1-6-5. 絶望ごっこ(灯子Side)

 吐き気がする。


 食べ物を胃に入れたまま体を動かしてしまったせいか、それとも精神的な何かのせいか、喉の奥の方から酸っぱい物体が立ち上ってくる感覚がさっきから消えない。


 かといって、実際に戻してしまうこともない。吐きそうでは吐けず、気持ち悪さが引いたかと思いきやすぐにぶり返してくるという状態をずっと繰り返している。


 もうすっかり日は暮れてしまった。いつもならば夕食の時間。ただ、当然ながら食欲なんてあるはずもなく、ずっと雑然とした部屋の床に座りながら壁に寄り掛かっている。


 さっきの件で、私が昨日から抱えてきた感情の正体がつかめたような気がした。


 思い返してみると、私はほんの少し前まで、章悟に「性」の匂いを感じたことなんて無かった。


 幼い頃からの付き合いで共に過ごす時間は結構長かったというのに、鵜飼や中学生の頃に告白してきた男子のように、あからさまな好意を見せてきたり、下心を持って胸の辺りを見てきたりすることなんて一切無かったんだ。


 だから、私は無意識のうちにこう感じていたんだと思う。


 私みたいに「恋愛」に興味が無い……どころか、むしろ嫌悪感すら抱いているんじゃないか、と。


 分かりやすくそういう雰囲気を出しておらずとも、心の奥底に潜んでいる感情を上手く飼い慣らしながら、人付き合いとかをしているのかもしれない、と。


 だからこそ、基本的に人間嫌いな私でも章悟とは上手くやっていけたんだと思う。「家族」でも「友達」でも、ましてや「恋人」でもない、適度な距離感を携えた関係性でもって。


 だけど、そんなものは私の思い違いだった。


 結局のところ、章悟は「性」の匂いを放つようになってしまった、どこにでもいる男子高校生だったということ。


 いや、「どこにでもいる」だったらまだそっちの方が良かった。でも、章悟が好きになった相手どう見たって小学生だ。「先輩」だとか言っていたけど、訳の分からない冗談にしか思えない。あんな未熟な体を持った相手とくっつき合って熱を上げているだなんて、今思い返してみれば犯罪じみている。そんな男が「どこにでもいる」はずがない。


 しかも、こんなことまで口走る始末。


『たとえ、灯子が僕を異性として好きだとしても』


 勝手な思い上がりにしか聞こえなかった。私をそっちの世界に引きずり込んでどうするつもりだ。私とあの小学生の両方を手玉に取って、安っぽい優越感に浸る気?


 でも、さっきの一件で章悟の方もよく分かったと思う。


 私が章悟に対して明確に嫌悪感を持っている、ということを。


 事故とはいえ、章悟のことを押し倒してしまった。たった数秒の出来事なのに、その記憶がなかなか薄れていかない。


 痩せ型とはいえ女の私と比べればがっしりとした体つき。いつの間にか私より高くなっていた身長。腐ったケーキのように鼻を刺す「性」の匂い。


 そして、章悟の体に必要以上に大きくなってしまった乳房を押しつけ、脚を絡ませてしまったこの私。


 そんな光景を脳内に映しただけで、簡単に吐き気が込み上げてくる。再びここに章悟が来てしまったら、私は胃の中の物を盛大にぶちまけてしまうだろう。


 開けっ放しになっている窓の方に目をやる。誰も入ってくる気配は無い。当然の話だ。追い出したのは他の誰でもなくこの私だ。


 馬鹿みたいだ。


 「友達なんていらない」みたいに振舞っていたくせに、章悟に「裏切られた」程度でこんなにもダメージを受けてしまうなんて。


 結局のところ、いっぴきおおかみを気取っていただけの痛い女?


 こんな風に、自分の部屋で悲劇のヒロインぶっているどうしようもない存在?


 ……もういい。これ以上余計なことは考えたくない。ずっと床に座って尻が痛くなってきたので、私はゆっくりと立ち上がり、ベッドに腰を下ろそうとする。


 しかし、そこに一本の髪の毛が落ちていることに気付いてしまった。


 私の髪の毛はこんなに黒くはない。間違いなく章悟のだ。さっきの件でベッドに落ちてしまったのか、または、以前、私を起こしに部屋に入ってきた時に落ちたのか。


 そういえば、この部屋はもう何年も掃除していない。小学生から中学生になるくらいの頃、章悟と一緒にしたような記憶はあるけど、それくらい。


 ということは、章悟の髪の毛が他の場所にも落ちているかもしれないし、指紋だって付いているかもしれない。大声で私を起こした際に、口から飛び出た唾とかが床や壁等に付着していることだって有り得る。


 私は重い体を何とか動かして、掃除用具を取りに部屋を出ていった。ついでに散らかった物の整理もしよう。


 とにかく、絶望ごっこはもう終わり。


     * * *


 そして、翌日。時刻は午後六時。


 私はすっかり整えられた部屋のベッドで寝転んでいた。


 「整理」に関しては、ベッドに机と勉強道具、数着の衣類にゲーム機・ソフト・CD・プレイヤーと、物自体はあまり多くはなかったので大した時間は掛からなかったけど、「掃除」に関しては、様々な箇所を雑巾で拭いて章悟の痕跡を消していったので、一旦寝て日をまたぐことになってしまった。BGMは、モールで買ってきたアルバム。体に響くようなヘビーなサウンドは、この思いをぶつけるのに最適だった。


 もちろん、学校は休んだ。その件に関しては、両親も章悟も何も触れてこなかった。まあ、ほとんど部屋の中にいたので、顔を合わせる機会すら無かったんだけど。


 そして、私の体の中で今、奇妙な現象が起こっていた。


 ほんの少しではあるけど、空腹感がある。朝から水くらいしか口にしていないとはいえ、昨日感じた吐き気がうそのように無くなっていた。どんな状況であれ、基本的な欲求には逆らえないということを思い知らされる。


 今日もやはりコンビニの弁当か。こうやって私の所持金はどんどん減っていく。


 そう思いながらも、財布を手にしてドアから部屋を出る。窓から出るのはもうやめた。この窓は外側から施錠できないので、私が不在の隙に章悟が入ってくる余地を与えることになる。もう、あの男の髪の毛一本たりともこの空間に入れたくはない。


 廊下をしばらく歩いたところで、台所の方から焦げたような臭いがすることに気付いた。心当たりは無いけど、火事でも起こったら大変なので、すぐさまそこに向かっていく。


 台所に足を踏み入れたところで、すぐにその正体が判明した。コンロの上に乗っている鍋から、湯気と苦そうな臭いが放たれていたからだ。


「あっ、灯子~?」


 その鍋の横には、私と似た顔をした女性、すなわち母さんが立っていた。


「聞いたよ~? 章悟君とけんしたんだって? 章悟君と顔を合わせたくないんだって?」


 一昨日のことなんてまるで忘れたかのように、母さんはやけに慣れ慣れしい感じで話しかけてくる。顔を合わせたくないのは事実だけど、こんな風に言葉にされるとあまり良い気分はしない。


「で、あんまり食べてないみたいじゃない? 章悟君から聞いたよ~? 灯子、カレー好きなんでしょ? で、お母さんね、今日は家で仕事だったからね、だから、作ろうと思ったんだけど……ね」


 と、エプロンを身に着けた四十歳近い女性が自身の失敗を笑ってごまかそうとする。悪気は無かろうとも、はっきり言って気に障る。


 鍋の中に目をやると、黒ずんだドロドロとした物体がそこにあった。全くもって食欲を刺激されない。母さんは料理に慣れていなさそうな感じだけど、いくら何でもこれは無い。カレーに対する冒涜ぼうとくだ。


「ごめんね~? 作り直すからもう少し待ってね?」


 母さんは再び包丁を手に取ろうとする。その横で、私は棚から別の鍋を取り出そうとする。


「あっ、いいのいいの。お母さんがやるから。灯子、料理とか章悟君に任せっきりだったんでしょ?」


 どんな立場でものを言っているんだろう。焦がして台無しにしてしまった母さんには任せられない。


 あと、その指先に巻かれている絆創膏ばんそうこうは一体何? どうせ、包丁で野菜を切る時に怪我をしてしまったんだ。そんな母さんの血が付着したかもしれない野菜入りの料理なんて口に入れたくない。


 この前、駅の近くで血にれた私の手を離したでしょ? それと一緒。


 まな板の横には、野菜とパック入りのカレールーが雑然と並べられている。材料はすでに用意されているので、これさえあればカレーを作り直せると思う。コンビニで弁当を買うよりも安上がりだ。


「……出てって。私がやる」


 私は母さんをにらみつけながら言い放った。


「そうだね。章悟君の料理をいつも食べていたもんね。じゃ、お願い~」


 母さんはあっさりと引き下がり、そのまま台所から出ていった。だから、いちいち章悟の名前を出すのはやめて欲しい。まあ、確かに事実だけど、かといって料理の光景をよく観察していたわけじゃない。はっきり言って、料理をするなんて数か月前の調理実習以来だ。


 それでも、私は台所に立つことを選んだ。カレールーのパッケージの裏に書かれている調理工程を守れば、ある程度のものはできるだろうと信じながら。

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