第17話 ファイト

その日の五限は、体育の時間だった。

種目は、今日から始まる体力測定の最初にして最大の山場、千五百メートル走。

俺はちょうどいい腹ごなしだと思ったが、ほとんどの人は脇腹が痛くなるとか、ダルイとか、不満の声を漏らしていた。

個人的には、今日まで続いていた体育館での謎の器械体操と行進訓練に比べれば何倍もありがたいんだが。

そういうわけで、高校生活最初のグラウンドで行う体育は、ウォームアップ代わりの自由ランニングから始まった。

古川高校の体育の方針は、基本的に緩い。

どうも二人いる体育担当の教師が『楽しむ』をモットーにしているようで、与えられた課題さえこなせば私語も自由、好きに遊んでも咎められることはない。

なのでこの日も、みんな楽しそうな喋りながらゆるゆる走っていた。中には歩いている者もいる。

無論、俺は真面目に走っていた。

といってもあくまで準備運動程度だが。

本命は計測の時なのだ。だから。

「どうしたんだい来人、君ならもっと早く走れるだろう!」

馬鹿みたいに全力で走ってる脳筋の煽りは無視だ無視。

ランニング中に呼吸を乱すわけでもないので、心の中でため息ひとつ。

「ねね、霞河くん。そういえば最近、紅野さんに話しかけてないよね」

いつの間にか追いついてきて、そんな質問をしてくるのは水原だ。

「ああ、まあな」

苦い顔をして、答える。

話しやすいように少しペースも落としてやった。

「どしたの? なんかあったの?」

俺の意図に気づいたのだろう。

しかし、舐めるな。と言わんばかりに水原はむしろペースを上げる。

そうかい、俺の気遣いは余計だったかい。

彼女の望み通り、ペースを戻してやる。

「なんかって……別になんもねえけど?」

ついでにそっぽを向いて、誤魔化す。

「えー、ほんとー? じゃあただ興味がなくなっただけ?」

まるでゴシックネタに食いつく女子高生のように──って、水原は現役女子高生なんだが、とにかく興味津々といった感じでズケズケと聞いてくる。

参ったな、気持ちの整理もついてないし、この話題はあんまり口にしたくないんだが。

「んー、私が見てた限りだと、紅野さんは霞可くんには多少心許してたと思ってたんだけどなー」

走りながら顎に手を当てて考える。

ずいぶん器用なことをするもんだ。

仕方ない。こうなったらあれをやるか。

埒があかないと判断すると、俺は踏み込む足に力を込めた。

「ちょ、まっ、はや──」

遠ざかる俺の背中に手を伸ばす水原。

テニス部で体を鍛えている彼女は、クラスの中でも身体能力は高い方だと思う。

しかしそこは男女の差。鍛えてない帰宅部ならともかく、毎日鍛えてる帰宅部の俺が少しスピードを早めると、すぐに置き去りにできる。

「おや来人、ついに本気を出したのかい?」

やがて先頭を走っていた真司に追いついてしまい。

俺はウォーミングアップにも関わらず、デッドヒートを演じることになるのだった。


とはいえ、そこはさすがに毎日のランニングの成果というべきか。

俺は帰宅部にも関わらず、本番の計測では堂々クラス内一位の記録を達成するのだった。

「くっ……さすがだ来人」

俺に次いで二着であった真司は、悔しさから地団駄を踏んでいた。

そんな悔しがらなくても、剣道は走らないんだし、野球とか走る部活を差し置いての二位なんだから、十分誇っていいと思うけどな。

体験入部の日以来、真司はやたら俺を目の敵にするようになった。

いや、言葉が悪かったか。正確には何かにつけて競おうとしてくるのだ。

テストの点だったり、今みたいに体育の運動だったり。

俺としては迷惑極まりない──わけでもなく、むしろ彼の存在は張り合いを与えてくれるので、ありがたいとすら思っていた。

律儀に約束を守って、あれ以来一度も剣道の話を振ってくることもないし。そういう潔さは、さすが武人といったところか。真司は真っ直ぐで誠実で、人の悪口なんて絶対に言わない。これで主張の押しつけの激しさが少し収まれば、文句のつけようもない聖人だと言えるんだが。

「そうだ、来人。紅野さんとは少しは仲良くなれたのかい?」

って、お前もその話題か。

「や、全然そんなことないけど」

かぶりをふって答える。

さっきも言った通り、まだ心の傷が癒えてないのでこの話はあまりしたくない。

また逃げ出したいところだが。

いかんせん、今は相方の週数を数えなければならない。

計測のやり方が、男女でペアを組んでお互いが何回トラックを回ったか数える方法なのだ。

ゆえにこの場を離れられない。

男女のペアは出席番号で決まるので、俺の相手は女子の三番。すなわち教室でも隣である紅野──ではなく。そのひとつ後ろの島村という女子だった。

その島村さんは現在、一周二百メートルのトラックで三周目に入ったところだ。

水原など運動が得意な女子はすでに四周目のラストスパートに入っているので、あまり運動は得意じゃないんだろう。

それでも苦悶の表情を浮かべ、おさげにした髪を必死にばたつかせながら懸命に足を動かしているので、素直に応援してやりたくなる。

ちなみに、本来俺のペアとなるはずだった紅野は何をしてるのかというと。

上下に長袖のジャージに日除けの帽子という出で立ちで、グラウンド端の木陰でつまらなそうに座り込んでいた。

彼女の手にはペンと見学者用のレポート用紙が握られている。

怪我や体質で見学する人はそうやってレポートを書く決まりになっているそうだ。

そういえば、授業が始まる前、あいつはさも当然のように用紙を受け取っていた。

見た感じ、やけに慣れてるようだったが。

「そういや、紅野ってなんで休んでんだ?」

気になって、真司に訊ねてみる。

もちろん、島村さんの姿も視界に捉えながら。

「ああ、そっか。来人は知らないんだっけ。紅野さんは肌が弱いらしいから、基本的に外でやる体育はいつも見学してるんだよ」

いつものことだ、と真司はいった。

やっぱり、ダメだな。俺は。

さっき一瞬、ひょっとして俺と組むのが嫌だから見学したのかと思ってしまった。

違うと知って、ホッとしているのも腹立たしい。

弓道場のときから思っていたが、俺はいつからこんなに女々しくなってしまったんだろう。

「お、島村さんそろそろラスト入るっぽいよ」

真司の声で意識を引き戻される。

そうだ、俺は今は島村さんの週数を数えなければいけなかったんだ。

「ラストだぞ、がんばれー!」

胸のモヤモヤを発散するように、俺は叫んだ。

すると、「お、いいね」と真司が乗ってくる。

何がいいんだ。

そう思っていると。

「ファイトー! 島村さーん!」

まさかの真司も叫びだす。そういえば出席番号最後の彼には、ペアがいなかった。

さすが剣道をやっているだけあって、その声量は見事なものだ。

「がんばれー!」

俺も負けじと声を上げる。

周りの男子やすでに走り終えていた女子が何事だとこっちを振り向く。

そんな視線も気にすることなく、俺は声を張り上げる。

今はとにかく、声が出したかった。

真司も張り合ってくる。

無論、彼に限って気を遣ったとかそういうことはないだろう。

でも、今はそんな風に同調してくれることがありがたかった。

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