同意
「自販機事件」……事件というほどのものじゃない出来事があってから、数日しないうちに、なにか不思議なくらいまで体が動くようになった。急に学校に行きたくなったのだ。別にボタンを押されたから、スイッチが入ったわけでもないだろうけど。
問題なのは、俺は自転車通学だということ。悲しいことに、運転手より先に車の方が天国へ旅立ってしまったので、言い出した初日は歩いて通学するほかなかった。
一時間くらいの距離なので、親と同じくらいの時間に出発したのだが、これも急に言い出したせいか、大丈夫なのかと心配された。
どういう意味なのか分からなかったが、その理由はだんだんわかってきた。
自分では朝早くの時間帯だと思っていたが、びっくりするほど大勢の人間と車が動いている。
近所の道路はしばらく白線でかろうじて歩道をつくっている。新興住宅地のきれいなマンションが建ち始めたところへ行かないと、まともに盛り上がった歩道がない。だから、俺は他人とも車とも接触しないように、気を付けて歩いていた。
そうなると、自然と下を向きながら歩く。地面を見て、首を痛めながら。町内を出きらないうちに、横断歩道にぶつかった。信号を見ようと首をあげて、気が付いた。
ゴミ収集のおじさんがいる。
この時間帯になればいて当たり前なんだろうが、横断歩道を歩いてくるのがなんだかおかしかった。こういう人はなんといってもゴミ収集車とセットでいるものだと思っていたのだが、休憩中か飲み物を買いに来たのだろう。横断歩道を渡ってこちら側のコンビニへ向かうところだった。
そのうつむいてスマホを見る顔が、誰かに似ているなと思った。すれ違ったあと、親父に似ている、いや、そっくりだ、と思った。しばらく歩いて、後ろで収集車がエンジンを鳴らしたとき、そのそっくり差の理由が分かった。親父に似ているんじゃなくて、あのおじさんは俺が老けた顔に似ている。
ゴミ収集車が俺の横を通り抜けて、少し先で停まった。
先の信号に阻まれたんだろう。並走ではないが、窓を開けているおじさんのところまで、歩いて追いつく。何か運転手と話している。
その時、おじさんがこちらの方を振り向いて――振り向いた、ような気がした。
スマホをかざして、俺に向かって、ボタンを押してくれみたいなジェスチャーをしたような、そんな感じがした。
本当はどうだか分からない。
そもそもここの横断歩道は、昼間のうちはボタンを押しても勝手に動く仕組みで、すでに「お待ちください」が点灯している。俺は、困惑しながらボタンに近づいた。
その時に信号が変わって、収集車は行ってしまった。後ろの車も通りすぎる。
俺はそれらを見送った時に、目の隅になにか妙な文字画面が引っかかっていることに気づいた。文字列、用紙、なんていったらいいんだろう。別に透けているわけでも、奥が見えないわけでもない。ゴミのような文字が視界の右奥に浮かんでいる。
何が書いてあるのかまったく読めないが、消えたりもしない。
なにか目に入ったかな、と思って何度か目を開いたり閉じたりして、涙を出そうと試みた。ところが動いたりもしない。
しばらく歩きながら、何度か目を凝らしてみると、それが「同意し、次に進む」という言葉を含んでいることが分かった。
なんの言葉かは分からない。
ただこのままだと、体調が悪くなる。そんな予感がした。別に自分の意思でこうなったわけじゃないのに、自分の意思で選んだことにしなければいけない感じ。なにかのボタンかもしれない。俺は空中で何度か腕を振って、その言葉を押せないか試みた。多分、周りからは泣きながら何もないところでダンスを踊っているように見えたかもしれない。
けれど、言葉は消えない。
もしかして、これはもう学校に行くなと神が告げているのではないか。俺はさっきの収集車のおじさんを思い出した。あれはもしかして未来の俺で、今日は行くべきではないというメッセージを送ったのではないか。それとも全く関係がなくて、朝から調子良く感じていたのはすべてニセモノで、自分はほとんど動けない状態だったことに今、気持ちが追い付いたのではないか。
俺は道端にうずくまった。
その瞬間――今度は間違いなく、「利用規約」という文面が視界を覆った。
あの例の「画面」とは少し違う、目の奥にそのキヤクが入り込んでいる。何か気持ち悪いものが潜り込んで、体と一体化している。
利用って、なんの?
たとえばゴミ収集とかも、利用と言えなくもない。学校もそうだ。そうだ、あのおじさんがやっていたスマホゲー。あれはスマホゲーだった。それから、それから、この体もそうだ。
でも、誰に対してやくそくするんだ。
胸の奥からこみ上げてきたが、なにも吐き出せない。なんでもいいからおわってくれ、と祈っても、目から離れてくれない。それで、ちょうどバス停のベンチがあったので、休むことにした。
しばらく深呼吸を繰り返す。すると、やがて何もなかったかのように、すっきりした気分が戻ってきた。
目を何度か開いたり閉じたりしていると、あの文面がすっかり剥がれ落ちたように消えている。目を擦って確かめる。
まったく無事だ。
その日は遅刻したけれど、久しぶりに学校に行けた。
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