1-7-2. 何よりの証明(章悟Side)

 しばらく経って、ある場所に辿たどり着いた。


 グラウンドの脇にある倉庫の裏だ。先輩はその壁に背を預けながら文庫本を読んでいる。


 周囲を警戒することなく読書に没頭しているようだった。ほぼ一定のペースでページをめくるくらいで、それ以外の行動を起こすことはない。


 非常に、絵になる光景だった。


 時折吹く弱い秋風によって揺れる後ろでくくった黒い髪、定期的に動かされる細い指、加えて、目前の本に向けられた真剣な表情。それらが一体となって、幼い顔立ちでありながらもどことなく大人びた印象を与えてくれる。


 僕は思わずにいられなかった。


 やはり、この人を好きになって良かった、と。


 一方で、僕は近くに植わっている木に身を隠しながら先輩の姿を眺めていた。これじゃまるでストーカーだ。最初の一歩が踏み出せずにいる。 


 先輩がこちらの存在に気付いてくれたらどうにかなるかもしれない。でも、読書に没頭している以上、それはかなわないんだ。


 ならば、僕が変わるしかないんだろう。ここぞというタイミングで意気地を無くしてしまったせいで、こんなことになってしまったんだ。


 灯子だって変われたんだ。僕にだって可能なはず。


 決意とともに、足に力を込めて歩みを進めたところで、ガサッと音が鳴る。地面の落ち葉を踏んでしまったみたいだ。


 音に反応してか、先輩は視線を前に向けた。それと同時に、僕は木の陰から姿を現し、手を伸ばしても届かないほどの距離を置いて二人は顔を見合わせる。


「……先輩? 何、やってるんですか?」


 木の陰に隠れていたことを悟らせないために、僕は素早くその場から移動して、先輩の方へと近付いていく。大して意味は無いだろうけれど。


「えっと、ここって人がほとんど来ないでしょ? だから、読書をするのには良い場所かと思って。部室の鍵を職員室で受け取れるのは放課後になってからだから……いつもじゃないよ。たまにね。何かほら、教室で他の人達が楽しそうにしている時って、どうも居心地が悪い感じで」


 二人の間に流れたやや重い空気を振り払うかのように、先輩は言葉を紡いでいく。言い方を変えれば、この場をやり過ごそうとするかのように。


「それでね、居心地が悪いということは、この世界に一人だけの……ちょっとおおかな。だけど、分かるでしょ? 取り残されたというか何というか、例えるなら、独りぼっち? いや、例えてないよね。そのままだね」

「先週の、ことなんですけど」


 取り留めの無い言葉を制止する。やり過ごさせるわけにはいかないんだ。


 しかし、そこまで口にしたところで、どのように話を続けたらいいのか迷ってしまう。「灯子とは何も無い」と言ったところで、変に言い訳しているみたいな感じがするし、それをどう証明すればいいんだ。


 そもそも、「灯子」なんて言い方をしてもいいのか。目の前の「月村壱歌」という人のことをまだ「先輩」としか呼べていないというのに。


「ごめん。私、変だったかもしれない」


 そこで、先輩の方から話をつないでくれた。「何か言わなきゃ」というある種の義務感から解放された僕は、ひとまず平静を取り戻す。


「いきなり、避ける感じになっちゃって。先輩の私の方から、どうにかした方が良かったね。一週間も経っちゃったし」


 ゆっくりと話を進めていく先輩を、僕はじっと見ていた。


「でも、驚いたよ。篠塚君の家で、あの子とまた会うなんて」

「『また』って、と……菅澤と? 会ったことがあるんですか?」


 結局のところ、名字で呼んでしまった。何だかむずがゆい。


「……菅澤さんっていうんだ。篠塚君と知り合う前にね、今日みたいにここに来たら、菅澤さんが寝ていたの。そして、誰かが菅澤さんを起こそうと手を引っ張っていたけれど……あれ、篠塚君だよね?」

「確かに、その通りです」


 僕はその出来事を頭から引っ張り出して答える、完全に目撃されていたようだ。


「そこで、思ったの。『あんなれいな人には、やはり彼氏がいるんだな』って」

「別に、彼氏というわけでは」

「うん。分かっているよ。当時はそう思ったということで」


 どうやら単なる「おさなみ」だということは理解しているみたいだ。僕は声に出すことなく安心する。


「まあ、遠くからだったから、その時は、男の子の方はよく分からなかったよ? 図書室で篠塚君に会った時も、あの男の子と結び付かなかったから。でも、篠塚君の家に来た時、お風呂上がりのあの子を見て……」


 先輩は言いよどむ。僕はそれに口を挟まなかった。


「一瞬だけ、一瞬だけだよ? 『私と二股を掛けているの?』って」


 やはり、そういうことだ。


 鵜飼の言っていた通り、複数の女性と関係を持とうとしているように捉えられてしまったということ。


「だから、そういう関係じゃ、」

「それは分かっているけれど、結局、菅澤さんとは、具体的にどういう関係なの? 幼馴染みなの?」


 先輩は目を見開いて僕に質問する。下ろした右手の本は表紙が外されているため、それが何なのかはこちらから確認できない。


 もしかしたら、『恋ふた』かもしれない。最終的に主人公と幼馴染みが結ばれるという、ストーリーの。


「……家が、隣同士で」

「そうだね。篠塚君の家の隣に『菅澤』って表札があったね」

「で、幼稚園の頃からの知り合いで、二人とも両親が忙しくて、よくうちに食事に来る感じで」


 こうやって口に出す度に、僕と灯子の関係の深さが強調されていくような気がする。言葉を連ねていくごとに先輩の目が曇っていくような感じがするのは、こちらの気のせいであってほしい。


「でも、別に異性としては意識していなくて……妹みたいな感じでしょうか?」


 いや、この説明も良くない。なぜなら、『恋ふた』のもう一人のヒロインは「主人公の血の繋がらない妹」だから。


「そ、それに、最近、僕を避けるようになったんですよね。反抗期でしょうか? 最近、料理を始めたみたいで、うちに来なくなりましたし。この前だって、ただ単に、お風呂を借りに来ただけですし」


 これまでの流れを塗り潰すかのように、慎重に言葉を選んで説明していった。一切うそはついていない。でも、全てを伝えきったわけでもない。


 事故とはいえ、灯子と抱き合ってしまったことは黙っておくべきだ。たとえ、それで僕の心が揺らいでいなかったとしても。


「菅澤さんって、凄い美人だよね」

「……急に、何ですか?」


 聞き返さないわけには、いかなかった。


「目がパッチリと大きくて、鼻とか口の形も良いうえに、それぞれのパーツがバランス良く配置されているし、あんなにスラっとした綺麗な脚なのに出るところはちゃんと出ているし、しかも、あれでまだ一年生って……ここで見た時思ったよ。持って生まれたものが違うんだなって。完全に正統派ヒロインだな、って。それに比べたら私ってどうなの? 二年生なのに見た目はこんなに子供っぽいし、胸も小さくて脚は短いし、先輩っぽさとか全然無いし、『小説を書くため』とか嘘ついていたし、『デート』の時に変に気合入れてワンピースとか着ちゃったし……何? 『恋人としたいこと』って? 完全に気持ち悪いでしょ?」


 突然自身を卑下し始めた先輩に、僕は戸惑ってしまった。それと同時に、灯子に対する過大な評価に違和感を覚えてしまう。


 鵜飼も灯子のことを「美少女」だと言っていた。千里さんも「見た目は良い」と評価していた。好みの問題とか親の欲目とかそういうものだと思っていたけれど、先輩まで言うんだったら、灯子は一般的に「整った容姿」なのかもしれない。


 でも、やはり灯子のことを恋愛対象として見ることができないんだ。仮に、向こうが僕に好意を持っていたとしても、この思いが変わることはない。


 なぜなら、今僕の目の前にいる存在があまりにも大き過ぎるから。


「そんなこと、言わないでください」

「……えっ?」

「先輩の方が魅力的じゃないですか。一緒に話していても飽きないですし、体が小さいからって何だというんですか。むしろそっちの方が可愛らしいですよ。髪もツヤがあってとても綺麗ですし、さっきの先輩の姿の方がとても絵になりますし……『デート』の時のワンピースもかなり似合っていましたよ。また着てください」


 僕はほぼつっかえることなく、一息でそう語った。


「それ、本気で言っているの?」


 先輩は、まるで信じられないことを聞いたかのような素振りで僕に問い掛ける。


「嘘なんか、つきませんよ」


 このタイミングで、急に恥ずかしさが込み上げてきた。でも、僕の中ではその全てが真実なので後悔はしない。


 僕は、今まで何をやっていたんだろう。


 変に言い訳じみたことを考えずに、最初から素直に気持ちを伝えれば良かったんだ。それが何よりの証明になる。


「先輩……いや、壱歌さん。僕と付き合ってください」


 僕の口は、自然と動いていた。


 二週間越しの返事を聞いた先輩は、まばたきをすることなく僕の顔を見つめる。もう、周りの音なんか気にならない。


 そして、十秒ほど経過した後に、とある短い言葉がこの場の空気を支配した。


「こちらこそ、お願いします」

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