知り合い - 1
昨日のことが夢だったなら。次にあの浜に行く理由もなくなってしまうだろう。それだけでどこかそわそわとしてしまって落ち着けなくって、今日も帰りに浜辺に寄る。
昨日は大量の海水をシャツにもズボンにも引き連れて帰ったので、やはりというか、酷く怒られた。まあでも、昨日は仕方ない。僕はあまりにむしゃくしゃしていて、泳げもしないのに海に飛び込んだんだから。
そんな嘘の経緯を聞いた母の顔が、心配そうに歪んだことをよく覚えている。人魚を介抱していたなんて言えなくて、ついた嘘で余計な心配をさせてしまったらしい。僕はなんでもないってごまかしたけど、そのことも更に、僕の心を苛んだ。
身を隠しながら、と言っていたからある程度の深さのある所にいるかもしれない。すると、あの消波ブロックに囲まれたあそこらへんがいいかな。不安と期待を綯い交ぜながら、僕はそこに急いだ。
しかし、僕の予想は大きく裏切られることになる。目的地に着く前に、波打ち際に打ち上げられた人魚を見つけたのだ。あんまり地上人に存在を知られたくなかったんじゃないですか?
心底呆れ返りながら僕は彼女の元に近づいていく。肩をとんとんと叩いてやると、ゆるりと両腕が動き出した。昨日とは打って変わって反応が良い…と思ったけど。
「やだ…もうあかんて。そんな食べられやん言うてるやんな…」
などと宣いだしたので、僕は再び頭を抱えた。寝てるんかい。しかも、これまたベタな寝言を言いながら。
無理に起こすのも悪く感じて、僕は彼女に背に帰ろうとする。昨日の事は夢でも幻でもなかったし、次に来た時には徒労に終わることはきっとないだろう。踵を返した直後に、僕の足首がはっしと掴まれる。
「うー、ん?ありゃ。やっほ。昨日ぶりだね」
-すみません。気持ちよく寝ていたところを、お邪魔したようで。
挨拶もほどほどに、彼女は大きく伸びをする。寝起きに伸びをすると気持ち良く感じられるけど、どうやら人魚も同じらしい。亜麻色の髪にたっぷりと含まれた海水が滴り落ちては、透き通った肌を這っていく。
「で、どしたんさ。それとも気持ちよく寝ている私を起こしておいて、お土産の一つもないわけ?」
そう言って彼女は眉を顰める。責めるような言いぶりに、僕はたじろいだ。
-いいや、そんな、邪魔するつもりはなかったんです。ただ、その…風邪、引くんじゃないかなって。
なんだかばつが悪くて、思わず言い淀んでしまう。だから、貴方が人目につきたくないって言ってたのを気にしてたって、つい言いそびれてしまった。
そうやって慌て気味な僕を、深い真黒の瞳が見つめている。その双眸は黒く染められた真珠のようにどこまでも透き通っていて、魅入っているうち、不意にどきりと心臓が跳ねる。
やがて彼女は、吹き出したように笑い出した。ばつが悪くてそわそわとしている僕とは対照的に、一切にも悪びれることはなく、ただ屈託なく笑っている。
「あはは、ごめんごめん。からかっただけやって。代わりにさ、なんか一個、話きいたげる。ほら、聞かせてよ。君の話」
そういって、彼女は波打ち際に体を押し付けるようにねそべって、顎を両手で作った杖の上に乗せる。いきなりなにか話をせがまれても。面白そうな話を探してみるけれど…ダメだ。流石に昨日聞いた伝承の話しか出てこない。
「むー。じゃあさ、なにか聞きたい事ある?私が分かることなら、なんでも答えてあげるよ」
聞きたいこと、ね。であれば、昨日は聞きそびれてしまった分、いくつかストックが残っている。
-…昨日、打ち上げられた貴方を介抱してたとき、貴方は陸上では息出来きてそうだと思ったんです。
「はい、ストップ」
-…はい?
突然のことで、僕は困惑する。まさか、僕の質問の内容が先読みされて、それは答えてはいけない類のものだったのだろうか。僕は、彼女の言葉を待つ。
「
友達、ね。うん。僕にとっては、昨日出会ったばかりの人-いや、人魚だけど-相手にタメ口で話すのは少々ハードルは高いけど。僕も敬語で話すのも、堅苦しくて好かない。貴方がそれで良いと言うならと、僕も口調を砕いていく。
-それじゃ、お言葉に甘えて。
そして僕が口調を戻すと、貴方の顔が綻んでいく。なんだか気恥ずかしくなって、僕は目を逸してしまう。
-…話を戻すけど、陸では呼吸が出来るんだよね。
「うん」
-海の中では大丈夫なの?
「あー…私は無理かな。種族によっては出来るらしいけどね」
そうなんだ。なら昨日、波に晒されて呼吸が出来ないかも、と思ったのは間違いじゃなかったんだ。
-あと、日焼けは大丈夫なの?
「日焼け?」
-いや昨日も今日も、まだ日が高い頃に打ち上げられてたよね。太陽の光、きつくなかったのかなって。
彼女は顔に?を描きながら逡巡している。やがて、苦笑いを浮かべながら、
「ごめん、わかんない。心当たりもないや」
なんておどけてみせた。人間、こんなにも表情がころころと変わるものなのか。いたずらっぽく笑ったり、わざとらしく頬を膨らませたり、後ろに倒れこむほど笑い転げたり。笑ってばかりいたけれど、そのどれもが同じに見えないことに、僕は心底驚いていた。
彼女が大口を開けて笑う度、その中に鋭いぎざぎざの歯が無数に生えていて、やっぱり人間じゃないんだなって思う。けれど、話していて心地いい。話を聞いていて面白い。こんなことが、僕にもあるんだとひたすら感心していた。
陰気な僕の友達としてはなんだか騒がしいけれど、こういうのも悪くない気がしていた。
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