第23話 はなし

「霞河。今保護者をお呼びするからここで待っていなさい」

あの日、涌井に道場を連れ出された俺は、生徒指導室でしばらく待つように言いつけられた。

それからしばらくして、教頭や校長と共にやってきたのは、顔を強張らせた真弓さんだった。

「来人くん……あなた、またやったの?」

生徒指導室に入ってきてすぐ、何かを察したらしい。

冷たい声で尋ねられる。

その言葉に周りは何のこっちゃと怪訝な目をしていたが、俺にはその意味が分かっていた。

「……はい、すみません」

「あなた!」

かっと目を見開き、真弓さんは大股で詰めてくる。同時に腕は大きく振りかぶられていた。

この時俺は殴られると確信し、やってくる衝撃に備えて目を瞑っていた。

目を開けていると、無意識に顔を逸らして、受け流してしまいそうだったから。

しかし、来るはずの痛みはいつまで経っても来なかった。

「奥さん、どうか霞河くんを叱るのはやめてあげてください」

どうやら、涌井が真弓さんの腕を掴んで止めたらしい。

「奥さん。その手は本来、霞河くんではなく私に向けられるべきなんです。

なぜなら、彼が動いてくれなければ、一人の女子生徒が怪我をしていたかもしれないのですから」

悔しそうに顔を歪め、涌井はいった。

「……どういうことですか?」

離された手をさすりながら、真弓さんは訊ねた。

「はい。今回の事件はそもそも、私の監督不行き届きが招いたことなのです」

そう前置くと、涌井は武道場での出来事を順序だてて説明した。

武内が無理な授業内容を指示したこと。

それに耐えかねて泣き出してしまった女子生徒がいたこと。

さらに横暴な態度に痺れを切らし、ある女子生徒が異議を申し立てたこと。

彼女の態度が武内を刺激し、手を上げようとしたところを、すんでのところで俺が阻止したこと。

それが行きすぎて武内に暴力を振るってしまったこと。

全てを話し終えるまで、涌井はなるべく俺に非がないかのように語っていた。

俺はどう考えてもやりすぎだと思っていたが、口を挟める雰囲気ではなかったので黙っておいた。

「なるほど。ですが、この子がその武内先生に暴力を振るった、というのは間違いないんですよね?」

「……はい。それは間違いありません」

涌井が頷くと、真弓さんは一瞬だけ俺をみた。

切長の目に浮かんでいた感情が失望だと悟った瞬間、俺の心臓がどくんと飛び跳ねる。

その後、処分は決まり次第追って連絡するとのことで、俺は数枚の反省文と共に帰された。反省文は連絡がいくまでの自宅待機中に書けとのことだった。

その帰り道、妙に重苦しい空気の中。

「姉さんにはどう報告すればいいのかしらね」

ため息混じりに呟かれた真弓さんの言葉に、何も言い返せなかった。

だがどういうわけか、数日経ってもそれに関して母から糾弾の連絡が来ることはなかった。もし母がこの件を知ったなら、黙っているはずがない。つまり、真弓さんは母には報告しなかったらしい。

理由は不明だ。

情状酌量の余地を考えてくれたのか、はたまた母には心配をかけたくなかったか。

おそらくそのどちらかだろうが、正直ありがたいと思ってしまった。


その日の夜は、シフトに入っていなかった筈のひななが様子を見にきてくれた。

彼女の話によると、クラスのみんながなるべく処分を軽くしてもらえるよう、涌井や校長たちに掛け合ってくれているそうだ。

実に、なんともありがたい話である。

正直、不良だとか暴漢だとか言われて、また怖がられるんじゃないかとヒヤヒヤしていたから、その知らせには胸が温かくなる。

不覚にも、まぶたがウルッとしてしまった。


ひななは俺が気に病んでないか気遣ってくれたようで、風呂以外の時間は食事も含めてずっと傍で話し相手になってくれた。

別にそんなに気負ってはいないのだが……今日はなんとなく日課の筋トレもやる気が起きないので、ずっと彼女と会話をしていた。

ただ、自宅待機を命じられてる俺と違って、ひななは翌日も学校に行かなければならない。

だから早めに帰らなくていいのかと尋ねてみたら、泊まる準備はしてきてるので、問題ないとのこと。

なので、寝る時間になるまで二人揃って縁側に座っていた。

そんなある瞬間のこと。

「ねえ、クルくん。ひとつ聞いてもいいかな?」

ひななが、月を眺めながら聞いてくる。

「なんだ?」

「私たちが初めて出会った時なんだけどさ」

初めて出会った時といえば、ひななが酔っ払いに絡まれていたところを助けた時か。

「おう」

「私に絡んできた酔っ払いのおじさん、あんなにタイミングよく転ぶかなーってずっと思ってたんだけど……あれも、もしかしてクルくんが?」

なんだ、やっぱり気づいてたのか。

「ん、あー。あれな。そうだよ。普通に避けて足引っ掛けた」

本性がバレてしまった以上、もはや隠し立てする意味はない。

潔く、認めておいた。

「……そっか。うん。じゃあ、改めてありがとうね」

「よしてくれ。もう時効だろ」

「あはは、別に悪いことしたわけでもないのに、時効はちょっと違うんじゃない?」

それが全く違わないんだ。

俺はあの男に対して、もっとひどい暴力を振るってたんだから。あれも不可抗力に近いものだったが、十分にしてたんだよ。悪いことは。

だが今更それをカミングアウトするつもりもない。

だから、何も知らない彼女は無邪気な表情で笑っていた。

「まぁ、助けてくれたんだから何でもいいんだけどね。今日のクルくん、すごくかっこよかったよ」

その言葉に、俺は苦い笑みを浮かべることしかできなかった。


紅野から電話が来たのは、その二日後のことだった。

知らない電話番号だったので、最初は間違い電話なんだろうかと本気で思っていた。

『あー、もしもし? 霞河?』

だから、あのハスキーボイスが耳元で聞こえたときは、声を出して驚いてしまった。

「こ、紅野!?」

『わっ、大きい声出さないでよ……そう。あたし、紅野梓。ねえ、今ちょっと時間いい?』

なんで急に、とか。そもそもなんで俺の電話番号を知ってるんだ、とか。色々言いたいことがあったが、俺は無言で何度もうなずいた。

今思えば電話で頭を下げても意味がなかったのだが、そのときは驚きすぎてそんなことを考える余裕はなかったのだ。

「どうかしたのか?」

『……ん。えっと、とりあえず謝っときたくて……ごめん。あたしのせいで、あんたが変なことになっちゃって』

驚きだった。

電話をかけて来たのもそうだが、わざわざ謝られたことも。

「いや、別にいいよ。結局武内に手を出しちまった俺が悪いんだし。それより、お前は無事だったのか? 尻もちついてたけど、怪我とかしてないか?」

『あ、うん。それは大丈夫。全然痛くなったりしてない。おかげさまで』

そういった彼女がやせ我慢をしている気配もなかったので、俺はほっと胸をなでおろした。

「で、用件はそれだけなのか?」

幾分軽くなった気持ちで尋ねる。

なんとなくだが、彼女が電話をかけてきた理由は、そんなことじゃない気がした。

『ううん、それだけじゃない。もっと話したいことある。あるんだけど……出来れば直接あって話したいからさ。今日の夕方、六時過ぎくらいに弓道場来れない?』

弓道場って……俺、自宅待機を命じられてるんだが。

学校に行くどころか、外に出ていること自体見られてしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれない。噂を聞いた街の人に通報されるかもしれない。

そう思うと、結構リスキーなんだが……。

「いいよ。行く」

考えてることとは裏腹に、俺は即答でうなずいていた。

『ありがとう。それじゃ、待ってるから。もう授業始まるから切るわね』

紅野がそういったあと、ぶつっと音がなって通話が切れる。

その後、通知が来たのでラインを開いてみると、紅野から友達申請が来ていた。

トークルームにはAZUSAがあなたを電話番号で追加しました、と書かれている。

もちろん、拒否などするはずもない。

ひななに誘われて入っていたクラスのグループの方も、何十件もの通知が溜まっていた。おそらくクラスのみんなが励ましの言葉をくれているんだろう。だが今はとても見る気になれなかった。


その日は一日中ソワソワしながら過ごした。

夕方になったら、ちょうど混んでいる時間を見計らって、受付の人にばれないように外へ出た。

真弓さんから話が通っていて、自宅待機中の俺が出ようとしてることを怪しまれたら困るからだ。帰りに見つかる分にはいい。行きで見つかって止められるわけにはいかない。

外はポツポツと雨が降っていた。

本降りというわけではないが、傘が必要な程度には雨足が強い。

俺はポケットに突っ込んできた折りたたみ傘を広げた。

六月の始まり際くらいになると、日も随分と高くなる。

しかし今日は空が雲がに覆われているせいで、本来まだ空が明るい時間でもすでに薄暗くなっている。

ランニングができなくなるので雨は嫌いだが、今日に限っては傘で顔を隠せるのでありがたい。

夜桜の敷地を出たら左に曲がり、深めに傘をさしながら、なるべく人通りの多い道を避けていくこと二十分弱。

俺は古川高校の正門についた。

だが、お尋ね者状態である俺が、まっすぐに入るわけにはいかない。

なので、ぐるっと弓道場のある位置まで迂回すると、俺は傘を指したままフェンスを超えた。

手や股あたりが濡れて気持ち悪いが、仕方あるまい。

「……紅野、来たぞ」

靴を脱ぎ、道場に入る。

「……いらっしゃい。霞河」

シトシト雨滴る道場で、彼女はたった一人で弓を構えていた。

弓道って、雨の中でもやるものなんだろうか。

道場から的まで天井なんてないし、雨粒で矢の軌道とか結構変わりそうな気がするんだが。

「部長はいないのか?」

靴箱の靴が二足しかなかったので、彼女しかいないことは知っていた。

それでも尋ねたのは、何か話さないといけない気がしたからだ。

「うん。雨だし今日は帰るって。だから今日はあたしだけ」

「そうか……」

雨じゃなくても、部長には席を外してもらうように頼むつもりだったのか?

そんな無粋な質問はできなかった。

的前の後ろ。紅野の立ってる場所から二メートルくらい右後ろにあぐらをかいて座る。

一月ぶりに見る彼女の立ち姿は、やっぱり綺麗だった。

「えっと、話したいことってなんだ?」

訊ねると、紅野はすっ、と弓を下ろした。

竹刀を納めたような格好になる。

真紅の瞳が俺を捉えた。

「あんたさ、あの時、どうしてあたしを助けたの?」

「どうしてって、やばそうだと思ったからだよ。あのまま見てるだけだったら、お前殴られてたじゃん」

「そうだけどさ。あたし、あんたにひどいこと言ったじゃない。それなのに、どうして助けに来てくれたの?」

多分、部活動見学の時のことだろう。ひどいって自覚、あったんだな。

「んー、知らね。お前が殴られたらやべえって思ったら身体が勝手に動いてた」

「それって、あたしだから助けたってこと?」

は? と気の抜けた声が漏れた。

だが紅野の顔がやけに真剣味を帯びているから、真面目に考えてみる。

もし、あの時尻もちがついていたのが他の誰かだったとしたら……俺はどうしたか。

数秒考えて、答えは出た。

「……いや、どっちかっていうとお前が女だからだな。もしあいつに殴られそうになったのが真司なら助けなかったと思うし、逆にひななとか水原だったら助けてたよ」

ただ、その場合あそこまで武内を攻撃することはなかったかもしれないが。

今だからこそ言えるが、あの時武内の竹刀を逸した時点で手を止めてもよかった。

向こうもあの瞬間には落ち着いていた様子だったし、そのまま黙ってれば涌井が止めてくれていただろう。

それでも紅野がひどく怯えた顔をしているのが目に入った瞬間、攻撃を加える以外の選択肢は消えていた。そういう意味では、紅野だから助けた、ということになるんだろうか。

「……そう。それならちょっと、嬉しいかも。ありがとう」

ほんの少し、紅野の頬が赤くなる。

何が嬉しいのかわからないが、とりあえず「どういたしまして」と返しておく。

「で? ここに呼び出した用件はそれか?」

別に礼くらい、電話でいってもいいと思うんだが。

しかし、またもや紅野はかぶりを振った。

「違う。あたしね、あんたに一つ謝らなきゃいけないことがあるの」

「謝りたいこと?」

なんだ。先月の嫌い発言について撤回するつもりか?

あれで俺がどれだけ傷ついて悩んだことか……。

もし、今更あれを「冗談でした!」なんて言われでもしたら、俺は怒り狂うかもしれない。

なんて考えていると。

「ほんとはね、あんたのこと。別に嫌いなんかじゃなかったのよ」

「……あ?」

まさかの言い草に、思わず低い声が漏れる。

無意識に相貌が険しくなる。

「あの言葉……実は、冗談だったの。だからそれを謝りたくてさ」

本当に、冗談だったとカミングアウトされてしまった。

なるほどなるほど。確かにそれは電話では出来ない。直接話さなければならないことだな。

「……どういう意味だ?」

「言葉通りよ。あたしは別にあんたのことを嫌ってなんかいなかったし、本当はクラスの人も別に嫌いってわけじゃない。どっちかっていうと、興味が無いに近いの」

意味がわからなかった。

そりゃまあ、やけに淡々と言うなとは思ったが、あの言葉は嘘だとは思えない。

そもそも、本当にクラスのみんなが嫌いじゃないと言うなら、教室での悪態はいったいどう説明するんだ。

そう言ってみると。

「あれはクラスの雰囲気に従ってるだけ。みんながあたしを避けてるから、あたしもみんなを遠ざけてるの。そっちのほうが楽だし」

そりゃ、お前があんな態度を取ってたら、誰も近づこうとしないだろ。

そう言ってやりたかったが、こいつとクラスのみんなには何やら諍いがあったと聞く。

その禍根が俺の想像以上にでかい可能性もある。

当時のことを知らない以上、あまり強くはいえなかった。

「……じゃあ、俺を無視してたのも、クラスの雰囲気に従ってただけなのか?」

「そういうことね」

毅然として、紅野はうなずいた。

「そういうことって、お前……」

呆れて物が言えない。とはまさにこのことだろう。

俺は大きなため息を吐いた。

「お前に嫌いって言われて、俺がどんだけ悩んだと思ってんだよ」

「え、どのくらい?」

「そりゃお前……日課のランニングもやる気でなかったくらいだ」

「なんだ、それだけか。枕を涙で濡らしてた、とかだったら面白かったのに」

「なんだって何だよ。俺はランニングは子供の時からずっと続けてるんだぞ。休んだのなんて雨の日くらいだったんだぞ」

「別にいいじゃない一日休むくらい。学校の皆勤賞じゃあるまいし」

「そういう問題じゃねえんだよ」

「じゃあどういう問題よ」

きっと睨みつけてくる紅野に、負けじと俺も睨み返す。

数秒後、先に折れたのは俺だった。

「はあ、もういいよ別に。それより、なんで今更そんな話をしてきたんだ」

「それは……ケジメよケジメ。あんたに迷惑かけたのに、いつまでも邪険になんてしてられないわよ」

紅野は頬を真っ赤に染めて、ぷいっと明後日の方向を向いてしまった。

しかしすぐにこっちに向き直した。

「ねえ、ついでにもうひとつ聞いていい?」

「なんだ?」

「あんたってさ、不良なの?」

「それは……」

あまりに直球な質問に、口ごもる。

そりゃまあ、あの現場を見たらそう思うのは無理ないか。

取り繕っても、無駄だろうな。

「地元にいた頃はそうだった。毎日のようにケンカしてたよ」

観念したように、俺は真実を口にした。

「そう。だからやたら喧嘩慣れしてる感じだったのね。剣道やってたんだっけ」

「まあな」

「でもあれ、明らかに剣道の動きじゃなかったわよね」

そのとおりだ。

あれは剣道なんかじゃない。

あの動きは──。

「あれは、ただのケンカ剣術だよ。どっちかっていうとチャンバラに近い」

チャンバラ、というには完成度は高いほうだと自負しているが。

少なくとも絶対に剣道ではない。剣道は蹴りは禁止でメンドウコテ、ついでにツキ以外の打突は無効だからな。対して剣術は何でもあり。場合によっては武器を投げることだってあるくらいだ。

「ふーん。そのケンカ剣術、っていうのは誰かに習ったの?」

「いや、ほとんど独学だよ。喧嘩してくうちに覚えてった」

そりゃ、参考にした人はもちろんいるが。

相手のどこを打てば効率よくノックアウトできるか。いかに隙を見せずに動けるか。そういう事を考えながら実戦を繰り返したことによる成長が一番大きい。

「……なに、その修羅みたいな生活。学校はちゃんといってたの?」

「一応、授業には出てたぞ」

「はあ? なにそれ。なんでそんな意味わかんないところだけ真面目なのよ……」

紅野が呆れたように苦言を呈す。

俺の地元は素行の悪い人間なんて腐るほどいた。

ちょっと裏路地に入れば、すぐに絡まれる。

学校帰りの生徒をターゲットにするような不届き者も少なからずいたので、授業に出てても相手には不足しなかったのだ。

晩年の方は、むしろ避けられるくらいになってしまったが。

「それさ、補導とかされなかったの?」

「何度かされたよ。少年院にぶち込まれそうになったこともあるぞ」

「やばいわね……」

そう、あの時の俺は本当にやばかった。

偉大な父に比べられることが嫌で剣道を捨てて、そのストレスを発散するようにケンカに明け暮れていた。

今こうして普通の学校生活を送ることが出来ているのが不思議なくらいだ。

「教室でのあんたからは全然想像できないわね」

「そりゃまあ、こっちでは普通に過ごすって決めてたからな」

「ふーん。ってことは、こっちに引っ越してきた理由は、更生するため?」

「まあ、そんなところだ」

まったく、いちいち鋭いやつだ。

厳密にいうと、ある事件を起こしたせいで向こうにいられなくなってしまったからだが。そこまで語る気はない。

紅野もそこまで追求してくることはなく、納得したように鼻を鳴らした。

それっきり、会話が途切れる。

本題は話し終わったはずだが、どうにも帰る気にはなれなかった。

紅野は弓を構えることもなく、ぼんやりと空を眺めている。

俺もつられて目線を上に向ける。

依然として雨は降ったままだが、雲は若干薄くなっている気がした。

このままいけば、夜には晴れるだろうか。

願わくば、雨だけでもやんでほしいのだが。

「ねえ。あんたは雨って好き?」

不意に、紅野が声だけで訊ねてくる。

「嫌いだな。服は濡れるし、ランニングはできないし、傘をさすのもめんどくさい」

俺は即答した。

「そうね。たしかに傘をさすのはめんどくさいわよね」

小学校の頃は傘を剣に見立てて遊んだりするのは楽しかったんだけどな。

中学生になったらそんな気は完全に失せた。

「でも、あたしは好きよ。雨は」

「そうなのか?」

「うん。太陽が隠れてる間は呪いを忘れられるから」

呪いって、そんな物騒な。

一瞬また冗談かと思ったが、声の調子からそれは無さそうだ。

背を向けているため表情は見えない。いったい彼女はどんな顔をしてるんだろう。

「呪い?」

「わかるでしょ。この肌と目よ」

紅野はゆっくりと上半身だけをこちらに向けた。

「呪いって……ただ普通の日本人と色が違うってだけじゃないのか?」

黄色肌に黒髪くほめが基本の日本では浮いているが、実際ロシアやカナダに行けば紅野のような人が当たり前で、むしろ俺たち日本人が異端じゃなんだろうか。

そう思うと、呪いは流石に言いすぎな気もする。

せっかく水晶のように綺麗な肌を持って生まれたんだから、もっとプラスに考えてもいいと思うんだが。それが俺の抱いた感想だった。

しかし、紅野は再度「呪いよ。ひどい呪い」と口にした。

「こんな厄介な病気、今すぐ治せるなら治したいくらいよ」

彼女はうつむき、嘆くようにいった。

「それ、病気なのか」

「そうよ。先天性白皮症。アルビノってやつね」

「へー。そうだったのか」

初耳だったが、別に驚きはしなかった。

実は初めて会ったときから、薄々病気なんじゃないか。と考えていたからだ。名称まではわからなかったけど。

それから、聞いたことある? と訊かれたので、かぶりを振る。

すると、紅野は病状を説明してくれた。

「簡単に言うと、身体に必要な色素が全然ない病気。色素がないから肌が白くなったり目が赤くなったりするの。厳密に知りたかったら、スマホで検索するといいわよ」

なるほど、と俺はうなずいた。

確かにその例でいえば、紅野はまさに典型的な先天性白皮症だ。

とはいえ。

「その色素がないと、どうなるんだ?」

一言で色素がない、と言われても、申し訳ないが大したことないように思えてしまう。

ただ容姿が人と違うだけではないか。それだけなら、やはり呪いというには軽すぎるんじゃないか。

このときは、そう思っていた。

「そうね。メラニンがないと、まず日焼けが出来ないわね。普通の人は海水浴とか行くと、肌が黒くなるでしょ。それはメラニンが紫外線を吸収してくれるからなの。でもあたしにはそれがない。だから、まともに紫外線すら浴びれないわね」

「……あ」

そうか。だから体育の時間も外のときは絶対に休んでいるのか。

それに、矢を先輩に回収しに行ってもらっていたのも──。

「あとは、そうね……」

紅野はキョロキョロとあたりを見回したかと思えば、今度は急に弓を構えだした。

なんだ、一体何が始まるんだ。

固唾を呑んで見守る俺をよそに、紅野は狙いをつけて──矢を放った。

矢は多少弱まっていた雨足の中を真っ直ぐに飛んでいって、しかしやはり雨粒に軌道を逸らされたようで、的の端ギリギリに刺さっていた。

見事、とはいかないものの中っただけマシか。

今の行動に一体何の意図があったのだろう。

それを尋ねる前に。

「ねえ、今の矢はちゃんと中った?」

訊ねられる。

「中ってるけど……そんなの、見りゃわかるだろ」

「そうね。そのとおりだわ」

儚げな顔で頷くと、紅野は弓を置き、足元に置いていた傘を広げて、矢を取りに壇上を降りた。

壇上にタオルが敷いてあるとはいえ、濡れた地面を素足で歩くのは気持ち悪くないんだろうか。

そう思いながら、俺はスマホを取り出して検索をかけてみる。

アルビノ、病気。念のため、先天性白皮症というワードも入れて。

すると一番上に来た難病情報センターのページを開いて、さっとスクロールしてみる。

Q:この病気ではどのような症状が起きますか。

その質問の答えを見て、俺は絶句した。

全身の皮膚が白色っぽくなり、紫外線に弱くなる。という記述の後ろに、矯正不能な視力障害と書かれていたからだ。

「……お前、目見えてないのか?」

戻ってきた紅野に尋ねる。

俺の顔は認識できているようなので、盲目というわけではなさそうだが。

「しらべたの?」

傘を閉じ、俺のそばに腰掛ける。

ああ、と俺は声をあげて頷いた。

「ここに視力障害って書いてあるんだが……」

そう言って、俺はスマホの液晶を紅野に見せた。

すると彼女は、「んー?」と唸りながら覗き込んでくる。

その際、前にかかってきた髪を掻きあげる彼女の仕草にドキッとしながらも、俺は本当に目が見えないんだなと確信した。

「あー……そうね、その通り。視力はかろうじて黒板が見えるくらいだし、眼鏡かけても変わらない。なんかそれも光の調整が上手くいかないかららしいけど……ま、どうでもいいわね」

結局治らないことに変わりはないんだし。と紅野は嘆息した。

「でも、お前……」

彼女はさも当然のことのように言ったが、目が見えないってことは──。

「的も見えてないのに、弓道なんて出来るのか?」

壇上から的まで、結構な距離がある。

確か三十メートルくらいだったか。それが弓道の近的であると、以前見学に来た時、部長に教えてもらった気がする。

「まぁ、最初は苦労したけどね。でもぼんやりとは見えてるから、今は感覚でなんとかしてる」

「それって……」

最早すごいを通り越して、神業じゃないだろうか。

見えない的に中て続けるなんて、並大抵の才能で出来るとは思えない。

いや、きっとそれ以上に努力したんだろう。

それは雨の中ですら的前に立っていたことからも、容易に想像できる。

彼女の言葉に、俺は脱帽した。

しかし、同時に不憫だとも思った。

それだけ努力して、ようやく彼女は常人と同じフィールドに立てるのだから。

そういう事情を知ってしまうと、呪いという言葉を否定することはできなかった。

視力両目二.〇の俺には想像もできないが……彼女はいったい、どんな世界で弓を構えているのだろう。

「……やっぱり、こんな体質なのに弓道やってるなんて、変だと思う?」

「いや、思わない。むしろすげえな、としか思わねえわ」

「ほんと?」

「ああ、本当だ」

咄嗟に口をついて出た言葉だが、これは本心である。

たしかに一般的に見れば、弓道は向いていないかもしれない。それどころか、スポーツ自体が向いていないと思う。

だが、それでも好きなことに食らいつく姿勢を変だとは思えない。

それは、ある意味恵まれていた環境であるにもかかわらず、早々に剣道を捨てた俺からすればなおさらのことだ。

それから紅野は、再び弓を構えて矢を放った。

その矢は──。

「……今のは、外れたな」

訊かれてもないのに、その行方を教えてしまう。

「そう。どのくらい外れた?」

「割と。左下に的一個分くらいだな」

「ん。ありがとう」

礼を告げると、紅野は今放った矢を取りに行った。

彼女が戻ってきた時、どうして一回打ったくらいで取りに行くんだと尋ねてみると、矢が濡れるとダメになりやすいから、と返ってきた。

雨の日は、使う矢の本数を抑えているらしい。

けど、俺にはどこか自分で矢を取りに行く瞬間を楽しんでいるようにも見えた。

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