1-8-2. くっつき合ったり離れたり(章悟Side)

 先輩に連れられた僕は、あるアトラクションに乗ることになった。


 俗に言う「観覧車」だ。正確には「何とかホイール」という名前みたいだけれど、今、そんなことはどうでもいい。


 扉が閉められてゴンドラが上昇を始めてから、すでに数分経っている。待ち時間の間に日は暮れ、辺りはすっかり暗くなっている。普段だったら家に帰って夕食の準備をしている時間帯だ。


「見えてきたよ!」


 窓に顔を近付けている先輩が示した先には、海沿いの夜景が広がっていた。しかし、今の僕にはそういった光景を楽しむ余裕は無い。


 薄い照明がほのかに輝く狭い空間の中で、二人きりなんだ。


 さっきまでつないでいた手を離した状態で、隣り合わせに座っている。物理的な距離は遠ざかったはずなのに緊張感が高まってしまい、僕の方はゴンドラに乗り込んでから一言も発していないのだ。


「あの橋……何だったっけ? 何ブリッジだっけ? 凄いよね。これ全部、人が作ったんだよね。道路とか、ビルとか、そういうもの全部」


 一方で、先輩はこの場を埋めるかのように言葉を次々と紡いていく。相変わらず分かりやすいサインだった。


「そういえば、さ」


 そこで、先輩は窓から顔を離し、急に僕の方を向いて話を変える。


「この観覧車は、十五分で一周だよね。で、乗り始めたのが六時半で、今は六時三十六分。つまり、六分経過したわけであって、四割はもう超えた、のかな?」


 スマホに表示された時刻を僕に見せながら段々とこちらに体を近付けてくる。急に距離を詰められて算数の問題みたいなことを言われたって、どう返せばいいのか分からない。


「で、『五割』は頂上で……」


 先輩は席に膝を乗せて僕と座高を合わせ、ゆっくりと顔を近付けていき、残り数センチのところで動きを止める。


 そこで、僕は先輩が何を望んでいるのかをやっと理解できた。


「……頂上に着いたタイミングで、するんですか?」


「な、なぜかと言うとね、私達は兄妹じゃないでしょ? だから、その先に進むの」


 再び、意図が読めなくなる。明らかに混乱している先輩の思考を完全に把握するのは無理かもしれない。だからといって、「落ち着いてください」と振り払うような真似ができるわけでもない。


 むしろ、僕はこういう風に「乱れた」先輩の姿を見たかったのかもしれない。


 そんなことを考えてしまっている僕をよそに、先輩は何も言わずにこちらの肩に手を置いた。


「そっちから、ですか?」

「私の方が、年上だからね。先輩の役割だよ」


 強気な発言の割には、元から赤い頬はさらに色を濃くしており、肩に置いた手は震えてしまっている。経験豊富というわけでもないだろうに。


「僕から、行きます」


 僕はできるだけ堂々とした感じで言った。実際のところはどうだか分からない。こっちだって震えているのかもしれない。


「待って、私の方から……あっ!」


 先輩はさらに顔を近付けながら言い返そうとするが、どうやら目測を誤ってしまったようだった。


 結果として、思いがけないタイミングで二人の唇同士が触れ合ってしまったのだから。


 もう、外の光景なんて目に入らなかった。まだ頂上に着いていないのかもしれないし、過ぎた後なのかもしれない。


 とはいえ、目的は果たせたんだ。やり直すような雰囲気じゃない。先輩も同じように思っているのか、二人とも離れたりすることなくキスを続けていった。


 さっき先輩が食べていたキャラメル味のポップコーンの甘い風味がするかと思っていたのに、実際はそんな単純なものじゃなかった。あえて表現するならば、ほんの少しの甘さと、ある程度の塩気。そして、大多数を占める言葉にできない何か。


 それが僕と粘膜を触れ合わせている「月村壱歌」という一人の少女が持つ味だった。


 より深く感じようと、僕は舌を先輩の口の中へと差し込んでいく。


「……っ!」


 その瞬間、先輩は急に口を離し、驚いた様子で僕から距離を取り始めた。


「な……何? い、入れた、よね?」


 そして、ゴンドラの壁に背を預けながら、たどたどしく言葉を発し始める。


 赤い頬、少し潤んだ目元、あどけなさがあり余っている顔立ち。


 ツヤのある黒い髪に、ワンピースの襟元でくっきりと浮かび上がっている鎖骨。


 呼吸に合わせて上下に動く小さな胸、そして、行き場を無くしてだらんとぶら下がっている短くて細い腕。


 不覚にも、薄暗い明かりに照らされたその姿を、これまで以上に魅力的に感じてしまった。「自分のものにしてしまいたい」という、どうしようもないくらい強い感情と共に。


 ここは密室だ。逃げ場の無い先輩の体を無理に求めれば、より大きな快楽が得られるということを本能的に理解してしまう。


 しかし、僕は何とかその感情を抑え込んだ。席に座ったまま先輩を視界から外し、外の風景を見ることに集中し始める。


 それからゴンドラが下に着くまで、僕達は一切口を利くことはなかった。とても長く感じた数分間だった。


     * * *


 やってしまった、としか言いようがない状況だった。


 冷静になって考えてみると、ファーストキスで舌を入れるのはやり過ぎだ。


 でも、別にいやらしい意図は無かったんだ。料理の味を確認する時だって、舌を使わないとどうしようもない。だから、その延長線上にあると言えるだろう。ただ、こんなことを実際に口にしたら怒られるかもしれないので、黙っておくことにする。


 ゴンドラから降りた僕達は、ライトに照らされた園内を出口に向かって歩いていた。閉園時刻が迫り、同じ方へ歩いていく人達が多く見られる。


 前を向けば、僕と同じくらいの年齢の女子三人組がキャラクターのカチューシャを頭に着けながら歩いている。


 左を向けば、夫婦と思われる男女が幼稚園児くらいの子供を連れて歩いている。


 右を向けば、二十代くらいのカップルが身を寄せ合って何かをささやき合いながら歩いている。


 そして、僕達は約三メートルという微妙な距離を保ちながら歩いていた。前に先輩、後ろに僕。


 先輩の姿を後ろからしか捉えることができない。見失うほどではないけれど、なかなかこちらを向こうとしないので、何だか色々と不安が募ってくる。


 このまま走って僕の前から姿を消すんじゃないか。


 もしくは、急に後ろを向いて「大嫌い」……いや、「別れよう」なんて言ってくるんじゃないか。


 絶対に嫌だ。自分の行動のせいで特別な存在を失ってしまったら泣くに泣けない。


 そういう思いに囚われたまま、出口が見えてきた辺りで、先輩は急に足を止める。ここからだとうまく確認できないけれど、どうやらバッグから何かを取り出しているみたいだ。


 しばらくして先輩は振り返り、僕に一冊のノートを見せてきた。


 6.遊園地でデートをする。

 7.観覧車の頂上でファーストキス。

 8.水族館でデートをする。

 9.プールでデートをする。

 10.互いに下の名前で呼び合う。


 紛れもなく、「恋人としたいこと」だった。あの日は冒頭の部分しか見ていないので、これはその先の内容となる。


 よく見てみると、6、7の数字の部分が丸で囲まれていた。先輩の右手にはペンを握られている。質問するまでもなく、今日「かなえたこと」を今さっきその手でチェックしたということなんだろう。


 8~10には当然ながらチェックが付いていない。二人で水族館やプールに行ったことはないし、先輩はまだ僕を「章悟君」と呼んだことはない。僕だって「壱歌さん」と呼んだのは告白の時の一回だけだ。


「あそこまでされたら、したく、なっちゃうじゃない……」


 小さな声でそうつぶやく。付近が騒がしいせいか、上手く聞き取れなかった。


「何か、言いましたか?」

「……とにかく、物事には! 順序があるからね! 次は8番!」


 急に声を大きくし、先輩はノートを閉じて再び前へと歩いていった。


 クイズ番組みたいな感じで次回のデートの予告を食らった僕は、胸をで下ろした。「次」があるということは、これで終わりじゃないということ。特別な存在を失わずに済んだんだ。


 それと同時に、僕は先輩が持っていたノートについてあることに気付いていた。


 違う種類の物になっていたんだ。部室で見た時は表紙が青かったのに、今は赤くなっている。つまり、ノートを新しくして再び書き直したということ。


 もしかしたら、タイトルも変わっているかもしれない。


「恋人としたい、100のこと」か。


「篠塚君としたい、1000のこと」か。


 それとも、「章悟君としたい、たくさんのこと」か。


 想像するだけで先輩の小さな体を後ろから抱き締めたくなったけれど、「物事には順序がある」ようなので今はやめておいた。


 くっつき合ったり離れたりを繰り返してきた僕達だ。そんな機会が来るのはそう遠くはないだろう。

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