1-5-2. 『恋人としたいこと』(章悟Side)
「デート」の翌日となる月曜日、僕はいつものように部室棟の廊下を歩き、いつものように部室のドアノブに手を掛ける。
ふと、このドアを開けた先の光景を想像してしまう。十分くらい前に「もう部室にいるから」というメッセージを受け取っているから、先輩はそこにいるはず。椅子に座って本を読んでいるのか、または、本棚から本を取り出そうとしているのか。
もしくは、昨日の別れ際みたいに再び手を
いや、あの先輩のことだから、多分、大した意味なんて無かったんだろう。自分が読んだ小説のキャラクターの真似をしてみたかっただけなのかもしれない。
これから部室で何をするのかは分かっている。普段通り、読んだ本の意見交換をしたりとか、そんな感じだ。
そう自分に言い聞かせながらドアを開けると、部室には誰もいなかった。
椅子の上には先輩の物と思われるバッグが置いてあるので、多分、トイレにでも行ったんだろう。変に気負っていた僕が馬鹿みたいだ。
気を取り直し、何か読もうかと思って部屋の奥にある本棚に向かって歩いたら、椅子に足を引っ掛けてしまい、その勢いで先輩のバッグが落ちてしまい、ファスナーを閉じていなかったせいかその中身の一部が床へとばらまかれてしまった。僕はすぐさま教科書やノート等を手に取り、元あった場所へと戻していく。
その途中で、一冊のノートが僕の目に留まった。
表紙に「恋人としたいこと」と書かれている。もしかして、これが先輩の小説なんだろうか。僕に見せていないということは、まだ未完成なんだろう。だとしたら、勝手に読むわけにはいかない。
そんなことは分かっているけれど、なぜか読んでみたいという気持ちに駆られてしまう。昨日の「デート」を参考にして先輩はどんな物語を作り上げたんだろう。
駄目だと理解しながらも、僕はゆっくりとノートを開いていった。
1.お互いの指と指を絡めて手をつなぐ。
2.純白のワンピースでデートに行く。
3.一緒に映画を見る。
4.おそろいのキーホルダーを付ける。
5.多くの人が周りにいる時に、あえてスマホで秘密のやり取りをする。
これは、何だ?
最初のページを見た瞬間、僕の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。
冒頭に数字を振った短い文章がいくつも並んでいる。少なくとも、これを「小説」とは呼ばないだろう。
もしかしたら、小説の「ネタ帳」なのかもしれない。ここにまとめられた様々なアイディアを組み合わせて一つの物語を作り上げていくということか。
「何、やってるの?」
ページをめくろうとしたところで、不意に声が聞こえてきた。
そちらに顔を向けると、開けっ放しにしていたドアの側に先輩が立っていた。ノートに気を取られていたせいで気付かなかったみたいだ。
「えっと、これは、その」
突然の事態に、僕は上手く言葉を発せなくなる。それと同時に、先輩がこちらへと進んでくる。
「椅子に足を引っ掛けて、バッグが落ちて、そしたらこれが……いえ、すみません。勝手に見てしまいました」
状況を説明すると言い訳がましくなることに途中で気付き、僕は謝った。結局のところ、読んでしまったという事実は消せない。
「これは、小説のネタ帳ですか?」
「そ、そう、ネタ帳ね、ネタ帳。いきなり小説を書くのは難しいからね。『恋人としたいこと』というタイトルはストレート過ぎるかな、と思うけれど、一応、仮タイトルみたいなもので、そのうち変えるかもしれないしね。そういえば、『恋ふた』は企画段階では『ライク・ア・オレンジ』というタイトルだったらしいよ。何でも、編集者の意見でこっちにした方が良いという話があったみたいで」
先輩は歩みを止め、雄弁に語り始める。ある意味いつもの先輩らしいけれど、何やら様子がおかしい。目の焦点が定まっていないし、話すスピードもやたらと速い。まるで、この空気を無理矢理言葉で埋め尽くそうとしているかのように。
そんな先輩から目を逸らしつつ再びノートに目を通すと、あることに気付く。
よく見たら、最初のページの文頭の数字のいくつかに丸が付いている。その数字は、「2」「3」「5」の三つ。内容は「純白のワンピースでデートに行く」「一緒に映画を見る」「多くの人が周りにいる時に、あえてスマホで秘密のやり取りをする」。
この三つの事柄は何を意味しているか、僕はすぐに分かった。
昨日、「デート」でやったことに他ならない。
「この数字に付いている、丸なんですけど」
「あーっ! それ駄目!」
先輩は即座に僕へと飛び掛かり、ノートを素早く奪い取る。しかし、その後の着地に失敗してしまい、近くにある椅子を巻き込んで転んでしまう。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫。それよりも、どこまで見たの? これを」
ノートを両手で抱えながらゆっくり起き上がり、上目遣いでこちらを見つめながら先輩は絞り出すように声を出した。
「最初のページくらいしか……先輩、これは結局、」
「タイトルの通り……」
僕が質問しようとしたところで、先輩は言葉をかぶせてくる。ただ、声が小さくてよく聞き取れない。
「今、何て言いました?」
「だから、タイトルの通りだって」
今度ははっきりと聞き取ることができた。しかし、主語を省略しているせいか、意図を理解できない。
「そのタイトルというのは、表紙の、」
「だから! 言ってるよね! 私が恋人としたいことが書いてあるんだって!」
そこで、隣の部屋どころか別の階にまで聞こえてしまいそうなほどの声量で先輩は叫んだ。元から赤みが差している顔色がさらに濃くなる。出会って数週間、今まで見たことのない表情だった。
「はーっ、はーっ……」
「せ、先輩? 落ち着いてください」
興奮して息が荒くなった先輩を鎮めようするけれど、僕の方も落ち着けるような状況じゃなかった。
先輩は「私が恋人としたいこと」と確かに言っていた。聞き間違いじゃないはず。「私」とは先輩自身のことで、つまり、あれは「ネタ帳」ではなく、その願望の表れであって。
「
僕がそう考えている間に、先輩は少し落ち着きを取り戻した様子で言う。
「嘘、ですか?」
「この前私、言ったよね。『誰かと本気で付き合おうと思わない』って」
「……確かに、言っていましたね」
「僕と同じ考えだ」と思ったんだ。忘れるはずがない。
「あんな風に言えば、気軽に接してくれるかなって思ったの。そしたら、『僕もそうです』なんて言うから、引っ込みが付かなくなっちゃって。あと、小説を書くというのも嘘で、全部、デートのための言い訳で……ああもう、私嘘ばっかりだ」
先輩は、求めてもいないのに自身の思いを独り言のように次々と打ち明け始める。
「二、三回くらいデートできれば良いな、って思っていたのに……この続きを、体験したいな、って」
「どういうことですか?」
「嫌だったら、本当に嫌だって言っていいんだからね? 友達として、というのでも別に良いし、無理なら、退部してもいいからね」
再び、先輩の言葉の意味を理解できなくなる。話す速度も再び上がり始め、最後の方はほとんど聞き取れないくらいだった。
「すみません、もう一回……」
「わたっ、私と!」
先輩の声が再び大きくなる。そこには、昨日まで僕に見せていた余裕なんて少しも残っていなかった。
そして、ゆっくりと口を開いていく。
「正式に、恋人と、して、付き合ってください! お願い、します!」
やけに丁寧な口調で、頭を下げながら先輩は言い放った。
「あっ、えっと……」
あまりにもストレートな物言いに、僕ははっきりと返すことができない。
「考えさせて、ください」
少しの時間をおいて僕の口から出てきたのは、短くて曖昧な
そもそも、僕があのノートを勝手に見たりしなければ、こんな事態を招かなかったはずだ。先輩の秘めた思いを知ることもなく、この部室でいつも通りに心地良く過ごしていたはずなんだ。
でも、もう知ってしまったんだ。その前にはどうやっても戻れない。
「……んっ!」
広がり続ける沈黙をかき消すかのように、先輩は軽く
僕はその姿を追い掛けることはなかった。
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