それは剣道じゃない
第22話 馬車馬
あの騒動から一週間が経った。
その間、実に色々なことがあったのだが、まずは現状から述べるとしよう。
事件の罰として学校に二週間の謹慎を命じられた俺は、それとは別に真弓さんに命じられた罰として夜桜の
今は与えられた仕事を終えて、報告に来たところだ。
「真弓さん。庭の掃除、終わりました」
真弓さんは事務室でパソコンと向かい合っている。
「はい。ご苦労さま。じゃあ次は客室の掃除、お願いね」
キーボードを叩きながら、淡々と次の指示が出される。
一瞬だけこちらに目を向けられるが、そこにはいつも見せてくれる柔和な笑顔はない。
最初は冷視されているかと思ったのだが、ひななに聞いてみると事務仕事中の真弓さんは誰に対してもそんな感じらしい。
「はい。行ってきます」
返事をして部屋を出ようとするが、「ちょっと待ちなさい」と声をかけられ、俺は立ち止まった。
「服の袖、よれてるわよ。お客様の前に出るんだから、身だしなみはちゃんとしてね」
視線はパソコンに向けたまま、冷ややかに注意されてしまう。
どうやらさっきの一瞬は俺の服装を見定めていたようだ。
「あ、すみません」
小さく頭を下げて、わずかに捲れていた袖を伸ばす。
そして今度こそ、俺は事務室を後にした。
廊下を歩きながら、細く息を吐く。
現在の時刻は八時。そろそろ早起きの客は食事を終え、遅起きの客は食事を始める頃だ。チェックインの前にひとっ風呂浴びてこうという客もそれなりに多い。
廊下を歩いていると、朝食のお膳を抱えた仲居さんや宿泊客とすれ違うことが多くなる。
そのたびに仲居さんには「お疲れさまです」と声をかけ、宿泊客には「おはようございます」とにこやかに挨拶する。
すると、仲居さんや宿泊客の人も返事をくれる。
たとえ事務的なものでも挨拶に返事が返ってくるのは嬉しいものだ。
だが残念ながら、宿泊客の人には挨拶を無視されることが多い。というかそれがほとんどだ。
だがまあ、別にそれは悪いことじゃない。わざわざ店に行って「いらっしゃいませ」と言われてもこっちは何も言わないのと同じだ。だから俺はそれで傷ついたりはしない。
だが、中には逆に睨みつけたり舌打ちしたりする変な客もいる。そういう奴らに対しては、殴りたくなる衝動に駆られる。
しかしまあ、さすがに仕事中に手を出すわけには行かないので、深呼吸して「馬鹿なやつがいるもんだ」と怒りを鎮めるのだ。
人の怒りは六秒がピークで、そこを超えれば収まるそうだが、俺はそれは嘘だと思う。だって、そんな態度を取られたら俺は少なくとも三十分はイライラしたままだからだ。
だがそれを客前で出すわけには行かないので、やっぱり顔には笑みを貼り付けてにこやかに過ごさなければならない。しかし、不思議なことにそうしてると自然と怒りが静まっていくのだ。
そんな場面を繰り返すたびに、真弓さんが俺にタダ働きを命じた意味を認識させられる。
要は忍耐力ってやつを鍛えさせたかったんだろう。
あんな事件を起こしたのだから当然だが、真弓さんは決して俺に客の表に出る仕事を任せようとはしない。俺に任されるのは大浴場や庭の掃除だったり、厨房で皿洗いの手伝いだったり裏方の仕事のみだ。
にも関わらず、些細なことで心を乱してるのだから、確かに俺には忍耐力がまるでないらしい。
まったく、俺は愚かだ。
力ってのは鍛えなければつかないものだとわかってたのにな。口だけで普通に過ごしたいだなんて言ってやがった。
けどまあ、仕事自体は慣れてしまえばそんなに苦でもない。
強いて言うならランニングの時間が取れないのは痛いくらいか。
朝六時に仕事着に着替えて庭を掃除したら客室の掃除か皿洗いの手伝い。最後に浴場の掃除をして、午前中の仕事は終わりだ。
次は十九時から二十一時まで、もう一度庭掃除や皿洗いの手伝いだ。
それまでは日課のランニングや筋トレに費やす──わけにはいかない。じゃあ、空き時間は何をしているのか。
自宅謹慎とはただ留守番するだけにあらず。
当然、学校からは大量の課題と反省文用紙を渡されていた。
だから午前業務の後は、課題に時間をかけている。
当然、日課のランニングや筋トレに費やす時間なんてない。合間を縫うことも出来ない。
それはなぜか。
課題の量がとにかくえげつないからだ。どれくらいかというと、数学一つとっても問題集三冊分はある。それが五教科分+アルファで襲ってくるのだから、とても一日二日で終わる量ではないのはよくわかるだろう。
それどころか謹慎期間いっぱいかけても終わるかどうか……というレベルだ。
とはいえ、課題はデタラメに量が多いだけあって、時間がかかるような問題は少ない。それに高校の授業で習った範囲が狭いので、問題内容は中学校のものが大半だった。
なので、多少難しくても教科書を使えばわかる問題がほとんどだ。
だがもちろん、中には全く手をつけられないような難問もある。
特に数学の図形の証明問題はほとんどわからない。
そんな時は問題にチェックをつけておくと、ほぼ毎日様子を見にきてくれる家庭教師が教えてくれた。
「えーと、なになに? あー、それはそことそこに線を弾いて……そう、それ。そしたらこことここが三角形になってるでしょ? そしたらほら。この中に入ってる長方形がそれぞれの辺の中点になってるじゃない? ここまで言えばあとはわかる?」
「ん……あ! 中点連結定理か」
「そうそう。そこまでわかるなら、あとは平行四辺形になる条件さえ覚えてれば出来るでしょ?」
「えっと……そうだな。こことここの二組の辺が向かい合ってるから、これは平行四辺形、ってことでいいのか」
「そーそー。こっちの方も、だいたい同じような感じでできるわよ。どう? できそう?」
「やってみる。少し時間くれ」
「ん。詰まったらまた呼んで。あ、でもその前に他にわかんないとこあるなら写真取らせて。先解いとくから」
「おう。付箋貼ってあるから撮ってくれ」
「んー、ありがと」
スマホのカメラを起動しながら、彼女が身を寄せてくる。
透き通るような白髪が揺れると共に、白薔薇の香りが漂ってくる。
彼女は気にしてないようだが、そのまま匂いを嗅ぎ続けるのは悪い気がして、俺は顔をそらした。
「ん。取り終わった」
何度かカシャカシャと音を鳴らしたあと、彼女は俺のそばから離れた。
「いつも悪いな、紅野」
「別にいいわよ。勉強は得意だし、助けてもらったんだから相応の礼はする」
早速取った写真をにらみながら、彼女はいった。
謹慎期間に入ってからほぼ毎日通ってくれる家庭教師とは、紅野のことだった。
「解き終わったぞ。これで合ってるかな?」
残りの証明問題もとき終えると、俺は隣でスマホと睨み合っていた彼女に声をかけた。
「んー? んー、うん。全部あってると思う。やるじゃん」
「おう、このくらい楽勝だぜ」
「調子に乗んな」
軽口をたたきあって、笑いあう。
ほんの少し前まで顔を合わせるだけで憂鬱に思ってたはずなのに、今は悪態が帰ってくるのが心地いい。マゾってわけじゃなくて、気兼ねなく接することの出来る相手が出来た、という意味で。
その後、再び課題に向き合うこと十分ちょい。
コンコン、と控えめなノックの後に入り口が開く音がする。寝る時以外は鍵は特にかけていないので、勝手に入ってきたらしい。
とはいえ、誰が来たのかはなんとなくわかる。ゆえに俺も紅野も特に慌てることはなかった。
靴を脱ぐ音がしたら、また控えめなノック。
「クルくん、梓ちゃん。今入ってもいい?」
ふすま越しに届く声に、いいぞ。と返す。
すると、音もなくふすまが開かれた。
「ふたりともおつかれさまー」
着物姿のひななが、入り口で正座している。たとえ顔見知りの部屋でも、ちゃんと座って扉を開けるあたり流石仲居さんといったところか。
そのとなりには、湯呑が二つ乗ったお盆が置かれている。
きっとバイトが休憩に入ったから、様子を見に来てくれたんだろう。
「お茶入れてきたけど飲む?」
「もらうわ。ありがとな」
「あたしもいただこうかしら」
「はーい」
俺と紅野が頷くと、ひななは屈託のない笑顔を浮かべて中へ入ってくる。
そのまま部屋の中央までやってくると、ちゃぶ台の空いてるところにお盆を置いた。
「ふたりとも、熱いから気をつけて飲んでね」
俺、紅野の順に湯気の立つ湯呑みを受け取った。
気をつけろとは言われたが、真ん中の部分を持ってもそんなに熱いとは感じなかった。だいたい人肌くらいの温度だろうか。
おそらく、ひななが気を利かせてある程度冷ましておいてくれたんだろう。
なので俺はそのまま飲んでみたが、紅野は何度か息をかけてから飲んでいた。案外猫舌なんだろうか。
「ん、なんかしょっぱいわね」
紅野が驚いたようにいった。
俺も思ったが、たしかに普通のお茶とは違う味だ。
しょっぱいってのもそうだが、ちょっと酸味も混じってるような。例えるならお茶漬けに近い味だ。
「これ、なんていうお茶なんだ?」
「今日は梅昆布茶だよ。たまにはいいかなって思ったんだけど、お口に合わなかった?」
「いや、俺はむしろ好きだな。運動後とかに欲しくなるような味だわ」
最近は全然できてないが、ランニングすると大量に汗をかく。
だからいつも塩気のあるものが欲しくなるのだ。
うん。部屋の備品にポットもあるし、常備するのも悪くないかもしれない。
「あたしも別に嫌いじゃないわ」
そういって紅野がもう一口啜る。
「えへへ、よかったー」
ひななが嬉しそうにはにかんだ。
「クルくん、課題は順調?」
「今のところはな。やっぱ証明問題が難しいわ。そこさえ乗り切れば余裕を持って終われそうだ」
「そっか。私もそこは苦手だけど……梓ちゃんがいても難しいの?」
「バカ言わないで。あたしがいれば一瞬よ。まあ、あたしがやったらこいつのためになんないから、ヒントは小出しにしてるけどね」
「そーなの?」
疑ってるわけじゃなさっそうだが、ひななは俺に同意を求めてきた。
「そうだな。すげえ助かってるよ。実際」
なので俺は頷く。
「へえ、さすが梓ちゃん、万年学年一位だね」
そうそう。以前教室で話してたクラス順位一位は紅野だっていう噂、あれ本当だったらしい。
この前世間話に交えて確認してみたら、本人から言質が取れたのだ。
もっとも、俺がわからない問題を全部少し見ただけで解いてたし、聞くまでもなく確信してたがな。
「当然よ。弓道以外は勉強しかやってこなかったもの」
「梓ちゃん……じゃあさ、今度隣町にお出かけしようよ」
「何がじゃあなのよ。余計な気は遣わなくていいから」
「あはは、ごめん……でも、梓ちゃんとお出かけしてみたいなーってのはほんとだよ? 梓ちゃん、可愛いから似合うお洋服たくさんありそうだし」
「はあ。そうね、曇りの日にいつかね」
甘えるように話しかけるひななと面倒くさそうに返す紅野。
俺はそんな二人を梅昆布茶をすすりながら眺める。
まったく、人間関係ってのは不思議なものだ。
まさかほんの一週間ちょい前までカエルとヘビのように避けあっていた二人が仲よさげに会話してるなんてな。
もちろん、なんの理由もなくそうなったわけではない。
「さ、霞河。そろそろ再開するわよ」
まず、彼女がどうして勉強を教えてくれるのか。
そもそも俺を嫌っていたはずの彼女が、なぜ当たり前のように俺の部屋に来ているのか。
「私もそろそろ休憩時間終わりそうだから戻るね。ふたりとも頑張ってね」
どうしてひななが紅野と仲良くなったのか。
それを話すには、あの日武道場を連れ出された瞬間から話さなければなるまい。
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