第24話 男のプライド

それから三十分ほど過ぎたあたりだろうか。

空がますます暗くなりはじめると同時に雨足も弱まり、遂には止んだ。

「そろそろ帰りましょ」

紅野がそう提案してきたのは十九時過ぎ。

取ってきた矢をちょうど拭き終えたタイミングだった。

「ん、おっけ」

俺も手伝って、道場内を軽く掃除したら、紅野を置いて先に道場を出る。

弓道着から制服に着替えた彼女が出てくると、そこで一旦別れた。

俺が正門を通ることができないからだ。

その理由を話すと。

「そんなスパイみたいなことするくらいなら、来なきゃよかったのに……」

そんなふうに紅野は呆れていた。

仕方ないだろ。あんな風に誘われて断れるやつなんかいるかっての。

そして俺は来た時と同じようにフェンスを乗り越えて、紅野は普通に正門を通って、通学路の途中で合流する。

離れてる間のやりとりには、LINEを使った。

『二個目の信号のとこで待ってるから』

という文に『わかった』と返信するだけのやりとりだったが、それが嬉しかった。

気兼ねなくメールのやりとりが出来る仲になれたのだと、改めて実感できた。

「ねえ、時間あるならあそこ寄ってかない?」

合流して間もなく、紅野がそう口にした。

「あそこ?」

「バルコニーよバルコニー。今日はなんとなく寄っていきたい気分なんだけど」

バルコニーか。

そういえば、紅野と初めて会った日以来、一度も踏み入れていなかったな。

そもそも最近は駅の方面には近づきもしていなかったが。

今はわざわざ避ける理由もない。

「いいよ。寄ってこう」

俺は二つ返事で頷いた。



バルコニーへ行くには、草木の生い茂った獣道を通らなければならない。

しかも直前まで雨が降っていたせいで地面はぬかるみ、葉には水滴が滴っている。

だが、紅野はかなり通り慣れているようで、そんな悪路をスイスイと登っていった。

ぬかるんだ土が靴についたりするのはあまり気にしていないらしい。

ちなみに俺は白い靴で来てしまったことを後悔しながら、その後ろ姿を追っていた。

本当なら男の俺が前に行くべきなんだろうが、「ここは任せなさい」と先に行かれてしまったのだ。

「ん。涼しいわね」

獣道を抜けると、ひんやりとした風が全身をさらった。

「あたし、夜って好きだわ」

舞台上にたどり着くと、紅野は眼下の景色を見下ろしながらいった。

「紫外線を気にしなくていいから?」

俺はその隣に立っている。

「半分正解。夜でも気をつけなきゃいけないけど、日傘さしたり帽子被らなきゃいけないほどじゃないから。このくらいなら日焼け止めで十分なのよ」

「ふーん。大変だな」

「そうね、大変。でも昔からずっとそうだから、もう慣れっこだけどね」

悲観的にいうと、彼女は真っ直ぐ遠い景色を眺めた。

同じように俺も景色に集中する。

今まで高い所に登る機会なんて滅多になかったものだから、単に物珍しさを感じてるだけかもしれないが、改めてじっくり見てみると、ここからの眺めは本当に美しいと思った。

ふと、少し強い風が吹いた。

同時に、片目を瞑りながら髪を抑える紅野の姿が目に入る。

雲間から指す月明かりが彼女を照らしていた。

綺麗だと思った。

それは、さっきまで俺が見ていた景色よりも絵になっていた。

隣で同じ光を浴びているはずなのに、俺の目には何故かそれが彼女へのスポットライトのように見える。

「綺麗だな」

自然と口をついて出たその発言が、夜景に向けたものなのか、紅野へ向けたものなのか、自分でもわからなかった。

もしかしたら、どっちもだったのかもしれない。

「そうね。本当に綺麗だわ」

紅野が同意する。

その横顔は自分のことだとは微塵も思っていない様子だった。

「そういえばさ、お前って夜景は見えるの?」

ふいに気になって、尋ねてみる。

「見えてるに決まってるでしょ。盲目ってわけでもないんだから」

「じゃあ、どんなふうに見えてんの」

「どんなふうって……ぼんやりと光が見えるかんじ?」

「へえ、そんな感じなんか」

「そんな感じって。あんたにはどんなふうに見えてんのよ」

「俺? 俺は──別に普通かな」

「あんたの普通なんて知らないって。こちとら普通じゃないんだからさ」

呆れたように言われてしまったが、どう説明したものか。

俺の目には、建物のシルエットとそれらが放つ光が点々としてみえる。

少なくとも紅野のいうぼんやりって感じじゃない。

やはり、俺と彼女では見えてる世界が違うようだ。

この水墨画のような光景は、彼女の目にはどんなふうに映ってるんだろう。

目を細めたりしてみれば、少しはわかるんだろうか。

そう思って瞼を引っ張ったり片目を隠したりしてみると。

「なにやってんのよ」

「いや、お前の見てる景色が気になって……」

「あんたバカなの?」

辛辣な罵倒を頂戴してしまった。

氷の如く冷えた目線がとても痛い。

「えぇ……俺はお前に歩み寄ろうと思って……」

「そんなこと別にしなくていいから。そもそも見えてる世界なんて一人一人違うんだから、近づくなんて無理でしょ」

「そう……だな」

やや強めに言われて、押され気味に俺はうなずいた。

確かに、言われてみれば他人の視界を完璧に模倣するなんて無理な話だ。

そう思うと、世界ってのは一人一人違うもんなんだな。

なんて、ずいぶん哲学的なことを考えてしまう。

「まぁ……すりガラス越しにみれば少しはあたしと同じ景色が見えるかもね」

紅野が冗談めかして言った。

それを分かったうえで。

「それ、いいな」

俺はそんなふうに賛同してみる。

すると。

「あんたバカなの?」

同じ言葉でも、今度は若干笑い声が混じっている。

「かもな」

俺も笑って返した。



俺のスマホが震えたのは、十分ほど経ったころだろうか。

「……真弓さんか」

ポケットから取り出したスマホの液晶を見て、俺は嘆息した。

きっと外出したことがバレてしまったのだろう。

この電話に出てしまえば、今すぐ帰るよう催促されるに違いない。

なので、俺は申し訳ないと思いつつもマナーモードにして無視しようとした。

しかし。

「家の人? 出ときなさいよ」

スマホをしまおうとした手を、紅野に掴んで制される。

「家の人に心配かけるの、よくないわよ」

「……わかった」

向こうが正論であるばかりに、圧を込めて言われてしまうと逆らえなかった。

仕方なく、応答ボタンを押す。

「もしもし──」

『来人くん、あなた今どこにいるの!」

電話に出るや否や、切羽詰まった声で怒鳴られる。

きっと隣の紅野にも聞こえていただろう。

それくらいの声量だった。

「えっと……駅の方で散歩してます」

『駅で散歩ってあなたねえ。今自宅待機を命じられてるんじゃないの?』

「はい」

『はい、じゃないわよ! 誰かに見つかったらどうするの!? とにかく今すぐ帰ってきなさい。そのあとはお説教だから。あと、場合によっては姉さんに報告するから。いいわね!?』

「……はい。すいません」

あーあ、やっぱり怒られた。

まあ、帰ったら絶対もっと怒られるんだろうけど。

それを考えると帰るのが億劫になる。

しかし、今すぐ帰ると約束したからには破るわけにはいかない。

「すまん、紅野。俺、もう帰らないといけないみたいだわ」

スマホを持ったままため息をつき、紅野に声をかける。

半笑いで冗談っぽくいったのは、情けない姿を見られたことを誤魔化すためだ。

「あはは……うん。帰ったほうがいいわね」

対して紅野は苦笑い。

んー、気恥ずかしい。

まるで同級生の前で親に叱られたような小学生みたいな気分だ。

「ま、あんたが帰るならあたしも帰ろっかな……ね、次はあんたが先降りてよ」

「ん。わかった」

そんなやり取りを経て、再び獣道を通る。

一回通ったおかげで、すでに草木は書き分けられた状態で通りやすかった。

獣道を抜けたら下山する。

そこからは、誰かに見つかる前に帰ろうと、早足になる。

紅野は何も言わず合わせてくれた。

「……なんかごめんね」

途中、彼女が謝罪の言葉を口にした。

「なにが?」

足早に歩きながら、俺は聞き返す。

「や、なんかあたしが連れ出したせいで怒られちゃったみたいだからさ」

珍しく殊勝な様子でいう。

まあ、それは確かに否定できない。

だが。

「いいよ、気にすんな。結局行くって決めたのは俺なんだから」

「でも……」

「大丈夫だって。そもそも、バレるのは想定内だったしな」

「でも、あんた。さっき電話で誰かに報告するって言われてたじゃない。それ、結構やばいんじゃないの?」

楽観的に振る舞う俺に、紅野が半眼で問いかけてくる。

ぐっ、結構鋭いな。

まさに彼女の言うとおりだ。

ぶっちゃけ真弓さんに怒られるだけなら問題ない……ことはないんだが、それだけで済むならまだマシな方だ。

俺が信用を失うのも彼女一人で済む。

だが母に報告されるとなると、当然そちらからの信用を裏切ることにもなる。

母は、くだらない非行に走りつづける俺を決して見捨てることなく育ててくれた恩人だ。

今回の下宿も、ようやく俺が変わる気になってくれたと心の底から喜んで、期待して送り出してくれたのに。

学校で暴力事件を起こした挙げ句、さらに問題行動を起こしたらと聞くと、どんな風に思うだろうか。

ひどく悲しむに違いない。

もちろん、その元凶である俺がいっていいことではないとわかってはいるんだが。それでも、もう母を悲しませたくはないのだ。

真弓さんもそれをわかってるから、あの帰り道で母に報告はしないといってくれたんだろう。

けど、あんまり問題行動を重ねすぎると隠し通すわけにもいかなくて……。

「まあ、それは普通にやばいけど、本気で謝ればなんとかなると思う。だから大丈夫だ」

本当に、それだけで何とかなればいいんだけどな。

とはいえ、いくらやばいからって紅野に謝られるいわれはない。今回の件は全て俺が悪いのだから。

けれど、彼女は納得していない様子で「本当にそれでいいのかしら……」と顎に手を当てて考え込んでいた。

それから数秒後。

名案を思いついた! と言わんばかりに手を叩いた。

「そうだ、帰るついでに夜桜よって、あたしも一緒に謝ってあげよっか」

「は?」

思わず、困惑の声が漏れる。

紅野は更に言葉を続けた。

「ほら、あんたを連れ出したのはあたしなんだし、あたしも謝ればあんたの……えっと、叔母さんも仕方ないってわかってくれるんじゃない?」

そっか、こいつは俺が下宿してることを知ってるんだっけ。

──って、そうじゃなくて。

「アホか。そんなことさせられるわけないだろ」

俺はやや強めの口調でいった。

「なんでよ」

紅野が口を尖らせる。

「なんでって。なんでお前が真弓さんに謝る必要あるんだよ」

「だから。あんたを連れ出したのがあたしだから」

「あー、そうだったな。って、そうじゃなくて……」

そうだ。確かにその通りだ。愚問だった。

しかし、想像してみて欲しい。

紅野が俺と一緒に真弓さんに謝ってる姿を。

『ちょっと来人くん! あなたどこで──ん? この子は?』

『初めまして。あたし、霞河くんのクラスメイトで紅野梓って言います。今日彼が外に出たのはあたしが連れ出したせいなんです。だから、どうか彼を責めないでくれませんか?』

そんな風に庇われる俺、情けなくないか。

そういってみると。

「考えすぎ。別にそんなことで誰もあんたのこと情けないなんて思わないわよ」

「いや、俺が思うんだが?」

「それ、男のプライドってやつ? 捨てちゃいなさいよそんなもん。あたし……っていうか女からしたら、無駄に見栄張られる方が情けなく見えるわよ」

「そういうもんなのか?」

「そういうもんよ」

力強く言いきられると、本当にそうなんじゃないかと信じてしまいそうになる。

だが、相手はあの紅野だぞ?

ひななならともかく、彼女の意見を一般的な女のそれとして受け取っていいものか。

「ねえ。なんか失礼なこと考えてない?」

「いや? 考えてないぞ」

うそ。本当はがっつり考えてました。

でも、正直にいうと角が立ちそうなので絶対口にしない。

「ま、あんたがなんと言おうとあたしは夜桜に寄ってくけどねー。ちょーど帰り道だし」

突然、紅野が走り出す。

「ちょ、待て!」

そんな彼女の背を掴もうと手を伸ばすも、するりと逃げられてしまう。

「待つわけないでしょ、ばーか」

おちょくるような声で俺を煽り、彼女はさらに走るスピードを上げた。


結局、強引に手を掴んで止めるわけにもいかず、紅野を連れて夜桜へ帰ってきてしまった。

「なぁ、ほんとにいいのか?」

「しつこいわよ。いいって言ってるでしょ」

いまだ尻込みする俺を置いて、彼女は敷石が等間隔に置かれた通路を真っ直ぐに進んでいく。

そして、躊躇いなく建物の入り口である引き戸を開けた。

恐る恐る、俺は後に続く。

「あら、おかえり。来人くん」

すると、さっそく真弓さんに出迎えられた。

彼女はにっこりと満面の笑みでフロントの受付に座っていた。

客前だから当然、怒りをあらわになどしていないのだが、なぜだろう。

口調も顔つきも柔和なはずなのに、突き刺すようなプレッシャーを感じるのは。

「た、ただいまです。真弓さん……」

顔をひきつらせながら、俺は答えた。

「とりあえず、後ろで話しましょっか」

柔らかい表情を保ったまま、真弓さんは受付の裏にある事務所の扉を指した。

だが俺は見逃さなかった。

振り向く際の一瞬、その笑顔が温度ゼロの無表情になった瞬間を。

真弓さんが中へ入ると、入れ替わるように別の人が出てくる。

比較的若めの女性だ。確か名前は谷村さんだったか。

谷村さんはフロント前で突っ立ってる俺を見ると、『なんだかよくわからないけどやっちゃったわね』と言いたげに笑いかけてきた。

悪いが今はその笑みに応えることはできそうにない。

事務所に入ると、面接会場のように椅子が縦に二つ並べられていた。

真弓さんはその奥に座っていた。

もう客前ではないため、その表情にさっきのような柔らかさは微塵もない。

「し、失礼します……」

無言で座るよう促され、俺はゆっくりと腰をかけた。

すると、真弓さんがわずかに目を尖らせた。

それだけで俺は、ヘビに睨まれたカエルのように身を縮こまらせる。

「……………っ」

真弓さんはすぐには言葉を発さなかった。

ただ無言で、じっと俺の反応を伺っていた。

それは説教の第一声を考えているのか、ひたすら俺に圧をかけようとしているのか。

胸を圧迫するような緊張感の中。

──コンコン。

控えめなダブルノックの後に、ゆっくりとドアが開かれる。

「すみませーん……」

その瞬間、さっきまで情けないと思ってた俺の気持ちはどこ吹く風。ありがたいと感謝してしまっていた。

「誰? 悪いけど今は取り込み中なんだけど……」

真弓さんがドアに向けて言う。

しかし、入ってきた人物を見ると、「どなた?」と首を傾げた。

「初めまして。私、霞河来人くんのクラスメイトの紅野梓っていいます」

紅野が、真っ直ぐに正した姿勢でいった。

いつもの冷たくも暑くもない真面目な雰囲気に俺は新鮮な気持ちになった。

そういえば、今一人称が「あたし」から「私」になってたな?

「それと、今日はすみませんでした」

紅野が勢いよく頭を下げる。

「え、ちょっと、どうしたの?」

珍しく戸惑いをあらわにしながら、真弓さんは椅子から立ち上がった。

彼女は俺の横を通って紅野の元へ歩み寄った。

「実は、今日霞河くんを自宅待機なのにも関わらず、連れ出したのは私なんです」

「……どういうこと?」

真弓さんが怪訝な様子で眉を顰める。

「それは──」

紅野が今日の昼に俺に電話をかけて、俺を呼び出したことを説明する。

その間、俺は何も言葉を発さなかった。

ここで「やめろ、お前は何も悪くないんだから」とか「でも結局行くと決めたのは俺なんだから」とかいっても、安っぽい茶番にしか見えないと思ったからだ。

「なるほど……」

真弓さんが顎に手を当てて納得する。

それから俺の方を向いた。

「でも、結局行くって決めたのは来人くんなんでしょう。ねえ?」

尋ねられて、正直に俺は頷く。

「それでも、彼を呼んだのは私ですから」

紅野は頑として譲らない様子で真弓さんの方に歩み寄る。

ちなみに紅野は一つ嘘をついている。

俺を呼び出した時点で、彼女は俺が自宅待機を命じられていることは知らなかった。

そのことを、指摘するべきだろうか。

「ですから、霞河くんを責めないであげてほしいんです。お願いします」

まるで自分の事のように紅野は頭を下げる。

そんな姿を見ていると、なんとも自分が情けなく思えてくる。

ああ、何を迷ってるんだろう。

彼女は何も悪くないって、最初からわかっていたのに。

本当のことを告げようと、俺は初めて口を開く。

「あの──」

「はあ。なんなんでしょうね、この空気は。なんか、私が悪者みたいになってるじゃない」

だがそれよりも早く、真弓さんが観念したように頭を抱えた。

俺と紅野が同時に「え?」と声を上げる。

「何驚いてるのよ。そんな態度取られると、ふたりとも責める気なくすわ。ま、女の子に謝らせるなんてとっっっっっても情けないって思うけど、紅野さんの善意に免じて許してあげる。反省はしてるんでしょ?」

真弓さんが呆れたようにため息をつく。

「は、はい。そのとおりですけど……」

「なら、もうこの話は終わりでいいわ」

急にスイッチが切れたかのように、真弓さんはいった。

「え、あの……いいんですか? ほんとに?」

やけにあっさりしすぎているのが逆に怖くて、つい余計な質問をしてしまう。

すると真弓さんはジトッとした目で俺を見た。

「なに? お望みならきっついお灸を据えてあげましょうか?」

「い、いえ……結構です」

俺は引きつった顔でブンブンとかぶりをふった。

まあ、なんにせよ……穏便に済んだのは喜ぶべきか。

「ま、ほんとはグーパン三発くらいかましてやろうかと思ったけど。紅野さんの前でそれは出来ないわね」

訂正。俺は諸手を挙げて紅野に感謝しないといけないようだ。

「ま、それはさておき。本題は別にあるのよね」

冗談、と言わないところが恐ろしい。

もし紅野がいなかったら……本当に殴られてたかもしれないな。

俺はほっと安堵の息をつく。

「ところで、本題って?」

気を取り直して、尋ねる。

すると、真弓さんは引き出しの中から十センチほどの厚みがある巨大な封筒を取り出した。

「それは?」

「学校からの処分内容。さっき涌井先生が出勤前に持ってきてくれたのよ。まったく、あなたを呼んでって言われて部屋に呼びに行ったのに、もぬけの殻だったから焦ったのよ? 先生にはお風呂に入ってるからってごまかしたけどさ。先生が帰ってくれなかったらやばかったわ」

真弓さんはため息まじりにいった。

「すみません」

なるほど。俺の外出がバレたのはそういう経緯があったのか。

思ったより危険な事態だったらしい。とっさに機転を利かせてくれた真弓さんに感謝だな。

「それと、紅野さんの席は用意したほうがいいかしら」

真弓さんは、封を切る前に俺の後ろで立っている紅野に目を向けた。

「あ、いえ。大丈夫です! あたしは外で待ってます! 失礼します」

紅野が慌てた様子で出ていく。

「あれがあなたが助けたっていう子?」

二人きりになると、真弓さんは慈しむように微笑んだ。

「ええ、まあ」

助けた、と明言するのは気恥ずかしくて、俺は曖昧に返事をする。

「ふふ。ひななから聞いた印象とは全然違うわね。普通に綺麗でいい子じゃない」

ひななから聞いた印象、か。

彼女のことだから、きっと悪口は言ってないはずだが、だからといって良いこともいってないだろう。

事実、昨日まで俺も紅野にいい印象なんて持っていなかった。

しかし、今なら自信を持っていい切れる。

「はい。あいつはとてもいいやつですよ」

紅野は悪いやつなんかじゃない。ただ、多少運が悪かっただけのひねくれ者なんだって。

「ふふ。あなたのそんな顔見てると、ますます怒る気持ちなんてなくなっちゃうわね」

「そうですか?」

「ええ。すごくいい友達を持ったのね」

「……はい。本当に」

紅野だけじゃない。ひななも。水原も。島村さんも。そして真司も。

俺は本当にいい友達に恵まれた。

みんなには感謝してもしきれないな。

「だからって喧嘩は良くないけどね」

それは本当に返す言葉もありません。

「ま、それより。とっとと処分の話もしちゃいましょ」

そういって気分を切り替えると、真弓さんは無造作に封筒の封を切った。

「はい。まずは自分で確認しなさいな」

それを俺に手渡す。

「これは──」

受け取って中身を確かめてみると、中から出てきたのは大量のプリント群だった。

二つ折りにされた大きな紙と、A4用紙の束。それぞれ主要五教科の問題と反省文の束。

そして最後に一枚だけ、無骨なフォントが綴られた一枚の用紙。それが処分の内容の通達書だった。

一番上の『今回の事件に対する対応について』という大文字のタイトルの下に記されていたのは、二週間の自宅謹慎を命じるという内容の文だった。

大量の問題と反省文は自宅謹慎中にやるようにとのことだった。単純に自宅で留守番、というわけにはいかないらしい。

それも当然か。

「どんな処分だった?」

真弓さんが訊ねてくる。

「自宅謹慎二週間らしいです。だいたい予想通りの処分ですね」

一通り内容に目を通してから答えると、俺は用紙を傍のデスクの上に伏せて置いた。

喧嘩の落とし所としては、謹慎がもっとも多い。それは俺が中学で何度も経験してきたからわかることだ。

中学と違って高校は退学処分も選択肢にあるのだが、相手に怪我はさせていないし、初犯でもあるからそこまで重くするつもりはなかったんだろう。

プリントに想定外の内容は書かれていなかったので、俺はひとまず安心する。

だが。

「あら、そんなもんで済むと思ってるのかしら?」

真弓さんが不敵な笑みを浮かべていったことで、再び背筋が伸びる。

すると、真弓さんは顔面に笑みを貼り付けたまま、人差し指を立て、俺に指した。

「来人くんは、絶対に喧嘩しないって姉さんに誓って、こっちに来たのよね?」

「そのとおりです」

俺は何度もうなずいた。

「でも、それを破った。不可抗力とはいえ、破ったことに変わりはない。そうよね?」

「はい、そのとおりです」

「でに、その事実をお母さんには隠してる」

「はい」

「後ろめたいと思わない?」

「思います」

「それに、今後不可抗力じゃない暴力が再発しないとは限らないわよね」

ひとつひとつなぞるように、真弓さんは確かめていく。

俺は首振りマシーンのように何度も肯定していた。

最後の質問に関しては絶対に再発させるつもりはないが、今この状況で言っても説得力がなさすぎた。

「今回の事件について。ちゃんとしたケジメが必要だと思わない?」

「ケジメ、ですか?」

「そ、ケジメ」

真弓さんは笑顔で頷く。

確かに、俺もケジメをつけるのは必要だと思う。

だが、そのための謹慎ではないんだろうか。そう聞いてみると。

「甘いわ」

ばっさりと言い切られてしまった。

とはいえ、学校から課せられた処分を全うする以外に何をすればいいのだろうか。

「では、何をすればいいんでしょう?」

自分では思いつかず、真弓さんに尋ねる。

「簡単よ」

そういって真弓さんは腕を組んだ。

直後、続けて飛んできた言葉は、俺が全く予想もしていない言葉だった。

「明日から謹慎が空ける前日まで、うちでタダ働き」

自信を持って言い切る。

「まじ、ですか」

「ええ。ウチで働くなら謹慎も出来るし、ついでに仲居仕事であなたの忍耐力もつくし、人手が増えてウチも助かるし。一石二鳥ならぬ一石三鳥って感じじゃない?」

「俺が接客業って、本気で言ってるんですか?」

「ええ、もちろん。ただ最初はお客様の前になんて出せないけどね。ちなみにあなたに拒否権は無いから」

自分で言うのもなんですけど、こんな問題児に旅館の仕事を任せるなんて、本気ですか真弓さん。

と突っ込みたいところだが、何をいっても無駄な気がしたので。

「……わかりました」

俺は死んだ目でうなずいた。

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