1-1-4. 植え付けられた感情(灯子Side)
今日の私には、あまり良いことが無かった。
体育倉庫の裏ではほとんど眠れなかったし、章悟に買ってもらったミントタブレットだってあまり効かなかった。昼休みにもう一度体育倉庫の裏に行って寝ようとしたけど、雨のせいでそれもできず、結局のところ学校でろくに体を休めることができなかった。
そのうえ、家に帰ったらベッドに直行しようと思っていたのに、湿気のせいで体の様々な箇所が
そして、夜になり、入浴後に自室で寝たということもあって、朝とは比べ物にならないくらい頭が
篠塚家で夕食を済ませた私は、ダイニングのソファで携帯ゲームをプレイしていた。今日の嫌な気分を解消させるかのように、手に入れたばかりのキャラクターで敵を次々と倒していく。
ちょうど区切りが付いたところで、私はゲーム機をテーブルに置き、横にあるコップを手に取って中にある麦茶を口に流し込んでいく。以前、片手でゲーム機を持ちながら飲もうとしたらこぼしてしまったことがあるので、たとえ面倒でもこうするようにしている。
しばらくして尿意を覚えた私は、ソファから立ち上がり、トイレへと向かうために歩いていく。
「ちょっと待って」
コンロで麦茶を作っていた章悟が、靴下に覆われていない私の足元を見ながら呼び止める。
「右の
そんなことは分かっている。章悟の言葉を聞き流しながら、私は歩き慣れた篠塚家の廊下を進んでいく。
少なくともあと一、二時間は篠塚家の方にいるつもり。現時点では菅澤家に戻るつもりはない。これは今日に限った話じゃなく、普段通りの行動パターンだ。
その理由は明確。もう家に帰ってきているかもしれない私の親と顔を合わせたくないから。
* * *
……そう思っていたはずなのに、私は今、菅澤家の方のトイレにいる。
章悟の母親が篠塚家のトイレを使っていたため、尿意に逆らえなかった私はこっちに行かざるを得なかったというわけ。
私が菅澤家に来た時点ではまだ誰の気配も無かったので、手早く用を足してすぐに篠塚家の方に戻ろうと思っていたのに、その最中に玄関の開く音が聞こえてきた。二人の会話が聞こえてきたので、同時に帰ってきたことは明白だった。
私は頭の中で、両親に会うことなく篠塚家に戻る手段を二通り思い描いていく。一つは自分の部屋へと行って窓伝いに行くルート。もう一つは玄関から一度外に出てそこから行くルートだ。
話し声はもう聞こえてこないので、二人が今どこにいるのかは分からない。とりあえず、後者のルートの方が良い感じがする。距離的には、自分の部屋に行くよりも玄関へ行く方が早いわけだから。
と、そんな風に頭を自分なりにフル回転させながらドアを開けてトイレを出たところで、思いもよらない光景が私の目に飛び込んできた。
私とそっくりな顔立ちをした女性が、廊下の上で壁に寄り掛かり、脚を伸ばしながら寝ていたんだ。
言うまでもなく、そこにいるのは私の母さんだった。
トイレは廊下の突き当たりにあり、彼女の横を通らないとこの場から出ることはできないので、私はなるべく音を立てないようにゆっくりと歩いていく。
そして、伸ばされた長い脚をまたごうとしたところで、
いつの間に目を覚ましていたのか、母さんが私の手を
「ね~え、どこ行くの? 分かる? 部長が全部悪いんでしょ~?」
赤くした顔をこっちに向け、胸まで届くウェーブがかかった髪を揺らしながら訳の分からない言葉を繰り出してくる。完全に酔っ払っているようだった。
「そうだ、おっぱいでも
そう言いながら、もう片方の手で自身の胸(推定Gカップ)を抱える。私の体にも付いている脂肪の塊を揉んだところでどうすればいいんだろう。もしかしたら、私を父さんと間違えているのかもしれない。酒の力は危険で絶大だ。
とにかく、四十歳近い母さんがこんな態度を見せてくること自体が非常に気持ち悪い。今すぐにでも逃げ出したいのに、向こうがそれを許してくれない。
「おい、何やってるんだ? トイレに行くんじゃなかったのか?」
と、そこで、父さんが現れて私達の方へと向かってくる。
「あれ~、何で二人いるの~?」
「今、腕を握ってるのは灯子だ。本物はこっち。分かるか?」
「ん~? ホントだ~。顔よく見えなかったし~」
自身の間違いを理解できたのか、母さんは私を解放する。
「とりあえず、水でも飲むか?」
「水? こっちにたくさんあるよ~」
「違う、そっちはトイレだ」
私はそんな夫婦のやり取りに目をくれることなく、廊下を歩いて玄関から外に出て、篠塚家の方へと向かっていった。
基本的にうちの親は私に余計な干渉をしてこないはずなのに、まさか酒のせいであんな事態を招くだなんて、想像すらしていなかった。
はっきり言って、母さんは「存在感」が強過ぎる。
普段はほとんど顔を合わせないのに、たまに現れて私の頭に悪い意味で強烈な印象を残していくんだ。
あれは四年ほど前、とある夏の夜の話。
喉が渇いて眠れなかった私は、水を飲むために台所へと向かおうと廊下を歩いていた。ところが、その途中で、妙な音がすることに気付いてしまった。
荒い息遣い。その隙間に交じる甲高い母親の声。
不審に感じた私は、何を思ったかその音の発信源である両親の部屋へと向かい、ドアを少しだけ開けて、中の様子をこっそりと確認した。
今思えば、そんな余計な好奇心を発揮しない方が良かったと思う。
何も服を着ていない母さんが、同様に裸の父さんの上にまたがって、大きな胸を
当時の私は何が何だか分からず、「見てはいけないものを見てしまった」と感じ取ってそのまま自分の部屋に戻った。なので、多分、あの二人は目撃されたことに今でも気付いていない。
その日以降、私は親の顔を見る度にあの日の光景を思い出すようになってしまい、二人のことを積極的に避けるようになった。元から仕事の関係で私と顔を合わせる機会が少なかったけど、それによってさらに減少したと言える。向こうの方もこっちの態度を理解したのか、干渉してくることはほとんど無くなった。
数年が経ち、あの行為の意味を知るようになってからも、植え付けられた感情はいまだに消えない。たとえ「生殖のための手段」であろうと、「愛を深めるために必要」であろうと、結局のところ互いの体を
そして、あの二人は今でも相変わらず「愛を深め合って」いるんだろう。
確か、去年くらいの話だったと思う。母さんからゴミ袋を渡されて収集所に持っていくように言われたので受け取ったら、その中に避妊具の空き容器が入っていたことがある。
昨日だってそうだ。つい油断していつもよりも早い時間帯に菅澤家の浴室に向かおうとしたら、二人が同時にそこから出てくるシーンを目撃してしまったんだ。
そういう空間で二人は何をやっていたのか、したくもない想像が勝手に頭を巡ってしまい、結局のところ、篠塚家の方で入浴することになった。今日の夕方もそこに入ったけど、話の流れでいつの間にか「菅澤家の浴槽が壊れた」ことになってしまった。
別に「やめて」とは言わない。二人がどういう仲だろうと向こうの勝手だ。そもそも、親に対してそんなことを言える子供なんてこの世に存在しないと思う。
私に知られないように気を付けて欲しかった、ただそれだけなのに。
「麦茶まだ熱いから、飲みたかったら氷を入れた方が良いよ」
篠塚家のダイニングに戻ってきた私は、章悟の言葉を耳に入れながらソファに勢い良く体を沈めた。
『そうだ、おっぱいでも揉む?』
さっき耳にしたばかりの言葉が頭の中で何度も鳴り響く。今頃、私のいないところで母さんはその胸をあの日みたいに強く揉まれているのかもしれない。
私はなぜだか苛ついてきて、ゲームを再開させずに右の踵を掻きむしり始めた。
今まで何度も事あるごとに傷付けてきたこの踵。もうすぐ血が出そうだけど、そんなのは別にどうでもいい。
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