1-6-3. 章悟のせいだ(灯子Side)
風邪をひいたことになって学校を休んだ私は、菅澤家の冷蔵庫から牛乳を取り出し、流し台の上のグラスに入れた。
注ぎ終わった後、グラスを持って飲もうとするけど、私は途中でその手を止め、流し台の上にそれを置き直す。
強烈な臭いが、鼻に飛び込んできたから。
消費期限はまだ過ぎていないので、別に腐ってはいないみたい。多分、昨日母さんが買ってきたものだと思う。コンドームと一緒に。
そういえば、小学校の給食の牛乳がこんな感じの臭いだった。私はどうしてもそれが受け入れられず、毎回残していたことをよく覚えている。
でも、篠塚家にある牛乳はあまり癖が強くなく、私でも飲むことができた。つまり、今私の目の前にあるこれは「癖が強い」タイプなのかもしれない。
あと、さっきコンビニで三つ買ってきた弁当の中にも、私が食べられないものが入っていた。
……何、食通じみたことを考えているんだろう。豪勢な食べ物で舌を慣らしてきた人生を送ってきたわけでもないのに。
これも、章悟のせいだ。
章悟が作った弁当にちょうど良い味付けの椎茸の煮物が入っていたせいで、余計なことを考えるようになってしまったんだ。
私は牛乳をシンクに流し、水道水で喉の渇きを解消させ、台所を出て部屋へと向かっていく。はっきり言って美味しくはないけど、強烈な臭いのそれよりはまだマシ。
味はどうであれ、弁当を三つ食べたこともあってか、今の私の腹は充分に満たされていた。でも、明日になればまた空腹になってしまう。多分そう。
どうせなら、実際に風邪をひいた方が良かった。そうすれば食欲も無くなると思うし、ずっと部屋の中にこもっていることができる。
さっきの食事だけで千円以上も出費してしまった。こんなことを毎日繰り返していたら、高校生の小遣いなんてすぐに消し飛ぶに決まっている。そんな当然の事実に今更気付いてしまった。
わざわざ買わなくても、章悟に頼めば私の舌に合う食べ物がいくらでも手に入る。
理屈ではそうなるけど、やはり、どうしても章悟のことを拒絶してしまう。感情の全体像が把握できないくせに、その思いだけは確かだ。
色々と考えつつ廊下を歩き、私は部屋のドアを開ける。
「……灯子?」
章悟がいた。先程まで私が寝転がっていたベッドの側に立っている。
私はその姿を目にした瞬間、すぐさまドアを閉めた。
「風邪、平気かなって思ったんだけど」
で、勝手に部屋に入ってきた、と。さっき弁当を買いにいった時に窓から出入りしたけど、施錠するのを忘れていたようだ。
「大丈夫、みたいだね。弁当三つも食べているくらいだし」
私の行動を読まれたみたいで一瞬驚いたけど、そういえば、弁当の空き容器を部屋に置いたままだった。まさか章悟が入ってくるとは思っていなかったから、片付けるのを忘れていた。
「で、その……」
それで話が終わったかと思いきや、章悟はまだ続けようとする。言葉がすぐ出てこないんだったら、私の領域であるこの部屋から早く立ち去ってほしい。いつまで廊下に立っていればいいんだろう。
でも、その思いは伝わらない。これまでの章悟だったら勝手に空気を読んでくれたのに、今回はどうやら勝手が違う。私の方から何か言わなければ通じないのかもしれない。ドアの向こうにいる顔も合わせたくない相手に向かって。
「昨日の話、なんだけど」
十数秒ほど経って、章悟はようやく口を開いた。
「ほら、うちにいた先輩……ああ見えて年上なんだけど」
「先輩」と言われてもよく分からなかったけど、その後の言葉で思い当たるものがあった。私の頭の中に、とある小さな女子の姿が浮かび上がってくる。
「あの、本当に先輩なんだけど、幼く見られがちで。制服着てないと特に」
必死に年上であることを強調してくる。ともかく、何でこんなタイミングで彼女のことを思い出さなきゃならないんだ。
長くて黒い髪を後ろでまとめ、女性的な服で身を包み、発情したメスみたいな表情で章悟とソファで体を密着させていた女のことを。
「えっと、僕には、先輩がいるわけで、あって」
私は廊下に腰を下ろし、
「だから、その、もしも、これはもしもの話だからね?」
痛みの方が強くなってきた。それでも私は手を動かし続ける。流れ出た血でこの一帯を赤く染めようとするように。
「たとえ、灯子が僕を異性として好きだとしても、応えられないというか……」
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