人魚伝説を聞いて

 …というのが、僕の住む街に伝わる人魚伝説らしい。伝承の生き物の肉といえば、八百比丘尼やおびくによろしく不老不死になるとか、不思議なことが起きそうなもんだけど、うちの場合はそうでもないらしい。


 しかし、どこまでが本当の話なのだろうか。忠盛という名前は出てきたけれど、彼が実在した人物だったのかは、調べてみないことには分からない。


 そのうえ、この話は伝承にしては重苦しく、まるで自伝のように語られているのも気になる。識字率の高くなかっただろう昔の日本で、一介の漁村で暮らす一介の農民が、こんなものを文字に書き留めて残すことが出来たのだろうか。僕には、そうは思えない。


 今回は地元の伝承に触れようということで、半ば強制的に連れられて話を聞いていたが、歴史ですら学ぶことに猜疑的な僕にとって、伝承を学ぶことは、更に意義の薄い物に思えていた。本当かウソかを検証しにくいものを、どうして学ぶ必要があるのだろうか。僕には、到底理解が出来ない。


 退屈な話が終わり、僕はうんと伸びをする。どうだった?と聞かれても、どうとも感想はでてこない。僕の関心はそんなことより、より便利で、より面白い未来の世界にこそある。それを実現するためには、現在の世界をより深く理解し、適切なサービスを考える方が良いに決まっている。


 例えば、スマートフォンのように。二十年程前からユビキタスネットワーク社会というものが提唱されはじめ、いつでもどこでもネットワークに接続出来、そこからサービスを提供したり、知識を集めたりする事ができる社会が構想されていたらしい。


 当時はインターネットは家庭や職場にのみ引かれているのが当然であって、出先や外でインターネットに繋ぐ事など、想像出来た人間の方が少ないだろう。


 また、ノートパソコンも黎明と発展の途上にあって、誰もが、手軽に、どこでも、という点においては、非常にハードルの高いものだったに違いない。


 それが、どうだ。今や三大通信キャリアの不断の努力により、四世代、いや、五世代移動通信網か。が整備され、外出先でも、自宅にいるのと差を感じないレベルの快適さで、インターネットに接続できるようになった。


 そして、当時のノートパソコンよりも、小さく、軽く、高性能で、かつ安価なスマートフォンの台頭により、外出先でのコンピューティングも、より身近なものとなった。二〇〇〇年代初頭の夢物語は、二〇二〇年代初頭には実現してしまっているのである。


 そして、このユビキタスコンピューティングの普及は、思いもよらない新たな可能性を僕達に、あるいは世界に提示したんだと、僕は思う。その結晶が、SNSやブログ、掲示板に散りばめられた集合知だったり、ビッグデータを活用したAI技術だったり、メタバースなんだ。


 こいつらがそうであるように、僕達や世界により面白いものを提示してくれるのは、より便利な世の中にしてくれるのは、サービスと、それを実現するための技術に他ならないはずなのだ。


 しかし、僕のクラスの奴らは、そんなものはあるのが当たり前の話だと思っていて、きっと関心など向けていないのだろう。


 耳に入ってくるのは専ら、どのクラスの誰が可愛いとか、あの学校に可愛い子が多いとか、惚れた腫れた振った振られたヤッたデキただの、くだらない話ばかり。


 そんな奴らとも一度だけ話したことがあるが、僕の舌がゆたかに回るほどに、奴らの顔が苦く歪んでいったのをよく覚えている。


 君たちが楽しそうに話しているそんなもので、よりよく、便利な社会など実現し得ないだろうに。面白みを感じられないのは、君たちの方じゃないか。一方の僕は、苦い顔をして話を聞かれながら、そんなふうに考えていた。


「人にもっと興味を持ちなよ。人は、一人では生きていけないんだから」


 そんな忠告を、一度されたことがある。人に興味を持ったところで、それは僕に何をもたらしてくれるのだろうか。それが分からない今、素直に従おうとは思えない。


 世界は、技術は、こんなところまで進化し続けているのに、いつか社会に出て働く僕が、その世界に対して貢献が出来るのか。全く自信が持てない僕は、自信をつけるために勉強したほうが良いと思っている。


 世界はこんなにも便利で、技術は複雑になって行ってるのに、その世界や技術に対して、僕は僕の能力を通用させられるのだろうか。


 僕はこんなに不安でいるにもかかわらず、僕よりも頭の悪そうな奴らが、そんな事を気にする様子をおくびにも見せないのが、なんだか腹立たしい。


 ある日、僕は学校からの帰り道に、散歩に出掛けていた。ある賢人曰く、散歩をしているときに、素晴らしいアイデアに巡りあったり、自分の考えを整理したり出来るらしい。効果の程は分からないが、とりあえずやってみよう、と、ここ一年ほど続けている。


 どうせ両親共に働きに出ていて、遅くに帰っても気付かれる事の方が少ない。だったら別に、学校帰りに散歩をしても、特段問題はないはずだと思い立ち、今までは休日にしかしない散歩を、学校帰りついでにしていた。


 僕の家からはやや遠いが、海に沿って建てられた堤防を歩みゆくのをとても好いている。冬は吹き付ける風の寒さに耐えかねるし、時折通る車を避けるのも面倒だが、そこになだれ込む波のさざめき声に傾けているたび、自然と心が落ち着いていく。


 人の声には意思を感じられて、それらがぶつかってさんざめいて。時折それらが正面からぶつかり、根比べをしている時など最悪だ。


 それらの意思のぶつかり合うのを聞いていると、どっちの主張も正しいように聞こえて、真に正しい意見が見えなくなってしまう。


 その度に、僕の目指すべき理想の像から遠く、遠く離れてしまうように感じて。その感覚が、あまりにもいけ好かない。


 でも、波の音に意思はない。ただ淡々と、ざざ、ざざと繰り返すのみである。この繰り返しが、たまらなく心地良いのだ。


 今日は、その音を楽しむばかりにもいかないようだ。波打ち際に、人の打ち上げられたのを見てしまった。


 僕は半ば反射的に、その人の元へと駆けて行った。その時の僕の行動が、今後の僕の価値観を大きく揺るがす事になろうなど、知る由もなかった。

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