第11話 リンゴの花の下での約束
礼子は、ひとつの場所へ向かっていた。
シンが言っていた、
一人で出歩いたことなど、月都市に来てから一度もなかったが、何とか
植物科の入り口で学生ではないため止められたが、篠原技術研究所の娘で勉強のために見学に来たと、もっともらしい嘘をついたら、網膜照合だけですんなりと中に入ることができた。
校内を進むと、銀色の曲線を描く施設が目に入った。
大きすぎて球体かどうかは一目では分からない。けれど、そこが目指していたテラリウムだった。
(中が見えないけれど、ここがシンの言っていた植物園のはず……。よし。入ってみよう!)
礼子は、施設内へ歩みを進める。
一見無機質にも見えた、銀の壁の内側は別世界だった。
太陽光と見紛うほどの明るさで、春の日差しのような温かい人工光で満たされている。
目の前には、豊かな森が広がっていた。
地球の木々と同じような、やさしい緑の香りが鼻孔をくすぐる。
礼子は、夢で見たのと同じ風景に声を上げることも忘れ、大きなドーム内を仰ぎ見た。
しかしそこには、ドーム内であることを感じさせない、青空が広がっていた。
内壁に、人工光を発光する装置と、空を映し出すパネルが組み込まれているのだろう。
(すごい! まるで、本物の空みたい)
擬似空の下、本物の緑の木々が微かに揺れている。
さわさわと心地よい木の葉の音に混じり、のどかな小鳥のさえずりも聞こえる。それは、生きている証とばかりに礼子の心に語りかけてきた。
その方向に目をやれば、本物の小鳥が枝で羽を休めていた。
地球に似たなつかしい空気を大きく吸うと、礼子はゆっくりと、テラリウム内のさらに奥へ奥へと進んで行く。
緑のトンネルを抜けると、一番奥に白い花を咲かせた木があった。
「夢と同じ、リンゴの木だ!」
その木は白く可憐な花を咲かせていた。
礼子は自分の力で、ここまでこれたことを誇らしく思った。
(まだ、できることがある。
泣いて、何もかも諦めるのはもうよそう。変わるんだ。私も、シンも……)
礼子が、どうしてあれほど外に出たくなかったのか……。
それは、外で倒れることが怖かったこともあるが、何よりも失いたくない大切なものを見つけてしまうことだった。
自分がそう遠くない未来、死ぬかも知れないのならば別れがつらくなるから、未練は何も残さないほうがいい。
大人ぶってかっこつけていた少し前の自分を思い出し、礼子は恥ずかしくなった。
(周りの気持ちも、自分の気持ちも無視するようなのは、少しも大人じゃない)
目の前にある木が、きれいだと思う。
そんなあふれる気持ちを、我慢したりなかったことにしようとすることはもったいないことだと、やっと気がついた。
だから、シンにも気づかせてあげたかった。
(シンは、わたしが一番ほしかった言葉と優しさをくれた。大切な存在……。
だから、シンには自分をどうでもいいような、とるに足らない存在のように言わないで欲しい。
否定しないで認めてあげて。
それだけで、ずっと楽になる。
わたしは、壊れた
シンは、『シン』なのだから……。
同じ時をすごせるだけでいい。
けど、シンが人間になりたいなら、わたしはシンを人間にしてあげたいと思った。
だから、『人間』のように迷いながら進んで行こう?
ふたりで勇気を出せば、歩き出せるよ!)
その意味がシンならばわかると礼子は信じた。
あれは、礼子からシンへのメッセージ。
『わたしは逃げない。だから、あなたも自分から逃げないで!』
他の誰かじゃダメだ。
シンじゃなきゃ……。
迎えに来て!
ほら、夢に出てきたリンゴの花が咲いてるよ。
一緒に見ようよ、シン!
礼子は、白いリンゴの花を見上げ彼が来ることを祈った。
★
シンは、
(そういえば、園の奥の方にリンゴの木がなかったか?)
思い立って、シンは走った。
息が上がり、
額から汗が流れる。
(あの子は、なんて無茶をするんだ! 篠原博士も、ルーカス医師も心配してるのに!)
シンは、それが礼子らしさであることもわかっていた。
今まで、すべてを遠ざけ手放そうとしていた彼女は本当の礼子ではない。
生きている自分を否定し、
だから、せめて礼子には手術をし生きてほしかった。
外の世界には、彼女の望むものがきっとあるから……。
「礼子! やっと見つけた!」
シンの大声での呼びかけに、礼子はくるりと振り返った。
長い黒髪がふわりと広がる。
「シン! 遅いじゃない」
礼子は、目を細め満面を笑みを返した。
しかし、次の瞬間、彼女は胸を押さえ足元からくずれた。
礼子の体は、限界だった。
過度の疲労から、発作を起こしたのだ。
シンの目には、礼子が倒れる姿が、時間が止ま ったかのようにゆっくりと見えた。
背筋が、冷たくなる。
(ここまで来て、礼子を失いたくはない!)
その思いは、自然と彼の体を動かした。
倒れこむ礼子を、シンは確かに二つの腕で抱きとめたのだ。
「やればできるじゃない……」
シンの腕の中で青ざめる礼子は、苦しそうだったがどこか晴れやかな顔をしていた。
「俺を探してくれと言ったんだぞ! 俺が、お前を探してどうする!」
シンの流れ落ちる汗と荒い息を確認して満足そうに、礼子は笑った。
「だから、これが答えよ……」
礼子は、シンの頬に手を伸ばし、そっと触れた。
――― 奇妙な符号。
シンは両腕とも機械だった。
けど、胸に抱きついたとき鼓動が聞こえた。
あれは、幻なんかじゃなかった。
リンゴは剥けない。
でも、食べられる。
走れば、息も上がるし
汗もかく。
無表情に見えるようで、
よく見ればちゃんと、表情が変わってる。
ほら、今だってこんなに心配そうじゃない?
「シンは、最初から『人間』だった」
礼子自身もいつから気づいていたかはよくわからない。けれど、シンが人間だったらいいのにと思ったあたりから、疑っていたように思う。
けれど、シンが人間でなくてもこの気持ちはかわらなかっただろう。
「シン、自分で見つけないとだめなの。
前に進むためには……。
あなたは何も出来ない
シンは、シンだよ……」
シンは、礼子の言葉を聞きながら、発作が起きたときの薬を飲ませた。
今まで、使うことをためらっていた
「もう、いいからおとなしく……」
「あなたは泣いていたわたしの傍にいてくれたし、リンゴも剥けるわ。
わたしが、欲しかった言葉をくれた。
今も、しっかり抱きとめてくれている。
だって、それはすべて『シン』がしてくれたことだから……」
シンの腕の中で、苦しそうに息を継ぎながらだったが、礼子は微笑んでいた。
「あなたは、役立たずなんかじゃない……。ちゃんと生きてるよ」
「それを言うために、こんな無茶を?」
シンは、怒ってよいのか呆れてよいのかわからない。
ただ、 今まで抑えていた感情が、あふれてくる。
それは、彼に生きていることを感じさせた。
ただの慰めではない言葉で、誰かにずっと『自分が必要だと』だといって欲しかったことを、シンは今はじめて自覚していた。
「わたしは今、こんなに苦しくても死ぬ気がしないよ。
だって、シンがわたしの思い出となんか一緒に過ごせないっていったんだもん、
忘れられないように生きるしかないじゃない? 」
薬が効いてきたのか、礼子の呼吸が落ち着いてきた。
彼女は、大きく息を吐くと頭上を指差した。
そこには、テラリウムの暖かな日差しの中で今が盛りとリンゴの花が咲いていた。
白いリンゴの花の下に二人はいたのだ。
「この木に、真っ赤なリンゴがなる頃にもう一度来ようね。
ふたりで歩いて。
手もつないで、恋人同士みたいに」
「ああ、約束しよう」
シンは、礼子の手を取りうなずいた。
晴れ晴れとした、新しい朝日のような笑顔。
礼子は、そんなシンをまぶしそうに見上げて目を細めた。
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