第21話 叩きのめす!

「紅野?」

俺は反射でつぶやいた。

この緊迫した空気に横槍を入れたのは、涌井ではなく、島村さんの二つ隣に立っていた紅野だった。

「……なんだお前は?」

「一年の紅野梓ですけど。ひとつ、聞いてもいいですか」

紅野はグルっと回って武内の横に立つと、普段より更に低いハスキーボイスで訊ねた。

その頬は紅に染まり、まるでりんごのようになっている。

あれは……暑いからなんだろうか。

武内に正面から睨まれても、彼女はまっすぐに立っていた。足が震えている様子もない。

俺から見たら二人は横向きに向かい合っている形だ。

それはまるで猛虎と白熊が睨み合っているようにも見える。

「……なんだ?」

武内が聞き返す。

「この素振りばかりの練習って、何のためにやってるんですか?」

紅野は単刀直入に聞いた。

「何のためって。お前たちの為に、だが?」

「あたし達の為って……こんなふうに無理やり素振りをやらせて、身体壊すかもしれない練習をさせることが、本気であたし達のためになると思ってるんですか?」

「当たり前だろう。根性がつけば、この先社会に出たときもやっていけるだろう」

アホか。と突っ込みたいが、そんな雰囲気ではない。

それよりも、俺たちのクラスはみんな、あの紅野が武内に突っかかっていることで、呆気にとられているようだった。

「武内先生。いくら生徒のためとはいえ、ここまで身体を酷使するような授業は、私もいかがかと思います」

涌井が島村さんの様子を伺いながら、紅野に同調する。

それをもっと早く言ってやれよ。と思ったのは俺だけではないに違いない。

「……くだらない」

ぼそっと紅野がつぶやいた。

直後、竹刀を目の前に放り捨てた。カシャッと竹を地面に打ちつける音がする。

あ。と声を上げたのは真司だ。

なぜか、竹刀を放り捨てるというのは、剣道の中で絶対にやってはいけないことの一つだからだ。

これをやって、怒らない剣道家は、ほぼいないだろう。

「紅野。それは何のつもりだ?」

もちろん、武内も例外ではなかった。

口調は至って冷静を装っているが、額には青筋が浮かんでいる。

手はプルプルと震えている。まるで手を出したい衝動を抑え込んでいるような。

「紅野。どうした?」

怪訝な顔をして、涌井が尋ねる。

しかし紅野は答えない。

代わりに一歩、大きく踏み出した。

「こんな意味のないこと。あたしはやりたくないです」

ああっ! 真司の口から、さっきよりも更に驚きの声が上がる。

紅野が踏み出した先に、投げ出された竹刀があったからだ。

ガシャッ、四本に組み合った竹が歪に擦れる音が響く。

「貴様!」

武内が紅野を突き飛ばす。

「つっ──」

紅野が尻もちをつき、苦しげな声を漏らした。

どこからか、引きつったような悲鳴が上がる。

まさか手を出すなんて。おそらくこの場にいた全ての人がそう思ったはずだ。

けど、心のどこかで当然だ。と納得していたのは、間違いなく俺と真司だけだろう。

竹刀を投げ捨て、踏みつけるという行為は、剣道家にとって絶対にやってはいけないタブーだ。

もし血の気の盛んな剣道家の前でそんなことをすれば、竹刀でタコ殴りにされても文句は言えない。それほどの重罪。

「来人!?」

──だから俺は、すでに動いていた。

「借りるぞ」

またたく間に柔道場を超えて、手近な女子生徒からひったくるように竹刀を奪いとる。

女子が、きゃっ。と可愛らしい悲鳴を上げる。

悪いな、驚かせて。でも今は緊急事態なんだ。

奪った竹刀は左手一本で握る。

柄がかなり湿っているが、この際気にしてなんていられない。あとでセクハラだって訴えないでくれよ。

案の定、俺の正面では武内が大きく竹刀を振りかぶっていた。

おいおい、まさかとは思ったが、本気で女を殴るつもりなのかよ……。

もう覚悟は出来てるのか、紅野は目をつむっている。

できるだけ姿勢を低く、道場を駆け抜ける。

武内との間合いは三メートルから四メートル。

くそ。遠い。

まずいな、もう剣筋に入り込むのは無理だ。絶対に間に合わない。

ちっ、いっそこっちに気づいて戸惑ってくれりゃありがたいんだがな。

生憎、武内先生は頭に血が登っちまってるみたいだ。俺のことなんざ視界の端にも捉えちゃいねえ。

残り二・五メートル。

武内の竹刀が振り下ろされる。

仕方ない。こうなったらあれしかない──。

「喝っ!!!」

ブン。空間を切る音さえ聞こえてきそうな打突。

──当たれ!

祈るように叫びながら、俺は竹刀を突き出す。

柄を握るのは左手一本。

剣道で使われるような安定性の高い突きとは違う、片手で放つ突き。

安定性は大幅に下がるが、その分リーチは稼げる。

その切っ先は。

「なっ!?」

──俺の思惑通り、武内の右手を捉えた。

「っし!」

口から、気合の呼気が漏れる。

竹刀を振る武内の右手を押し出し、剣筋を反らせる作戦は、タネを仕込んだかのように成功した。

だがもちろん、そんなものはなく。

成功したのは全くの偶然、というわけでもないが、半ば奇跡に近いのは間違いない。

「……なあ。いくらなんでもそれはやりすぎじゃねえか?」

大博打に勝ったにもかかわらず、言葉は極めて冷静に出てきた。

肩を伸ばし、左足を思いっきり前に出した格好のまま、俺は目を丸くする武内を睨みつけた。

「……霞河?」

次に、震えた声につられて目線の向きを変える。

俺の右で、紅野が唖然とした様子で俺を見ていた。

手と唇が小刻みに震えている。

……ああ。やっぱ怖かったんだな。

向かい合ってるときはそんな素振りは見せていなかったのにな。

白熊に見えた姿は、今は白ウサギのようだ。

恐怖に震える紅野を見ていると、沸々と煮えたぎるような怒りが湧いてくる。

なんでだろうな。紅野のことなんて、もうどうでもいいって決めたはずなのに。

なんで嫌われているってわかってるのに、こんなにイライラするんだろう。

「かすみ……が?」

弱々しく、名前を呼ばれる。

そういえば、初めてじゃないか?

お前が俺の名前を呼んだのって。

頭が真っ白になる。

……安心しろよ。

お前をそんなふうにした猛虎は、俺が退治してやるから。

「っらあ!」

気勢とともに、俺は竹刀を薙ぎ払った。

剣先は相手の胴を捉えているが、武内はとっさに飛びのき、俺の剣を避けた。

そしてすぐに中段に構える。

こうなったら、さすが剣道部師範というべきか。

隙があまり見当たらない。

うかつに飛び込めば胴やコテを合わせられそうだ。

ただしそれは、俺も中段に構えていたらの話だが。

「ふっ!」

相手が動揺をわずかに残している瞬間を狙って、俺は一気に間合いを詰める。

それも正面ではなく、左肩を前にしてタックルを仕掛けるように。

長物というのは、深く切るには突き刺すか振りかぶるという動作が必要になる。

だからこうして間合いを詰めてしまえば、実は徒手空拳のほうが有利だったりするのだ。

ましてや相手は竹刀。俺にダメージを与えるには、いっそう振りかぶらなければならない。という打算もある。

仮に相手がうちの父親クラスであれば話は別だが。悪いが、武内に大した実力があるとも思えない。

結果。

「グハッ!」

タックルのついでにかました左肘打ちは見事にクリーンヒットした。

武内は大きく後ずさり、身体をくの字にしてえずいた。

すぐに体勢を取り戻そうとするが。

残念。俺相手にその数秒は致命的な隙だ。

俺は全神経を集中して、竹刀を振るった。

武内。悪いがここから先、お前のターンはない。

一手、左手一本での斬り上げ。剣先が顎にヒットする。

二手、諸手で振りかぶって振り下ろし。左肩に直撃。

三手、諸手で振りかぶらずに振り下ろし。左腕に直撃。武内の手から竹刀が溢れる。

四手、右足で押し出すように蹴り。武内の体が奥へ飛ぶ。返す足で武内の竹刀を後ろへ飛ばす。

五手、体勢を崩して仰向けに倒れた武内のみぞおちに、逆手に握った竹刀を突き立てる。金的を狙わなかったのは最低限の配慮だ。

六手、脛への振り下ろし。はしなかった。

「やめろ霞河!」

動きを止めると、涌井が俺を羽交い締めにする。

抵抗はしなかった。

五手目の時点で武内が完全に動けなくなっていたことを悟っていたからだ。

そして同時に後悔していた。

また、やってしまったと。

「……なんなのよ」

紅野がつぶやく。

「霞河! とりあえずお前は来なさい!」

腕を引かれて、引っ張られる。

「中川先生、田中先生、武内先生をお願いします!」

涌井はいつになく大きな声で指示を出していた。

戸惑いながらも、二人は武内のもとへ歩み寄っていた。

あー、本当にやってしまった。

倒れた時、頭は打っていなかったし、万一にも死んでいることはないし、怪我も追わせていないが。

あれほど普通に過ごすって決めてたはずなのに、あっさりと問題を起こしてしまった。

真弓さん。母さん。

ごめんなさい。誓い、守れなかった。

連行されながら、俺は心のなかで懺悔した。

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