第13話 カニャーシュナ!

ある場所とは、校舎を正面から見て右奥の裏手にある小さな小道場のことだ。

剣道場の正反対にあるそこは、弓道場である。

これから俺は、弓道部を覗きに行くつもりだった。

なんでそこまでして弓道部を見に行きたいか。

それは剣道と同じ武道であるから、興味が湧いたのだ──なんてことはない。

動機は単純、あの紅野がいるからである。

真司からの誘いを断ることは諦めた俺だが、紅野と友好を深める目標は諦めていない。

流石に部活まで押しかけるのはやりすぎかもしれないが、せっかく体験という大義名分があるのだ。

多少ウザがられてもなんの問題もない、せいぜいその機会にしゃぶりつかせてもらうとするさ。

……って、なんか少し真司みたいな思考になってる気がするな。

まぁいい。とりあえず弓道場に到着したが、このまま真っ直ぐ入っていいのだろうか。ひとまず中の様子を伺おうと横から覗き込んでみる。

体育館や剣道場とは違い、弓道場には庭がある。母家から庭を挟んで的がある、というのが弓道場の構造だ。

だから中の様子は割と丸見えで、顧問が話してたりと、忙しそうなら少し待とうと思ったんだが……一瞬、俺は無人なのかと勘違いしてしまった。

というのも、道場内に人数が少ないのだ。

中には二人の女子生徒しかいない。彼女らが黙々と矢を射っているだけで、見たところ体験入部の生徒はいないようだ。

テニスや剣道と比べて、ずいぶん人数が少ないんだな。

そう思って眺めていると、二人のうち片方と目が合ってしまう。

やべ。と思って身を隠そうとした時には、もう遅かった。

俺に気づいた方が弓を置くと、道場の奥へと消えていく。

きっと裏から出てくるつもりなんだろうが……どうしよう。

不審者だと勘違いされたなら逃げたほうがいいのだろうか。いや、どっちにしろ見学はするつもりだったんだからいいか。それにむしろ、コソコソ逃げる方が不審者っぽい。

結果、俺は無言で捕まった。

といっても、特に不審者だとは疑われなかったようで。

「きみきみ、さっきから私たちのこと見てたけど、もしかして体験入部希望かね?」

そう声をかけてくるのは、紅野でない方の女子だ。

大人しそうな外見に反して、口調はかなりフランク。

上級生か?

なんとなくそう思った。

「いえ、体験じゃなくて見学希望なんですけど、それでも大丈夫ですか?」

「カニャーシュナ! もちろんおっけーおっけー、いくらでも見てってよ!」

かにゃ……なんだ?

と、疑問を口にする暇もなく腕を掴まれる。

って、水原もそうだったがこの人も大概強引だな。

水原といい真司といい、俺の周りには強引な人しかいないんだろうか。

と、そんなことを考えているうちに、道場の中へ連れて行かれる。

玄関を通っても、剣道場で漂ってきたような汗の匂いはしない。

その代わり、落ち着いた木の香りが漂ってきた。

「あーずさー! また体験生が来てくれたよ!」

「ちょっ……!」

靴を脱いで中に入るやいなや、大声で叫ぶ女子に俺は慄く。

剣道が声を出し、ガンガン動く動の競技だとすれば、弓道はその真反対。かすかに呼吸の音が聞こえるほどの静寂な空間で、的という一点を正確に狙い撃つ静の競技。それが弓道だ。

だから、弓道場でそんな大声を出すのはご法度のはずなんだが。

「部長。うるさいです」

案の定、もう一人の女子部員──紅野に怒られてしまった。

紅野は構えていた弓を下ろすと、めんどくさそうに振り向いた。

そして俺の姿を捉えた瞬間、「うーわ」と嫌そうな反応を示した。

「よ、よう」

「よう、じゃないわよ。なんであんたがここにいるわけ?」

半眼で睨まれる。

「それは、見学に来たから」

俺は仕方ない、と両手を上げた。

「はぁ? 見学?」

紅野は呆れたように首を傾げながら、部長と呼んでいた女性を見る。

「んー? さっきからチラチラ中を覗いてたから、体験希望かなーと思って連れてきたんだよ」

チラチラって、そんな怪しい動きは……いや、してたか。

「うち、不審者はお断りなんですけど」

辛辣なお言葉を浴びせられる。

反論なんて思いつかない。ぐうの音も出なかった。

「もー、あずさ! せっかく見に来てくれたのに、その言い方はないよ。可哀想だよ! えーと……」

咎めるような言い方が尻すぼみになっていく。

そういえば、この人にはまだ名乗っていなかった。

「俺、霞河来人って言います」

「そう、来人くんが! ……って君、くるとっていうの? 珍しい名前だね?」

「そうですかね?」

「うん。少なくとも私は聞いたことなーい」

人口の少ないこの町じゃ名前被りなんて起こる方が珍しいんじゃないか。とは思うが、言われてみれば地元にいた時から「らいと」と読み間違えられたり、「名前なんて読むの?」と聞かれたりすることはあった。

だからキラキラネームとはいかないまでも、一般的な名前ではないんだろう。

「それよりさ、二人は知り合いなの? お友達? だったら私、すっごいシスウィーグイなんだけど!」

「しす……え?」

「そんなんじゃないです、ただクラスが一緒なだけです。あと部長、ロシア語やめてください」

「ダー!」

「……怒りますよ?」

冷静な口調が、逆に圧を込める。

「やはは、ごめんごめん。やめますやめます」

部長は冗談めかして笑った。

そうか、さっきからところどころ漏れてた意味不明な言葉はロシア語だったのか。

でも、なんでロシア語なんだ?

まさかハーフとかではあるまい。

「あ、ちなみに私は純粋な日本人だよ? ついでに言えば生まれた時から古川町に住んでます!」

俺が疑問符を浮かべていると、部長はハッとしたように言った。

「なら、なんでロシア語なんか……」

「んー、それはねえ──」

部長はニヤッと笑うと、仏頂面で立ってる紅野を指さし、

「あの子がロシア人っぽい見た目してるから、必死に覚えたんだよ〜」

満面の笑みでそんな言葉を宣った。

いや、確かに紅野は外国人っぽい見た目してるけども。

それって本人にとっては逆鱗なんじゃないのか?

恐る恐る紅野の顔を見る。

下手したら怒鳴りだすんじゃないか、そう思ったのだが。

「いや、あたしだって日本人ですけどね。こんな見た目ですけど」

紅野は意外にも平坦な調子で答えた。

しかも自虐ネタまでかましている。

教室でのぶっきらぼうな態度からは想像もできないような返しだ。

ていうか、紅野に気を取られて突っ込み損ねたが、ロシア人っぽいからってロシア語を覚えるのもなかなか意味不明だ。

この部長も、なかなかクセのある人物だな。

「あはは、でもさ。あずさ、最初入った時全然しゃべんなかったじゃん? だからまじで外国人なんかなーって思ったんだよねえ。で、仲良くなるために話しかけようと思って、めっちゃ頑張って覚えたんだよ。んで、一ヶ月くらいしてようやく挨拶くらいは覚えたから、勇気出してドーブルィジーン! って話しかけたら、冷たい目で、は?とか言ってくるし。超ショックだったんだよ?」

「そりゃ、いきなり外国語で話しかけられたらそうなりますよ。それに、ショックならいきなり外人扱いされた私のほうがショックでしたけど」

「にゃはは。それはごめん」

「もういいです」

怒り、というよりは呆れた様子で首を振る。

その口元はなんと笑みを形作っていた。

そんな教室とはあまりに違いすぎる態度を見て、俺はあっけに取られていた。

「まぁ、なんでもいいけど。とりあえず、あんたは見ていきたいなら好きにすれば? その代わりあたしの邪魔はしないでね」

「もー、冷たいなあ、あずさは。弓道熱心なのはいいけど、そろそろご飯食べたら?」

「……あと一セットやったら食べますよ」

そっけなくいうと、紅野は的に向かって弓を構えた。

すると、さっきまでわちゃわちゃしていた空気が一瞬で沈黙へと切り替わる。

その一番の要因である部長も、空気を読んで黙っていた。

常に怒号の鳴り響く剣道の練習とは、まるで正反対。

静の空間はどこかプレッシャーのようなものさえ放っている。

俺は少し下がったところにあぐらをかき、紅野の後ろ姿を傍観した。

わかっていたことだが、その立ち姿は美しい、という形容詞が相応しい。

それに何より、やはりホワイトブロンドの髪の毛は、白の多い弓道着によく似合っている。

黒の袴と合わせて、上下で完璧なコントラストを生み出していた。

並の日本人では持ち得ない容姿が、この場の神聖さに磨きをかけている。

そんなことを考えているうちに、紅野は流れるように矢をつがえ、弓を高く構えて静止した。

微動だにしないように見えるが、よくみれば僅かに弓が動いている。

おそらく、照準を合わせているのだろう。

三秒、六秒、十秒──。

たっぷりと時間をかけ、狙いを定める紅野。

その姿はまるで、孤独な女神が射的に興じる絵画のようで。

俺は吸い込まれるように見つめていた。

ピッ。

やがて、離された矢が刹那の水切音を鳴らす。

──タンッ。

コンマ数秒後、矢は小気味良い音を立てて的へ突き刺さった。しかもど真ん中に。

「すごいよあずさ、また真ん中だよ」

俺の隣に腰を下ろした部長が称賛の声を送る。

「わかってます」

紅野は無表記で頷くと、さらに次の矢を構えた。

そして彼女は、続く二の矢も的に当てて見せた。

今度は真ん中からは逸れてしまったが、確か弓道はダーツと違って、どこに当てたら何点とかはないはずだ。

だからとにかく端っこでもいいから当てるのが重要、とどこかで聞いた気がする。

「うん。ちゃんと中ってるよ」

部長の声にコクっと頷き、紅野は三射目に入る。

「そういえば、弓道の一セットって何本なんですか?」

俺は小声で部長に尋ねた。

「んー、試合だったら四本だったり外すまでだったりするけど、あずさの場合は七本だね。公式で何射一セット、とかはないはずだよ」

そんな感じでところどころルールを教えてもらいながら、紅野の一射一射を見守っていく。

ちなみに剣道の癖で一回の動作を本で数えてしまっていたが、弓道は一回を射という単位で数えるそうだ。

さらに蛇足だが、的に命中させることも的に『当』たるではなく、『中』たると書くそうだ。

それらを教えてくれた部長は、「細かいことだけど、知っておくと弓道を見る上で深みが出るかもね」と笑っていた。

「五回目の的中だよ。あと二本で皆中だ、頑張れ!」

ここに至るまでの五本、紅野は全て的に中てている。

その度に部長はそんな風に声をかけていた。

弓道でそんな声を出していいのかと思ったが、紅野も気にしてないようなので別にいいんだろう。

あと、皆中とは読んで字の如く、一発も外すことなく当てきることを指すようだ。

これを安定できれば、一流の弓道選手と呼べるらしい。

紅野が六射目の矢を構える。

海中目前というプレッシャーを全く感じさせない毅然とした立ち姿。

俺は弓道に関しては無知に等しいが、それでも彼女の所作を見ているとやり慣れているんだろうなと思う。

結果、紅野は難なく六射目も中心付近に的中させてみせた。

「うん、的中。あと一射中てれば皆中だよ」

「はい」

頷くと、紅野は足元に置いた最後の一本を手に取った。

最後の一射。

ここを中てれば皆中、外せば失敗。

なんでだろうな。こういうのって、見ている方が緊張するパターン、結構ある気がする。

内心どうなってるかは知らないが、少なくとも紅野の表情からは緊張の糸などまるで感じられない。

ピッ──タンッ。

実際それを証明するかのように、紅野はあっさりと、的を射抜いて見せた。

しかも最後は的のど真ん中。

初手の隣に近いところに。

「はい、皆中。おめでとう」

パチパチと手を叩きながら、部長が立ち上がる。

俺もつられて拍手をする。

すると、紅野は細く深い息を吐いた。

「……ありがとうございます」

彼女は礼の言葉を口にすると、袖で額にかいていた汗を拭った。

静の競技というフレーズから予想できる通り、弓道はほとんど体を動かさない。

だからその汗は、冷や汗に近いものなんだろう。

平気そうに見えて、紅野はやはり緊張していたというわけか。

「んじゃ、次私やるから。あずさはご飯食べちゃいなよ」

「わかりました」

短いやりとりを交わし、紅野は隅に置いてある自分の鞄の元へ。

部長は的の方へと歩いて行った。

当然ながら、打った矢は自動で戻ってきたりしない。

だから自分の足で庭を歩いて取りに行く必要がある。それはいいんだが。

「紅野。あれ、部長にやらせてもいいのか?」

「あれ? あー、うん。別に大丈夫。矢の回収は部長に任せることになってるから」

雑仕事を先輩にやらせるのはいいのか、そう思って尋ねたら、そんな答えが返ってくる。

ほんとにそれでいいんだろうか。

もし剣道で目上の人に雑用を押し付けたりしたら、烈火のごとく怒られるのだが。

でもまあ、部長の方も慣れてるみたいだし、部外者が口を挟むことではないか。

それより、だ。

いま、俺の前ではもっとツッコミどころのある光景が広がっているのだから、まず先にそちらに言及しなければなるまい。

俺の質問の後、紅野はラップに包まれた、握り拳の半分ほどの大きさのお握りをいくつか取り出したのだが。

それをその場で食べ始めた。

それはまぁいい。

本来、神聖な道場での飲食は言語道断みたいな風潮があるのだが、結局のところ場所によって変わるってことなんだろう。

問題は、それを包んでいたラップの行き先だ。

あろうことか、紅野は食べ終えたおにぎりのラップを、そのまま床に置いていた。

「なあ紅野。それ、大丈夫なのか?」

先ほど言及しない、と決意したばかりではあるものの、つい疑問が口をついて出てしまう。

「何が」

「だから、それ。ゴミ、そこに置いていいの?」

ゴミを道場に直おき。

もちろんあとで捨てるだろうし、ラップは丸められているので汚れの心配はないが、道場でそれはありなのか?

「あとで片付けるし、別にいいでしょ」

おにぎりにかぶりつきながら答えられる。

こいつ、行儀悪いな。

「でも、礼節を欠くとかあるんじゃねえの?  弓道も武道なんだし、礼儀とか厳しいんじゃねえの?」

「……礼儀? 誰に対して?」

「誰って……」

彼女の問いに、とっさには答えられなかった。

そういえば、幼い頃から礼儀は大切だといわれて育ってきたが、それは誰に対してのものなんだろう。

そんなこと、今まで一度も考えたことなかった。

ていうか、よくよく考えれば俺も礼儀とか馬鹿馬鹿しいと思ってる派だったのに、なんで紅野にそれを説くようなことをしてるんだろう。

けど、なんとなく引くに引けなくて、俺は余計なことを口走ってしまった。

「それは……ほら、練習させてもらってる道場とか、神様とか……じゃねえの?」

馬鹿だ俺は。

今までそういう精神を馬鹿にして生きてきたというのに。

いったいどの口がそれを言うんだか。

「神様って……バカじゃないの?」

俺の答えは、紅野に鼻で笑われてしまった。

ストレートに罵倒されたのはムカつくが、全くその通りで、何もいいかえせなかった。

「あたしは矢を射られるだけでいいの。だから誰かを敬うとか、どうでもいいの。むしろ馬鹿馬鹿しいわ。道場だって所詮場所でしかないし」

聞く人が聞けば本気で怒りそうな言葉を吐く。

「ちょ、あずさ。そんなこと言わないの。武道なんだから礼儀は大切よ?」

流石に聞きかねたのか、ちょうど次の矢を手に取っていた部長が、口を挟んでくる。

「しりません。そういうの、微塵も興味ないです」

優しく嗜められると、紅野はまるで子供のようにそっぽを向いた。

「んもー、あずさはもう……そんなツンツンしてるから、みんなあずさを怖がって入ってくれないんだよ?」

「別にいいですよ。人数少ない方が集中できますし」

紅野は先輩の苦言を淡々と返していく。

礼儀も無視、上限関係も無視、そんな彼女を見て、俺は。

「くっ……はは、あっはっはっは!」

俺は腹の底から笑い声を上げた。

「か、霞河くん? どうしたの?」

突然笑い出す俺に、部長はオーバーリアクションで驚きを表現する。

「あ、いえ。紅野っておもしれーやつだなって思って」

これは別に、皮肉とかじゃない。

本当に心の底から思った尊敬の念に近いものだ。

俺が今まで見てきた武人は、堅苦しく礼儀作法を重視するか、やらなきゃいけないから、となんとなく従ってきたやつのどちらかだった。

弓道家と交わることは一度もなかったが、同じ武道である以上剣道と大した差はないはずだ。

だから、こんな無礼なやつは初めて見た。

「あたしの言ってること、そんなにおかしい?」

眉を顰めて紅野はいった。

「いや」と俺はかぶりを振って否定する。

「大丈夫。実は俺もずっと、同じことを思ってたから」

答えながら、俺は足を崩し、ついでに上体を倒し、腕を広げる。

いわゆる大の字に寝るってやつだ。

行儀の悪さここに極まれり。

でも、いいよな。

道場はただの場所でしかないんだから、こんなことしても。

「……ふん」

当然、紅野は文句など言ってこない。

それどころか、若干笑っていたようにも見えた。

「ああ……なんかやばい思想の二人を出会わせちゃった感」

部長の悲壮感に漂った声が聞こえてくる。

体勢のせいで見えないが、きっと頭を抱えてるんだろうな。

けど、「霞河くん、行儀悪いよ」と注意はされたものの、厳しく咎められたりはしない。

部長は仕方ないなあ、とため息を漏らして、再び練習に戻った。

紅野はここまでノーリアクション。

ああ、なんかいいな。このルール無用の無法地帯感。

伸び伸びしてるっていうか、この雰囲気がすごく居心地いい。

俺も、こんな空間で練習できていたらよかったのにな。

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