出逢い - 1

 波打ち際に打ち上げられた人のもとへと、僕は急ぐ。浜そのものはそこまで広くないが、そのほとんどは乾いた砂でできていて、踏みしめても踏みしめても、力が何処かへ逃げていく。走りにくいことこの上ない。しかし、そうも言っていられない。あの人の呼吸が止まっているなら、一秒でも早く措置をしたほうがいい。


 ようやく打ち上げられた人の元にたどり着く。うつ伏せた状態で倒れ込むその人に、まず意識があるかを確認する。日に曝され、紅く腫れた肩を軽く叩くが、反応は無い。


 次いで海水をたっぷりとはらんだ亜麻色の長い髪をかき分けて呼気を確認する。顔は整った女性のそれで、口許に近づいていくのは、少々の勇気が必要だった。


 意を決して、頬を近づけると、浅いながらも息遣いを感じられた。よかった。人工呼吸は必要になさそうで、僕は安心した。


 心音も一応に確認する。本当は胸元に耳を当てて確認するほうが良いのだろうが、意識の無い人の姿勢を無理に動かすのもリスクに感じられた。


 決して、曝け出されているだろうおっぱいや、それらが作り出す谷間に、耳や頬を押し当てるのは気が引けるなどと、やらしい考えを持っているわけではない。断じて、ない。


 動いているのがわかれば良い、というか、分かってほしいと念じながら、背中に耳を当ててみる。遠くにとくとくと拍動する音が聞こえる。こちらも、問題はなさそうだ。


 しかし、うつ伏せたままの状態では呼吸し辛いに違いない。どうしたものかと考えた時、学校で参加させられた応急処置方法の講習のことを思い出す。


 あの時は役立つ日が来るのだろうかと、そして同時に、来てほしくはないものだと思ってはいたが、まさか今に役立つ日が来るとは。回復体位とよばれる姿勢の存在を思い出し、うろ覚えの記憶を掘り起こしていく。ええと、どんなだったかな。


 柔らかな肌を失礼しながら、体を横向きに寝そべらせる。その時になってようやく僕は、彼女の下半身が、人間のそれと違うことに気付いた。真空色の鱗がびしりと並んでいて、股がなければ足もなく、代わりに大きく立派な尾鰭おびれが、横向きになってついていた。


 その時、なぜかは分からないけれど、まるで頭に電撃がほとばしったように、いつかテレビでみたイルカのことを思い出していた。


 彼らは海中で生きる動物であるために、日常的に長い間、直射日光に表皮がさらされることはない。


 だから皮膚が日光に対してそこまで強くは出来ておらず、彼らが一度打ち上げられてしまえば、表皮が日に灼けて火傷を負い、熱でみるみる内に弱っていってしまうのだ。


 日本の真夏の日ざしでもそうなるのか、彼女にとってもそうなのか。僕には分からない。分からないけれど、その熱が原因で弱っているのだとしたら、まだ茜にも染まらない暮れかけの日を、ちょっとでも和らげてあげないといけない。


 テレビで見たイルカたちはホースか何かで背中から水を浴びせられていた記憶があるが、そんなもの、海水浴客も、潮干狩りの客すら近寄らないこのただの浜辺に、あるはずがない。


 バケツも家に帰らなければないし、往復するのに三十分はかかるだろう。その間に、もっと酷いことになるかもしれない。近所の人は状況が状況だけに頼りづらい。なぜ、突然にバケツが必要になるのか、説明出来る自信が全くない。人魚が打ち上げられているんだ、なんて、誰が信じられるのだろうか。


 イルカやジュゴンが打ち上げられてて、それに水をかけてやるんだと言えたなら良かったろう。が、生憎とここの海で彼らの姿を見る事はまずないために、嘘だと見え透ける。


 海のもうちょっと深いところに放してやるか?とも考えたが、これもまたリスクが大きい。


 イルカも海で生活しているものの、べらぼうに肺活量が強いだけで、その実体は肺呼吸する生き物だ。


 海中での呼吸は出来ず、息継ぎをするためにわざわざ海面近くで生活するような生き物なのだ。下手に海に放してやれば、彼らだって溺れてしまうだろう。


 ここにいる彼女もそうかもしれない…というか、浜辺に打ち上げられてなお呼吸が出来ているということは、肺呼吸である可能性が高いように思える。


 蛙のように肺呼吸でありながら水中でも呼吸の出来る生物であれば良いのだけれど、未知の生物に対して、そんな確証は持てない。


 知っていることは、ただ、頭頂から、体に這う髪ごと、尾鰭に至るまでの全てが美しいということと、その肉が美味しいらしいということだけ。


 僕は必死に頭を回した。やがて着ていた制服のシャツを脱ぎ捨てて海水に浸し、彼女の上半身にかぶせかけた。


 下半身も同じようにしてやりたいところだけど、あいにく、これ以上に使えそうなものはない。こっちは水に浸かっても窒息の心配はないので、打ち寄せる波に任せる事にする。


 日が傾きかけているとはいえ、世界は真夏の炎天下だし、水を含ませているのは、保水力に優れないポロシャツである。あっという間に乾いてしまうので、その度にまた海水に浸して肩にかけてやる。


 何度か繰り返すうちに、日照りも橙に和らいでいく。それでも暑さはどうにもならなくて、頻度こそ減ったものの、シャツを海で冷やして掛けてやる事を続けた。


 潮の満ち引きも厄介だった。ちょっとばかりなら問題ないとも思っていたが、潮は僕の予想よりも遥かに近くまでやってきて。


 このままでは、浅い呼吸を繰り返す口が、海水に埋まってしまいかねない。


 無闇に動かすこともかなわないから、何かを敷いて頭を多少上げて、口元が海で海に浸からないようにしてやる必要があると思った。大きな流木でもあればよかったのだけど、近くには見当たらない。


 仕方なく僕は砂浜に膝を正し、その上に頭を乗せてやった。後できっと母さんに怒られるけど、むしゃくしゃしてたから海に飛び込んだと言い訳しておこう。


 やがて、膝の上で彼女はゆるりと目を開く。膝も半ばまで海に浸からせながら、僕は酷く安堵した。直後、みるみるうちに彼女の顔から色が失せ、体をこわばらせながら涙を流した。うわ言のように何かを呟いていた。


 酷くショックだった。でも、伝承の中にいる彼女の仲間も、同じ反応をきっとしていてたのだろう。その後に見事に五体を捌かれて、そして食べられてしまったのだ。


 こう怖がられることは仕方のないことなのかもしれないと、僕はひたすらに、自分に言い聞かせつづけた。

 

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