憧れ - 2

 何を言ったのかは覚えてないけど、記憶が残らないほどに頭に血が登ってしまって、その衝動任せに何かを言っているだろうから、酷いことを言っていないわけがない。それがとても情けなくて、恥ずかしくて、申し訳なくて。ただ反省を繰り返すような日々を送っていた。


 ショックがひどすぎて、食事も喉を通らなくなった。学校に行く気力も失せてしまった。部屋から出るどころか、ベッドから動くこともままならなくなって。当然、あんなに足繁く通っていた海まで歩くことも、全くなくなってしまった。


 母さんはなにかあったんかと親身になって聞いてくれるけど、いざ正面切って聞かれると何も言葉も出てこなくって。情けないったらない、そんな自分に苛立ちもした。


 天も高くなり、夏の暑さもなりを潜めた彼岸過ぎの頃。両親はそんな状況が暫く続く僕を心配してくれて、父さんが一日休んで様子を見てくれることになった。母さんは仕事が繁忙期なのと、今年の有給消化分は使い切ってしまっていたということで、休むに休めない状況らしい。


 父さんは仕事を休んでまで僕の心配をしてくれているというのに、口を開ける気なんか、起こりそうな気がしなかった。父さんは父さんで自室でのんびりとしていて、話しかけるに話しかけられなかったというのも、間違いなくある。


「飯食いに行くぞ。準備をしろー」


 時計の短針が十一時を指した頃、父さんの間の抜けた声がした。でも、一切にも動く気になれない。大人げないなと思うけれど、動かないものは動かないのだ。


 やがて、父さんが僕の部屋に押し入ってきた。何事かと構える僕を、両腕に抱きかかえて拉致していった。お姫様のように抱えられながら、僕は車の座席へと押し込められる。


 そして車は街中を通り、東へ東へと進んで行く。父さんには、海で会った友達の話はしていないはずだから、特に意図したものではないだろうけど。


 やがて車は、父さんのお気に入りの蕎麦屋に吸い込まれていく。後部座席から僕を両腕に抱えて下ろそうとしたけど、流石に恥ずかしいから自分の足で降り立った。


 海の音が近い。ざざ、ざざと、意思もなく繰り返す音が聞こえる。彼女と話している時にはまるで意識もしなかったのに、今は、うるさいほどに耳の中でさんざめく。無意識に僕は、海の方へと視線を向けていた。父さんは僕が父さんのほうに向き直るのを待ってから、先導するように店に入っていった。


 店に入ると、横に広げたメニューを二人で眺めていた。僕は月見そばを、父さんは普通のそばに、大量の天ぷらを頼んでいた。健康診断、大丈夫だったのかよ。僕は、内心つっこみを入れずにはいられなかった。


 料理が一通り届くと、父さんは頼んだ天ぷらのうち、野菜のかき揚げとか、なすとか、野菜系のものを一通りさらっていった。その後に海老天を一つつまんで、「ほら、食え。長生き出来るぞー」なんて宣いながら、僕の方へと差し出す。


 他にも烏賊だの鳥だの卵だの、いろんな天ぷらはあったけど、不思議なことに、魚の天ぷらは一つもなかった。父さん、鱚天とか好きだったはずなのにな。


 お昼のテレビの笑い声がお店の中に響き渡る中、僕らは店を出た。店の中では聞こえなかった、波の音がまた僕の耳にさんざめく。ざざ、ざざと意思のないはずの音が、なんだかうるさく感じる。


 車に乗り込み、家に帰る。今度は街中じゃなくて、海岸沿いの堤防の上を、窓を開け放ちながら走った。潮の匂いのはらんだ風が、強く強く僕の頬を打ち付けていく。


 海浜公園に車を停めて、父さんは「トイレ行ってくる」と言って、僕を置いて去って行った。僕も休憩がてら外に出て、うんと伸びをする。背中の緊張が、伸びる程に解けていく。


 いつか彼女と話した港が遠くに見える。あの浜も、また遠くに見える。それらを線で繋いでみて、その線を水平に動かしながら海を一望してみるも、水面近くを泳いでいるような波の飛沫は見られない。


 そんな僕の首筋に、冷たい缶が押し当てられる。びっくりして翻ると、両の手に缶を二つ持った父さんがそこにいた。


「何か、探し物か」


-そんなんじゃないよ。


「見つけにくいものですか」


 そう言いながら父さんは缶を開けて、大きく上を向いて一息に飲み込む。吐き出しながら、行ってみたいと思いませんかと歌う。それに続くように、僕も渡された缶を開けて、少しだけ、口に含む。


「喧嘩でも、したか」


-そんなんじゃないって。


 もっともっと、ひどいものだと、口からうっかりと溢れてしまう。吹き付ける海風の中にかき消えて、父さんには届いていませんように。


「そうか」


 そう言って父さんは、隠し持っていたらしいもう一つの缶を開けて、くいと一口だけ口に含んだ。それを喉へと押しやったあとに、父さんは言葉を続けた。


「母さんがな、とてもうれしそうに話してたんだ。お前に友達が出来たって、それも、女の子っぽいって。その後にお前が塞ぎ込んで、部屋からも出てこなくなったとあれば、それが一番考えやすいと思ったんだけどな」


 僕はそれを否定できない。肯定もしづらいから、押し黙ることしか出来なかった。


「その子と出会ったのは、どのへんだ?ここから見えるか?」


 僕は遠くに見える浜辺を指さした。そして、あそこで打ち上がっていたところを、助けたんだって答えた。


「なるほど。いつか母さんが、制服を海水まみれにしたとかなんとかで怒っていたことがあったっけ。そんなことをしていたのか。人命を救っていたんだろう、変に誤魔化すこともなかったろうに」


 父さんはまた缶に口をつける。僕も続くように缶に口を付けて、


「可愛い?その子」


 ジュースの奔流に遭いむせ返る。慌てて否定しかけたけれど、あれ、それも違うような。父さん、不意打ちはよしてよ。


-可愛い…んだと思う。僕にはよくわかんない。


「そうか。どんな子だったんだ」


 …なんかやけに彼女のことを聞いてくるな。僕はどこかムキになりながら、彼女のことを思い出していく。


-懐っこくて、笑顔に溢れてて、表情がころころ変わるんだ。愛嬌があって、クラスの人気者になってそうな雰囲気だった。それにとても好奇心が旺盛でさ、僕の話の一切を、目をキラキラと輝かせながら聞いてくるんだ。彼女の話もさ、僕の常識では計れないような、面白い話ばっかりでさ、話してて面白かった。でも、僕のことからかう悪癖があってさ、その度に怒って、軽く謝られて、赦してあげて。そんな事ばっか繰り返してたような気がする。


「なるほど。本当に大切な友達なんだな」


 大切な、友達。そうだ、僕にとっては、彼女の代わりなんてない、かけがえのない友達だ。それを自覚した瞬間、あんなに動かなかった体が、今にも暴走をはじめて、あの浜の元へと駆けていきたい衝動のようなものが、全身を駆け巡っていった。


 僕は父さんの方に向き直った。父さんはこちらを見やると、察したように柔らかく微笑んだ。


「ま、早いとこ仲直りするこったな。んじゃあ…学校行くか?」


-いや、帰ろうよ。昼も過ぎた今、もう学校に行ってもさって感じやし。


 父さんは、そうだなといたずらっぽく笑って、二人で車に乗り込んだ。やるべきことは、もうちゃんと分かってるし、やれるだけの勇気は準備出来たつもりだ。あとは、行動に移すだけ。


 車を走らせながら、父さんは不意につぶやいた。


「そういやあのへん、人気の殆どない場所だよな。それに言い伝えによると、網にかかった人魚が揚がったのもあのへんだって言われてるな。何かの偶然かな」


 父さんはもしかして、僕の友達の正体に気付いているのだろうか。ごうと吹き付ける風を浴びながら、僕は太陽の光を照り返して煌めく海を眺めていた。


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