第18話 久しぶり

さらに二週間が経ち、六月も初旬の後半に差し掛かろうとしていた。

この辺りになれば気持ちの整理もついてきて、紅野と関わらない日常が当たり前になった。

「クルくーん、いこー」

「おーう」

六限が終わり、ホームルームも終わると、俺はひななと共に教室を出た。

ここ最近は彼女にシフトがあろうとなかろうと、一緒に帰るのが当たり前になっている。

「ひなな、霞河くん、またね」

「ばいばーい」

「おう」

途中、同級生に挨拶を交わしながら昇降口で靴を履き替える。

ひななにシフトが入ってない場合、そのまま校門で別れることになるのだが、今日はシフトが入ってるようだった。

二人並んで帰路を辿る。

「クルくん、今日の小テストできた?」

「いや、微妙。でも追試にはならないと思う」

「そっかー。私はちょっと危ないかも……」

ひななが頭を抱えた。

今日の五限の数学は抜き打ちの小テストだった。

内容自体は授業でやったことの復習だったが、なんせ急なことだったので、結果が芳しくない者も多かったようだ。

だが所詮追試といっても次の授業開始五分前にもう一度同じ問題を解くだけなので、大した重荷でもないだろう。

「それじゃクルくん、またね」

「ん、おう。またな」

田道を越え、大通りを抜ければ夜桜に到着だ。

建物に入ったら、ひななは受付の人に挨拶しつつ、奥の事務室へと消えていく。

「来人くん、おかえりなさい」

「ただいまです。お仕事おつかれさまです」

「来人くんもお疲れさま」

受付の人がにこやかに話しかけてくれたので、俺も同じように返した。

一月近く暮らせば、俺も従業員の人の顔くらいは覚える。

今受付をしてるのは、確か常在中居の田中さんだ。

シワの入った妙齢の女性で、真弓さんが女将を継ぐ前から働いている古株だそうだ。

客商売が長いだけあって、人当たりの良さは本物である。異常なまでに忙しい仕事なのに、ストレスとかたまったりしないんだろうか。

会話もそこそこに部屋に戻ったら、庭へつながる窓にハンガーでかけておいたトレーニングウェアに着替える。

トレーニングウェアといえども見た目は青で無地のなんの変哲もないTシャツだ。

ただ、普通のTシャツとは素材の軽さと吸水性が違う。

下も同じようにトレーニング用のズボンに履き替えて、外へ出る。

日課である夕方のランニングだ。

一時間ほど走った後に筋トレをして、汗を流したら食事を取る。そのあとは課題を終わらせて寝る。

あの部活動体験の日のような特別な事情がない限り、平日はこれの繰り返しだ。

こっちに来たばかりのころとあまり変わらないようなルーティンだが、大きく変わったことも一つある。

それはランニングでバルコニーの方に行かなくなったことだ。

最初の方は山道を登り降りしていたが、最近はもっぱら商店街かひななの家がある住宅街の方へ出向くばかりだ。

その理由や言わずもながなである。

これ以上は察してくれると嬉しい。

いつも通り体内時計で一時間経ったと思ったら、夜桜まで引き返して部屋に戻る。

かいた汗をタオルで軽く拭ったら、庭に出て腕立て腹筋三十回、プランク、横プランクと三つの体幹トレーニングを六十秒ずつ、ここまでの流れを五セットから十セット。

すべて終わるころには、十九時前だ。

「来人くん、いる?」

コンコンと控えめに入口を叩かれたのは、二十二時半ごろ。

課題が思ったより早く終わり、早めに寝ようかと思っていた時だ。

「いますよー」

声で真弓さんだと確信して、俺は答える。

するとガチャリとドアが開き、真弓さんが入ってきた。玄関の襖は常に開けてあるので、その時点で真弓さんの姿は見えた。

何やらスマートフォンを耳に当てているようだが。誰かと電話でもしてるんだろうか。

「どうかしました?」

「お母さんから来てるわよ、電話」

「マジですか?」

驚きながら、渡されたケータイを受け取る。

すると、スピーカー越しに懐かしき母の声が聞こえた。

「もー、電話無視するなんて酷いじゃない。くるとー」

およそ一ヶ月ぶりの親子の会話は、不満の声で始まった。

「電話無視って、掛けてきてたのか?」

「掛けたわよ何回も。ラインで」

言われて隅で充電していたスマホをみる。

確かに電話の着信が十件も入っていた。

マナーモードにしたままだったので、気づかなかったようだ。それは素直な申し訳ない。

だが母よ、流石に十件は掛けすぎだろう。

「あー、すまん。気づけなかった。それで、なんかあったのか?」

わざわざ真弓さんのスマホにまで掛けてくるなんて、何か重大なことでも起こったんだろうか。

そう思って聞いてみると。

「べっつにー。ただ、あんたが元気でやってるか気になっただけ」

あまりに能天気な答えに思わずコケそうになる。

母よ。それだけのことで必死に着信飛ばしてきたのか。

「ちゃんと元気してるよ。部屋は住みやすいし、風呂は温泉だし飯はうまいし。いいことだらけだよ」

俺は憮然として答えた。

「ふーん。学校は? 友達できた?」

「ん。まぁそれなりに。クラスには馴染めた……と思う」

「ほんと? 変な問題起こしたりしてない?」

「してない」

「えー? ほんとにー?」

「ほんとだって! 信じてくれよ! つーか、その辺なんかあったら真弓さんから連絡いくだろ」

「ふふ、たしかに。じゃあさ、彼女はできた?」

からかうような口調で、嬉々として母はいった。

なんなんだ母よ。電話なんて今まで一回もかけてこなかったくせに、いきなり掛けてきてはやけに突っ込んでくるじゃないか。

「彼女なんて、そんなすぐできるわけないだろ。まだこっちきて一ヶ月だぞ?」

「えー、ひななちゃんは?」

「なんでそこでひななの名前が出てくんだよ……つーか、なんでひななのこと知ってんの?」

「そりゃまゆちゃんに聞いたからよ」

そりゃそうだわな。

普通に考えて、俺の近況が母に伝わってないわけないな。

ちなみに察しはつくと思うが、まゆちゃんとは真弓さんのことである。

「それはわかったけど、ひななは普通の友達だよ。別に好きとか、そんなんじゃない」

そう、ひななは普通の友達。彼女に恋愛感情なんて全く抱いていない。それはきっと、向こうも同じだと思う。

「ふーん。じゃあ、気になってる子とかいないの?」

ちっ。

きっとニヤニヤと憎たらしい笑顔を浮かべてるんだろうな。

不思議だ、電話越しでも相手の表情が伝わるなんて。

「いない」

まぁ、正確には「いた」んだけどな。

でも、それだって別に好きだったわけじゃあない。

ていうか、親とこういう話するのってすごく気恥ずかしいんだが。もう勘弁してくれないだろうか。

「ふーん。じゃあ、彼女が出来たらいの一番に報告しなさいよ」

「はいはい。出来たらな」

適当に言葉を返すと、母はため息をつく。

「全く適当なんだから……」

だが次に、嬉しさをにじませた声でいった。

「でもま、順調に青春を満喫してるようで、私は安心したわ。じゃ、元気そうな声も聞けたし、今日のところはこれで切るわね。まゆちゃんのケータイずっと奪い続けるのも可哀想だし」

そうだ、普通に使っていたが、これ真弓さんのスマホなんだった。

確かに早く返した方がいいな。

「ん、わかった。おやすみ」

「おやすみ、まゆちゃんによろしく言っといてね〜」

「はいよ」

そうして、通話終了ボタンを押そうとした瞬間。

「来人……本当にもう、暴力事件とか起こすんじゃないわよ」

ボソッと低い声で囁かれる。

続いてピロンと通話終了の効果音が鳴った。

……わかってるよ、そんなこと。

こっちでは普通に暮らすって誓っただろ。

「すみません、真弓さん。スマホいつまでも借りたままで……」

「全然大丈夫よ。それより、もっとゆっくり話しててもよかったのよ?」

「いえ、十分話せたので大丈夫です。むしろ彼女いないのかってしつこかったんで、早めに切れてよかったです」

冗談めかして伝えると、真弓さんは口元に手を当てて笑った。

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