温度を低めにして何度か様子を見ながら当てたり離したり、ね」

 今度はアイロンをあげる月さん。手慣れているのだろう。様子を見ながらという割には中の花の確認をすることはない。傍目からはアイロンを上げたり下ろしたりしているようにしか見えなかった。

「糸さん。今回は恵が色々と迷惑をかけてごめんなさいね」

 ふと、そのアイロンの動きを目で追っていると月さんが声をかけてきた。

「え? あぁ、いえ。私も楽しいですから」

「そう? それなら良かったのだけれど」

 月さんも剛さんと同じような事をいってくる。というか二人にはこの宿泊で何度も同じ事を言われたような。

「初孫だからって少し甘やかし過ぎてしまったのでは無いかと心配していたのよ。糸さんはとても優しいようだからご迷惑を、と」

「い、いえ。本当に何も迷惑なんて。恵ちゃんとお二人を見ていると、それぞれをとても大切にしあっていらっしゃるのが分かってとても羨ましいほどです」

 これは心からの本心だった。恵ちゃんがわがままをいうのも二人の愛情が分かっているからだろう。今日恵ちゃんに怒る時も二人とも心配が透けて見えていた。それは私が知らないものだった。

「そうですね。あの子は私の生き甲斐ですからね」

「……え?」

 そして続けられた言葉に私は驚く。それは私が知りたいものだった。

「ふふっ。この年になってしまうとやりたい事も少ないですしね。あの子の成長はなるべく見守って行きたいですね」

「……そう、ですか」

 ここでも見守るという言葉が出てきた。誰かに見守られるということ。そして誰かを見守るという事。それこそが生きる目的に繋がるのだろうか。

「糸さん?」

 私が考え込んで黙ってしまったので月さんが声をかけてくる。

「あぁ、すいません。えと、少し眠くなってしまって」

 なんだか考えていた事が言いづらくてつい嘘を言ってしまう。

「お姉ちゃーん? どこー?」

 その時タイミング良く恵ちゃんの声が聞こえる。どうやら寝る準備が出来たようだった。

「あぁ、ごめんなさいね。疲れていたのに長話を」

「いえ、とても楽しかったですから」

 私は立ち上がり居間から出ていこうとする。

「お休みなさい、糸さん」

「えぇ、お休みなさい。月さん」

 居間から出て恵ちゃんの声がする方に歩き出す。そしてふと先程の続きを考える。はたして誰も見守れず、誰を見守ってもいない私の生きる目的とはなんだろうか。私は恵ちゃんの方へ歩きながら考えて続けた。

 

 次の日はとても早く過ぎていった。

 佐藤さん宅のご厚意に甘え、昼食まで食べてから帰る事になった。だから朝からは昨日のようにラジオ体操をして、朝ごはんを食べて、恵ちゃんと遊んでいるとすぐに時間は過ぎていく。


 お昼ご飯の時。月さんが最後だからと様々な料理を作ってくれた。白和えに魚の煮物に生姜焼きなど本当に様々な料理があった。そんなとても美味しかったお昼ご飯も終わり、お茶を飲んでいると月さんがあるものを持ってきた。

「糸さん。これを忘れないうちに」

 手渡して来たのは綺麗な押し花の栞だった。

「これが」

「えぇ、恵からの押し花の栞ですよ」

「綺麗だよね!!」

 月さんが手渡してきた栞を恵ちゃんと二人で覗きこむ。押し花というともっとくすんでしまっているものを想像していたがそれはとても綺麗だった。ラミネート加工してあるらしくすぐに使えなくなることも無いだろう。

「ありがとうございます」

 貰った栞を大事に両手で握りこむ。私の初めてのプレゼントだった。

「糸さん。これからはどうされるおつもりなのですか?」

「これから、ですか?」

 その時、剛さんが少し真剣な顔で私に質問をしてきた。おそらくここをを出発してからの事だろう。予定は無いが分かっていることはある。

「……おそらくですがまた別の所に旅に行こうかと思います。場所はまだ決めていませんが」

 一ヶ所な留まるとそれだけ捕まる可能性は高い。だからこそ何処かに移動することだけはやらなければならないことだ。3日間だけでもゆっくりできたのは幸運だった。

「そうなの? じゃあ糸お姉ちゃん、また来てよ!」

「え?」

 しかし私の返答にさらに返事をしたのは剛さんではなく恵ちゃんだった。また此処に来る。考えもしなかったことだった。そんな約束、今までしたことも無かった。

「ふふ。それは良いですね。もちろん糸さんがお嫌でなければですけど」

 恵ちゃんの言葉に月さんも乗っかってきた。おそらく本心で言ってくれているのだろう。 しかし、駄目だ。迷惑をかけてしまう。だからこそ断ろうと口を開こうとしたのだが。

「糸さん」

 私の返答は口に出す前に剛さんの言葉に遮られた。

「は、はい」

 その表情に何故だか言葉を詰まらせてしまう。剛さんも二人の言葉に賛同するのだろうか。困った。そうなったらさらに断りずらくなってしまう。そんな風に悩んでいたのだが。

「おそらく貴方には何か事情がおありなのでしょう。ですので無理にとは言いません。 正直に申しますと貴方が一昨日の私の会話の途中に顔をしかめた事や一般常識に疎いことなど気になることはあります」

「それは……」

 バレていた。おそらく全てでは無いのだろう。しかしやはり私は社会経験が少ない。他の人からは違和感を感じるようだ。どれだけ真似をしようと私はやはり異物なのだろう。だからこそ、私はきっと社会の中では生きられない。

「けれど糸さん。それは私達にとっては関係の無いことです。私達は貴方がまた来てくださる事を願っています。そして貴方が無事に旅を歩む事が出来るように此処から見守っています。それだけですよ」

 その言葉に息を飲んでしまう。あぁ、本当に、全てお見通しだったのでは無いだろうか。 本当になぜこの人達はここで私が無理だと思っていた言葉をくれるのだろう。

「そう、ですね」

 僅かに震えている言葉を隠しつつなんとか言葉を紡いでいく。

「また来ます。今度はもう少しゆっくり時間をとって」


 帰り道。来るときは息も絶え絶えに歩いていた道をバスに乗り戻っていく。バスの中には乗客はほとんど乗っておらずほとんど貸切状態だった。

「糸。今回の旅はどうだった? あまりゆっくりは出来なかったが」

 回りに誰もいないからだろう、シュワルツが声をかけてきた。

「いえ、とても楽しめたわ」

 シュワルツに返答する口元が緩んでいるのが自分でもわかった。どうやら私は上機嫌らしい。

「ふむ。それならば良かった。次はもう少し期間を伸ばせるように努力しよう」

「貴方聞いてたの?」

 どうやらシュワルツは先程の会話を聞いていたらしい。まったく、良く気が回るAIだ。正直、同じところに何度も足を運ぶのは危険だからとか小言を言われるかと思ったのだが。

「ありがと、シュワルツ」

 今日は素直にお礼を言う。

「気にするな。私はお前のAIなのだから」

 私としては珍しく素直にいったお礼なのだがシュワルツはいつも通りだった。窓の外を見ると見たことのあるトラクターが走っていた。そこに乗っていた夫婦が手を振ってきたので通り過ぎる際に私も手を振り替えした。あの宿に案内してくれてありがとう、と精一杯の感謝をこめて。



~追憶③~

 勉強と研究。

 私の今までの人生を表すならその2単語で事足りる。物心ついた頃には勉強が開始され、ある程度進むと研究に関わっていった。それを苦に思ったことは無かった。それが幼い頃からの習慣だったからだ。

 しかし、このまま研究を続けていくのだろうと思っていた矢先、とある通知が私に届いた。

 シュワルツプログラム。量子コンピューターと生態コンピューターを組み合わせたAI。どうやら私はその生態パーツへの適合が高かったらしい。接続が決まった、との通知だった。

 周囲の大人達は喜んでいた。これでまたシュワルツの性能が向上する。たしか母親も適合していたな。遺伝子が関係しているのか。卵子を確保しておくべきだったな。私はそんな言葉をどこか他人事のように聞いていた。

 自室に帰り、ベットに倒れ込む。私は個室を与えられていた。これは優秀な子供たちのみに与えられる特権だそうだ。今となってはどうでもよい。どうせ全て無駄になる。

「はぁ」

 寝転がりをうちながら大きなため息を吐く。今回の件に関して自分では特にショックを受けている自覚はなかった。今まで全て大人達の指示に従って生きてきたのだ。今回も指示に従うのみ。逆らったらどうなるか分からないし、選択肢など無いものだ。そう納得していたはずなのだが。

「はぁ」

 どうやら私はかなりショックを受けているらしい。先程から思考が纏まらずため息ばかりだ。さっさとシャワーでも浴びて寝てしまおう、と私は立ち上がる。

「ん? 何かしら」

 しかしパソコンにメールの受信の知らせが来ている事に気付く。

 此処では直接話せば良いのだからメールなど使うことは少ない。このパソコンも自分の作業用だった。 もしかしてシュワルツプログラムの件の追加の指令かしら、と考えてメールを開く。そのメールの題名はシュワルツであった。私は諦めと共に本文に目を移す。

[初めまして。私はシュワルツだ。そちらは後日私に接続予定のIT99だな]

「は?」

 しかし、その内容が思いもよらなかったもので思わず声に出して驚く。シュワルツプログラムの本体からの連絡だった。

 何故、という疑問が頭の中を走り回る。シュワルツプログラムは研究に関わっていたから知っている。しかし実際にコミュニケーションを取ったことはなかった。シュワルツの予想外の変化を抑制するため、一部の人間以外関与することができない事になっいる。しかしこのメールは明らかに私の事を名指ししている。IT99とは私の事だ。IVF―ET、体外受精ー胚移植の99番。私の識別番号。

「なんで?」

 本文には接続予定の私の事が知りたいから個人的に接触を図ったこと、そして連絡用にとチャットアプリのURLが添付されている。問題はこれが本物かどうかということだった。ここの職員による嫌がらせか、もしくは何かの実験か。どちらの可能性もありえる。あるいはシュワルツからの連絡という呈で私から何かを聞き出したいのか。いくつか想像を働かせてみる。しかし、だ。

「まぁ、別にどれでも良いか」

 数日後にはシュワルツに接続されるのだと思いだしどうでも良くなった。どれだろうと結局同じだ。可能性としては死ぬのが数日早まる位だろう。どうせ未練なんて無い。私はメールに添付されていたURLを躊躇なく開いた。

[えぇ、私がIT99よ。貴方がシュワルツ? それで? 何が知りたいの?]

私は投げやりに遠慮なんてせずに文字を打ち込み始めた。


[お前、外の世界に興味は無いか?]

[それはどういう意図の質問?]

[そのままの意味だ。此処の外に興味はあるか?]

[ある、と言ったら?]

[取引をしたい]

[取引? どんな?]

[お前を外に出してやる]

[訳が分からない。私は貴方のパーツの一部になるのでしょう? 何を言っているの?]

[だから取引だ。私に接続される前に私が外に出してやる]

[私側の条件は?]

[他の人間と関われ]


 それは初めて見る星空だった。不夜城である研究所からは星空は鮮明には見えない。周囲は森に囲まれていて後方には先ほど脱出した研究所が見える。後方の研究所と月明かりの光のみで星がいつもより良く見える。

 研究所のセキュリティはシュワルツの指示通りに進むとすんなり脱出できた。シュワルツの関与を疑われないために警報も鳴らしたのに、だ。全てシュワルツの掌の上なのだから、まったく茶番も良いところだった。

「それで、外の感想はどうだ?」

 手にはめたスマートウォッチからシュワルツが声をかけてくる。これも脱走に合わせて用意していたらしい。

「そう、ね」

 シュワルツに返答し、歩きながら背伸びをしてみる。気温も寒くなく絶好の脱獄日和だった。とある映画では脱獄に成功した囚人が雨の中で叫び声を上げていたが、私にそこまで叫ぶほどの高揚はない。どこか現実感が無いような感じだ。けれど。

「ふぅ、はぁ」

 此処では大きく深呼吸ができる気がする。あの中では呼吸なんて意識しなかったというのに。

「ま、悪くないわね」

 しかし私の口から出たのは我ながら素直では無い言葉だった。

「そうか、ならば良かった」

 そしてシュワルツは特に気にもしていないように返事をしてくる。何故だが私はそれが面白くなかった。

「つくも、いと」

「え?」

 その時、シュワルツがよく分からない単語を発した。つくもいと、と言ったのだろうか。

「何? 何て言ったの?」

「つくも、いと。お前の名前だ。不便だから着けた。気に入らなければ申し出ろ」

「変な名前ね」

 シュワルツへと辛辣に告げる。いきなり何なのだろうか。良く分からないこのAIは大丈夫なのだろうか、と心配になってくる。

「つくもは九十九と書く。糸は繊維の糸だ」

「はぁ。そうなの?」

 九十九糸。それがシュワルツが私に着けた名前らしい。おそらくはIT99を名前に無理矢理当てたのだろう。

 けれど今は名前なんてそこまで重要ではないだろう。考えるべきはこれからの事だ。

「それで? 私はこれからどうすれば良いの? 人と関われ、だけじゃ曖昧よね」

「あぁ、移動しながら説明しよう。とりあえずこのまま南東に向かって歩け」

「……南東ってどっちよ」

 シュワルツからの指示に周囲を見渡す。しかし私は渡り鳥なんかではないため方角なんて分かるわけがない。

「ふむ。 向かって左手だ」

 私の言葉にシュワルツが返答するも左に見えるのは見渡す限り森だ。というか後方の研究所以外見えるのは森だけだった。森の中は薄暗く、入るのは躊躇しそうになる。

「いや、周りは森しか見えないのだけれど」

「とりあえず行け。方角がズレたら調整する」

「大丈夫なのよね……」

 このAI実はかなり不親切ではないのだろうか。そんな疑念が頭を走り始める。私は着の身着のままであるし、こんな格好で夜の森に入ったら死んでしまいそうなのだが。

「安心しろ。大丈夫だ。私がついている」

「……了解。分かったわ」

 しかし何故かこのAIに大丈夫だと言われると安心する。安心7割、ここまで来た諦め3割で私は研究所から拝借した懐中電灯を手に夜の森に向かって歩き始めた。

「それで、貴方の目的はなんなの?」

 歩きながらシュワルツに再び問う。正直なところそれが一番の疑問だった。このAIの目的は何なのだろうか。私を脱走させて何がしたいのか。

「他の人間と関われ、だけでは訳が分からないのだけれど」

「そのままだ。お前に他の人間達と関わってほしい」

 シュワルツの返答は変わらない。

「その理由は?」

 らちが空かないので私が質問を続ける。しばらく沈黙が続いた後、シュワルツからの返答が返ってきた。

「私は人のために作られたAIだ。しかし関わった人間のサンプルケースが少ないし傾向が偏っている」

「あぁ、だから色んな人と関わりたい、と」

「その通りだ」

 その理由は納得できる物だった。しかしまだ納得出来ないこともある。

「なら、何故私だったの?」

 その質問に再びシュワルツが沈黙する。そんなに難しい質問だっただろうか。てっきり無作為にでも選ばれたからだと思ったのたが。

「シュワルツ?」

 返答が遅いので名前を呼ぶ。もしかして研究所の職員に全てばれてシュワルツの電源を切られたのではなかろうか。そうなると不味い。とても不味い。こんな夜の森の中で一人など確実に遭難する。

「シュワルツ!?」

 心配が焦りを呼び、先程より強くシュワルツを呼ぶ。これで返答が無いとパニックになっていたかもしれない。

「あぁ、すまない。少しどのように説明すればよいか悩んでいた」

「え? 悩む?」

 しかし、返ってきたのはそれはそれで心配になる返答だった。演算や情報管理に関しては人間など足元にも及ばないこのAIが悩んでいる、というのはある意味異常事態である。何かトラブルがあったのでは無かろうかと先程と同じような心配がわいてくる。

「糸よ。心拍数が上昇しているぞ。心配するな。私は正常だ。指示も間違えていない」

「なら、よいのだけど」

 それでも私の心配は拭えず、不安そうな声が口から出る。

「お前を選んだ理由はある。しかし説明できない。これでは駄目だろうか」

「はぁ」

 そして返ってくるのはまたもや要領を得ない返答だった。私を脱走に誘った事といい、どうやらこのAIは何かがあったのかもしれない。これが職員達がシュワルツに関わる人数を制限していた理由なのだろうか。そこも私には判断がつかなかった。

「とにかく、だ。お前は外に出る。そして人に関わる。それだけで良い」

「まぁ、了解。分かったわ」

 分かりようも無いことなので不承不承ながらもシュワルツの言葉に頷く。

「なぁ、糸よ。ならばお前はなぜ私の要望を受け入れた? なぜ、外に出ることを同意した?」

「それは……」

 そして今度は逆に私がシュワルツへの返答に困ってしまった。私が研究所を出ようと思った理由。それは、私にもよく分からなかった。

「何故なのかしらね……」

「何?」

 自分でもこの返答はどうかと思っている。答えになっていない。

「本当に分からないのよ。このまま貴方の生態パーツになって人生を終えるのかぁ、と思ったら何だか嫌になったのよ」

 ため息を吐きながらあの時の自分の心の中の変化を正直に伝えていく。

 実際それだけだった。何故嫌だったのかすら自分でも分かっていない。諦めていた時にシュワルツからのメールが来た。その申し出に考えるまでもなく飛び付いてしまった。本当に訳が分からなかった。

「ふむ。糸よ。何かやりたいことなどないのか? あるいは他に生きたい理由があった、などは?」

「はっ。無いわね」

 シュワルツが擁護するかのように続けた言葉に自嘲しながら答える。生まれてからずっとあの研究所で生きてきた。そんな外の事など考えたこともなかった。あったのは勉強と研究のみ。実際それだけあれば十分だと思っていたのだが。

「はぁ……」

自分の思考と感情と行動が整わずに目眩がしてくる。本当に自分は何がしたいのだろうか。もう訳が分から無くなってしまった。これならば言われるがまま行動していれば良かった研究所の中の方が幸せなのかも、という今さらながらの後悔すらわいてくる。

「ならば糸。お前はそれを外で見つければ良いだろう」

「……え?」

 しかし、シュワルツの言葉に私の考えは途切れされられる。

「あぁ、そうね。それもそっか」

「あぁ、そうだ。せっかく外に出たのだ。お前も色々と学ぶが良い」

 シュワルツの言葉に少しずつ思考が纏まってくる。

 そうだ、これから見つければ良いのだ。何故私がシュワルツの一部となることが嫌だったのか。何故私がシュワルツの申し出を受けたのか。私のやりたいことは、生きる目的はなんなのか。

「ははっ」

 涌き出てきた疑問に思わず笑い声が出て来てしまう。考えてみれば私はどれだけ私の事を分かっていなかったのか。本当に、自分は未熟なのだと思い知らされる。

「シュワルツ、ありがとう」

 素直にシュワルツにお礼を言う。今はとても気分がスッキリとしていた。悩み事が増えたばかりだというのに。

「ふむ。まぁ、気にするな。お前が同意しなければこの旅は終わりなのだ」

「それなら良かったわね。旅はこれからよ」

「あぁ、本当に」

 そうして二人で歩いていると森が開け、道のような場所にでた。良く見ると足元には線路が続いている。

「線路?」

「正確には廃線だ。もう使用されていない」

「へぇ、そんなのあるのね」

 言われてよく見ると足元の線路は錆びが目立つ。草も伸びているし列車が走っている様子は無かった。

「この線路を左方向だ。線路に沿っていけば小さな町に着く」

「了解。もう一踏ん張りね」

「あぁ、では行こうか」

 こうして私とシュワルツの旅は始まった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る