認証

 昨日書いた話の続き。学校に行けるようになると、腫物がすっと引いていくように不思議体験はなくなってしまった。

 もちろん、無理せずバス通学にしたり、通学時間を遅らせたりした。そうすると、登校途中になにか気分が悪くなるような出来事はさっぱり起きないし、起こらない。薬を飲んでも、人に会ってもだ。

 これって最初の日が特別だからだったのか。それとも、俺が慣れてきたのか、どっちなんだろう。

 それに事件のことは記せるけど、事件にならないことでも困ることはいくつもあった。

 一番困ったのは、新しいクラスになって、クラスメイトの名前がさっぱり覚えられなくなったこと。特に移動教室の時に困った。今まではこんなことなかったはずなのに、課目によって教室を移動しなきゃいけないとか、気が付くとみんながいないとか、そういうことがすぐ起きて混乱する。

 こういう時に、あっまずいと思って、急いで部屋を出ようとすると、廊下に扉が出てくる。

 扉は困ったことに、目当ての教室でない時がある。しかもなかなか開かない。

 俺は自分の名前と理由を言って、その扉を開けてもらうんだけど、急に自分の名前を忘れてしまうことがあった。

 特にうっかり違う名前で入ってしまった場合は最悪だった。

 みんながジロジロこちらを見てくるのだ。それで、理科の実験室の小さな椅子に座ってしまってから、これは違うぞ、次の授業は理科じゃなかったぞと思い出す。そもそも理科の教科書など一式を持ってきていない。だけど、思ったよりも先生から近い位置にいるものだから、まさか違うクラスに入ってしまったなんて言えるわけがない。誰かそのことを言って、追い出してくれるなり、先生が教えてくれるなりしてくれればいいのに、なぜか授業が続いていく。

 これってもしかして、自分が別人になって授業に入れたのかな、と変な気持ちになる。

 そもそもさっき呼ばれたアンドウだって、俺の名前じゃないし。そう思っていると、班をつくって実験をする手番になった。あわてて立ち上がると、我慢していた足の血液が急に体を駆け巡り始める。頭がくらくらして、床にしゃがみ込んで手をついたところで、ここが教室でもなんでもない、廊下であることに気づく。

 絶対に入室したはずなのに、と膝立ちになると、また扉が見える。

 そこに、扉が突き立っている。

 そこでようやく俺は、扉に入るのではなく、謝って開けてもらうことを思い出す。

「すみません、遅れました……開けてください」

 そう言っているうちに、俺は自分が泣いていると分かった。自分が名前と理由を一致させられなくなっているから、もうどうしていいか分からなくて、床にしがみついて泣いていた。扉を自分で開けられるはずがないと思い込んでいる。

 俺は吐き気を感じて、廊下の真ん中で吐いてしまうかどうか迷った。悲しさの前に苦しさが勝っている。心よりも体の方がきしんでいる。そう知ったとき、あ、体の方が勝ったのかなと酸素を求めて、俺は口を大きく開けた。

 より深呼吸を始めようとしたとき、扉が開いた。クラスメイトが開けてくれたのだ。


 こういうことが3回ほど続いたところで、誰かと一緒についていけばいいんだと俺は気づいた。

 しかし、どうして扉を間違えるのか、扉が開けられないのか、さっぱりよく分からない。

 体の調子はいい。だから余計に困るのだ。普通に、扉が開けられないなんて。

(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

普通にできない @moyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ