第9話 機械人形は走り出す
礼子の体調が回復してきたと聞き、シンが行くと、篠原博士が慌てふためいていた。
「篠原博士、どうしたんですか?」
「礼子がいないんだ!」
動揺を隠せない博士にシンは聞き返した。
「外へ行ったのでは?」
「それならそれでもいい。けれど、
礼子が左腕につけていた銀色のブレスレットは窓辺で輝いていた。
「生体管理端末を身につけていれば、体に異常があったとき、すぐに治療が受けられる。それをわざわざ外して行くなんて何を考えているんだ……。
もう、逃げだすようなことはないと思っていたのに」
篠原博士は、椅子に腰を下ろし頭を抱えた。
「礼子が逃げ出す?」
「君も気づいていたとは思うが、あの子は手術を嫌がっていてね。それでも、手術を受けることが私の願いだったから、怖い気持ちを我慢して受けようとしていたんだ」
ふさぎがちで、手術をうけたらそこで全てが終ってしまうと考えているような娘の心を察し、このままでは成功する手術も失敗してしまうのではないか? と危惧していた。
礼子が心から手術を受けて健康になりたいと願うことが大切なのではと篠原博士は考え、ルーカス医師と相談し月へ来た経緯があった。
「月は重力の調整がしてある地区が多く、礼子の体の負担が軽くなる。手術までの時間を少し延ばして考えることが出来るから……」
そう思ったんだが……と、博士は頭を掻いた。
いつも落ち着いていて温和な篠原博士も、娘のこととなれば平静を保つことはできなかった。
「心当たりはないんですか?」
「私には、わからない……。私より、君の方が礼子のことを知っているように思う」
篠原博士は、立っているシンをすがるように見上げた。
シンは、意味がわからないという様子で眉を動かす。
「君が来てから、あの子は変わった。目が生き生きしていた。二人でいるとシンには悪いが、礼子がおせっかい焼きのお姉さんのように見えたよ。君の方が礼子より、3つも年上でお兄さんなのにな」
篠原博士は、思い出しながら静かに笑った。
「君に会う前の礼子だったら手術前に逃げたしたかもしれないが、今のあの子がそんなことをするとは思えない。
ここにいないのは、何か意味があるんだろう」
篠原博士は、ため息とともに項垂れた。
シンは、礼子のいない部屋をぐるりと見まわした。
飾り気のない白い部屋は、礼子がいないだけでいつもよりひどく広く感じられる。
部屋は、簡素で小物などもあまり置いていない。
数少ないインテリアに、テラリウムの緑のドームがある。
よく見れば、そのテラリウムの脇に礼子の銀色の腕輪が残されていた。
シンは、先日の礼子の様子を思い出す。
『シンの言ってた場所に連れて行って』
『木も小鳥も本物なんでしょ? わたし行ってみたい!』
リンゴを頬張りながら楽しげに言っていた礼子。
しかし、急な発熱でその場所へ行くことは叶わなかった。
――――
その場所を教えたのは、誰でもないシン自身である。
(まさか、月大学のテラリウムへひとりで行ったのか?
ひとりで外に行くのは怖いと言っていたのに……)
礼子は、病み上がりのうえに、大きな手術も控えている。
月都市に来てから今まで、ひとりでの外出することもなかった。
なのに、なぜひとりで
礼子が何を考え、どうしてそういう行動をとったのか考え出すと、シンの脳裏には、礼子と一緒に過ごした日々が鮮やかによみがえってきた。
透明な涙。
赤いリンゴ。
かがやく笑い声。
やさしい温もり。
ちいさな鼓動。
長い黒髪。
強い瞳。
――― 『シンも一緒に歩いて行こうよ!』
その言葉と共に、機械の腕に与えられた温もりは今もシンの胸に刻まれている。
人間でも
『シン』という存在を認め、ともに歩もうと言ってくれたのは、病と闘うか弱い少女だった。
あの事故からシンの世界は色あせて、何の興味もわかなかったのに、万が一にも礼子が世界から失われると考えるとあまりにも理不尽だと思った。
シンは生きているのか死んでいるのかわからないような自分より、礼子を生かしてやりたい、力になりたいと思うようになっていた。
リンゴが剥けるようになったのは、たぶんその時だ。
灰色の世界に、礼子とリンゴだけが色がついて見えた。
「礼子はきっとどこかでシンを待っているんだろう」
篠原博士は、娘がしようとしていることに思い至った。
眠り姫の魔法を解いたのは
そして、今、
「君が自分の足で、自分の意思で迎えに来てくれることを……。
どうかあの子を見つけてやってくれ」
そう言って、篠原博士は
*
篠原博士の言葉に背を押され、シンは確信を持つ。
礼子は、
――― 『シン、遅い! わたしを待たせるなんて許さないんだから!』
頬をふくらます礼子の顔を思い出し、シンは弾かれたように部屋を飛び出す。
急に動いたため、油切れした機械のように足の関節が軋み足がもつれる。
大きく体が傾いだが、右手で床を支え踏みとどまりその勢いでさらに一歩足を力強く踏み込む。
(――― 動け!)
動きの悪い足を叩けば、そこが鞭打たれたように熱くなった。
事故以来、リハビリといえばリンゴの皮むきくらいで何もしていなかった。
それまでは訓練で毎日鍛えていた体だと言うのに。
そのことをシンは後悔したが、後悔できる自分に驚いた。
あのとき、自分は死んでしまった。
ずっとそう思い込んでいた。
世界に自分は不要だと思い、自分の命に執着がない自分を受け入れてしまった。
今ここにあるのは、生きることを諦めたなれの果て、抜け殻みたいなものだ。
だから、心などないし、世界は色あせて見えた。
世界と言う輪の外に自分はいると思っていた。
なのに……。
胸に手を当てると礼子を見つけなければと焦る気持ちと同時に、力強い鼓動を感じた。
前へ前へと足を運ぶうちに、体が滑らかに動き出すのにそう時間はかからなかった。
あの冷たい両腕が、自然と振れている事など気づきもせず。
流れる汗をぬぐうように、吹き抜ける風が心地いい。
息が弾むが、走る勢いは加速する。
シンはテラリウムへ向かい、大きな
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