怖がっていたこと。

※2018年のnoteの記事の転載です。


 育児をしているせいか、ものすごくぼんやりしている。


 本が好きだったし、今も好きなのだけれど、集中して本を読むのが難しい。そもそもまとまった時間を取るのも難しいし、まとまった時間が取れても内容を把握して入り込むのに時間がかかるようになった。いつもどこかに力が入っている気がするし、望む部分に力を入れるのも難しい。でも字は読んでいたいので、Twitterとかばっかり見ている。といっても昔みたいにタイムラインの全部は追えないし、長文(140字しかないわけだが)はちゃんと読んでないことも多い。


 わりと自由時間のあるほうの親だ、と思う。夫が休みのときはふらふら一人でかき氷など食べているし、ときどきは友達と一緒に映画を観に行ったりもする。趣味の合う友達と評判も気にして観に行くので、今のところはずれたことはない。面白い映画ばかり見ている。「ゴースト・バスターズ」「エクス・マキナ」とか「メッセージ」とか。一番最近見たのは「オーシャンズ8」。軽くて豪華でとてもよかった。オークワフィナが好きになった。全員にドレスシーンあって嬉しかったが、もうちょっと見たかった。

 面白い映画を観て、終わったら「面白かったねー」と言い合って、美味しいもの食べながら好きな人と映画の話をする。最高に楽しい。楽しいのだけれど、それでもなんだかすぐに忘れてしまうんである。

 「ベイビー・ドライバー」なんか、若いころに見たらしばらく脳みそが「ベイビー・ドライバー」だっただろうし、それも十代で見たらベイビー(主人公)の真似とかしてたかもしれない、というかベイビーと同化してベイビーになっていただろうレベルでよかったのだけれど、見終わって一週間もしたら脳みそが「ベイビー・ドライバー」から脱した。というかあんまり思い出せなくなった。

 あたらしく仕入れたものについてもそうだし、昔から好きだったものもそうだ。ものすごく好きだったものを見ても、ものすごく好きだったことは思い出せてもその熱量を今の自分の中に探してもうまく見つからない。好ましいとは思うけれど、熱がない。なにもかもがぼんやりしている。ぼんやり。子供の姿だけが鮮明だ。というか、鮮明に見ていないと大変なことになる。そのために、脳の容量をめっちゃ持っていかれている。子供が可愛い。まじで可愛い。こんな可愛いものいる? 目も鼻も口も頬っぺたも顎も頭の丸みも髪の毛も全体の体つきも走り方も声もしゃべり方も眠り方も可愛い。あまりにも強烈に可愛い。そしてそれ以外の何もかもが遠ざかっていく。


 そんなふうにぼんやりしながらもずっと小説を書いている。書くものが変わったのかどうか。それはよくわからない。いや、本当は、変わったと思っている。どちらかというと私は読んだ人の精神にざくざく刺さっていくようなものを書きたいな……と思うタイプなのだけれど、なんだか優しくなったような気がする。人間の悪意とか、ひりひりするような感じとか、そういうものは今あんまり書きたくない。疲れてしまう。

 正直に言えば、子供を産む前は、そういう傾向を怖がっていた。子供を産んだ女性の創造性って、低く見積もられている、と感じている(多分創造性に限らないが)。私は自分の人生を創造性に、もっと言えば小説に賭ける、と勝手に決めていた。今でこそ一応一冊出版した本があるけれど、何者でもないときから、そう決めていたのである。そういう人間なのだ。対外的に何者にもなれなくていいけれど、とにかく私は私を書くことに賭けるのだと思っていたから、もし子供を産むことで世間が漠然と仄めかしているように創造性が減じるとしたら、私は私でなくなってしまう、と怯えていた。

 実際のところ、産んでも私の創造性は別に損なわれはしなかった。新しい経験をして、そして疲れている私、というだけである。育児は疲れる。私のそう豊かではない脳みその結構な部分を持っていかれてしまう。

 それでも私は書いているし、産んで、育児をしながら書いて、運よく本を出すことができた。今も書いている。私は私の書くものが、今でも好きだ。自分の少ない自由時間を費やして書くに値するものだ、と思う。昔のようなひりひりするものを書く機会は減ったけれど、書きたくても書けない、その能力がなくなってしまった、とは思わない。余裕ができ、そういうものを書きたくなったら、私はまた書くだろう。私はまだ自分の能力を信じられる。小説の創造性における客観的な尺度というものはないから、私が信じられるのであれば、問題はなにもない。


 今の私は「ベイビー・ドライバー」を見てもすぐにベイビーではなくなる。面白そうだけれど重ための映画や分厚い本は後回しにしてしまう。いつも疲れている。

 子供を産むこと、子供を育てることは大変だ。とても疲れる。軽いことではないし、軽く人に勧めるようなことでもないと思う。

 でも産んだところで、私が私でなくなるわけではない。私の創造性は減らない。私の書くものは変わるけれど、私は書き続ける。私は私の書くものが好きだ。

 怖がることはない。

 そう書いて、ちょっと違うな、と思う。怖がったっていいのだ。

 私は私の創造性が損なわれるかもしれない、という、過去の私の怯えも好きだ。私は自分のそういう極端さが気に入っている。

 怖がってもいい。でも大丈夫だ。

 そっちのほうがいい。

 子供を産んでいても、子供を育てていても、私はまだ極端なままで、私は私の書くものも、そして私自身も、気に入っている。

 大丈夫だ。


※これは2018年の記事です。今は時間的に余裕も増えてかなり悪意ある話も書けるようになりました。以前ここで書いた「殺人小説の書き方」もそうですし、「いい人じゃない」という悪意ある短編を書いて、それがR18文学賞の友近賞を受賞しました。


だから、大丈夫ですよ。

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