第10話 模擬戦 若宮VS塚本
俺が移動する間に部員が立ち上がり、二人一組を作りはじめた。
「まずは切り返しだ。若宮、塚本。手本を見せてやれ」
「はい」「わかりました」
顧問が指示すると、威勢よく返事した真司と塚本という三年生が真ん中へ躍り出る。
そして向かいあって中段に構えた。
「行きます! はぁああああ!!!」
合図をすると、真司が雄叫びを挙げる。
「やあああ!」
それに応えるように、塚本も吠えた。
獲物を狩る獣のように威嚇しあっている二人だが、これは別にふざけてるわけではない。
むしろ剣道ではこれが必定なのだ。
思えば、これが一番スポーツと剣道の異なる部分かもしれない。
例えばサッカーで相手を怒鳴り散らして萎縮させようものなら、イエローカードでも貰うだろう。
それがむしろ剣道では発声が小さいと、どんなにいい一撃も有効打と取られないことすらある。
剣道ほど声を大事にする競技はない。
そのルーツは己を鼓舞することで士気を上げることにあるのだが、緊張を解く効果もある。
実はこれ、どんな場面でも使えて、小学校で教わるような不審者と遭遇した時はまず大声を上げろ、という言いつけは、人を呼ぶ目的以外にそういう側面もあったりするのだ。
さて、そんなことより切り返し稽古の話をしよう。
切り返しとはすり足で前後に数歩ずつ移動しながら、相手の面を斜め右、斜め左から交互に切りかかっていく稽古のことだ。
受け手の方は竹刀を立てて攻撃を捌いていけ。
攻め手の方は相手の防御を掻い潜る勢いで打っていくのだが、一回一回振りかぶる上に打たれる場所がわかっているのだから、よほど実力差がない以上無理な話である。
「面!」
先手の真司が飛びこむ。
塚本はその分下がって、襲ってくる竹刀を受け止めた。
互いの剣がぶつかって、バシ!っと派手な音が鳴る。
「面! 面!! 面!!! 面!!!!」
右、左、右、左──と交互に竹刀が振われる。
口にすれば単純な動きだが、力強い踏み込みの音と激しく竹刀のぶつかり合う音、鬼気迫る怒声が、まるで本気の斬り合いをしているように錯覚させる。
「はああああ!!!」
最後の一発は、正面からの一撃を面に打ち込みだった。
普段から最後の一本は受けるようにしてるのだろう。
塚本はあからさまに竹刀を下げて受けの体勢をとっていた。
真司はわずかに剣先を上げると、渾身の面を繰り出す。
「メェイヤアアアア!」
ダンッ、と板を踏みつける音が響く。
──バシィイイッ!!!
予備動作の少なさからは想像できないほど重い音が聞こえる。
鞭のようにしなる剣先が、わずかに下がった脳天にぶち当たる。
受けた真司の面が重かったのか、塚本が一瞬ふらついた。
すごいな。
防具越しとはいえ、竹刀で殴られる衝撃は結構くるものだが、まさか身構えているものをふらつかせるほどの一撃だったとは。
シンプルに早くて重い。
真司の面打ちは、ぐうの音が出ないほど、見事なものだった。
もしかしたら彼は、俺の知ってる中では五本に入る技量を持っているのかもしれない。
ちなみに、彼より上の人間は皆十数年ほど剣道を続けてきた玄人たちだ。
同世代であれば、彼に敵う人はそうそういないだろう。
誇張抜きでそう思わせるほど、真司の技量は高い。
彼は真っ直ぐに抜けていき、相手が詰める前にさっと構えをとる。
綺麗な残心だ。
剣道における一本は、有効打の後に残心をとって初めて認められる。
試合だったら、間違いなく旗が上がっていただろうな。
しかし。気のせいだろうか。
さっきの面うち、確かに見事なものだったが、わずかに剣に雑念が宿っていたような……特に踏み込みが、まるで八つ当たりするような動きだった気がするのだが。
自分の番が終わると、今度は真司が受けに回る。
なかなかどうして、手本として選ばれたのだから、塚本という人も剣道が巧いのだろう。
雰囲気的に、三年生だろうか。
彼の切り返しもまた、早く重い文句のつけようのない素晴らしさだ。
だが惜しい。
やはり真司と比べるとワンランク落ちてみえる。
振りの早さも重さも、さすが三年生だけあって申し分ないのだが、まるで脅威を感じない。
その理由は、最後の面打ちでわかった。
「ヤアアア!」
切り返しの最後を打ち終えると、間合いをとって声を出す。
そこで真司が面を打たせて、終了──となるはずだ。本来は。
「ハアアアア!!」
真司が威嚇の声をあげる。
どうしてか、切先は塚本に向けたままだった。
「や、やああああ!」
戸惑った様子で、塚本が再び発声する。
その声は震えていて、真司が構えを解こうとしないことに動揺しているようだった。
これが、真司と塚本の最大の差なんだろう。
塚本はあくまで練習は練習としか捉えておらず、だからこうして構えを解がない真司に攻
めていけない。
一方、真司は練習だろうと、本番のつもりでやっている。だから、打たせると決まっていても、構えを崩したりしない。
その意識の違いが、そのまま気迫の差として現れているのだ。
一見くだらないことのようで、この差はかなり大きい。
例えば昔の時代──それこそ剣で斬り合って
た時代に、練習だからとわざと打たれることをよしとするだろうか。
否、本番では打たれた時点で死ぬのだ。
そんな生半可な気持ちでやってたら、すぐに殺されてしまう。
甘えは淀みとなる。
要するに、練習を練習だと思ってるやつは試合に勝てないってことだ。
きっと、さっき真司がイラついてたのもそういう理由なんだろう。
「はあ!」
真司が一歩、間合いを詰める。
逆に塚本は萎縮して、下がってしまった。
面を打たれると思ったのか、中途半端に手元がふわふわと上がっている。
あーあ、それだとコテもドウもメンも全部中途半端。そんなんじゃ、どこも防御できないし、試合だったらもう打たれてるぞ。
だがこれはあくまで練習。それはわかってるのか、真司が打ち込む素振りは見せない。
剣先がプルプルと震えてるから、打ちたい衝動を必死に抑えてるだけなんだろうけど。
「ンッ、メエエエエン!」
やがて気を取り直した塚本が打ち込みに行く。
すると真司は、あくまで試合でやられたように、それとなく面を打たせてみせた。
塚本が残心をとるが、それすらもさせじと間合いを詰める。
「……今のが切り返しだ。体験生に受けはやらせんが、試合だと思って臨むように!」
「「「「はい!」」」」
一斉に返事をすると、部員たちは体験生を交えた二人一組になって横に並んだ。
それから顧問が拍子木で音を鳴らすと、一斉に切り返しを始めた。
威嚇の声と、竹刀がぶつかり合う音が幾重にも重なって轟音を奏でる。
なまじ人数が多いばかりに、その音量は手本の時とは比較にもならない。
だがそんな中でも、真司の声はよく通って聞こえた。
「次! 体験生と組んでる者はそのまま切り返しを続けるように!」
一番最後の組が終わると、再び拍子木で合図が贈られる。
部員同士で組んでる者は攻めと受けを交換し、それが終わったら右にずれて別の組み合わせで再度切り返し。
ローテーション一回ごとに休憩を挟み、数回回ったら終了。
特筆すべき点もないただの切り返し練習だった。
「次!追い込み五!安井、田中。体験生に見本を見せてやってくれ」
「はい!」
「わかりました!」
今度は別の二人が呼ばれ、真ん中で追い込み稽古を行う。
追い込みというのは、道場を端から端まで高速で往復しながら、全力で下がる相手を追いかけつつ、メン、コテ、コテメンなどの複合技を打ち込み続ける練習法だ。
相手が下がり続けるため、カウンターの色が強いドウは追い込みにおいて打たれることはあまりない。
手数が多くかなり辛い練習なのだが、追い込みでも真司はほとんどペースを落とさなかった。
むしろ、受け手側が疲弊してペースが遅くなっているくらいだ。
なお、体験生たちは最初の一セットですでにヘロヘロになっていた。
というよりも、切り返しの時点で既に体力がなくなっていたというべきか。
そんな彼らは、追い込み三セット目には、部員たちが往復するころにやっと片道が終わるという悲惨な状態だった。
「おい体験生! たるんどるぞ! 早く動かんかあ!!!」
そこに顧問からの発破がかけられ、ゼェゼェ荒い息を吐きながら戻ってくる。
部員と違って彼らは防具をつけてないので、苦悶の表情が露わになっていた。
「おい! その程度でうちに入部するつもりだったんか! 根性見せてみろや!」
四セット目には更に半分くらいのスピードになり、逆に顧問は更にキレる。
……ひでえな。
素人相手にそこまで怒鳴っていると、いじめにしか見えない。
死に物狂いで頑張っているのに弛んでると怒鳴られ、体験生の何人かはすでに泣きそうな顔になっていた。
その様子は、見てるだけで同情を覚えるレベルだ。
そんな調子でようやく五セットが終わると、体験生たちはくたっと座り込んでしまう。
彼らは受けをすることがないので、役が変わった後の五セットは丸々休憩時間となる。
五セット分も休めば、少しは回復するだろう。
けど、明日筋肉痛に襲われるのは必至だな。
竹刀というのは、ただ持つだけなら軽いのだが、振ってみると存外重い。
慣れない者が振ると、たった数本で腕がパンパンになることもある。
おそらく遠心力的な力が関わってるのだが、とにかく竹刀や木刀などの長物は想像以上に重いのだ。
竹刀を全力で振り続けても疲れないようにするには、力の使い方を知ったり単純に筋肉をつけたりする必要がある。
しかし、それをするには効率的に、かつ地道に鍛え上げなければならない。
だから、休憩を挟んだその次のかかり稽古すらもペースを落とさなかった真司はかなり練習を積んでいるというわけだ。
かかり稽古は、その名の通り決められた時間の中でがむしゃらに相手にかかっていく練習のことで、息つく間もなく打ち込んでいくため、追い込みよりも更に辛い練習法である。
それは追い込みの時点でほぼ立っているのもやっとな体験生に追い討ちをかけるにはあまりに過酷なものだった。
かかり稽古の辛さは、五セット分の休憩と合間休憩の貯金など一瞬で吹き飛ばしてしまった。
途中、ついに座り込んでしまう生徒が現れる。
顧問はそんな彼を「立て」と怒鳴りつけたが、完全に動けなくなった彼を見て、あからさまにため息を吐くと、「仕方ない。お前は向こうで休んでろ」と言い放った。
「……来人、この子を見ておいてあげるかい?」
動けない部員に肩を貸して柔道場に運んできた真司が、俺に頼み込んでくる。
「見とけって、介護でもしろってか?」
「そうじゃないよ。疲れてるみたいだから、何かあったら教えてほしいってこと」
面の金具越しに目が合う。
「それくらい別にいいけど、追い込みにかかり稽古って、流石にやらせすぎなんじゃねえの?」
「……武内先生が決めたことだから仕方ないんだよ」
諦めたようにそういって真司は練習に戻っていく。
先生が決めたから、ねえ。
自分だって、こんなの間違った練習法だって思ってるくせに。
ま、俺は所詮傍から見てるだけ。面倒な口をはさむ気はないけどさ。
「……えっと、大丈夫か?」
瀕死の生徒に声をかける。すると返ってきたのは、荒い呼吸と強がったような首肯だった。
……ったく、仕方ないな。
俺はため息をつくと、ここに来る前に買っておいたペットボトルのお茶を取り出し、頸動脈に軽く押し付けてやる。
まだ冷たいし、体温を下げれば少し楽になるだろうという気遣いだ。おかげで俺の1140円がパーになったけどな。
「……ありがとうございます」
「礼はいいよ。それ、口つけてないから、落ち着いたら飲みな」
か細い声で律儀に感謝を述べる生徒を手で制した。
「再開!」
顧問が指示を出すと、再び怒声とバチバチ音が響き渡る。
どうやらかかり稽古の時間はほぼ終わりかけだったようで、攻守が二、三回変わると、終わりとなった。
「やめ!」
号令と共に拍子木が鳴ると、全員一斉に腕を下ろして肩で息をしていた。
無尽蔵の体力を持つ真司も例外ではなかった。
このあとは模擬戦を行うそうで、それまで五分の休憩が入ることになった。
ここまで大体一時間半稽古が続いている。
時間的にも、おそらく次で終わりだろう。
それでようやく、俺は勧誘の呪縛から解き放たれるというわけだ。
「来人、どうだった?」
面を脱いだ真司が水筒を持ちながら俺の方へ向かってくる。
彼はまるでシャワーを浴びたかのようにびしょびしょになっていた。
「どうだったって。別になんとも思わねえよ。むしろ、初心者に厳しすぎて引いたわ」
「あはは、それは仕方ないよ。剣道は厳しいものだからね。でもその辛さにこそ楽しさがあるんだよ?」
真司があっけらかんと笑う。
「悪いが俺はドMじゃないんでな。普通にやりすぎだとしか思わなかったよ」
俺はやれやれと肩をすくめた。
幸いにも、さっきの体験生以外にリタイアする者は現れなかった。
だが、残った体験生は全員柔道場に倒れ伏している。
こんな毎日が続くとなれば、練習に体が慣れるより、体を壊す日の方が近いだろう。
果たして、そんな苦行に自ら飛び込むような変人が体験生の中にいるのだろうか。
「ちなみに、この後の模擬戦に参加したりは?」
「ないな」
「はは、そっか。残念だ」
爽やかに笑うと、真司は水筒を口に当て、豪快に中身を呷った。
激しい運動の後は、水分は一気に飲むより少しずつ飲んだほうがいいのだが、教えてやるべきだろうか。と、思ったが。
「ぷはっ! 次の模擬戦、全勝目指して頑張らないとね」
まぁいいか。元気そうだし。
「全勝ねえ。まぁ、練習見てた限り、お前ならいけるんじゃねえの?」
練習を見てた限り、真司と他部員の実力差は明らかだ。
最初に手本を見せた塚本なら食い下がれるかもしれないが、他の部員では勝負にもならないだろう。
「それは、褒めてくれてるのかい?」
「まぁな。やっぱり剣道は好きにはなれんが、お前は強いと思うよ。俺が通ってた道場でも通用するんじゃねえの?」
「……来人。初めて会った時から気になってたんだが、君が通ってた道場って、もしかして──」
真司は何かを聞こうとしていたようだが、部員たちが面をつけ始めるのを見て、やめた。
「俺の道場が、なんだ?」
「いや、なんでもないよ。後で大丈夫だ」
かぶりを振って、彼は自分の面が置いてある場所へ向かう。
その後、体験生を除く全部員が揃うと、模擬戦が始まった。
模擬戦最初の組み合わせは、真司と塚本であった。
いきなり剣道部の実力トップツーの対決である。
審判は待機中の部員のうち、最も出番の遠い三人が務めるようだ。
「それでは、始め!」
二人が中断で構え合うと、すぐに始まりの合図が出る。
本当は剣道の試合は竹刀を構えてしゃがむ蹲踞(俗にいううんこ座りである)という動作を経てやるのだが、練習では省略するようだ。
「はあああああ!!!」
「やああ!」
真司が、塚本が、声を上げる。
しかし、発声したからといってすぐに飛びかかるわけではない。
相手が隙だらけならまだしも、じっと構えてるところに飛び込むのは愚策だ。
それをわかっているから、二人ともカチャカチャと剣先を触れ合わせて隙を窺っている。
先に動いたのは塚本だった。
「メェエエン!」
なかなか鋭い一撃だったが、真司は落ち着いて捌いてみせた。
面打ちが不発に終わってしまったが、塚本はそのまま真司に体当たりをかました。
ドン、と互いのぶつかる音が聞こえてくるが、別にルール違反ではない。
むしろこれは鍔迫り合いと呼ばれる状態で、引きメンや引きドウなどの引き技につながる重要な戦局の一つだ。
カッ、カッ、と鍔と鍔が競り合う音がこだまする。
「ッテエエエ!」
今度は真司が打って出た。
ほんの一瞬お互いの体が離れかけて瞬間を狙った、立派な引きゴテだ。
だが、旗は一本しか上がらない。
剣道のルールは、主審と二人の副審のうち過半数の旗、つまり二本以上旗が上がれば一本となる。
今のは惜しくも手首ではなく小手頭に当たっていたのだろう。
「メッ──」
小手打ち失敗の隙を狙って、塚本が斬りかかる。
もう一度面打ちがくる。
そう読んで、真司は面打ちを裁きに竹刀をあげる──その隙が利用された。
「ッドオオオオオオオオ!!!!!」
バシィ!
わずかに空いた胴を、塚本の剣先が完璧に捉える。
ダンボールを思い切り叩き潰したような、痛快な音が響いた。
そのまま塚本は抜けていく。
すぐに追いかける真司だったが、間に合わず残心を取られてしまった。
「胴あり!」
旗三本。
誰が見ても文句のない完璧な一本だった。
惜しいな。
一手前の引きコテが決まってれば真司の勝ちだったというのに。
まぁ、真司も完全無欠ではないってことだろう。
しかし、剣道は二本先取で勝ちとなる。
だから、次と次で二本取ればいいのだ。
「二本目」
すぐに二本目が始まる。
さっきはここから二本取ればいい、などと言ったが、裏を返せばそれはあと一本で負けるということである。
当然、塚本の方が気持ちは楽だし、逆に真司は重圧にのしかかられることになる。
そのプレッシャーの差が互いのパフォーマンスにどう響くかだが。
「ハァアアア!!!」
さすがというべきか、側から見る分には真司の動きに動揺は見られない。
それどころか、より一層気を引きしめているような感じだ。
反対に塚本は明らかに軽くなっている。
目に見えて何が変わったわけでもないが、伝わってくる雰囲気でそう感じた。
余計な力みがなく脱力できている。と聞けば聞こえはいいが、あまり気持ちが軽くなりすぎると……。
「あっ」
俺は声をあげる。
真司が右足を引いた瞬間、塚本が不用意に間合いを詰めたからだ。
「コテエエエエ!」
先程の意趣返し、とばかりに真司のコテが決まった。
綺麗に旗が三本上がる。
「三本目」
三本目。お互い一本ずつ持ってるので、こうなってしまえば条件は同じだ。
いや、劣勢を覆された塚本の方が気持ち的には不利だろうか。
「やあああ!」
さっきの一本で塚本も気を引き締めたのか、今度は静かで慎重な立ち回りを意識しているようだった。
この様子だと、さっきみたいに軽率に突っ込むことはないだろう。
その警戒をいかに掻い潜るか。
それが真司が勝つための課題だ。
その課題を達成するために、もう一度塚本を逸らせるか、捌かれる前提で突っ込んで鍔迫り合いに持ち込むか、彼はどっちを選ぶのだろう。
カチャカチャ。
カチャカチャカチャ。
静寂の中、小刻みに揺れる竹刀が触れ合う音だけが鳴る。
……全然動きがないのは、塚本が徹底して慎重を貫いているから。
この数秒の間に真司は大げさに竹刀を揺らしたり、間合いをずらしたりして隙を誘っているのだが、塚本は全く誘いに乗ろうとしない。
極限まで焦らして、相手を焦らせる作戦だろうか。
もういっそ、適当に打ち込んで鍔迫り合いに持ち込んでしまえばいいのに。
それをしないのは、もしかして一本目の引き技の不発を引きずっているからか?
そう思って見ていると、不意に真司の剣先がピタッと静止する。
ついに仕掛けるのか?
塚本が一瞬、距離を取ろうと左足をわずかに下げる。
間合いを取って防御に徹する動き。もしくは真司の攻撃に合わせて何らかの攻撃をかますつもりだ。
そこに突っ込んでも捌かれるからカウンターを喰らうだけだから、ここは仕切り直すのが吉。
ところが、真司は逆にスッと前に出た。中段の構えを維持したままで。
「ハッ!」
短い発声。そこから先は、まさに瞬きの間の出来事だった。
「メン!」
パァンッ!
中段の構えで近づくということは、ちょうど切先が敵の眼前にあるということ。
その時点で既に塚本は慌てて反撃の動作に入ろうとしていた。
普通は塚本の反撃が先に決まるはずだ。
なのに、次の瞬間響いたのは、真司の剣が強く
「勝負あり!」
塚本が慌てて反応するが、時既に遅し。
一瞬で三本の旗が上がる。
結果、真司と塚本の戦いは二対一で終わったわけだが。
この時、俺の気持ちをいっぱいに埋めていたのは、賞賛でも納得でもなく、戦慄だった。
「今のは……」
二試合目、次にやってきた小柄の相手(おそらく中学生だろう)を容赦なく叩きのめす真司を見ながら、俺は呟く。
今の、とはもちろん、真司が塚本との戦いの最後に見せた面打ちのことだ。
あれは普通の面打ちではない。
通常、面打ちは間合いを詰める→振りかぶる→叩くと二つのプロセスを踏むことになる。
だが、彼の面打ちは振りかぶる。という動作がなかった。
いや、正確には振りかぶっていた。
だが、それが本当に必要最低限の幅だったのだ。十センチ程度、下手したら数センチの域だったかもしれない。
竹刀を真上に振りかぶるのではなく、斜めに突くように、最低限相手の頭上に至る程度の振りかぶりしかしていなかったのだ。
なのに、真司のそれは普通の面打ちと変わらないレベルの音が鳴っていた。
それを可能にするには圧倒的な技術と筋力がいる。特に手首は、並大抵の膂力でなければならない。
しかも、だ。
さらに驚くべきは間合いを詰める際にほぼ腰が動かなかったことだ。
実際にやってみればわかるが、全く腰を動かさずに前後移動するのは非常に難しい。
だが、究極的には、それをマスターできれば、相手に認識されることなく間合いを詰めることも出来ると言われている。塚本は反射で反応していたが、それすらも出来ないくらいに。
平行移動と無いに等しい振りかぶり動作。
この二つが合わされば何が出来るのか。
人間の反応速度を超えた、神速の面打ちである。
それを体現できる人間は、この世界にたった一人しかいない。少なくとも、俺が知ってる限りでは。
まだ甘い部分はあるが、真司はそこに近づいたのだ。
一体どれだけの努力をすれば、そんな真似ができるのか。
想像もつかないな。
無事に三連勝を決めた真司は列を抜けた。
その後、塚本との再戦もあったが、彼は模擬戦が終わるまで一本も取られることなく勝ち続けてみせた。
その間、例の神速面(と、呼ぶことにする)が出ることはなかった。
使うつもりはなかった、ではなく使えなかったというべきか。
確かにあの技は決まれば誰も反応出来ないだろうが、そのためには相手の一瞬の虚を突くのが前提条件である。
塚本との戦いで神速面を決められたのは、相手が打ち込みに来ると思って、捌く体制に入ったところにあえて何もせず近づくことで、彼の虚をつけたからだ。
あれがもし、敵が近づいた瞬間に相打ち覚悟で打つ魂胆であれば、逆に一本を取られていた。
ゆえに神速面は強力な反面、そんなリスキーな技なのだ。
だが恐怖を植え付けるには十分な代物である。
事実、あの一撃が尾を引いていたせいか、二戦目以降の塚本は手元がふわふわと浮いていた。
そのおかげで危なげなく全勝勝ちを有言実行することができたのだ。
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